ゴルギアスの批判
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、前回はソフィストのゴルギアスがどういう人とかというところを見てきたんですけれども、今回そのゴルギアスがあれですよね、今でいう哲学者側のパルメニデスたちを批判したと。
なんかそういう本を出したんですよね。
そうですね、はい。パルメニデスたちというよりは明確にパルメニデスの発想というものを崩そうとしたみたいな感じらしいんですけど。
エレア派だっけか。
そう、エレア派ですね。
パルメニデス、え?みたいな感じなんだもんね。
多分ね、そうらしい。そう読み解けるって感じなんですけど。
パルメニデスさんが何かっていうのは前回に少しだけお話ししたんですけれども、もうちょっとお伝えすると、
あるものはあり、あらぬものはあらぬみたいな、そういう命題をね、結構立てた人なんですけど。
発想としては、あるっていうのは結構唯一で普遍だとか、
逆にないものっていうのは考えることすらできないから、もうないものはないんだみたいな。
えー。
ごめん、今突っ込んじゃった。
えーってどういうこと?
だってさ、ないものは考えることすらできないって話してる人たちがさ、その弟子だけどゼノンがさ、
アティエスとカネみたいなさ、発想するんだな、なんか矛盾してねえかなってちょっと思ってしまって。
逆に矛盾を扱ってるっていう感じだね。矛盾の中に真理があるとまでは言わないけど、
そのぐらい矛盾っていうものに大事なものがあるっていう発想自体はあるらしいんだよね。
詳細聞く前にね、ちょっとは、前回の話から、えへっと思ってね。
これはある種、今言ってくれた通りで現実を無視するというか、現実的には亀と人間が競争すれば人間が勝つでしょうだし、
前回の話で言うと、壁の端から端まで歩こうとしたら反対の壁にたどり着くんだけれども、
そういうことをある種逆に言うことで、考えを深めさせるというか、
そういうところに目を向くさせるっていうのがある種エリアからやってきたことなんだよね。
ただ当然ね、今の意見はふーんって言った通りで、これは当時の人も多く反対意見を出してるわけですよ。
そうなんだ。
うん、当然当然。
じゃあああじゃないこうじゃないってやってるんだけれども、結局ちょっと引いてみると、
俺の方が真理だとか、お前の真理は間違っていてこっちの方こそ真理だみたいな感じで、
結局は論のぶつかり合いなんですよね。
だからちょっと距離を取ってみると、いろいろ言ってるけど結局どれも同じじゃないとか、
結局見えてないところあるくないみたいな、そんな話になっちゃいますよ。
なので今回ゴルギアスとソフィスの話をするんですけれども、
ある種のちょっと違うアプローチを取るんですよ。
どういうことかというと結論から言うと、要はこっちが真理だとかってことは言わないんだよね。
ただ、ある種パルメイデスがあるはある、ないはないとかって言ってるんだけど、
それをどういうふうに、その論理からある種感想を膨らませると、
真理の探求
結局何物もないよねっていうことにたどり着かないですかっていうことをパルメイデスが言う。
あるはある、ないはないってパルメイデスが言ってるんだけれども、
その考え方を変えると、何もないっていうふうになりませんかっていうことをゴルギアスは言ってるんですよね。
なんかあれだね、空海してるね。
なになに空海?
