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(BGM)
はい、それ鉄味を今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
前回は、ウィパニー・シャットの中でも、ブラフマンとアートマンというところ、それがボンガイ地におだようみたいな話を聞いていったんですけれども、
今回はその先ということで、もうちょっと最近のインド鉄学に触れていこうか、みたいな話を最後もらっていたんですが、どういった感じになっていくんでしょうか?
そうですね、最近のっていうよりは、インド鉄学自体っていうよりは、インドの人の考え方とか、やっぱり物の捉え方って全然違って、なんとなくこれまでの3回も通じて感じられたかとは思うんですけど、
その中で、僕がたまたま読んだ本で、インド思想との出会いっていう本がありまして、
これが19世紀、1900年代のビリ・ヤラン・カールさんというインド人の言語鉄学者の人が書いた本なんですよね。
はいはい、じゃあそういう意味では、最近のインド人鉄学者といっても、
まあそうだね、ただこの人がどれだけ有名なのかとか、インド鉄学界のどのくらいの位置を占める方なのかとか、全然わからないから、
それが主流とかではないとは思うんですけど、ただ僕がインドのことを学びたいと思った時に、
インド思想との出会いっていうわかりやすいタイトルがあったので、読んだ時にはめっちゃ面白いじゃんとか、
そういうふうなことを考えるんだ、話すんだっていうのが面白かったので、
その本の中からですね、2つのコンセプトをちょっと紹介したいなと思っております。
1つ目が人生の目的っていうのについて書いてる部分があるんだけど、これが4つありますみたいな話があって、それが1つ目と、
あと2つ目は神の定義っていうのを言語鉄学者の人が書いてるんですよ。
それはもちろんその人オリジナルのものもあれば、それまでの鉄学の流れとかっていうのもあるとは思うんですけど、
そこに結構インド鉄学のエッセンスというか面白さが詰まってるなっていうふうに感じたので、
それはちょっと皆さんとぜひ味わっていきたいなというふうに思っております。
おー、なるほど。前回までの古代インド鉄学的な一元論的な雰囲気から、これを見るともうなるほどねみたいな、
そういう感じなのかな。それを見るとよりわかりやすいよねみたいな。
そうだね。前回のブラッフマンとアートマンがあって、アートマンっていう個物とか個人の本体っていうのが、
宇宙の根源と一緒なんだみたいな、そういう一元論的なもの。
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僕らが普段慣れている二元論であれとこれを分けるとか、主観と客観を分けるとかじゃなくて、
やっぱりインド鉄学ってすごく自分とか自分の内面っていうものを大事にして、
その内面が正しく理解できれば世界を正しく理解できるという考え方があるから、
結構そういう神とかを飾る時にも、やっぱり人間とか人っていうのを大事にしたりするんですよね。
あーなるほどね。そっかそっか。最初本をやった時でもね、神様を捉え方もね、
結構人間との境界も曖昧だったりとか、人間と動物の境界も曖昧みたいな話もあったもんね。
そうそうそう。超越者で全然違うものよりはそうじゃない定義っていうのが書かれたりするので、
ちょっと面白いなと思って。なるほど。はい、なるほどと思うんですけど、まず一つ目はですね、
ちょっとその先に人生の目的みたいな話。これも僕すごい目からうろかったんだけど、
兄貴は例えば自分の人生の目的とか考えるかもしれないけど、人の人生の目的って何ですかとかって考えたことってどうだろう、ある?
人っていうのは他人とかでもなく人間そのものみたいな。でもどうだろうね、自分っていうのを考える時に、
そこはどうしてもこう、考え刺さる部分ではあるのかなと思うけどね。ただそこがどのくらいの深みを持ってるのかは謎っていう感じか。
確かにそうだよね。例えば幸せになりたいとかっていう時に幸せになるためにやっぱりお金が大事だとか人次元が大事だとかってなると思うんですけど、
例えば西洋の伝統で言うと、いわゆるよく生きるみたいな、善とか、自分自身をもっとより良い状態にするみたいな、
哲学的にというか、そういった思想的にっていう流れもあったりして、やっぱり目的って一つ。みんながこの一個のある種心理としての目的があって、
それを目指すべきみたいな、そういう感覚ってなんとなくあったと思うし、僕はあったんですけど、
インドには4つの目的があるっていうふうに最初から言ってるんですよ。1つじゃないよって言ってて、
これは現代というよりは普通にウッパリシャットの時代から言われてきたらしいんですよね。
それぞれ言葉があって、ダルマとアルタとカーマと牧者、4つがあります。
それぞれ説明していくんですけど、面白いのは4つ全部大事なんですよね、それぞれ。
それぞれが強いかは人によって違うみたいな発想があって、これもかつ、僕がちょっと好きでやってるインド先生術って星占いのあるんですけど、
それもある目的、例えば、牧者なら下達って言ってたんですけど、
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そういう下達的なものが他の3つよりも強い人とかがいて、その人がこの生き方ではお金とか欲望とかよりは下達を目指しますとか、
それは目的なんですよみたいなことを言ったりするんですよね。
それはインド先生術的な方にもそういう考え方があるって感じなのかな?
