1. そろそろ美術の話を...
  2. #108 推し活を支え・推し活に..
2024-05-18 56:48

#108 推し活を支え・推し活に支えられる美術館の学芸員トーク(弥生美術館 学芸員 内田静枝、竹久夢二美術館学芸員 石川桂子)

弥生美術館 学芸員 内田静枝さん、竹久夢二美術館学芸員 石川桂子さんをゲストに美術館で働くまでの経緯や美術以外の趣味ついてお聞きしました。 ⁠⁠⁠⁠⁠https://sorosoro-art.vercel.app/ep/108 番組の感想は、⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠#そろそろ美術の話を⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ でお願いいたします。

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Guest Profile

内田静枝(うちだ しずえ)

  • 1997年より弥生美術館学芸員。担当した企画展に「少女の友展」「加藤まさを展」「藤井千秋展」「田村セツコ&水森亜土展」「長沢節展」「松本かつぢ展」「セーラー服と女学生」などがある。編著(構成)に、『長沢節』『女学生手帖』『松本かづち』(いずれも河出書房新社らんぷの本)などがある。

石川桂子(いしかわ けいこ)

  • 1991年より竹久夢二美術館学芸員。編書に『竹久夢二《デザイン》モダンガールの宝箱』(講談社)、『竹久夢二 恋の言葉』『大正ロマン手帖 ノスタルジック&モダンの世界』(河出書房新社)、『竹久夢二詩画集』(岩波文庫)、『竹久夢二という生き方』(春陽堂書店)、執筆に『大正史講義【文化篇】』(ちくま新書)など。


Show Notes 美術館について

美術館で働くまでの経緯について

竹久夢二について

  • 竹久夢二
  • 夢二の恋人 岸他万喜、笠井彦乃、お葉

ジャニーズについて

推しの動物について

サマリー

アートテラー・とには美術に関するトークをしています。この番組では、アートに関わる方をゲストにお迎えして、トークを繰り広げています。今回は前回に引き続き、弥生美術館学芸員の内田静枝さんと、竹久夢二美術館学芸員の石川桂子さんがゲストに登場し、美術について話しています。彼らは美術館の学芸員として活動しており、竹久夢二美術館や美術館の魅力について語り合っています。お二人とも推し活の話題にも触れ、内田静枝さんは美少年やハイハイジェッツを応援し、石川桂子さんはカピバラやミナミコアリクイなどの動物に会いに行くことが好きだと話しています。美術館の学芸員として、推し活について話し、美術館が推しに支えられていることに感謝を述べています。