空海してるね、これはね。
ちょっとその動詞分かんないんだけど、僕。
ゴルギアスしてるねって前回教えてくれたから使ってみたんだけど、さっそく。
空海するじゃないよ。
確かさ、空海って信号衆だっけか。
信号衆、うん、あってます。
ほら、他のなんとか衆は第一段階で、なんとか衆は第二段階で、
自分がやってる信号衆こそ第八段階ってか、
十段階ね。
十段階みたいな話してたじゃん。
そういう感じでどれを否定するでもなく、
全部包み込んでいって、
で、その上で自分が一番ジャイみたいな、
厳害人なのか、
そういうことね。
主張してるのか分かんないけど、
それを空海するっていう。
なるほどね、そこまで言われれば分かるかもしれないし、
ちょっと違うっていう。
しかもね、空海って多分ね、
ゴルニアスもだろうけどさ、
そういうすごい人たちを同心してやるとさ、
多分いろいろやってるから分かんないよね。
今どの意味で空海を使ってるか。
どれの空海?みたいな。
筆が上手いってこと?みたいなね。
確かに近いのは、
相手は真正面から否定するっていうよりは、
あなたもいいですよね、あっちもいいですよね、
でもうちの方がすごいですみたいな感じが多分あって、
やっぱりパルメンデスの論理っていうものあるし、
踏まえながらも、
でもそれが破綻してることを示すみたいな、
そういうアプローチなんですね。
だから逆に言うと、
ゴルギアス自身は何も、
新たな真理は別に提示しないんだけれども、
別に提示しなくていいんですよ、
ソフィストだから。
っていうふうな話を持って、
ゴルギアスはそれを論じていくんだけれども、
どういうことを主張してるかっていうと、
大きく3つの命題っていうかテーマに分かれてますと言われていて、
1つ目がさっき言った、
何者もありはしない。
要はないよっていう話。
2つ目が、
もしあるとしても人間には認識できませんっていう話で、
3つ目が、
もし認識できたとしても、
その認識っていうのは他人に伝えることができません、
っていうふうなものなんだよね。
この3つを伝えていくことで、
存在の議論
何もないじゃんっていう話をしていくんだけれども、
これをどんなふうに伝えていくんですかっていうのは、
今回お伝えしていきたいというか、
みなさんと見ていきたい話なんですよ。
これ先にお伝えしたりして、
前回もお伝えしたんですけれども、
正直ロジックだけで言うと破綻してる部分もあるんですよね。
このゴルギアスの話もね。
ゴルギアスの話は。
前回もちょっと言った通りで、
例えば裁判において、
そもそも無謀とか裏切りができないんだったら、
論理的には意図とかを言う必要はありませんっていう話だと思うんですけど、
これも一緒なんですよ。
要は何者も本当にないんだったら、
わざわざもしあるとしてもとか、
もし認識できたとしてもっていうふうに、
別に過程を重ねる必要ってないんですよ。
重層論法を3回やってんじゃんみたいな。
そうそう、3段階なんだよね。
ただこれをやることで、
いかにパルメインディスとか、
そういう人たちの話っていうのが滑稽かというか、
ロジックってのはおかしいかっていうことを主張しようとしてますって、
っていうふうな話らしいですね。
なるほど。
これで面白いのはやっぱりゴルディアスが、
パルメインディスにそれを伝えるだけだったら、
もっとシンプルでよかったかもしれないんだけど、
たぶんわざわざ本人もしてるってことは、
やっぱり広く野獣馬みたいな人たちだよね。
哲学者的な振る舞いをしてない人たちとかにも、
理解できるようにしてるっていう感じなのかな、これは。
そうだね、そうだと思う。
そういうふうに受け取ったら、
そういうふうに考えたほうが受け取りやすいよねって思って、
結構最初すごい苦労したんですよ。
台本作るとき、読んでたときに、
ゴルディアス何言ってんのか、何やってんのか全然わからんって思って。
この本何のために書いたの?みたいな。
そうそう、結局何言ってんのって全然わからなかったんですけど、
目的がいわゆる真理を明らかにするってことじゃなくて、
単純にパルメイディスが言ってることを論破してやろうっていう、
そういうことだとするとある種受け取りやすいというか、
別にゴルディアスのロジックが正しいかどうかじゃなくて、
パルメイディスのあるはある、ないはないみたいな、
っていうものを考えたときに、
それって破綻しちゃうよね、時効矛盾しちゃうよねみたいな、
そういうことを明かすものとしたらすごいわかるというか。
なるほど。じゃあ、ハイト的にこのゴルディアスの本を読もうとしたときに、
この何者もないってことを論証しようとしてるんだっていうふうに読んじゃうと、
なんかちょっと迷うみたいな感じなのかな?