そうだね。
結構そういうのをやってる人にとっては結構なじみがある考え方なのかな?概念というか。
インド先生術をやってる人が果たして日本に何いるか知らないけども。
でもやっぱりそういう人生の目的が一つじゃないし、人それぞれだみたいな。だから別にそれが違ってていいんだよみたいな考え方っていうのはすごく多様性に満ちたというか、
お互いを尊重できる考え方なんじゃないかなって思ってたりします。
少なくとも一つよりは4つの方が多い感じはするっていう感じかな。
これがまだ数の問題なのかなっていうところはあるけども。
そうだよね。結構中身もしっかりしてて、それぞれ何を意味しますかっていうのをちょっと話していくんですけど、
ダルマっていうのは、いわゆる法則とか本性、物の本質みたいなもので、
例えば自分自身が従っている法則か義務、普通で言うと天命みたいな何をすべきかみたいな考え方ってあるじゃないですか。
それを明らかにして実現することをダルマっていう風に言うんですよね。
だから自分の人生の使命はこれだとか、これが天職だから自分はこれに一生捧げるんだみたいな人はこのタイプ。
なるほど。そうだよね。生まれた昔とか、あと階層によってだったりとか、今でも生まれた家庭だったりとか、もしくは好きなものとか、
そういうものによって変わっちゃうよね。変わるというか、どれに自分のアンテナが立つかみたいな話がある。
そうだね。
あとは得意かどうかみたいなね。
そうだね。得意かもあるね。もちろんこれはみんながそうすべきっていう考えは根本にあるんだよね。
やっぱりみんな自分自身を、こう、こうやってというか、その法則に逆らっていくよりはそこに従って生きた方がいいよねみたいな。
ああ、そういうのもあるんだ。ただ単に構造とか仕組みの話だけじゃなくて、割と理想的な話も入ってるんだ。こういう風にした方がいいんじゃないみたいな。
むしろそういう方が自然だよねぐらいのいい感じかな。
自然ではねえかな。それこそね、4つの階層があるみたいなのあったじゃないですか。
バラモンとかクシャトリア、バイサシュード、ラッタとして、あれが身分ってよりはそもそも自分の成すべきこととか、やっぱりバラモンとしては、ちゃんとこう、なんだら宗教的なことにちゃんと従事すべきみたいなこととか、
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クシャトリアだったらちゃんとそういう、まあ兵士とかもそうだけど、そういうことやるべきみたいな。だからクシャトリアがバラモンを目指すっていうのが、ある種、ダルマに外れている。
なるほどなるほど。
法則とか自分の従うべき道とか義務に外れてるよねみたいな考え方もあるんじゃないか。これは想像も含めるんですけど。
解釈の問題もあるけど、みたいな。
まあでもそうだね、それは、確かに生きている自分が生まれた階層に沿って頑張るみたいなことは、その中にいくというかね、自然な感じはするね。
もちろんね、それがね、職業選択の自由があった方がいいじゃないかとかもあるんだけど、逆にそれが自由になりすぎた結果、本当に自分が何していいかわからないみたいな人もやっぱり、もちろんいるわけで。
そこはまあよしよしありますよね。っていう話でもあるのが、ダルマとか法則っていう話です。
で、一つ目のアルタは物質的な富の獲得とか生産。で、要はお金儲けですね。
へー、そんなのも入ってんだ。
そうそう。インドシストが面白いのは、いわゆる製品みたいな貧しいことはいいことであるみたいなこととか、物が少ない、いわゆるミニマリストみたいな発想っていうのはあんまないんですよ。
へー、意外。そうなんだ。
うんうん。そうしかって言うと、物質的な繁栄っていうのは全然推奨されて、悪いことはもちろんしたらダメで、人から奪うとか盗むとかはダメだし、さっき言ったダルマ、法則に従うことは必要なんだけれども、ある種それによって人生が楽しむとか豊かになるっていうのはめちゃくちゃいいことです。
へー、そうなんだね。
やっぱり現世をある種否定しないというか、仏教とかまでいくとどんどん現世を離れていくんだけど、それはちょっと現実的な楽しさとか豊かさっていうのがあって、その後に精神的な豊かさがあるよねみたいな話が結構インドシストとか哲学の根本にあります。
これはバラモン教とかだと思うけど、そういうインド哲学の概念の上に乗っかっている人も、そういう生産活動みたいなものに従事するとか増やしていくみたいなものは全然推奨されているみたいなイメージなんですよね。
そうだねそうだね。
うーん、なるほど。
そういうのは人間的な豊かさかなと思ってるんですけど、3つ目は面白くて、次はカーマってやつなんですけど、これは欲望なんですよね。
そう思っていると、人間三大欲求とかも自然なものだから、それは抑圧するものじゃないよって言われています。いわゆる苦行とか禁欲、仏教で言うと不在因かいとか不切正かいみたいな、殺すなとか犯すなとかいろんな話があるんだけど、
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そういうのが出てくるのはもっと後の時代で、純粋なインド思想で言うと、全然欲望もOKです。
ああ、そうなの。苦行っていうのはないの?