アートテラー・とにの紹介
アートテラー・とにのそろそろ美術の話を。この番組は、私アートテラー・とにがアートに関わる方をゲストにお迎えして、トークを繰り広げるポッドキャスト番組です。
今回は前回に引き続き、弥生美術館学芸員の内田静枝さんと、竹久夢二美術館学芸員 石川桂子さんをゲストに、美術についての話を続けていきたいと思います。
はい、ということで前半お疲れ様でございました。後半もよろしくお願いします。
僕はいつも、それぞれにお会いして、それぞれに美術館を紹介してもらうので、2人が揃っているところって、意外と初めてちゃんと見たというか。
そうですね。学芸室は同じなので、しょっちゅう一緒だけど。そうですね、なかなか同時に見ることがないですね。
だから、石川さんが内田さんのことをウッチーと呼んでいるのは初めて知りました。前半で。
仲良い職場なんだなと。ありがとうございます。
先輩は、内田さんはニックネームでは読まないですか?石川さんは。
そうですね、石川さん。 私の方は特にはないですね。
ちょっと寂しいですね。
でも、そういう関係性のお二人に今日は来ていただいております。
毎回ゲストの方に聞いている質問なんですけど、いつから美術に興味を持っていましたか?というのを聞いていますので、それぞれ教えていただけたらと思いますが。
内田ですが、私は美術館に勤めていることが今でも意外なくらい、美術に興味があったわけではないかもしれないです。
高校なんかの芸術の単位では、音楽を選択していましたし。
美術館に行くというのはあまりなかったんですか?
私は教育学部、教育学科の出身で、それもうっかり入っちゃったんですけど。
うっかり入れるもんではないですね。
うっかり入っちゃったら、周りは学校の先生を目指すような人たちばかりで、私は学校の先生になるつもりも全くなかったので。
じゃあ、なぜ入っちゃったんですか?
何になりたかったんですか?
バブルの時代の女子大生ですから、とにかく毎日キラキラって感じの、チャラい女子大生でした。
高校時代はセバンデーですね。
恥ずかしい。でもそれが私の人生でした。
じゃあ、美術が好きというわけではないんですか?全体として。
なので、なるべく単位少なく資格が取れるものはないかということで、探してみたところ、
学芸員という資格があるということに気がついて、じゃあ学芸員を取ろうということで。
その時には美術館によく行っているわけでもなかったんですか?
そうですね。
資格が取れればいいぐらいの感じですか?
消極的な理由だからですが。
博物館に出資をしまして、それは関西方面にバス旅行で10日間行くというすごい実習だったんですけど、
それがすごく楽しくて、お友達と10日も旅行すれば楽しいに違いないんですけど、
そこで1日3館4館美術館を見てといううちに、楽しいなって思って学芸員になりたいと思ったわけではないんですが、
こっちにしようと思いました。
でも学芸員資格を取る時も実習しなきゃいけないんですよね、3週間くらい。
それはどこに行ったとか覚えていますか?
それはバス旅行と、あと自分の大学の中で実習ができましたし。
別にどこか他の美術館に行ってという感じじゃなかったんですか?
楽しい実習生活。
そして私は、中休みのアルバイトで、自分の大学の博物館でも、
学芸員実習を手伝うアルバイトを始めたので、そこからも縁が続いて今に至っています。
この後、なぜこの美術館にいるのか聞きたいところなんですが、ちょっとそこで止まっていただいて。
石川さんはいつから美術をしているんですか?
私も、わりと内田さんと初めて話を聞いて、近いというか、私の場合は、大学は史学科に進んでいる。
高校生の時に将来の進路を考えた時に、学芸員という職業があることを知ったんですね。
高校生が意識していた。
学芸員という仕事があるのを知って、それで博物館とか美術館に興味を持ち始めたというところがあります。
逆なんです。先に学芸員を知ったってことですね。
そうですね。
それはそれで珍しいですね。
なので、特定の作家さんとか美術作品とかというよりも、
作品とか資料を展示したり、紹介する施設というところに興味を持ったのが、最初のきっかけだったかなと思います。
でも、そういう子供の時は、歴史的なものは好きだったんですか?
そうですね。古いものとか。
だけど一番は、比率としては、学芸員という職業に興味を持ったというところが大きい気がします。
でも、それまでは、例えば親に連れられて美術館に行ってとか博物館に行っても、あんまりなかったんですか?
そうですね。そういうわけでもなかったでしたね。
でも、学芸員には成り立ってみたいな。
そういう職業があって、どういう仕事かとか知るにつれて、こういうところを自分もやってみたいなというふうに。
でも、学芸員資格も取っているんですよね。
取りました。
では、興味としては、日本美術とか西洋美術のジャンルで言ったらどこに興味があったのか?
ジャンルでも、実は大学時代にそれほど勉強していなかったのと、
学芸員資格を取っても就職はないよって、すっごく吹き込まれるんですね。
そういうこともあったので、現実的に就職はできないだろうと思って、
あまり大学時代って、私本当に今学芸員になっている若い人たちに申し訳ないんですけれども、
サークル活動とかで、ちょっと時間を過ごしていた気がします。
ちなみに、何のサークルだったんですか?
サークルは、官芸楽団でオーケストラの。
なので、練習時間とかすごく拘束されるんですね。
石川さん、ビオラ弾いてます。
ビオラ!?
下手くそなんです。
今も弾いたりするんですか?
今は全然才能がないというか、全然センスがないので、
聴くのは好きなんですけれども、楽器は全く触ってないです。
でも、家にあることはあるんですか?
あることはあります。
何かの時にコンサートできます?
ちなみに、内田さんはサークル活動ですか?大学時代は。
それが日本文化研究会でした。
そんなにキラキラしてなかったですね。
そうですね。
ちゃんとしてるじゃないですか、そしたら。
何やるんですか?その研究。
お祭り見に行ったり。
日本人っぽくて。
ねぶった祭りとか。
でも興味はあったんですか?
そうですね。ありました。
いろんなサークルがある中で、それをチョイスするってなかなか。
そうですね。
決めてはあったんですか?そのサークル。
いやいや、流れです。