とか、全然いや、穴だらけじゃんみたいなね。
これで納得するのかって思ったんだけど、そうじゃなかったっていう話なんですよね。
なのでちょっと皆さんも納得できない部分もあるかもしれないけれども、
一旦聞いていただければっていう話でこの後話していくんですけれども、
まずね、1個目の何者もありはしないっていうテーマなんだけど、
これって明確にパルメイディスのあるものはあるっていうものと対立してるんですよね。
なるほど。
だってあるってことをパルメイディスが語ってるわけだけれども、
グルギアスは何者もないんだっていうふうに言ってるわけで、
これは否定してるわけですよ、その頭から。
これはどういうふうに考えていきますかっていう話なんだけれども、
グルギアスはやっぱりソフィスト的とかなんだけれども、
やっぱり過程から始めるんですよね。
もし何かがあるとしたらっていうことを言い始めて、
何かがあるとしたら、それはあるものがあるかないものがあるか、
あるものとないものの両方があるかのいずれかですよねと。
これ耳で聞くとちょっともう忘れちゃうよね。
難しいよね。
あるものがありますという1つ目、かないものがありますという2つ目、
あるとないの両方があるかという3つ目。
あー、そっかそっか。オッケーオッケー。
グルギアスが言うには、パルミニディスが言うところの、
あるものがあるっていうことを考えた場合、
あるっていう状態はこの3つに分けられますよねっていう話をしてるのかもしれない。
もうついていけないや。
難しいよね、難しいよね。
耳で聞くのめっちゃ難しいと思うんですけど。
ゆっくりいこうって。
はい、そうですそうです。
その3つになりそうっていうのはなんとなく良いかなと思うんですよね。
一番分かりやすいのはないものがあるじゃないですか。
嘘でしょ。
分かりやすいっていうのは、これは明らかにおかしいよねっていう話。
びっくりした。
いきなり一番変なこと言い始めてると。
ごめんごめん。
それを知りづければ、もし何かがあるとしたらこの3つなんだけれども、
この3つ全部おかしいよって言うと、やっぱりないじゃんって言うわけだよね。
なので一番おかしいって言いやすいないものがあるっていうところから始めますと。
これも明らかにないものがあるっておかしいじゃんっていうだけじゃなくて、
ここもちゃんと論章とか考えていきましょうと。
一番否定しやすいないものがあるってところから始めていくんだけれども、
一応言い分としては、ないものがあるとしたら、
もうそれってあるじゃんと。
それってないっていう言葉からしておかしいよねっていう話を踏まえて、
やっぱりないものがあるっていうのはおかしい。
だからこの2番目っていうのはないよねっていう話をします。
一番分かりやすく矛盾してるよねっていう話。
そうそうそう、そういうことです。
なのでこれで矛盾で、ないものがあるっていうものは今シリーズを送られましたと。
だからまずこれはないよねと。
これはないよねと。
この仮定はないよねと。
3つのうちこの1つはまず無し。
2番目は無しですと。
次は1番目のあるものがあるなんだけど、
これはさ、でもあるでしょって思うじゃない。
リンゴが例えばテーブルの上にあるはあるよねって思うね。
そうそうそう。
パルメニデスの存在論
これも無しっていうところを考えましたって話なんだけれども、
あるものがあるとしたら、
それは永遠であるか、そうしたものであるか、
永遠でありかつそうしたものである、
っていう風に分解してくるんですよ。
これはちょっと普通に考えるとおかしいんだけれども、
パルメイネスさんはさっきお伝えした通り、
あるものは普遍だとか、
あるものは変化しないっていうことを考えてるんですよね。
その前提にしてる。
その前提があるので、
永遠かそうしたものか、
両方のどっちかだっていう風に言います。
だから本当に純粋に無から、
あるってなんだってなった場合、
ミーシーではないんだけれども、
パルメイネスの主張に対しては、
この3つで足りるって話なんだね。
足りるであろうという風にゴルギアさんは言ってるんだよね。
まず兄貴が言ってくれた通り、
無いっていうものを論争しようとすると、
本当にいいんだなんだけど、