そうだね、バラモン教はあんま苦行はなくて、もうちょっとそれは後の時代なんだよね。
ああ、そうなんだ。
なるほど、仏教の時に周りの人がみんな苦行していた、むしろブームだったみたいな話があったけれども、それはむしろバラモン教の乗り越えだったりとか、ちょっと新しいムーブメントだったんだ。
逆に言うと、そういう現世にとらわれちゃダメで、もっと豊かな繁栄っていうのは、そろそろ輪廻を越えた先にあるとか、現世ってのが穢れていて、その理想の世界に行かなきゃいけないってなった時に始めて、そういう現世の欲求とか豊かさっていうのを、むしろ悪いものだとする発想が出てくるんだよね。
うーん、そっかそこ分かってなかったな、ここを聞くまで。前回前々回で、インド鉄学のバインチャットとか、ニック・ベイダーみたいな話聞いてたけれども、そこ全然分かってなかった。
全然苦行とかしてたりとか、現世よりもリーネ転生っていう概念があるから、未来だよねむしろ。というその徳を積んで、徳っていうのは仏教的かもしれないけど、カルマポイントを貯めて、先にっていう、今よりも未来みたいな感じがあるかなと思ったけど、そこは全然、前三回のイメージと違くてちょっとびっくりしてる感じがする。
そっか、確かにちゃんと言ってなかったかもね。そこは結構、未来に行くとか、永遠の救いっていうのが出てきて初めて、金欲とか苦行みたいなのが出てくるみたいな感じだと思う、流れ的には。
前回のバインシャットのもうちょっと先みたいな話だったの?
平行ぐらいかな。多分この絶対的なものを求めた時に、これまでのやり方じゃダメだとか、現世の水浴法とかにとられちゃダメだみたいな発想っていうのも、多分同時平行的に出てきてるんだと思う。
なるほどね。あとはさっき聞いたけれども、二つ目のアルタかな?コンビの生産と獲得みたいな話があった時に、お金儲けだよね。
そういうのはある意味、生殖者階級の人も推奨されてるってなると、確かにそれは貧富の差だったりとか、腐敗みたいなもの?っていうのが確かに繋がる感じはするのかなみたいな。それへの反対のカウンターというか、その乗り越えとして、仏教のミニマリスト的な発想っていうのも多分出てきてるってことなんだね。
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そうなのね。そういうのは結構同時化発想的に出てるんじゃないかなと思う。
ごめん、ちょっとずれちゃったけど、全然苦行的なイメージだったから、そうなんだ。
確かに。割とインドの人は、本質的には別にすごい苦しいことをするとか、遠征的でこの世っていうのは気軽に生まれたところだみたいな発想ってのはそんななくて、もしくは普通に楽しく暮らしていこうよみたいな発想っていうのは全然ある。
すごく人間の感情とか感覚っていうのにすごく自然に生きてるというか、感じがするね。
だから、次に目者が下達ってさっきちょっと触れたんですけど、いわゆる精神的なというか、下達みたいなことも、まずは普通に人生の楽しみをちゃんと味わってとか、ちゃんと子供を見据えてるとかっていう、当時で言うと家族、社会的にある種大人として必要な行為をした上で、別に精神的な世界に至りゃいいんじゃない?みたいなこともあるので、考え方として。
なるほど。結婚するとかでもなくってことか。
そうそうそう。そうじゃないと社会回ってこないからね、当時も含めてだけど。みんながみんな出家して、結婚したらダメ、出産したらダメってなっちゃったら、やっぱりそれはそれでないとこないので、普通にちゃんと楽しみを味わって、社会的な当時で言うところの義務を果たして、必要なら精神的なこととか宗教とかも増えたらいいんじゃない?みたいな。
割とそういう考え方が柔軟にありましたってところですね。
なるほど。下達と言ってもまたちょっと違うんだね、義務から。
そうそうそう。で、本当だと次の4番目が目者=下達なんですけど、これも後から加わったみたいな話もあるらしく、本当はこの3つの欲望前で終わってたらしいんだよね。
あ、そうなんだ。
そこに下達っていう目者っていうのが入ってきて、これはどっちかっていうと精神的な豊かさだよね。
前回お伝えした、いわゆる輪廻からの下達っていうのが指すっていうよりも、ある種いろんな束縛からの解放っていう面が強くて、
例えば社会とか他人からの束縛とかもあるし、さっき結婚とか出産って言っただろうけど、そういったものもある種束縛とか縛りだよね。
っていうのが当時からあったわけだね。
多分ね、やっぱりどうしても他人との関係とか、社会に属するってことはある種しがらみにとられることではあるから。
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そっかそっか、家庭だろうが、社会だろうが、地域だろうがみたいな感じか。
そうしたら、自分のアートマンみたいなものを考えたときに、本当はそれは全部一つなんだけど、事故と他者とか事故と社会とかってなるとどんどん分かれちゃうみたいな感じで、
アートマン的な部分として生きられなくなって、生きにくくなっちゃうっていうのはあるので、
この偽脱っていうのは、ただ束縛から解放されるっていうよりは、本来のアートマンとして生きるとか、
人間の本体が宇宙の根本元と一体だっていうことをちゃんと理解して、ある種自覚して暮らしていくみたいな。
ああ、なるほどなるほど。
そういうような境地を話してます。
その家族とかコミュニティを捨てて、どこかに山に籠るとかじゃなくて、自分の認識っていうものを変えることで、そういったものとの折り合いをうまくつけていくぐらいの、
