1. ストーリーとしての思想哲学
  2. #98 〈悪〉とはなにか?5 蕩尽
2024-12-01 07:29

#98 〈悪〉とはなにか?5 蕩尽

サマリー

このエピソードでは、蕩尽という難解な概念をさまざまな角度から探求し、善と悪の対立を通じて人間の内面世界を考察しています。特に、当人の存在が人間性にとって不可欠である理由について深く掘り下げています。

蕩尽の概念の探求
ストーリーとしての思想哲学
思想染色がお送りします。
前回に続き、蕩尽の話です。
蕩尽はかなり捉えるのが難しい概念だと思うので、仕切り直して別の角度からの説明も加えたいと思います。
蕩尽によって人々は糖水を味わうことになるっていう話でしたけど、
このような感覚というのは、人間の内面世界で起こる主観的な経験のことです。
すごい音楽を聴いて、ふつふつと何かが湧き上がり、感覚が覚醒していくあの感じとか、
そういう内面世界で発生する出来事って、実を言うと言語化に向いていない事象なんです。
赤い色の赤さとか、青い色の青さを言葉で説明しようとしても、それはなかなか無理みたいな感じで。
で、それを何とか言語化しようとしてきたのが詩、ポエトリーの詩で、
どうしても詩の形式を借りながらじゃないと言語化が困難という構造があります。
だから蕩尽も詩の形式を借りながら説明を試みているという前提がまずあります。
したがって僕も詩の形式を借りながら説明するということをしていきます。
だからちょっとポエムっぽい表現も使うけど、
ポエムっぽい表現がこの場合一番伝達手段として優れているから、そうしているという前提で聞いてください。
いやこの辺本当そうなんですよね。ちょっと余談なんですけど、
人間の言語って言い表せることと言い表せないこととかあって、実は欠陥だらけなんですよ。
哲学者のウィトゲンシュタインとかもそういうことを言っているけど、
詩の形式が比較的一番マシって、人間の言語の限界や人間そのものの限界を感じるよね。
はい、話を戻して、
善と悪とがあって、生存に必要な行為、仕事などをして生産活動や生産したものを保存する活動が善に属します。
また保存したものを浪費してしまう活動が悪に属するということでした。
そしてバタイはこういう表現もしているんだけど、
当人とは倒水する夜である。その夜を使い果たすことが当人だということです。
この表現いいですよね。夜を使い果たすって。詩の形式だけど直感的で。
個人的には夜を使い果たすという表現からは、
クラブとかでオールナイトで見事なパフォーマンスを見ながら体力を使い尽くすみたいなイメージを連想します。
もちろん全然別のイメージを連想していてもOKです。
同じことについて今度は逆側からアプローチする形で話します。
当人っていうのは今現在のこの瞬間にしか気を取られていない、つまり未来を気にかけないということです。
未来を全く気にかけないとしたら、持ち物を全て使い尽くしてしまっても気にならなくなります。
何かを保存しよう、大切にしようという執着が人間を物資化して、
人間の内面世界の心の中の王国をダメにしてしまうんです。
この人間の心の中の王国を大事に従う性質を内容性と言うんだけど、
内容性は内に奥に性質の性って書いて内容性、
内容性は人間性とかヒューマニティにかなり近い観念です。
人間のこの人間性を執着が阻害しているんだっていう見方は、少し仏教にも似ていますよね。
では再度切り口をずらして、なぜ当人が人間のこの人間性にとって不可欠なのかということを、
仮に当人が存在しない場合の社会を想定して試行実験してみます。
当人と人間性の関係
結論から言うと、ソビエト連邦的なディストピアのことなんだけど、
実はソ連って生産性の塊なんですよ。
僕たちは生産性というといいイメージがあるかもしれないんですけど、
マジの生産的社会って怖いですからね。
生産性の塊のような社会においても、別にずっと働きづめなわけじゃなくて、
休み、余暇はあるんですよ。
産業革命の時のように、1日18時間働かせて、短期的に人間をどんどん使いつぶしていって、
働けなくなった人間はもう捨ててしまって、死んでしまって、
その代わりに新しい人間をまた補充するっていう形よりも、
働いている人、労働者を適度にリフレッシュをさせて、
使いつぶすことはしないで、もう一生ずっと死ぬまで長い間働かせた方が生産性が高いから、
生産性の塊のような社会においても、余暇というものは存在します。
でもそこにあるのは、あくまでリフレッシュなんです。
労働に戻るために必要なリフレッシュ。
それは適度な運動であったり、体操やチェス、あるいは当局が検閲済みの健全な音楽、
そういったものが与えられます。
しかしそれらは、よりよく働くための再活性化であり、
つまるところ生産的な休みに他なりません。
この健全で生産的な休みというのは、その有益さゆえに、
話題的に言えばエロテシズムからほど遠いものです。
健全なリフレッシュというのは当人ではないです。
なぜなら明らかに未来のことを考えているから、
当人とは今現在の瞬間だけしか気にしないというものでしたが、
生産的なリフレッシュは明らかに、
労働によりよく戻るためという生産性に軸を置いたものです。
だからですね、仮に当人が存在しない社会があるとしたら、
それは当局が指定した健全な休み方しかできない、
非人間的な社会であるということです。
このことから、当人こそが、
僕たちの人間性というものの厳選であるということがわかるかと思います。
はい。
なんとなく、当人という概念がイメージできてきたでしょうか。
当人は夜に属するものであり、悪に属するものであり、
それゆえに人間性そのものであるという、
悪の不可欠性についての話でした。
ほぼ終わったんだけど、一応悪についてということで次回に続きます。
次回もよろしくお願いします。
07:29

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