パルメイネスさんを批判しようとしてると問われると、
確かにこの3つでいけるかなっていう風に理解できるかと思います。
もしあるものが永遠であるとしましょうと、
これはパルメイネスさんが普遍だと言ってるかっていう話なんだけれども、
そうすると、
それは永遠っていうことは、
要は無限っていうことじゃないですか。
ということは、始まりも終わりもないっていう話になりますよね。
これ時間の時に神は永遠であるみたいな話をしたと思うんですけど、
要は神がいつからいたのとかって質問するのはそもそもおかしいみたいな。
それって通常人間の時間という範囲を超えてるから、
神がいつからいたとかっていうのは質問としておかしいんだとかって話をしたと思うんですけど、
そういう発想もちょっと踏まえてるんじゃないかと思うんだけれども、
グロギアスさんって、
もし仮に無限あるものがあるとしたときに、
それが永遠だとした場合に、
最大限の広がりを持ちじゃないですか。
でもそれがどこかにあるものがあるとしたら、
必ず何かの内側というか、
ある場所とか時間においてあるはずなんだよね。
っていうときに、
この最大限の広がりを持っている存在っていうのは、
そもそもどこかにあるとは言えないよねと。
だってそれを包むっていう、
場所とか時間という概念があるというものを規定するわけだから、
それをある種超えているというか、
そもそも場所っていう概念とかともほぼ同じぐらい、
永遠とか無限っていう概念があるとしたら、
それってあるっていうのはおかしいよね。
というふうに主張するんだよね。
え、すごいね。
もう無限とかって概念をここまで捉えてるというか、
すごい上からっぽい発言の強さ。
そうそうそうそう。
すごいね。
そうなんです。
なのであるものが永遠だとしたら、
ゴルギアスの批判
あるとは言えませんと。
すごいね。
というふうに言って、
あるものは永遠じゃないよねっていうふうにまず説明しますと。
すごいね。
だからあるように見えるけれども永遠って、
それって結局訳がないから、
捉えようがないからないと一緒じゃんみたいな話になるのか。
そうそうそう。
そうなんです。
結構面白いでしょ。
すごい。
次に生じたものである。
これはありそうじゃない。
あるとしたら誰かが作ったとか生まれたとかっていうのはありそうじゃない。
だからこれもさらに分解していくんだけど、
もし生じるとすれば、
それはあるものから生じるか、
ないものから生じるか、
その両方かっていうふうにまた考えるんだよね。
両方。
両方。
あるものとないものの両方から生じるっていう。
要はこれも抜け漏れがないように言ってるだけなんだ。
分かる分かる。
このパターンにしたほうが読むほうが分かりやすいというか、
リズムの話だよね、前回のインオフみたいな。
そうそうそう。
3つに分解してそれぞれ考えていくっていうのは結構多様しておりますよと。
いい感じなんだけれども、
それこそね、
あるものから生じたかないものから生じたか、
それこそ宇宙の始まりってなんだみたいな話で、
宇宙の始まりって無だったのか有だったのかみたいな話あると思うんですけれども、
ゴルギアンスはね、この両方をやっぱり知り遂げちゃうんですよね。
どういうことかっていうと、
あるものからあるものが生じるとかって一見ありそうなんだけれども、
あるものがあるとしたら、
それはすでに生じているものじゃないですか。
なので、生じているものからさらに生じるっておかしくねっていうふうに言うんだよね。
ちょっとここは若干理解しにくいし、
僕も本当に信じるかって言うと難しいんだけれども、
要は、
あるものってもうすでに生じているものですと。
だからそれっていうのは、
生じるっていうその瞬間っていうものを捉えられませんよっていう話に近いと思うんだよね。
だからニワトリが卵を産んだ時に、
卵が生じたってうちらは見てるんだけれども、
突き詰めると卵イコールニワトリであって、
別に卵が生じたわけじゃないよねっていう。
だから元々卵は生じたんじゃなくて、生じ続けているよねみたいな、
すでにあったよねって言える。
パッと出てきたものじゃないよって。
本当その通りだと思う。
だから、まさに卵とニワトリって全然違うように思ってるけど、