折り合いっていうとちょっと人間っぽいけど、そこは本当に悟ると、フラットな感覚で、同じ状況を楽しむじゃないけども、
不自然な感覚でそういった、縛りと感じていたものの中で生きていくことができるっていうような感覚かな。
そうだね。
インドとかヒマラヤで山籠りするみたいな、とか、苦行とか悟る人って山にいるイメージあるじゃないですか。
あるある。
ちょっとこの人はスキャンダラスな人だから、あんまり思想家としての評価はあれなんですけど、
オショウっていう人がいて、オショウは俗称なんだけど、その人が言ってたのが面白いと思うのが、
ヒマラヤで目覚めているというか、悟っていることは誰にでもできるんだけど、街で目覚めているとか、悟っていることが重要だって話をするよね。
はいはい、なるほど。
山北で一人でいて、人との繋がりを立って、自分に目覚めたとかって言っても、それが別に本当の下達というか悟りではなくて、
こうやって人と交わったりとか、社会にいる中でも自分を保ち続けるとか、
それがアートマンであることが侵されないということが重要だみたいな話をしていて。
なるほど、頭で分かれることとできることは違うぞって話だね、悟りでも。
そうそうそう。
はいはい。
っていうのは、すごい「あ、なるほどな」って思ったんですよね。
そう。
だからこそ、いわゆる世の中を捨てるとか、出家して属性を捨てるっていうのもやっぱり仏教的なというか、後から出た考え方で、
インド人層的には別にそれは求めないというか、別に好きにしたらええやんみたいな。
なるほど、悪いと思いはないしみたいなね。
そうそうそう。
っていう感じで、こんな風にですね、人生の目的が分かれているっていうこと自体は僕からしたら目から鱗の発想で、
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別に人によっては快楽を求めてもいいし、それがむしろその人生の目的だっていう人もいる。
うんうんうん。
うん。
それはそれが本当に自分の目的なのかみたいな確認は必要だし、
うんうん。
それはだから、なんか日々楽しいんだけどちょっと違うとか、なんか食べたり飲んだりして一見幸せそうなんだけど心の底ではなんか虚しいみたいなのがいたとしたら、きっと違うんだろうねみたいな。
はいはい、なるほどね。
だしそれも、でもやんなきゃ分からないもんね、普通に生活してね。
そうそうそうそう。
うん。
まあそういう意味では触れてみるとかやってみるってもちろん大事だし、あとは、さっきもちょっと言ったけど、それを客観的に知りたいんだったら先制術やりましょうみたいな。
うーん、ああなるほど。
ねえ、そうそうそう。
はいはい、あなたはこの星の下にみたいな話か。
うんうん。
この4つのうち、このバランスこうなってますよとか教えてくれるの?
教えてくれる。
ああそういうやつなんだ。
そうそうそう。
僕は完全に牧者とか下達型の人間だってことが判明して、だから自分がこういう手作業とかやるっていうのも、なんか自分のダルマというか、そこまで言うと言い過ぎだけど、自然な好きなことなんだなと思ってやってるっていう感じですね。
なるほど、なるほど。まあ、そっかそっか、さっきね、その現代、やっぱり自由っていう時に指標がない中で、言い悪いんじゃないけど、階層があった時とか、あなたがこう、法廷時代でね、自分の家で職業が決まってるみたいな時っていうのは、こういった概念の中から自分の、その良分で頑張っていきましょう。
自分の転職、生まれた、自分がこの家に生まれたってことはもう転職、天命だから、そこに向かって頑張りましょうっていう、ある意味その道筋ができるわけだよね。その人にとっての、全員にとっての理想じゃなくて、その人にとっての道筋みたいのは多分生まれると。
そうね。 結構今は自由で、その道筋っていうものを誰もやっぱり示してくれないよねっていう時に、あまりにこう、自信がなさすぎる。あれって何が好きなんだろう、自分って何に興味があるんだ、何が楽しいんだ、何に向いてるんだ、みたいなものを、結構ゼロベースで自分が本当に、分かんない。
迷ってる状態で何かにたどり着くっていうのはかなり難しい。 そうだね、そうだね。
で、さっきの引導、先制術みたいなもので、とりあえず正解か不正解か知らんけどって言うと、先制術の人たちというか、には申し訳ないけど、そういう道筋、とりあえず一個何でもいいから道筋を作ってやる、みたいなもので、
だってまずやってみろ、みたいな話でさ、重要だよね、そういった意味で。これが合ってないっていうのがそこで見つかるわけだからね。 そうそうそう。
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別にそれを信じる人もないし、むしろ信じたらやっぱりそれは盲目的になっちゃうから、ちゃんと確かめて、毎回ね、とりあえずこっち、例えば僕が下達型の人間だとしたら、迷走やってみて、迷走楽しい続くなのか、いや、こんなのやっても全く無意味では俺何やってんだって思うのか、分かるじゃないですか。
そういう意味での役立つ感じっていうのがあるのかなと思ったり。 なるほど、そんな感じなんだ、知らなかった。
もちろんね、社会的には自由というか、誰もがちゃんと自分で選択できる方がいいんだけど、やっぱりその選択の自由があるのと、自分に何が向いているかが分かるっていうのはまた別の話だから、難しい時代だよねっていうのは思ってたりします。
まあそうだね、自由を選んだからこそ、さっきのように富が減っちゃったりとかね。 それでもいいのか、やっぱり富欲しいよねっていう方が先立つのかだったりね、ましなないラインまでは稼がなきゃいけないっていう必然性もあったりとか、バランスの中でそれぞれの、