今のところ、二人の経歴聞いてる限り、なぜこの美術館に辿り着いたかが全然繋がらないですけど、
そこからどういう経路を辿っていくんですか?お二人はそれぞれ。
私は博物館に縁ができたこともありまして、
バブルの時代だったんですけれども、なんか就職したくないなっていうのがありまして。
普通の会社に行ったことですか?
そうです。就職活動もせずに大学院に進みまして、
そこで縁のあった学内の博物館で、その後アルバイトをして過ごしていました。
だから院も教育学部?
はい、そうです。
博物館の卒論とかはどうだったんですか?
別に哲学者の人の卒論らしきものをやってましたので。
これまでふわふわしてますよね。
だいぶと。
博物館で、学校内の博物館で。
バブルがはじけてショボンとした時代になったわけで、
そこで私はひたすら学内に留まりっていう感じだったんです。
博物館でアルバイトをしていたときに、
新資料として中原純一というイラストレーターがいるんですが、
中原純一が主催していた雑誌のひまわりっていうのがあって、
これを受け入れ作業しなさいよっていうことで見たら、
もうそこで素敵っていう感じで。
その出会いがあったんですか?
そうなんです、そうなんです。
全然それまで中原純一なんか知らなかったんですけれども。
そこからですね。
でもそれまでは中原純一さんも、
その雑誌絵の高畑華翔さんの次世代くらい。
人気の作家。
それまでは中原純一って知らなかったんですか?
知らなかったし、そういう雑誌文化があったっていう、
少女文化があったっていうこともまるで知らなかったんです。
そこで出会いがあって、ハマってしまって今に至ってます。
ハマって中原純一について調べたりとかもするようになって、
弥生美術館はその時にもうできてたんですか?
はい、できてました。
弥生美術館にも来るようになったんですか?
そうですね。
たまたまいい時期に募集が出まして、
学芸員を応募してここに入りました。
じゃあきっかけは中原純一との出会いなんですか?
そうです、そうです。
なんかそのスケバンでバブルで弾けてて、
昭和史をそのまま生きてきたんですね。
言われてみればそうかもしれないです。
祝図のような生き方というか。
でもじゃあ最初に入ったのが弥生美術館。
大学の美術館が博物館があったけど、ここでもう一筋。
はい、一筋です。
中原純一が大好きで、
中原純一はひまわりの前に少女の友という雑誌でデビューしたんですが、
学芸員になって2年目ぐらいの時に、
少女の友を語る会という会に業務として出席しまして。
それはどこでやったんですか?
それは早稲田大学近くのお店だったんですが、
中原純一がやっていた時代の少女の友には、
カリスマ的な素敵な編集長がいらっしゃいまして、
内山基さんという方なんですが、
読者からお兄様として慕われている人で、
そのご遺族様がかつてのファンの人たちを、
ですからおばあちゃん方ですよね、
コアなファンの人たちを招いて、
みんなで内山朱室を語る会というのを取材してくださったんです。
そこに出たら、おばあちゃん方がかつてのペンネームで、
お互いを呼び合って、
赤いリンゴさんとか、かすかすみりさんとか、
昨日のことのように宣伝の、
自分の少女時代のことを語り合うわけですよね。
今で言うとというわけではないけど、
僕らで言ったらミクシーネームで、
ミクシーの同窓会でミクシーネームで語り合う感じでしょうね。
それを見た途端に、この世界は何なんだろうと思って、
そこから少女の友の研究にハマりました。
研究は好きなんですね。
ひとつのものに対して突き詰めて研究してくれたり。
そういうタイプでもないんですけれども、
おばあちゃん方が可愛がってくださるわけですよ、私のことを。
こんな昔のことを調べてくれるだけで、
嬉しいなって言われちゃったらやっぱり、
ついてきますっていう気持ちになるわけで。
でもその少女の友の、
ジャンプ編集局みたいなことですか。
あれでその人たちが頑張って、
編集局の人が出てきてみたいな。
あんな感じなんだ。
でも当時はネットもないし、
その雑誌が一番。
そうなんです。
読者投稿欄がすごく充実していて、
全体のこんな何十ページっていう感じで。
読者投稿のページがですか。
特集とかじゃなくて。
それは内山基さんに向けてのメッセージだったりするんですけれども、
本井先生私こうなのよみたいな、
たわいのないことなんですが、
本井先生も覚えてるんですよね。
それに対して。
そういえばあなたのお兄さん、
お怪我をしたのは治りましたか?
みたいなコメントが来るわけなので、
美術館の活動と竹久夢二美術館
やっぱり当時の少女たちは夢中になるわけですよね。
雑誌でもあるときとラジオに近い感じかもしれないですね。
そうかもしれないですね。
パーソナリティさんに対して。
友ちゃん会っていう読者集会もあって、
その時はみんなで会ってっていうこと。
お深いですかね。
深いです。
そこに中原純一先生なんか、
若き素敵な雑誌映画家が来てっていう、
それも楽しみだったみたいですけど。
本当深いですね、そう考えると。
古い時代だとユメジとかもそういう会にもちろん参加してましたし。
そうなんですか。
ユメジのファンたちの交流もあったってことですか?
そこにはどうかわからないですが、
その雑誌の編集部が友ちゃん会だったり、
雑誌を主体にした会を開くので、
そこでユメジとか他の編集者さんだったりとかも、
そういうお返事を書いてくれるような編集者さんたちが来て、
みんながそこで一度に返すというのは楽しみだったんじゃないでしょうか。
今と雑誌の感覚は違うんですよね。
雑誌に書ける思いが違うし。
それこそここで教えてもらったことで言うと、
ペンフレンドを雑誌で募集していた時期があるみたいな。
ありますね、あります。
素敵読者モデルみたいな素敵お姉さまも出てきたりとか。
雑誌で人気のエビちゃんみたいな、ガーザエビちゃんみたいな。
でもそういうものも展示として、
この美術館でやることもあると、
当年の人も来てくれたりするってことですね。
少女の友総館100周年記念号というのも出しまして、
その時に展示もやったんですが、
みなさんで集まって、
当時のおメンバー、友ちゃん会に来てたメンバーが。
友ちゃんの歌を歌ったりとか。
友ちゃんの歌もあるんですか。
いろいろあるんですよ。
内田さんも歌ったんですか。
内田で歌いました。
当然やっぱり女性。
男性の友ちゃんファンもいた?
