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経営者の志
こんにちは、こえラボの岡田です。
ALSという病気をご存知でしょうか?
私は、ホーキングハクセを思い出します。
今回は、ALSや難病の方の介護サービスについてお伺いしました。
まずは、インタビューをお聞きください。
今回は、有限会社ひかり取締役の野田真由美さんにお話を伺いたいと思います。
野田さん、よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
野田さんは、有限会社ひかりでどんな事業をされているのか、まずそのあたりから教えていただけるでしょうか?
私の事業は、ALSという難病の方の訪問介護の事業ですね。
ヘルパーがお宅に訪問して、難病の方々のケアをするという、そのヘルパーを紹介というか派遣というかしているお仕事です。
ALSという難病のようなんですけど、どういった病気なんでしょうかね?
だんだんと筋肉が動かなくなってきて、それはどこから始まるか分からないんですけど、
手から動かなくなる方もいるし、足から動かなくなる人もいる。
脳からの情報が伝達されなくなっちゃうような感じですね。
だから、例えば手が動かなくなったとき、脳から手に動くという指令とか電波が、それは届かなくなって、それで動くことができなくなってしまう。
そうなんです。はっきりした原因がまだ分からないので難病なんですけど、脊髄、その背骨の中にある運動ニューロンというところに傷が入っていて、順番にどんどんと筋肉が動かなくなるという病気ですね。
これ、どんどん進行していってしまう病気なんですかね?
はい、そうなんです。だいたい2年ぐらいで呼吸までできなくなっちゃうような、こうやって息を吸って吐くのも筋肉を使っているので、それができなくなります。
だんだんといろんなところが動かなくなって、最後は寝たきりになってしまうということですかね?
そうですね。最後に残るのがだいたい目、黒目だけが過労死で動かせるという方もいらっしゃいますし、全く黒目も目も開けられなくなる方もいらっしゃいます。
これ、野田さんはどうしてこういった介護サービスをしようと思われたんでしょうかね?
介護っていう世界を自分で誇らさせたことは一度もなくて、2010年に母がALSという難病になってしまったんですね。
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母は大阪にいたんですが、入れ歯が合わないっていうところから始まって、だんだん話しにくくなってきて、最後は路列が回らなくなっておかしいということで、自分で検査に行って。
その結果がALSという難病だったということだったんですね。
じゃあ、お母様がその病気にかかって、そこから携わるようになってきたっていうことですかね。
やっぱりそれ結構大変な病気なんですよね。
ものすごく大変ですね。やはり今日できたことが明日できないっていう状態が毎日繰り返されるので、少しだけ声が出ていたのに最後はもう声も出なくなり、
筆談していたのが手も動かなくなってきて、一人で立ち上がりなくなって、歩けなくなって、最後というかもう本当にそれの繰り返しなんですね、毎日。
昨日まで食べれたのに、今日はもう口に物を入れても咀嚼ができないっていう。
これ、介護される方もすごく大変な様子がわかるんですけど。
そうですね。ついていけないんですね。やれることがやれなくなっていくことに、こちらがついていくのが本当に大変ですね。
日々もう状態が変わっていくので、そこの状態を把握するだけでも本当に大変だということなんですね。
そうですね。なんて言ったらいいんでしょうかね、もうこの老化が急速に進むっていう風に言う方もいらっしゃるし、よくね、手すりをつけたらとかいうことって、介護されるときにね、考えると思うんですけど、手すりをつけてる暇がもうないんですね。
それぐらい進行が早いということですね。
これでも、お一人でやっぱり見ていくのってもう不可能に近いですよね。
無理ですね。そして施設とか病院が面倒を見てくれるんじゃないかと思うんですけど、治らない病気なので、病院はもう受け入れがないんですね。
そうなんですね。じゃあこれは本当に自分たちで何ともするしかないっていうことなんでしょうか。
そうですね。数少ない施設が受け入れてくれるっていうことも今はありますけれども、2010年母が倒れたときには施設はゼロでした。
じゃあ野田さんの場合はどういう風にして対応されてたんでしょうかね。
はい。パニック状態とヒステリ状態が毎日私も続いてたので、杉並区の保健師さんがALSのお母様を見とった娘さんがいるから、会ってみますかって言われたんで、ぜひ会わせてくださいとお願いして、その方のお話がやっぱり一番参考になりましたね。
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5時間ぐらいこれから先一体何が起こって、どうして生きていけばいいのかを彼女が全部教えてくれました。