そういう意味で社会全体の答えというよりは、自分一人の答えを探していきましょうっていうのはインド的な感じなんだね。 そうだね。
だから繰り返しになっちゃうけど、誰もが向けたいのは法則とかゲームとか、アルタみたいな物質とかお金とか、カーマって言われる欲望とか、あと下脱みたいな、やっぱり4つあるよって言われると、どれか試してみようとか、
そういうふうな発想にもありやすいから、そういった意味で自分の人生とか目的とかについて向けやすくなるんじゃないかなっていうのは、僕のインド哲学が好きなところだなと思ったりしております。
その感じで前半、人生の目的についてお話ししたんですけど、2つ目は、いわゆる神の定義についてですね。
ああ、忘れてた。 生きる目的っていう話と、神の定義、2つあったね。
これは近代になってからのある発想だと思うんですよ、神みたいなものはね。
でも僕らの、いわゆる日本に、仏教的な感覚の中で生きる日本人にとって、神の概念を信じるのは結構難しいじゃないですか。
これまでインドの話も、リグウェーダーの時代からウッパン・リ・シャットにかけて、神の素朴な神様から、どんどん複雑な神様とか、抽象的な神様に、600年からかけて変わってきましたよっていうふうに言ってきたとは思うんですけれども、
さらにそこが2500年になってるんですよね、ウッパン・リ・シャットの時代から。
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なっちゃうと、やっぱりその考え方っていうのは、いわゆる精神的欲求、いわゆる神話って世界はどうなってるのかとか、
なんで自分たちがここにいるのかっていうのを納得させてくれるストーリーじゃないですか。
はいはい、そうだね。ずっとこう考え続けてたら死ぬからね、ご飯食べると。
そう、そう。 獲物を捕らえられずにね、みたいな。
なんでなんだ、みたいな。なんでこんなもんか、とか思った時に、それは巨人の体を切り分けて作ったんだよって言われたら、一旦それでOKみたいな。
そうだね、そうだね。
やっぱりそれがあるし、その時々の時代の精神的欲求を乱すというか、最低限の納得感がある。
なんかビッグバンとかもぶっちゃけそうなんだよね。ビッグバンっていわゆる、科学的に正しいとされているもので宇宙が始まったっていうのも一つの物語なんですよ。
なるほど、なるほど。
でもそれがあるし、時代の欲求を乱すみたいな話なんだけど、前回お話ししたような、リンネとかゲダツとかブラフマンみたいな話って、
パワーはあるんだけど、その前提は全部信じるのは難しいし、盲目的に信じるべきでもないなっていうふうに僕は思うんですよね。
なるほど、そうか。一元論すごいよねって話はしたけれども、あくまでビッグバンみたいな前提をあっての話ってことなんだね。
そうだね、だからっていうのもちゃんと信じないとというか、ビッグバンなんて人間の妄想で、全ては一元論のウパニショットから始まったんだって言っちゃうと、ちょっと過剰なすぎるというか。
うんうんうん。
それはそれね、やっぱり一個のものにしがみついてるから。
実際ウパニショットにもそういうふうに、盲目的に宗教を信じる人を確かめる言葉があったみたいで。
へー、はいはい。
そういう人たちは精神的に、まだ大人になりきってない子供だみたいな、そういう記述もあるようです。
じゃあ、現在において言語哲学者の人がね、神の概念をどんなふうに定義しているかっていうと、すっごいシンプルなんだけど、言語のない意識こそが神であるっていうふうに言って、
人間から言語を取り除いたものが神だっていうのを、M-L=G、要はマン、ヒューマン-L=ゴッドっていう数式を開発してるのね。
これ開発なの?これすごいことなの?
すごいじゃない?
神の数式で定義しようって発想がなくない?
まあまあ、そうだね。さっきの言語のない意識こそが神であるって思いついて、それで止まるところを数式にしちゃったっていうユニークさって話。
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そうそう。ちょっとね、意味がわからないと思うんで説明はするんですけど、このすごさがね、って話。
ただ数式になんかしただけじゃんって。
前提から説明していきます。台本作る時に僕も思いました。これでは伝わらないって思いましたよ。
まずですね、この考え方の根本には人間と言葉の関係の逆転っていうのがあるんですよ。
どこだかっていうと、すごい不運って顔してるね。
ちゃんと説明するからね。
僕らはさ、まず人間っていうのは先にあって、言葉を道具として覚えて使ってるって思うじゃないですか。
人間が先にあって、言葉を覚えて道具。
そうだね、言葉は確かに。前から話して、頭の中にあるイメージだったりとか、本質的なものを表現する手段の一つみたいな。
一人の赤ちゃんとかで見ると、言葉が使えない赤ちゃんが生まれて、周囲の人の言語環境によって日本語を話せるとか英語を話せるとか何々語を話せるみたいな。
座っていくっていうのが自然の問い方だと思うんですけど、よくよく考えてみると、もちろん個人より先に言葉があるよね。
うん、そうだね。もう社会で言葉使われてるから。
あと、言葉ってのは道具っぽいんだけど、要はハサミみたいに使わないときにはどこかにしまっておくことはできないんだよね。
そうなんだ。
例えば、おそらくちょっと試してほしいんだけど、皆さんも試していただきたいんですけど、目を閉じて何も考えないようにしてみてくれます。5秒くらい。目を閉じて何も考えない。