いることはいるんですか。
かくれファンはいたようですね。
私も可愛がっていただいた方がいたんですけれども、
戦時中にお姉さんのものを、
戦争が終わったら読もうと思って、地中に埋めといたんです。
戦争が終わって掘り出したら腐っててっていう悲しい思い出だったんですけれども。
当時男の人が少女雑誌とかは買えなくて、
兄弟に買ってる女性がいたら読めてっていうような環境でしたしね。
確かに僕らの世代でも、妹がいるからリボン読めて。
ちびまる子ちゃん読みたいんだけど、男子は買えないから。
妹かお姉ちゃんがいる人の家に行って見せてもらったりとか。
よりそれが強いって感じですね、時代的に。
中原純一との繋がりで、ここの線が繋がったのはしっくりきたんですけど。
石川さんはどういう流れで?
私は大学時代を送ったので、新卒で普通に就職したんです。
就職活動して。
ピージを掴んだら関係ない。
もう全然関係ない。
大駅機の会社で営業を始めたんですね。
会社に入って、割とすぐの時に、オーケストラのサークルの現役の子たちの演奏会に行ったんですね。
そしたら自分のビオラの一つ上の先輩で、その人も大手の企業に入ったんですけれども、
学芸員に就職したとかって言ってるんですよ。
その人が?
そこですごく目が覚めたというか、私が望んでいたのはこういう仕事ではないのでは?
ただ会社に入って、まだ1ヶ月も経ってない。
目が覚めたの早かったですね。
すごく衝撃を受けたんですね。
かといって、まだ仕事をしていない会社で就職する宛てがあるわけでもないんですけれども、
それで学芸員のことをまたツラツラ考え始めて、とはいっても求人がないと、
この仕事って定期的な採用があるような仕事でもないので、
そうこうしている時に就職してた翌年の1月、2月に竹久夢次美術館が求人をしてたのを、
大崎新聞の求人報告を見つけたんですね。
ユメジの恋愛と関係者
ああと思って、どうかはわからないけれども、応募してみました。
その時は竹久夢次が特別好きと思っているの?
というわけでもなく、名前を知っているレベルで。
でも、美術館の学芸員の職があるぞという。
面接とかがあって、その日私営業で、実はコピー機の設置の当番プラス、
その日がちょうどバレンタインデーで、営業所で女子が私しかいなくて、
営業所にあるチョコをさばかないといけないのに、
ずるい休みじゃないですけど、お腹が痛くてすいませんみたいなことを言って、
それで一番最初に面接できるように駆けつけて、
特に順番が決まっていなかったんですね。
駆けつけて、面接とかをして、会社に行って、
その時は一次で、二次は加野卓美さんであって、
なんだか採用していただけたという。
へー、一応その日は会社に行った?
行きました。
お腹痛いと言ったけど、知れっぽい。
知れっぽいと言って、先輩にめんどくさい設置をやってもらって申し訳なかったでした。
でも、一年、会社はその一年くらい。
そうですね。採用が決まったので、
3月末で辞めるにはちょうどよかったかなっていう。
営業所の所長にすみませんけれど、退職させてくださいって。
ただ、その時の所長も同じような、大学で専攻してきたような人だったので、
すごく理解はしてくださって。
あとは、今とやっぱり会社での女子の働き方が違うので、
女性は結婚するかでその会社をやめないと続かないような働き方だったし、
私も、先々がちょっと見えないなっていうこともあったので、
心よく送り出していただきました。
もしかしたら、その人も同じような境遇だから、目覚めてその人も、所長も。
いや、所長も全然そんなことはなかったんですけど。
でも、そこからもう、立体したイメージ美術館ってことですね。
そこからもう、イメージの勉強を始めてっていうことになります。
まあ、言ったらゼロの状態というか、竹下美術に対して、
ある時から竹下美術、すごい好きかもってなる瞬間とか、何かあったんですか?
でもやっぱり、私の場合はジワジワっとというか、
仕事として始めた人で、学芸員ってある意味客観的な目でお客様に展示とか、
特にお客様に、自分だけで研究するならともかく、
お客様を意識して、やはりいろいろやっていかないといけないので、
仕事としていろいろやっていく中で、
でもどんどんユメジの素晴らしさというか、飽きたことはないですね。
もうずいぶんやってるんですけれども。
確かに飽きちゃうってことはないのかなって、すごい気になってたけど、それはないんですね。
意外と新しい、例えばユメジの作品が見つかったりとか、
ユメジってこんな人と関係性があったんだとか、まだまだそういうことってあるんですね。
なので、また続けていくと、あるところで自分の中で点だったものが線になる時があるんですね。
やっぱりそういうのが、ちょっとずつ気がついたら、
会社にいた自分からあまり何もできない、本当にゼロから始めたけれども、
意外と遠いところまで歩いてきたのかもしれないという気持ちもあります。
でもそれが他、例えば旧人が全然違う美術館だったら、
もしかしたら全然違うルートだったかもしれないけど、
改めて考えると、竹下ユメジ美術館でよかったなって思ったりはしますかね。
特に私の場合、どうしても学芸員にならないとか、
というほど執着して時間を過ごしてきたわけではないので、
なんか大げさかもしれないんですけれども、神様がここに連れてきてくれたと思って、
頑張りたいなと思ってます。
前半ではそこまで竹下ユメジを掘り下げなかったですけど、
やっぱり竹下ユメジっていうと、映画化もされたりとか小説化もされて、
よく取り上げられるのって恋愛、ちょっと恋愛奔放でみたいなイメージがあるじゃないですか。
ユメジの新たな恋愛関係
それは石川さん女性として、どう捉えたりとか。
そうですね、身近な人だったらちょっとって感じに思っちゃいますよね。
あとは今のSNSの時代なら、とてももうやっていけないというか。
具体的にはどういう女性編劇があるんですか?
ユメジ結婚は早くて、最初は2歳年上の玉城さんっていう、
すでに結婚して子供もいて、旦那さんを亡くした未亡人と結婚するんですね。
だけどユメジはまだ仕事で駆け出しの頃だったのと、
玉城さんっていうんですけれども、ユメジを自分をコントロールしたいし、
普通の夫婦生活を送りたいと思っていたので、うまくいかないんですね。
でも10年の間、同棲したり別居したりを繰り返すんですね。
でも決定的にまた変わっていくのが、