そうじゃないよねって話に近いかな。
でもすごい、本当だと思います。
それであるものから生じるってものが知りづけられて、
次にないものから生じるって言うと、
当然ないものは何かを生じていることはできません。
なのでないものから生じることもないから、
あるものが生じたものであるってものも知りづけられるんだよね。
最後に永遠でありかつ生じたものであるみたいな話っていうのも、
永遠から出るってもないし、生じたものであってもないっていうことからするとないよねと。
こういうふうにして、ゴルギアスはあるものがあるってものを、
あるものは永遠か、生じたものか、両方かっていうふうに分解したんだけれども、
全部を知りづけましたと。
なるほど。ちょっとここは無理やりな気がするし、
ちょっと重層的な感じがするけどね。
でも一応その話からすると、
あるものがあるっていう命題もそれは当然知りづけられますよねっていうふうな結論なんだよね。
ちょっと奇妙なんだけれども、
パルメディアスのロジックっていうのは否定するためっていう意味で言うと、
まあ確かにそういうことも言えそうだよね。
要は一応ロジックっぽく分解して、
それは全部間違いだってなったら、
大元の命題も間違いだっていうふうになりますよっていう話でございます。
なのでこれで、ないものがあるっていうものも知りづけられて、
あるものがあるっていうものも知りづけられましたと。
そうすると最後の、あるものとないものの両方があるっていうことにいくんだけれども、
これもそもそもないものはないから、あるとは言えないし、
あるものとないものじゃ両方の性質を持つみたいなそういうものがあれば、
あるとないとはまた違うからいけるんじゃないかとかって考えても、
それも結局、あるとないってそもそも同じ属性として一つのものが持てるっていうのは無理だよねと。
だからその両方のものはないっていうふうに考えると、
あるものはなかった。
要は、あるものがあるって考えたんだけど、それはもう全部否定されちゃったから、
やっぱり何ものもないんだっていうふうな結論になるよねっていう話をするわけなんですよね。
認識の限界
果たしてこれに納得感がありますかどうですかって話なんだけど。
はいはいはい。
どうだろう、ここまでの話を聞いて。
はい、だからハイトが言った通り、これが真偽の話をしているのであれば、
そもそもねっていうところはあると思うんだけど、
でもそのパルメニウスの前提だよね。
土台を崩すっていう意味では、
パルメニウスがこれに対してあるっていうところの定義をきちんとしないと、
ちゃんと崩されちゃう危険性は十分にあるのかなっていうのが考えたね。
まさにその通りで、やっぱりパルメニウスの主張っていうのは、
まさにあるものがあってそれは普遍とか永遠であるっていうものを含むわけなんですよね。
例えばゴルギアスのある種批判に対して反論しようとしたときに、
じゃあ例えば永遠なんてないじゃないですかとか、
永遠ってあるって言えるんですかとかって言われたとすると、
やっぱりパルメニウス側としては結構苦しくて、
実はあるものは永遠じゃなかったんですっていうか、
そもそも永遠っていうものの捉え方が違うんですっていうふうな感じにやっぱり言わなきゃいけないよね。
そうだね。だから無限だったり永遠っていうものを、
パルメニウス自身がこの概念を、
あ、やべ、これどっかから入ってきた概念だった。
自分の中でちゃんと咀嚼してなかったって多分気づくか、
もしそこまでやってるとしたらきちんと反論できるだろうねっていうような、
結構厳しいツッコミではあるっていう感じだと思います。
うん、そうなんですそうなんです。
なのでやっぱりこのパルメニウス側、哲学者側からすると、
要はウルギアさん新しい論を出してるわけじゃないから、
逆にやっぱり厳しいというか、
あなたのパルメニウスさん側の考えを受け取ると、
こんなふうにも言えちゃいます。要は、
何物もないっていうふうに言えちゃいますけどどうですかっていうふうな批判だから、
結構嫌だなって思うんだよね。
そう、敵にはしたくない。
そうそうそうそう。
逆に言うとソフィストとしては優秀だよね。
敵にしたくないって思われるソフィストや連合してめちゃめちゃ優秀じゃない?