はい。5秒くらいだといいかもしれないけど、でも何らか言葉出てくると思うんだよね。何でこんなことやってるんだろうとか。
今ね、確かに今ね、1、2、3、4、5って数えた。
そうそう、言葉が出ちゃうのよ。だから人間は5秒ですら言葉を脇に置けないの。
面白いね。確かに5秒目を閉じてくださいって言われたら、5を数えちゃったもんな。
そうそう。やっぱりそれは止めようと思っても止められないっていうのが言葉の特徴で、だからこれじゃあやっぱり人間の意思で言葉を道具のように扱ってますみたいには到底言えないんだっていうのがこの本にも書いているのね。
つまり言葉っていうのは、ある種その辺の道具、例えば鉛筆でもハサミでもいいんだけど、そういうふうに人間が自由に意識的に扱えるものなんじゃなくて、逆に言葉が人間の心とか体を動かして世界を作り出しているんだ、ぐらいのことをインド的には言います。
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はい、はい、なるほど。
そう、つまりさっきマンとラングレッジ、要は人間とこだわっているのを別のものに勝手にしてたじゃないですか、数式でm-lって言ってるんだから。
うん。
それってよくよく考えたら不思議なんだよ。別に人間がいるから言葉もあるし、人が言葉を喋るから言葉ってのがあるんでしょって思うんだけど、そうじゃなくて、人間の世界と言葉の世界っていうのは別々にあって、それが結びつくと、いわゆるこの世の中が浮かび上がるよねみたいな発想があります。
うんうんうん。
ただその世界っていうのはもちろん個人のバイアスがかかっているから、世界の真理を見てるわけじゃないんだよね。
むしろその世界と自分が二分されるみたいなことが起きちゃって、言葉を使うことによって。
うんうん。
それが二元論的な世界に陥っちゃうっていうことなんです。
なるほど、でも言葉を使っていること自体が二元論的なんだね、既に。
そうそうそうそう。
はいはい。
なので、その言葉っていうのを人間の意識からなくすとか、思考からなくすっていう、要は言葉が一切湧いてこない状態になれば、一元論的な世界というのを直感することができて、実はこれが瞑想だったり、禅だったり、座禅だったり、ヨガなんですよね。
ヨガもそうなんだね。
ヨガもそう。ヨガはその静寂というか、静止ってことを意味するから。
へー、あ、そうなんだ。
あれは体の静止を基本的には今はやってるけど、エクササイズ的にはね。
うんうんうん。
本当は思考を静止するっていう目的から出てるものがあったりするんだよね。
なるほどね、そのための体ってことか。
そうそうそうそう。
さっき言ったようにMとLがあるから、まずMの方をこういう風な形にすることでLの方を整えましょう、整えるというか、同じように静止させましょうみたいな。
そうそうそう。
Lの方を体のままからちゃんと扱っていきましょうみたいな話か。いきなりLのとこできないからみたいな。
まさにまさにそういうこと。
アクセスできないから、普通は。
そうそうそう。
はいはい。
身体を全体制御しようとすると、そっちに意識が向くと言葉から離れるというか、言葉を意識しなくなるみたいなこともあったりして。
はーはーはー、なるほど。
うん。
なので目的はあくまでも思考の働きを収めて言語を超越すること。
だから、ちょっと第一回に言ったかもしれないんですけど、マインドフルネスって最近ね、ちょっと前かもしれないけど流行ってるじゃないですか。
うんうんうん。
だからあれも座禅的なことではあるんだけど、心身を落ち着かせて生活を豊かにしようみたいな、生きるためにとか仕事をより良くやるために、心を落ち着かせようとかっていうのとは全然次元が違うんですよね。
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なるほど。次元で言うとこのぐらいの話をしてるってことか。
M-Lの話をしてると。
M-Lの話をしてる。だからどっちが良いとかじゃないんだけど、目的が人間の世界を豊かにするためにやってるのか、神の世界に至るためにやってるのかっていうのが全然違いますよ。
うんうんうん。
うーん。
そっかそっか、その感動伝わってきた気がするね。
なるほど。
そうそうそう。
はいはいはい。
そっか。確かに言葉で言うより数字した方が端的にその感動が伝わる気がするね、確かにね。
そうなんだ。これがM-L=Gなんですって言われると、はぁーみたいな、すげーってなったんですけど。
なので結構この本にもそういうこと書いてあるんですけど、いわゆる過去の賢者っていう人たちとか、悟ったっていう人たちはこの状態に至った人たちだっていうふうに言うのね。
はぁはぁはぁ。
だからみんな言ってることは違うんだよ、ちょっと。
例えば、そのリグベーダの聖人とかが「私は自由自在を達成した」みたいなことを言ってたりとか、
うーん。
あとはブッダは「ネハに到達した」って言ってたりとか、
あとキリストは「私と私の父は一つだ」みたいなことを言ってるんだけど、
うんうんうん。
これは全部結局、言葉の働きっていうのを超えて、自分と世界は一つだっていうことを体験したんだっていうことに補うことなりませんよね。
うーん、なるほどね。ここでキリストも出てくるんだね。
そうそう。
それはちょっと面白い。
うん。やっぱり近代の人だから、キリストとか他の宗教も含めて全部、そういう実体験を言葉にしたときに、
言葉は違うんだけど、起きてる事象は一緒だって言ってるんだよね。
はいはいはい。
だから、人は言語を超越した。