ユメジが港屋絵造師店というお店を日本橋に30歳を超えて開くんですけれども、
今言うファンシーグッズっていうような雑貨屋さん。
そうなんですよ、かわいいをハイテーマにしたファンシーグッズですね。
そこに笠井彦野さんという、ユメジに憧れて画家になりたいという女学生さん、
一回りした女学生さんが来て、彼女と恋中になり、玉城とは完全に別れるんですね。
彦野さんはそんなユメジと落ち着き合うなんて言って、父親が当然それは反対しますよね。
2人で駆け落ち同然で京都で暮らし始めるんですね。
その時は港屋はどうなっちゃったんですか?
港屋は2年で閉店しちゃうんですね。
ユメジも他の仕事や恋愛でいろいろ忙しくて、
この時のエピソードでそこに顔を出していた統合政治が大筆的なことをしたりとか。
あの統合政治ですよね。
玉城とちょっと関係がユメジの元さんと。
またややこしいことになる。
彦野さんとの統合政治もちょっと関係があったりというお話もあったりとか。
いずれにしても港屋は2年ほどで閉店して、
京都にユメジと彦野を移り住むんですけれども、
彦野さんは最終的に結核で23歳で亡くなってしまうんですね。
彦野さんは京都にいたんですけれども、きちんと治療を受ける関係で順天堂院東京に戻ってきて、
ユメジもそのタイミングで東京に戻ります。
彦野さんとはもう離れ離れになってしまって、
ユメジも大変失意の中にいて、
Fでも持てないような状況だったんですけれども、
そこにユメジのですね、後輩という画家が、
また新たにモデルを連れてきて、
この人だったらユメジも絵をまた描いてくれるだろうと。
非常に美しいお洋さんとユメジが後で。
葉っぱでお洋。
今の芸大東京美術学校でモデルをしつつ、
洋画家の藤島武二や縛り絵の伊藤誠雄といった人のモデルもしていた、
草崎カネオさんという女性を連れてきて、
結局モデルとしても彼女はユメジの前で仕事をするんですが、
同棲も始めてしまって。
そこが早いというか。
お洋さんの方が早く身を固めたいという希望があったそうなんですが、
ユメジは彦野とのやはり気持ちもあったし、
あとは玉城との関係で、
自分は結婚生活に向いてないということもあって、
消極的だったんですが、
やはり恋愛関係は続いていて、
今お話しした3人がユメジの恋人としてはよく知られています。
本当は何人くらい知られているんですか?
石川さんの研究の結果と正確に言うと何人くらい関係があるんですか?
いやー、もっとね、たった一夜、一晩のとかそういうことを。
美術館の学芸員たちの推し活
そういうのもバレてるんですか?
恐ろしい時代ですね。
恋中とはまたちょっと違うんですが、
私はユメジのモデルだった人に会ったことがあるんです。
まだ美術館に入った頃の話なんですけれども、
ユメジが描いた美人画がここでお譲りいただけて、
道の子の女という作品だったんですが、
そのモデルになった方がここに見に来てくれたんですよ。
その人はやっぱり道の子の方なんですか?
そうですね、藍津の生まれの方で、
ユメジが旧婚もするんですけれども、
婚約者もいらっしゃったので、
ユメジとは当然年の差も…
モデルにそう言っちゃうんですね。
そう言っちゃって絵を描いちゃうんですね。
それがだから独特の色っぽさとかツヤになるのかもしれないけど、
旧婚したってこともその人から聞いたってことですか?
エピソードはお話聞いて、
ユメジはプレイボーイだからっていうことで、
当然お断り。
もう知ってたんですか?当時から。
そうです、もう評判でしたし、
新聞とかにもいろいろ書かれてたりもしてましたので。
ユメジの恋愛編歴は、当時は日本国民の周知の事実?
そうですね、それプラス、
どういうわけだか、自分で自伝絵画小説で…
自分の恋愛編歴?
ここまで描いちゃっていいのかな?
しかもお洋さんまだ近くに住んでるはずなのに。
それでも描いちゃってるんですか?
そうですね。
それは研究した結果、
意外とモテるなってパターンもあったりするんですか?
モテましたね。
モテる。
モテはいないです。
本当にその通り。
だから本当は付き合ってもないんだけど、
付き合ったって言っちゃうみたいな。
そういうのはなくて、
あまりにもドラマティックな部分が多すぎて、
モル部分は必要ないぐらい。
なんでまたそんな…
盤面の方はそんなにイケメンでもないと言ったら失礼ですけど、
そんなにみんながいざか…
いわゆるカッコよさじゃないじゃないですか。
でも最近の若いユメジの写真ですね。
特にこちらなんですけれども、
高橋一世さんに似てるなって評判が。
確かに確かに。
この座って窓辺に座って、
キシベロハン演じてる時の高橋一世ですね。
またユメジが画家で人気だった頃って、
いわゆるアイドル的な存在の人っていないじゃないですか。
それで助手受けするようなイラストとか、
デザインしたものなんかを作れたので、
ユメジってやっぱり相当人気があったんですね。
アーティストがモテるみたいなことですかね。
そうです、そうです。
この当時はワーキャーの相手が画家でもあるんだ。
高畑歌唱さんはこの次の世代になるんですね。
歌唱先生も天外月のベッドにいるお写真とかを公開してますし。
当時のアーシャですよね。
自信がある方の撮られ方ですよね。
しかもユメジってこの写真を、
自分の画集の口に挟んだんですよ。
例えば写真集とか作品集とかの裏表紙とかに、
写真みたいなのがあったんですよ。
著者写真みたいなの。
じゃなくてこの写真を挟んだんですか。
表紙の次のページにこれを。
デカデカと。
小さな本だったんですけれども、この写真をあえて。
相当自信がなきゃできない仕事ですね。
そうですね、あえてまだ写真で今みたいに誰でも撮れて、
写真も手にできるような時代とは違いますので、
あえてそこで自分の本にこの写真を付けたっていうのは、
なかなか勇気あるというか。
これはどこで撮られたとかわかっているんですか。
これはですね、京都でゆめじと友人関係だった人のお家で撮っているんですが、
これちょっと影になってよく暗いんですが、
学校ですよね、いわゆる。
マンドリンを抱えてるんですね。
引いてはいないんですよ、引けないのは。
抱えているんです。
やりますね、なかなか。
当然撮ってます。
やっぱりそれはモテる。
でも当時からプレイボーイとして有名だったんですか。
そうですね、あとは基本的に美しい女性が好きだったんでしょうね。