っていうふうに考えると、やっぱりそのウルギアさんのアプローチって言って、
正しいというか、やっぱり力があると思うんだけれども、
逆にね、こういうアプローチっていうのはある程度虚無主義というかさ、
やっぱり相手のロジックを内側から批判するみたいな人って、
やっぱりこうなんか、会議論者みたいな、
何でもありじゃなくて何でもなしみたいな発想になっちゃうから、
そういうふうな感じで結構思われることもあるし、
実際ね、ゴロゲオ自身なんかいろいろ言ってるけど、
結局なんかね、何も自分は言ってないじゃないかと。
ちょっと建設系なことがあるかと思ったらないじゃないかって、
やっぱりいろいろこともあるんだけれども、
やっぱりね、それだけじゃない営みがあったんじゃないかというところを、
この後お伝えしていこうと思っておりますと。
で、これもあるし、最大限ゴルギアに好意的に寄り添えばって話はあるんだけれども、
今はさ、1個目の何者もないっていう命題について話じゃないですか。
で、ここからちょっと2個目と3個目、どんな命題だったかっていうと、
もしあるとしても人間には認識できないっていう話と、
もし認識できたとしても、その認識っていうのは人に伝えることができませんっていうふうな命題でしたよねと。
そこは続くのか、はいはい。
続きます続きます。
ここからがね、実はゴルギアって僕が一番面白いと思ったところなんだけど、
やっとここまで来たんですけど、
何かって言うとね、これちょっとさ、よくよく考えるとおかしくって、
その3番目にさ、言ってるのが認識できたとしても、
その認識は人に伝えることはできませんって言ってるじゃん。
ゴルギアスの認識批判
これよくよく考えるとおかしくって、やっぱゴルギアってソフィストなんで、
要は弁論術でさ、いわゆる聞き手の人、要は聴衆に自分の意見を伝えるとか、
その技術を伝えることを成り場にしてる人じゃないですか。
その人が、なんか認識できたとしても、その認識が人に伝えることはできませんとかって言ってんだよね。
これってちょっとおかしく言っても面白くない?
なるほど。あれだよね。だから、人に、自分が認識したものを人に伝える仕事をしてんのに、
そこをできないって論じてるのはなぜだっていうところね。
そういうことです。人に伝える仕事とか、人に伝えることを伝える仕事をしてるのに、
なんでこんなこと言ってんだみたいな話なんだよね。
で、ここがある種僕が一番今回ゴルギアさん読んで面白かったところなんだけれども、
実はね、このゴルギアさんはここで認識っていう言葉を言ってるんだけれども、
この認識っていう言葉を、物事そのものを捉えるっていうふうに使ってないんですよね。
この認識っていう言葉はどういうふうに使われてるかっていうと、
ある種、物そのものとか、存在そのものを捉えるっていうふうには使ってないんですよ。
使ってなくて、あくまで我々が認識できるのは、物事の現れというか出来事みたいなもので、
存在そのものではないんですよね。
つまり前回の例で言うと、例えば僕らがリンゴがあるとかって認識をしたときに、
僕らが認識してるのはあくまでもリンゴっていうものが現れてる、リンゴがそこにあるっていう出来事であって、
リンゴそのものを認識してるわけじゃないですよっていう話に近いんだよね。
これ前もどこかで話した気がするんだけど、誰だったかな、ちょっとごめん忘れちゃったんだけど。
なので、さっきゴルギアさんが2番目の論点として、
もしあるとしても、その存在そのものを人間が認識できるわけじゃないということを主張するんだけれども、
そこまで解釈すると、その次の3番目の、もし認識できたとしても、
その認識は人に伝えることができないということの理解も簡単になっていくんですよと。
僕らっていうと、仮にゴルギアさんがもしって言ってるんで、
もしその存在そのものがあったとしましょうと、あった上でそれが認識できるとしましょうと。
そういう話なんだけれども、それを伝えようとしたときに、
それは言葉であれ、絵であれ、音であれ、何でもいいんだけれども、
それは存在そのものではないわけだよね。
だし、もし目の前にリンゴがあって、僕と兄貴がいて、
これが僕何も言わずに指を指して、うんうんってやるとしますと、
そしたら少なくとも僕と兄貴は同じリンゴを認識してるはずじゃない?
ただ、本当に同じように認識できるかというと、違うよね。
僕と兄貴って別の人間がいたときに、全く同じ認識が生まれるかというと、多分違うじゃない?
あー、はいはい、なるほどね。
多分違うし、それをもって僕が兄貴にリンゴの存在を正しく伝えたかというと、多分違う?
