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ストーリーとしての思想哲学
思想染色がお送りします。
前回は、アーレントの悪の不在と、ディストピアが悪意よりもむしろ善意で作られているという話をしました。
もうちょっと具体的にイメージが湧くように、ディストピアの元ネタになったソ連の話をします。
ソビエト連邦って、国民を可烈に酷使しているイメージがあるんじゃないかと思うんですが、
意外とですね、実際のところ政府は、国民に余暇をよく過ごしてねって言ってます。
休日は楽しく学んで議論して、読書や朗読、散歩をしたりして、心と体を鍛えることに費やしてねって言っていて、
特にチェスが奨励されていました。
これは国民が心身ともに鍛えてくれれば、国として国力が上がるし、
そうすればヨーロッパ諸国との戦争で戦っても負けないで済むようになります。
要するに国を守ろうとしていたわけですね。
ついでに言うと、チェスが奨励されていたのは物資が欠乏していたからという事情もあります。
チェスならあんまり物を消費しなくて済むから、
物をバンバン消費するようなゆとりがあるんだったら、
その生産力は国を強くするために使うという発想です。
これもソ連に悪意があったわけじゃないと思いますが、
我々からするとなんとなく不気味な感じがします。
余暇を過ごすのはいいんだけど、余暇の過ごし方まで国に指導されたくありません。
余暇の時間も正しく過ごして、生産性の高い人材になろうねって言われるのは結構嫌です。
それよりも休みなんだから無駄なことをしたり、たくさん消費したりしたいじゃないですか。
非生産的な過ごし方をしてもよいから休みって言うんです。
ここから言えるのは、やはり人間性というものの本質は非生産的なところから来ているんだっていうことです。
生産的なことしかしないっていうのは、人間性、humanityっていうものを無視しています。
だからディストピアは不気味に感じるというわけ。
ジョルジュ・バタイユという哲学者がいてですね。
フランスの哲学者なんですが、バタイユによると、
人間性とはせっかく貯めたものを使い果たしてしまうことにあるんだそうです。
ディストピアは生産物を貯める一方で、使い果たすことは明確に禁止しています。
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だから働いたり生活していく中で消耗していっても、
まあ肉体的には回復するんだけど、精神的にはいつまでも回復ができない。
HPは回復できるけど、MPが回復できない社会だってことですね。
これもまたバタイユの非を借りて言うと、
この世の中には昼と夜とがありますが、生産的行為とは昼間に属するものです。
昼とは働く時間、そして義務を果たす時間です。
一方で非生産的行為とは夜に属するものです。
夜には居酒屋で酒を飲むのもいいし、クラブで踊るのもいいし、
この夜こそが人間性なのだということです。
だからディストピアには昼しかないんです。
一生夜が来ない。
生産的なことしかできないから昼しか存在しない。
以上、ディストピアは昼に属するものしかない生産的な社会だという話でした。
やっぱ無駄で非生産的というのが、人間の心や感情にとっては大事なんですね。
もちろんそれだけじゃダメだけど、夜100%昼0%じゃダメだよね。
みんなが生産的なことをしなくなれば社会は成り立ちませんし、極端っていうのもよくありません。
逆に、昼100%夜0%っていう人も僕は結構怖いと感じます。
生産的なことしか言わない。
仕事の話だったり、自己成長の話、社会貢献の話しかしない。
そういう常に生産的なことしか言わない人は、やっぱりちょっと極端なようにも感じます。
人間の心や感情、あるいは社会や世界を深く理解するには、
昼に属するものだけじゃなくて、夜に属するものも知らなくちゃいけないということだと思います。
非生産的なものの代表として、哲学や文学なんか僕はいいと思いますが。
ということで、今回はここまでです。
次回もよろしくお願いします。