なるほど。
でもやっぱりそういうのもニュースにはなっているけれども、
当然いい恋愛じゃないのも心地悪いじゃないですか。
それでも仕事が途切れないぐらい、やっぱり画家としての才能というか、
そこはやっぱり当時から。
そうですね、雑誌でゆめじは仕事をだいぶしていた部分が多くて、
そうですね、その意味では途切れなかったですね。
今だったらそういうことやったら一発アウトじゃないですか、今の世の中というか。
そうですね。
そういうことがあっても、作品には罪がないじゃないけど、そういうところはあった。
今より監視は全然厳しくない世の中でしたし、そこは切り離してたんでしょうかね。
でもちょっと今ふと疑問に思ったんですけど、さて今ゆめじ人気だったじゃないですか。
いわゆる画家ですけど、横山大観とか陰天とか密天とかそういうところで発表する人もいるじゃないですか。
関係したゆめじの主戦場は雑誌以外はどういうところで。
ゆめじは独学で美術学校に通っていませんでした。
そして画壇にも属していませんでした。
仕事としては雑誌でイラストを発表する。
あと自分で画会を開く。
自分でやるんですか。
そうですね。自分で主催して。
大きなものですと、今もある京都不律図書館というところで2回個展を開き、
あとは日本橋三越の祭事場とか、あとは地方地方の新聞社が主催だったりとか。
でも実際そうしないと、雑誌に書いたイラストってやはり購入がすごく安いんですよ、本とかも。
なので実際はそういう掛け軸とか肉質の絵を売って、だいぶやっぱり稼がないといけなかった。
セルフプロデュース力もあったし、結構総合的にやられてたんですね。
そうですね。
何歳くらいでお亡くなるんですか。
49歳、11ヶ月ですね。
ユメジも結局早く亡くなった笠井彦野と同じ結核で亡くなってしまうんですが、
ユメジってすごく外国に憧れていて行きたかったんですけれども、
第一次世界大戦とか、一緒に行きたかった彦野さんが亡くなったりとかで、
ようやくチャンスが巡ってきたのが46歳の時だったんですね。
アメリカとヨーロッパに行って、ただそれでかなり体を悪くしてしまって。
今みたいに飛行機でピュンと行けるわけじゃないし。
じゃあそれ行かなかったらもしかしたらもう少し長いにしてたかもしれない。
あとはもっと早くに外国に行けたら違う活動もできたのかもしれないですね。
でも前半でもここができる前にもユメジの美術館が2つあったって言ったけど、
金沢にもユメジ美術館ができた。
そういう意味で言ったら、画家の名前がついている美術館で4つもあるって、
たぶんトップクラスですよね。
でもなんだかんだ言って、ユメジの作品って人気があるからっていう証拠ですよね。
あと大正ロマン的なお店とかだと、今亡くなっちゃったのが、
月島にあったモンジャ役もユメジだったりとか。
ユメジってつけると大正ロマンみたいな、そういう感じで。
画家としてだけじゃなくて、お店の名前とかにも。
そうですね、イメージが強いですよね。
そういう大正時代を生きたっていうのがちょうど良かったのかもしれないですよね。
大正といえばみたいな感じになってますよね。
そうですね、明治の不国共兵の時代とも違うし、昭和に入って戦争に突き進むような時代とも違って、
ちょうどユメジがいい時期に活躍できたのかもしれないですね。
そうか、でもそうやって繋がってるのは面白いですね。
それでお二人が入ったっていうのも納得というか、やっぱりあるんですね、通る道がみたいな。
毎回こういう話を知ってて、全然違うことをいつも聞いたりするんですけど、
美術以外での趣味とかっていうのはお二人はそれぞれ?
共通の趣味はありました。
共通なんですか?
なんですかそれは?
推し活です。
何を推してるんですか、二人。
もう相手のようなわけかっていう。
それ同じあれなんですか?
一緒にコンサートに出ました、だいぶ。
前半で推し活の話もちょっと出ましたけども。
それ言っていいんじゃないですか?
えー、言ってましたね、全部お金も使いました。
言ってくださいね、誰を推してたんですか?
内田静枝の推し活
ジャニーズ全般を。
特定のグループじゃなくて?
一番多く行ったのは嵐でしたね。
ちょうど今日収録の日に嵐が新会社を設立。
これはやっぱり感慨深いですか、お二人は。
25年遅くあれから、ちょうどデビューした時からだったので。
そういう意味では嵐のメンバーの皆さんも40代になったのかと。
感慨深いですよね。
デビューした時には二人は美術館で。
もともと好きだったんですか、美術館に入る前から。
はい。
私は、あの後から。
いつからなんですか、それは。
私は高校3年生からジャニーズにハマって。
大丈夫ですよ、ノラポッドキャストの番組だから。
いくらでもジャニーズという名前出したって。
これが何かの金曲だったらいろいろと入るんですけど。
いくらでもジャニーズという名前を使って大丈夫な番組ですから。
高校のハマるきっかけは何だったんですか。
ヒカルケンジ。
高校3年生なのにヒカルケンジってね。
ちょっと分からないですもん。仕組みがよく分かってないですけど。
そこから定期的にコンサートも。
そうですね。
ヒカルケンジが出て、次が忍者とかです。
逆ですか。
逆ですね。
忍者の方が先なんですけど、スマップも通ったんですか。
スマップは通らなかったです。
ヒカルケンジの後はV6とか。
そうですね、近畿も行きましたね。
私は年齢にしたら30を過ぎていたんですね。
きっかけは滝沢秀明くんに。
あ、滝沢さん。
急にどうしました。
ここで急に改言しまして。
滝沢さんが若い時ですか。
もうジュニア。
その後ぐらい。
そんなことを美術館で話をしていたら、
近畿キッズのコンサートでバックで踊っているから、一緒に行こうよみたいなところがあるから。
そういうのも詳しいですね。
バックダンサーのジュニアが誰も把握しているぐらい。
私は今も細々とジュニアをチンコしている感じです。
石川桂子の推し活
石川さんは真面目なので、調査力がすごく崩れています。
学芸員さんだと直表表出ちゃうから。
途中からは私の方が不安クラブに入って、
内田さんのチケットを一緒に。
お世話を焼いてくださって。
でも一番ハマったのは、結局アラシのどれですか。
私はアラシかな。
ハマるっていうか見守る。
なんか弱々しい人気のなかった時代から。
そうだ。
デビューのコンサートの時から。
デビューコンサートに行きました。
