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皆さん、こんばんは。上水優輝でございます。
サイコパスのラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
今日は、前回に引き続き、悪を引き受けるという話をしたいと思っています。
結論、僕たちは生きている以上、悪を引き受けているのだということ。
そして、その悪を引き受けるにあたって、できれば自覚・覚悟・選択というこの3つを意識しましょうという話をしたくて、
ビッグモーターの不正についてであるとか、僕自身が宅急便のバイトでこんなことがあったよという話とか、そういうのを前回やってきました。
その宅急便のバイトの話を経て、やっぱり意図せずですね、悪を引き受けるということはあるかなって思うんですね。
引き受けたいか引き受けたくないかじゃなくて、状況としてもはやそこから逃れられない。
逃れることが絶対できなかったらできなくはないけど、その瞬間は少なくともやらざるを得ないとかですね。
引き続けるかどうかは別だけども、少なくともそこではやらない、やり切らなきゃいけないみたいなことってあるかなって。
できればないでほしいんだけども、あるかなって思うんですよね。
いつでもNOって言える状態で生きていくみたいなのが理想なんですけども、つまり引き受ける悪を選択できる状態になっておくっていうのは一番理想的なんですけども、
全てが全てやっぱり選べるわけではないので、その時には引き受けるという覚悟みたいなものがやっぱりいるよねと、自分は悪くないということにはならないよねっていう話です。
自分自身が直接仲の人じゃない場合においても、悪を引き受けていることってあると思うんですよね。
例えば僕は毎日コーヒーを飲みます。ただ、全然フェアトレードとか意識して豆を選んでいるわけではないので、悪に加担していると言っても過言ではないと思います。
確かに輸入業者でも販売業者でも僕はないですけれども、コーヒー豆の生産者から削除している構造みたいなものに対して、それを支援するような資金を送っているようなもんですから、
悪に加担しているというわけです。
だから自分が直接手を下さないにしても、やはり僕たちは何らか悪に加担するみたいなことが起こるよねって思うんですよね。
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例えばフェアトレードはやってますよって、自信満々でいう人でさえも逃れられないと思うんですよね。
例えば値上がりした食材、例えば野菜とかを手に取らないことで、少し値段を下げなければいけないかもしれない。
みたいな感じで、その少しが積み固まって、結構これフェアじゃないかもな、みたいなレベルの価格で生産者さんが取引している可能性があると。
フェアトレード問題に引っかからないレベルの、そんなにフェアじゃないトレードかもしれないわけですよね。
どこからがフェアで、どこからがフェアじゃないか、怪しいですよね。
もちろんどっかの協会は、これがフェアトレードで、これがフェアトレードじゃないっていうラインを引くんだろうけど、
そんなものを引くまたグラデーションで、一応便宜上線を引いているだけでさ、フェアかフェアじゃないかなんてものも白か黒かじゃないですから、
その協会における白か黒かというしかなくて、この世においてのフェアかフェアじゃないかなんてものは規定できないよね。
そして、そういった取引だけでないにしても、僕たち生きているだけで毎日何か食べて生きているんですよ。
命を継続している。別の命を奪うことでこの命を継続していると。
自分が直接牛や豚を手にかけたわけではないにしても、誰かに殺害させているわけだし、
やっぱりそんなもん仕方ないだろうって言い出すかもしれないけど、
じゃあ本当に必要な分の動物しか殺してないんですかと。そんなことはないですよね。
やっぱりこの少量に乗っていく以上簡単に欠品できないわけですから、常に余裕を持っておかないといけない。
ってなるとやっぱり必要以上に動物が殺されているわけで、そしてそのような社会の中にいて、
その牛とか豚とか食べるわけですから、過端してるわけですよね。
つまり何が言いたいかというと、悪か悪じゃないかっていう話じゃなくて、
全てにその悪性みたいなものをはらんでいるんだと。グラデーションでしかないんだと。
そういった意味でね、僕たちは生きているだけで大なり小なり、悪に手を染め続けていると。
法律に違反してないから確かに犯罪者ではない。でも確実に悪人ではあるなっていうふうに思うんですよね。
必ずなんか世界のどこかの誰かにとって負担を強いるような、悪に十分値するような何かをやっていると。
自分のことを精錬潔白だとか思っている人は、ただの幻想なので目を覚ました方がいいんじゃないかなというふうに思いますね。
結論ですが、生きるということは悪を引き受けるということなんですね。
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ただどんな悪を引き受けるかっていうことは、ある程度自分で選べる可能性がある。
そのためにも、悪を引き受けているという自覚を持つことが大事だし、そして悪を引き受ける覚悟を持たなければいけないし、
その上でできるだけ自分が引き受ける悪っていうのは自己選択していきましょうよと。
そういうお話でした。もちろんね、その自覚が持てないから難しいんだよ、困るんだよっていうのが実態かと思いますけれども、
まさに僕が今言った悪を引き受ける時のポイントを無視しているから困るんだろうと思います。
なのでやっぱり、悪を引き受けているという構造的なものですよね。
自覚をまず持ってみるということにチャレンジしていかないと、困ってるって言われても困っちゃうって感じですね。
この2回にわたってですね、結構重たいというか暗いというかお話をしたので、ずーんっていう感じになっちゃった人もいるかもしれないので、
念のために言っておきますけれども、生きているだけで悪を引き受けている一方を、同時にですね、生きているだけで善も引き受けているんですね。
悪についてこの2回にわたって話したこと、そのすべて善に置き換えても言えることができると。
そういう意味では必ずしも絶望する必要はないかなと思います。
ただ、善か悪かとか、悪と悪以外とかいうことではなくて、善であり悪である。
僕たちは悪を引き受けて生きていかなければいけない。
善を引き受けて生きているとも言えるけども、善を引き受けて生きてますよとか言って、お花畑になられても困るので、
悪を引き受けて生きているという自覚を持って覚悟を持って選択をすると。
そういったことをですね、今回訴えてみました。
善を引き受けているからといってですね、その悪が無効化されるわけではないので、
やっぱりその事実にですね、まずは自覚的になる努力をしていきましょうというお話でした。
ちょっとわかりにくい話だったかもしれませんが、以上です。
またお会いしましょう。さよなら。