だから、これはその人の主張なんだけど、この体験を共通することができるには、
人から言語を払って、一元論的な世界に行くっていう体験をみんながちゃんとしたら、
それが本当の意味での普遍的な宗教とか世界平和に実現なんだっていう、
その実現に繋がるっていう手段なんだっていう風に考えてるのが、近代のインド哲学ですと。
うーん、なるほどね。はいはいはい。
そっか、言葉の限界性みたいなものをそうやって表現してくれてるんだね。
そうそうそうそう。
はいはい。だからコミュニケーションっていうものを、Lじゃなくて、Mの次元で、
そのコミュニケーションさえできれば、そういった争いだよね。
あー、そうね。
そういう表面的なL、言語レベルだったりとか、
うん。
その対立っていうものは、本来解消できるはずみたいな概念だったりとか、
本当の意味での対立軸っていうのは、Lレベルじゃなくて、
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どこに対立してるかっていうのは見えてくるよねっていう話に近いのかなと思ったね。
いや、そうです。
すごい、本当にそうで、やっぱりその世界平和とか、やっぱり戦争の際、経験とか苦い記憶があるから、
それはなぜ起こってしまったかっていうときに、もちろん科学的にとか国際重役とかでやるっていうのもあるんだけど、
そもそもみんなアートマンでありブラックマンなんだから、本来一緒だと。
はいはいはい。
そこに言語とかっていうLみたいなものがついてしまって、それぞれの宗教とかを立ち上げているっていうことが、
やっぱり対立の原因だとするんだったら、それはやっぱり頭ではもう解決できない。
はいはいはい。
絶対にその共通理解っていうのは頭ではできないから、その体験とその一元的な世界を体験するとか、
言語を超越した世界を体験するっていうその共通レベルの体験から理解し合うっていう方が、
その道筋としていいよねっていう、そういう提案なんだよね。
うんうんうんうん。
だいたい逆にね、理解しられないよねっていう話にもやっぱ、なりそうだもんね。
そうそうそうそう。どこまでやっても。
だから、やっぱり善の男でも言ったように、悟った人の言葉っていうのは悟った人にしかわからないっていうのはそういうことなんだよね。
うんうんうん。はいはい。
オーダーメイドだし、その人の言葉だしみたいな話だよね。
そうそうそうそう。
言葉をやっぱり超えているから、それを仕方なく言葉でやっぱりやり取りしているっていうことがちゃんとわかっているとか、
人に対してだったら言葉でしょうがなく届けているみたいな世界だから。
うんうんうんうん。
これが、いわゆる言語を超越した非言語的で一元論的なインド哲学の主張になるっていうことで。
なるほどね。そっか。うん。なんか最初の感動は伝わった気がするし、
確かに言葉がハサミとは違ってしまえないみたいなのを最初聞いたときはいまいち意味がわからなくてピンとこなかったんだけれども、
確かに今善の話が出たけれども、前あったじゃん。悟りとは何ですかみたいなときにさ、
目をパチパチしてもいいし、目をパチパチしなくてもいいみたいな話があったと思うんだけど、
言葉もそっち側なんだなっていう意味で、言葉は道具だと思ってたんだけど、
言葉もかなりその、そういうね、瞼とか呼吸とか近い感覚で、
自分はコントロール、これはどっちかというと瞼とかとは逆で、自分はちゃんとコントロールしてると思い込んでるんだけれども、
実はその無意識的な部分、パチパチしちゃってる部分ってかなりあるんだろうなっていうところを、
なんかね、想像してなかったなと思った。
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そう。
うん、面白いね。
ほんとそうで、そこにやっぱ気づくと、こうね、仏教への道が開けるというか、
やっぱりちゃんと瞑想をして、自分じゃない言葉が勝手に自分の中で飛び回ってるものを沈めようとか、
ちゃんと自分の思考を自分で扱うようにしようっていう、そもそも自分の思考を自分が扱えてないって思わないから、課題感として。
はい、そうだね。
そこに気づくと、そこに対処できるっていう意味で、すごく実は生きるのが楽になるんですよね。
あー、めっちゃ面白い。そっか、そうだよね、さっきの目パチパチ的な感覚がないと、
M-Lみたいな、MとLが分かれてる状態だよね。
そこが分かれていない状態だと、言語っていうものを、その、もう使える前提で、もっと上手くなろうみたいな。
そうだね。
上達してやろうっていう方にしか目が向かないよね。
うん。
そもそも使えてるんだろうか、みたいな、思ってないから。
うん。
そのアプローチがやっぱりなんか、言語的なムチのちというかね、話なんだね。
はい、そういう感じで、今日ね、かなりちょっと深いところまで話したので、なんかこう、深いっていうのは、そういう言葉とか、
意外と実は気づいてないけど、みんな言葉に操られてるんだぜ、的な話をしたんですけど、
でもやっぱこれは僕すごい、ソロ哲学とかインド哲学やっててよかったって思った発見で、
うじうじ考えることがなくなるんだよ、本当に。これやってると。
うん、はいはいはい。
でもまあ、うじうじ考えたっていう自動的に思考が出た時には、これは自分の思考じゃないというか、これは自分の言葉じゃないから考える必要がないっていう風に、
訳に置いとけるんですよ。
はいはいはい、なるほど。ちゃんとそこを分けられるってことはね、自分の本質的な、本性的な部分と、
出てきた言葉だったり、感覚だったり、その思考も全部言葉だから、自分にもうすでに湧いてきた、