そのコンサートに行ってよかったなと思ったのが、なかなかすごいコンサートで、
デビューしたら1曲しか持ち歌がないんですよ。
ローマジャラシですね。
その裏面だった曲もあるんですけど、
推し活に関するトーク
あとはジュニア時代の持ち歌とかもあるんですけど、
そこにカミセンがゲストで来てたんですよ。
そんなこと今ありえないよね。
結構2人で行くことが、他にもいるんですか?
この美術館にはメンバー。
大体2人で行ってました。
意外なアラシになった。
アラシに関しては、内田さんと2人で行って、
今は当たらないんですけど、
ジュニアは自分一人で応援してるところに当たれば行く。
今は応援してるグループは何?
今は美少年。
美しい世界というのみ?
あとはハイハイジェッツ。
めちゃくちゃ最新の話で押さえてる。
仕方すごい。
そんなにってことは、例の騒動の時にはお二人は仕事が手につかなかったんじゃない?
びっくりはしましたけどね。
時代の流れなのかな?
今はちょっと乱れる部分が、
YouTubeとかは別ですけど、
演出とかはすごく煌びやかで楽しい部分が多かったので、
ちょっと寂しい気もします。
内田さんは一番ハマる?
何が一番?
私は全般的に見守るっていうスタンスですかね。
頑張ってっていう感じで。
今はそこまで見守ってないんですか?
息子が高校3年生になったので、
息子と同じ年齢。
息子に見えてきちゃう。
お母さん。
対象として見てるというよりは息子になってきちゃったら、
見守る。
もう一生見守ります。
ここ最近一緒に行ったのはいつ?
だいぶ行ってないね。
昔、石川さんと相場ちゃんのご実家。
ご実家まで行ったんですか?
ご実家が中華料理屋さんで有名なんですけれども、幕張で。
そこにも行ったよ。
坂本くんの実家の。
その代わりに、
グルーシックスの坂本くんって、実家が八百屋さんって有名で、
亀戸にお店があって。
幕張から亀戸まで行ったんですか?
お互い相当してるんですよ。
そして行ったら、坂本くんのお兄さんが店番していらっしゃって、
取材の方ですか?って。
なんでそう思われたんですか?
お姉さま。
ファンとも思えない年齢の妙齢の女が2人で来たから。
でもジャニーズだって、昭和から令和までの一時代を築いたんだから、
展覧会やろうにはならないんですか?
いろんな権利関係がね。
ここなんかじゃとても。
でもわかるんですよ、ジャニーズだけじゃなくて、推し勝つの歴史じゃないですけど。
なぜ内輪を使うようになったのかとか、
ペンライトはいつからなのかとか。
そういうの調べたら面白そうじゃないですか?
そうですよね。よく収蔵庫で切れっぱしに作りました。
ちょっとコソコソと収蔵庫で応援グッズを作ってたんですよ。
ここから東京ドーム近いんですよ。
ここで作ってるの?
タクシーで行っちゃったり。
休み時間で。材料いっぱいあるんです。
ほんのガチガチですね。
それが趣味と言ったら、それが一番の。
でも私今は、そっちが下火なんですけど、推しというか、今の展示ともまたちょっと通じてるんですけど、
好きな動物に会いに行くのが好きで、
動物との出会い
たぶん皆さんも知っている動物だと、カピバラとかミナミコアリクイとか、
2個目からもうムズくなる。パンダとかそういうのが出てくるかと思った。
コツメカワウソとか、なんとなくわかりましたね。
今私的に写真を持ってまいりました。
たぶん全く聞いたことのない動物だと思います。
キボシイワハイラップ。
それからグンディとビスカチャ。
1個もわかんないです。1個も動物っぽくない名前らしい。
なんとかなんとかじゃないんですって。
埼玉県子ども動物自然公園っていうところに3つともいて。
でも名前はわかんないって言ったけど、写真見たらめっちゃ可愛いです。
キボシイワハイラップ。
皆さんに見てほしいです。
ラジオを聴いている方、検索してください。
あと写真撮って大丈夫であればホームページに載せる。
これ何かきっかけでハマっているんですか?
もともとカピバラが好きで、よく埼玉の子ども動物自然公園に行ってたんですけれども、
時々新しい動物で展示されるんですね。
動物園は博物館施設なので展示なんですよね。
この子たちは割合最近新しくここに来た動物さんたちで、
見始めたらまた見に行きたくなっちゃって。
あと赤ちゃんが生まれるとやっぱり可愛い。
それで名前もついてるんですか?
たぶんついてると思うんですけど、この子たちはグンディはものすごく数が多いので、
知らない方はたぶんついてないかなって。
キボシイワハイラップだったらその中のなんとかちゃんが好きとかもあったりするんですか?
ついてなくてちょっとまだわからないです。
でもそこは埼玉の子ども動物自然公園が一番お気に入りなんですか?
そうですね。
あとはこのグンディとかカピバラとか南コアリクイがいるのが神戸動物王国というところとかも、
最近行ってないけどまた行きたいなとか。
でも行ったらずっとそこばっかり見ちゃう?
好きな動物のところを中心に回って。
それ昔から好きだった?
10数年前から。
何がきっかけでそうなの?
たまたま埼玉のカピバラさんのちょっと変わった動きがYouTubeに出ていて、
それを見たらなんか面白くて、行き始めたらなんかハマっちゃって。
また違うところに行きたくなっちゃって。
やっぱおしかつなんですね。
あと面白いのはカピバラさんとかだと子どもが生まれるじゃないですか。
そうするとあまりたくさん一つのところにオスとか大人になったら一緒にお父さんと行っちゃいけないので、
そうするとどこかにお引越しするんですね。
そうするとお引越しした先に来たくなっちゃったりとか。
美術館の展覧会とイベント
そういうので行ったりとかをしてるのと、
あとは美術館の仕事でどこか地方に行くと、
じゃあカピバラの行く道路線行ってみたいなとか。
大体の学芸員さんはその近くの美術館とかを検索してるんですけど、
カピバラを検索されるのは初めて聞きました。
それも行くんですけど、近くだったら行ってみたいなみたいな。
これもちょっと意外な展開。
あとはやっぱり、こっちの関東で知っていたカピバラさんがお引越しをして、
例えば北陸の方に行ったら、あ、久しぶりだね。
向こうはそう思ってないでしょうけどね。
でも顔はやっぱり、見たあの子だなってわかるんですか?
わかんないんですけど、紹介の名前とかで、
あの子から来ましたってプロフィールが書いてあったりすると懐かしい気持ちになった。