じゃあ今の状態から将来こういう風になるので、こんなところを気をつけた方がいいよっていうことまで教えていただいてって。
皆さんは多分介護保険って聞いたことあると思うんですけども、介護保険ではないんですね、こういう難病の方々っていうのは。
障害者総合支援法っていう法律なんかがあって、そういうことも多分初めて聞くかもしれませんね。
私も知らなかったですし、一体どうやってこの寝たきりの母を私が面倒を見て一生まとできるのかっていうのが全く生活ベースでわからなかったんですけど、彼女が一つずつ制度もこういうのを使えばいいんだよって、こういう時はここに電話をかけて相談すればいいんだよっていうね、それもわからなかったんですね。
区役所に電話すると、ここは管轄と違いますっていうことをいっぱいやっぱり、区役所の方も本当に申し訳ないんですけど縦割りなんですとおっしゃって、管轄が違うと車椅子はどうしたらいいんですかっていうこともやっぱり答えてもらうのに時間かかっちゃうんですね。
本当に苦労されて、やっぱり対応されてきて、本当に情報ない中、やっぱり経験した人からの情報っていうのがすごく役に立ったっていうことなんですね。
そうですね、一番役に立ちました。
そこから事業所を介護サービスをご自身で立ち上げていくっていうことになったんでしょうか。
そうですね、母が呼吸器をつけるかどうかっていうのがすごくポイントなんですけれども、やはり生きてほしいっていうことで呼吸器をつけてもらうことにしました。
母は認知症もあったので、自分では決められなかったんですね。
なので娘の私が決めるしかなくて、呼吸器をつけたら24時間介護が必要で、しかも外せないっていうことが大きな条件だったんですけども、24時間介護が始まるっていうことはヘルパーさんに来てもらえるのかなと期待してたんですけれども、
私の対応も悪く、毎日が本当に大変すぎて、助けて助けてって言うんですけど、皆さんなかなか思うようにいかなくて、やめていかれるヘルパーが多く。
そうなんですね。これってヘルパーさんにお願いしても、ヘルパーさん自体が少ないっていうことがあるんですかね。
やれる方がすごく少なかったです。特に今から10年前なので、呼吸器をつけると、救援っていうね、作業というか、医療行為があるんですけども、それをやれる人がすごく少なかったので、ほとんどの方がやめてしまわれて、もう最後はやっぱり自分でヘルパーの事業所をやって、人を増やしていって、母を見てもらうしかないなっていう。
これは先輩、ALSの先輩が知恵としては授けてくれてたんですけども、まさか本当に自分がやれるとは思ってなかったので、でももう本当に背に腹はかえられないというか、言ってられない状態がやっぱり起こってしまって、自分でやることにしたんですね。
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やっぱりヘルパーさんが本当に少なくて、それでお願いすることができないので、それでヒカリ、有限会社のヒカリというのを立ち上げて、ヒカリ介護サービスというのをやり始めたっていうこと。
まずはお母様のために立ち上げて、その事業をやり始めたっていうことなんですね。
今ではどんどんヘルパーさんは増えている状況なんでしょうかね。
まずは母のために最低限の人数のヘルパーさんがいればいいやと思って始めたんですけれども、ヒカリ介護サービスと看板を上げた以上、電話がかかってきてしまいまして、他のお客様というか利用者さんからですね、ヘルパーさんいませんかということで。
自分は本当に介護はできないと思っていたので、お断りずっとさせていただいてたんですけども、やっぱり限界が来るというか、だんだんと受けずには折れない状況が始まり、本当にもう、いやいやって言ったら悪いんですけど、私がやれるのかしらと思いながら、
オタクにうかがって現状を知ってしまうと、うちよりも大変なお家が本当にたくさんあったので、でもこれはヘルパーが足りないっていうのが、もうお外にね、自分の家はなんとか母を世話する人が来てくれるけれども、もっと大変なお家がいっぱいあるんだっていうので、もう衝撃を受けてしまいまして。
なるほど。だから本当に世の中を見ていくと、本当にヘルパーさんが少なくて、やっぱりこのヘルパーさんを増やさなきゃな、それで大変な人がすごくいるんだなということを実感されて、事業を進めていかれたということなんですね。
そうですそうです。
はい。またこの事業についても、次回も引き続きお話を伺いたいと思います。
はい。
今回は有限会社ヒカリ取締役の野田真由美さんにお話を伺いました。また次回もよろしくお願いします。
ありがとうございました。
いかがだったでしょうか。野田さんは、お母様の介護をするために、ご自身で介護サービスを立ち上げたとのことです。
患者さんもご家族もとても大変な病気なんだということが改めてよくわかりました。
次回も引き続き野田さんにお伺いします。ではまた次回。