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ストーリーとしての思想哲学
思想染色がお送りします。
前回の続きで、バタイユの話をします。
悪の哲学者ジョルジュ・バタイユは、1197年に生まれて、1962年まで生きていたフランスの哲学者です。
前回の最後にバタイユの著書に、文学と悪という本があると言ったけど、本の中でマルキドサドについて考察しています。
いわくバタイユが言うにはですね、悪とは瞬間の優越なんだそうです。
善と悪とがあって、善とは未来への配慮なんです。
昔の農村なんかが典型だけど、農作物を生産するためには様々な未来への配慮が必要です。
農業用水を整備して、共有地を使う時のルールを定めて、毎日草取りとか忍耐強い作業が求められます。
こうした忍耐がなぜ必要かというと、未来にかけて長らく生きていきたいからだよね。これが善です。
一方で悪とは、さっき言った通り瞬間の優越です。
バタイユは他の表現でも悪を言い表していて、悪とは瞬間に生まれ、そこで燃え尽くす糖水であるとか、何も顧みない燃焼とか表現しています。
先ほど例に挙げた農業用水を整備するとか、後は翌年にまく作物の種を取っておいて保管しておくとか、
善に属する行為とはコツコツと積み上げることに他なりません。
逆に悪とは、コツコツと積み上げたものを燃焼させるということだと言います。
そして人間とは、積み上げたものを燃焼させる瞬間に一種の糖水、優越を感じるのだと指摘しているんですよ。
これを糖神、宝灯息子の糖、とろけるに、使い尽くすのを尽くすのを神と書いて糖神と読むんだけど、これを糖神と言います。
ここは、悪とは何かというテーマにとって重要な点なのでもう一回言いますね。
人間は生存するためにコツコツと積み上げるということを普段行います。
そしてその一方で、コツコツと積み上げたものを一気に使い尽くしてしまうということに優越を感じるのだという性質も同時に併せ持っている。
場体は昼と夜っていうメタファーも使っているんだけど、仕事をする、生産活動をするとは昼に行われる行為です。
一方で糖神とは夜に行われる行為です。昼間一生懸命働いて、夜に遊ぶみたいなイメージです。
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糖神はね、複雑かつ見事にやり遂げられた時、人々は一種の糖水した状態に陥ります。
これを思考性とか栄光と呼びます。
典型例としてはお祭りです。
昔の農村をまた引き合いに出すけど、ほぼ例外なくすべての農村には地域のお祭りがあります。
農村のお祭りの構造を解析してみると、普段は農業にコツコツと真面目に取り組んでいて、何かあった時のために備蓄をします。
でもお祭りの時は、蓄えた備蓄を開放して使ってしまいます。
備蓄した食料をご馳走として消費して、蓄えた現金を酒に変えて飲んでしまいます。
人間はですね、生存に必要な資源を生存に必要ない行為のために使ってしまうということに糖水を覚えるんですよ。
お祭りなら神様に舞を奉納するとかも、当人をより見事な形で成し遂げるためと言えます。
時間という有限な資源を、わざわざ舞の練習に当てて栄光とか志向性に至るために糖水するためのゲージを貯めて、
一晩きりのお祭りでそれを披露して、ピークを迎えて絶頂に至る。
これも当人の一つの現れと言えるかと思います。
あるいは昔の日本だったら、生存に必要なみんなの資源を集めて、
自社仏閣を建てたり、大仏を混流したりするっていうのもこれに相当するかと思います。
この辺りのことを、バタイユの呪われた部分という本の後書きがわかりやすいので、そこから引用しますね。
当人によって生まれたものは、物でありながら物以上の光を発することがある。
それをバタイユは栄光といい志向性と名付けた。
日本人だったら大仏なんかは結構イメージしやすいんじゃないですかね。
大仏って物質的にはただのものだけど、物以上の光を発していると言われると、まあそうだなと思います。
今だったらアートなんかがそのポジションにいるよね。
アートもただの物である一方、物以上の光を発しています。
アートが物以上の光を発する背景には、当人という人間の内容に潜むメカニズムがあるんだという話でした。
今回はここで切って、次回も当人の話をしたいと思います。
次回に続きます。