これはちょっと意外。
でもなんか、やっぱり学芸員さんなんだなっていうのは、
一個研究じゃないけど、一個突き詰めていくとそうなっていくんでしょうね。
でもね、好きな人は本当に全然違います。
写真とかをプロの機材でガンガン撮ってる人とか、
あとツイッターにバンバン上げたりとか、
私とかだと、そうするとちょっと仕事っぽくなっちゃうので、見るだけに留めてます。
でもこの今、おすすめはこのジャッキ帽子はいらないですか?
グンディとピスカちゃん。
ここを知らなかったら一生出会わなかった。
そうですね。
内田さんはジャニーズ以外は、最近は?
いや、これと言ってないです。日々忙しくて。
仕事が忙しくて。
あと家事ですかね。
子供がよく食べるので、常に料理をしている感じです。
なるほど。
でも制服、前半でも言ったけど、制服研究みたいなのは個人的に続けたりするんですか?
はい。研究じゃないですけれども、やっぱり見ちゃいますね。
見て、女性の時計にちょっとついていっちゃいます。
確かに。男性はちょっとついていけないね。
どこの方向なのかな?
見る?制服を。
衿はどうなっているのかな?とか。
私も内田さんほどではないですけど、やっぱりここで展覧会をしてくれたから、
やっぱりちょっと変わった制服。
特に地方とか行くと、この辺りで見る制服と違うじゃないですか。
着こなしとかソックスとか、スカートのこととか。
ついついなんかやっぱり目がいっちゃいますね。
そうなりますよね。
ちなみにですけど、内田さんがもし今、高校時代に戻れて、制服どれも選べるとしたら、
どこの制服着たいのはあるんですか?
ないです。
ないんですか?
やっぱり自分にとっては、戦闘服ですから。
自分を大きく見せるためのものだったので、
自分とはまったく切り離して、研究対象というか。
着たいなじゃないんですね。
新たに知った世界として、制服は楽しみ、導いてもらってます。
かわいいなと思ったりはするんですか?
今までは全く思わなかったんですが、
セラフクと女学生って石川慶子学芸員の一言から、かわいいと思うようになりましたね。
あとは女性の一生を象徴するものでもあるなと思って、不思議で知りたいことばっかりです。
でも息子さんの制服とかも、高校3ってことは展覧会後ぐらいに高校生になってるわけじゃないですか。
そうです。
制服はチェックはしたんですか?
ただの学覧なんですけれども、ちゃんとバシバシ写真を撮って、自分の本に載せようとしました。
その時の展覧会では、戦闘服で言うあれじゃないけど、当時の男子の制服を改造してくれる場所が乗ってましたよね。
改造服のお店があるとか、歴史を感じるというか、今の僕らの世代じゃなかったので。
あ、そうですか。
制服は指定の場所で買って終わりですよね。
指定のお店の上がこっそり改造服だったりするので、大きなには言っちゃダメなんですけど。
でも有名なところがあったみたいな話ですよね。
面白いですね。
まだ言えないですけど、今後でも仕込んでいる新たな展覧会とかは、それぞれお二人はあったりするんですか?
そうですね。展覧会というか、今年イメージって生誕140年なんですね。
なので、これからちょっと企画とか、まだ展開していくことがありますので、ホームページとかSNSでお知らせしたいと思います。
ぜひぜひチェックしていただいて。
やゆい美術館開館40周年を迎えるので、何か記念すべき、すべてをさらけ出す展示を。
さらけ出すって何なんですか?
その二人がジャニー・オタっていうイベントにさらけ出すことあるんですか?他に何か。
トップシークレットにして。
でも展覧会だけじゃなく、イベントもあるかもって感じですか?
これから考えなくちゃかなと思ってますけど、やっぱり40年続けられたっていうのはね、
一個人が始めた美術館が周りに支えられているんですけれども、
いろいろ工夫をしながら続けているので、そういったところも知っていただきたいですね。
40年って長いですよね。
長いですよね。
そうなんですよ。
同じくらいですからね、そう考えると。
こういう施設って大体公立館で維持されているのが普通というかね、
あと企業、博物館とか美術館とか、本当に弁護士だった加野巧が築き上げて、
亡くなった後は館長と学芸員が本当にいろいろとちょっとずつ進化させて、
出版美術という軸で他の美術館とは差別化を図って、何とか続けていっております。
美術館が推しに支えられている
前半でも言ったけど、やっぱり加野さんの推しの気持ちでできた美術館だし、
さらに展覧会も、今松尾ひろみさんの展覧会だと松尾さんの推しが来たりとか、
本当にいろんな推しで支えられているというか、
集合した美術館だなと思って、いろんな美術館、僕も仕事柄行ってますけど、
ここならではのすごい大きな特徴だし、今後もどんどんどんどんいろんな推しがここに集ってきて、
もっともっと注目したくなるなというのは感じました。
ありがとうございました。
改めて、せっかくなので告知をですね。
今のままだと木干し岩ハイラクションになってきましたけど、
展覧会の告知をぜひぜひ最後に改めてしていただけたらと思います。
弥生美術館では、松尾ひろみ展レトロモダンファンタジアを6月30日まで開催しております。
同じ会期で竹久弥生美術館では、弥生が描く動物ワンダーランドを行っています。
ぜひ遊びにいらしてください。
はい、ということでありがとうございました。
番組の感想
最後にまとめというか、どうでした?
感想をいただければ。
もう皆さん優しいので、何でもペラペラ喋っちゃいました。
こんなことを喋っちゃったのか。
私一応緊張して台本的にちゃんと言うことを書いてきたので。
真面目なので。
いやいや、前半と後半の落差が一番深いなと思います。
いい意味でですよ。
こんなにこのご時世にジャニーズと連呼できたのは素敵な番組だったなという気がします。
お二人どうも本当にありがとうございました。
ありがとうございました。
はい、この番組は定期配信です。
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感想、ハッシュタグ、そろそろ美術の話を。
今後聞きたいテーマやゲストは番組ウェブページまでお願いいたします。
56:48

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