自分が認識した、その迷いだったりとか、これちげえみたいな、うじうじした感じっていうのすらもう、
一旦客観的に見るっていう、スタート地点に立てるんだね。
そう、面白い。自分の中に湧いてるもんだけど、これは自分のものではないっていう発想になれると、
それなんか、明日どうしようとか、なんかこれいいんだっけみたいなのも、ただこれ自分の気持ちが弱ってるだけだから、一旦置いとこうみたいな感じできるので、
すごい楽に、例えば生きたりできます。
それともマインドフルエンスチップなんだけどね。
なので、もし今日の話聞いて、ちょっと興味あるみたいな人は、たぶんね、身近なマインドフルエンス講座とか、
瞑想本とかっていっぱい今出てるので、ぜひそういうの試してみていただいてもいいのかなって思ったりします。
おー、そうなんだ。今日はそういうのをむしろ進めちゃう回なんだね。
45:03
そうだね。普通に瞑想とかやる分にはたぶん大丈夫で、
なんか、たぶんそれちゃんとした本を選べば書いてると思うんで、あんまりやりすぎちゃダメだよとか。
あー、はいはいはい。なるほどね。そういうなんかね、ほら、やっぱ素人からするとさ、これ申し訳ないけど、ちょっと怪しさを感じちゃう。
そういうセミナーとかやってるとさ、例えば「印度先生術講座」とかって言った時に、これすごい申し訳ないんだけど、
あの、行かないよ。行かないね。そりゃそうだ。行かない。
で、「マインドフルエンス講座」店員30名で無料ですとか、1人1500円ですとかってさ、
で、「なんとかなんとか」あの、「教会はなんとかさん」とか「株式会社はなんとかさん」みたいな人がやってたとしていけねーなーみたいな。
確かにね。
なんか、そうね、もしなんか、ハヤト的におすすめな本とかあったらむしろ紹介してほしいな。
もう、特化解になさすぎて。あとはまあ、ごめん、申し訳ないけどね、全然そんなことないっていうのが、この話を聞くとわかるんだけど。
でも、おっしゃる通り、セミナーとかに行くのはちょっとハードル高いし危ない可能性もあるんで、当たり外れもね、多分あるから。
ちょっとなんか、次の雑談で、こんなのは本としておすすめですよとか、ちょっとご紹介したいなと思うので。
もしかね、あれば、そちらも聞いてみていただければなと思います。
はいはい、了解です。
今回はやっぱり、ハヤトがお得意の、というかね、仏教、インド哲学、東洋思想っていうところだからね、だいぶこう、そういう熱度をこもったというかね、また、
ハヤトの実体験だったりとか、ハヤトの感覚に即した話みたいなものでね、聞いて面白かったなーってのもあるし、
次はこう、テーマとして、この前ほら禅やって、今回インド哲学やって、次はまた西洋に戻るのかな?
そうですね、そうだな。次に行くともう一回西洋に戻って、サルトルをね、ちょっとやりたいなと思ってまして、
はいはい、サルトル。
はい、まあ兄貴がね、読んで土設したっていう実存主義の優みたいな人ですけど、禅をやる前にさ、キルゲゴールとニーチェやったじゃないですか。
で、なんとなく実存主義の走りみたいな話までやったと思うんですけど、そもそも実存主義って何でみたいな話をしていなかったなと思って。
うんうんうん、まあそうだね、全然わかんない。やっぱりわかんない。
サルトルを話すとその次にレビストロースって行動主義の人の話もしやすいし、そこから行動主義的なとかポスト行動主義的なことまでちょっとガーっていけるかなと思うので。
なるほどなるほど、それちょっと縦の流れってことだね、西洋哲学ね。ニーチェから先の縦の流れみたいな。
48:03
その横にはね、いわゆるフッサル的な幻象学みたいなところとか、あと何があるかな、フロイトの精神学みたいな。
はいはい、そういうのも哲学的なのも始まってた。
でもやっぱりそういうところから、ラカンみたいな人だったりとかそういう流れも出てきてたりするので、ちょっとその人たちも触れていけると、よりよりツラジオが豊かになっていくかなっていう感じですね。
はいはい、じゃあそうなんだね、やっぱりあれだよね、何回かにわたって前のニーチェ、キューティングゴールニーチェの時は、西洋的な感覚にどっぷり使って、
犠牲とは、自由とはみたいな感覚に陥ったけど、やっぱり面白いね、こうやって遠いように、禅と印度哲学古代をずっと使ってくると、ちょっとやっぱり無情感じゃないけどね、その一元論的なね、
やっぱり自分の本質にアクセスしていくみたいな、言葉とは無意味であるというか、そこに気づけみたいなね。
でもね、今回最後あったけど、やっぱりブッダもキンストも、ある意味M的な、人間的なね、MとLがあった時のM的な感じで言うと同じ体験をしてそうだみたいな話とかね、
そういう繋がりみたいなものも、やっぱりこれはなんか、どっちも聞いてる?聞かせてもらってるからこその感覚?
そうだよね。
っていうのもあるのかなって思うから、いやーなんか、ちょっと次のこの触れ幅、やっぱでも使えない、使えないというか、結構頭使うかもね。
いや、そう聞いてる頭もね、使えないと思うので、あのー、まあ、でもね、なのでこう、ぜひ穏やかにというか、落ち着けるタイミングで聞いていただきたいと思うんですけれども、
でもちょっとこの触れ幅もやっぱり、ソイレツラジオの面白さというか、ちょっとね、味にしていきたいなと思っているので。
うん、そうね、わかりました。じゃあ、一旦ね、じゃあ、移動哲学編終了というところで、また次回ちょっと雑談を挟みながらまた西洋へ向かっていこうというところで、はい、じゃあまた次回以降、引き続きよろしくお願いします。
よろしくお願いします。ありがとうございました。
(♪ BGM)