例えば、ハヤトが数リンゴを持ってきて、見たときに、
これは誰かにあげようと思うかもしれないし、
一方で自分が見たときには、食べようと思うかもしれないぐらいの。
そうそうそうそう。
というふうな意味で、やっぱりその同じ出来事とか、現実の出来事じゃない、
同じものを見ても、やっぱり認識とは違いますよねって言ったときに、
ゴルギアスっていうのは、何にも伝えることができないって言ってるんじゃなくて、
人に伝えることが難しいって言ってるんじゃなくて、
パルミエディスが言うような、唯一のある、みたいなものがあったとして、
仮にそれがあったとしても、そもそも人に伝えることができないよね。
要は、仮にものそのものみたいなものがあったとしても、
僕らが認識できるのは、そのものそのものの在り方とか、
これに対して僕らが感じる感情でしかない。
あれだよね。早いところに言うと、意味の次元でしか話ができないってことだね。
まさにその通り。
だから意味は認識できるし、理解できるんだけれども、
ものそのものってやっぱり理解できませんよと。
いうふうなことをゴルギアス自身が認識力としても、
その認識は人に伝えることができませんっていうふうに言ってるんじゃないかと。
そういう解釈ができるわけなんだよね。
なるほど。ゴルギアスはここまで詳しく認識っていうところについて語ってるわけではないけれども、
これは解釈の話だよね、今入った話では。
解釈の話。
最大限ゴルギアスっていうものは主張してた。
一貫者主張してるとしたらこういうことが言えるんじゃなかろうかっていうふうな話なんだよね。
なので、もちろんさっきお話の通りで、あるものがあるっていうものは否定されて、
何ものもないんだっていうふうに言ってるんだけれども、
じゃあなんであえて2番目3番目のテーマを持ち出したかっていうと、
やっぱりその伝えるっていうところとか、何かを認識するところに対して課題感があったんじゃなかろうかと。
そこから一歩解釈を進めると、何なら伝えられるのっていうふうな話になってくるんだよね。
出来事としての伝達
確かに。
さっきハイトが、ごめんちょっと戻るけどさ、
結構好意的に解釈すればさっきの認識の部分って話はしたけれども、
ハイトがそういうふうに書いてくれてるからかもしれないけれども、
このパルメイディスのあるはあるみたいなものに対して話をしてるとすれば、
その存在そのものみたいな近い部分の次元の話をしてるから、
それを認識できたとしても、
そのあるもの、あるっていうものを人に伝えることはできないっていうふうな意味で、
結構そんな深読みしなくても、結構サッと。
無理矢理好意的に解釈とかしなくても、
全然理解できるかなと。
今日の話の流れだとね。
確かに確かに。
僕が理解するときに、
何回か変化をしたら認識ができなかったからそういうふうに言ってるところはあるんだけれども、
今日の流れで言うと、
そうだよね、全然まさに次元が違うっていう話。
リンゴのことをリンゴそのものの話をされてもって、
まさに前回の兄貴の驚きだと思うんだけども。
っていうふうなところぐらい、やっぱり認識とか考えてもやっぱ違うよねと。
そっちの部分に合わせて話をしてるとすれば、話は通ってる気がするよね。
そうだね、そうそうそう。
なのでやっぱり僕らが普段生きてる流れというか、
ゴルギアスのソフィストとしての活動の流れで言うと、
やっぱり僕らが伝えられるものっていうのは、
いわゆる出来事とか、まさに意味でしかないんだよね。
だから僕らっていうのは、存在そのものとか、あるっていうことそのもの、
それはもちろん認識もできないし伝達されることもできないんだけれども、
その出来事っていうものについては語れるし伝えることもできるよねと。
出来事っていうのは解釈を含むわけじゃない。
リンゴがあるってことに対しても、
やっぱりそこに対する自分とリンゴの位置関係みたいなものがあったりとか、
リンゴに対してどんなふうに思ってるか捉えてるかってこと自体が出来事なわけなんだよね。
さっきの通りだよね。
人にあげるでもいいし、食べるでもいいし、皮を剥くだけでもいいし、
投げるでもいいし、これで祭りできんじゃねえでもいいし、
リンゴ投げ祭りじゃんけどね。
いろんな解釈があるし、裁判とかでわかりやすいんだけれども、
事実っていうものがあったときに、それを解釈して有罪か無罪か、
あるいは仮に有罪だとしてもどのくらいの罪かってことを、
道場を釈量していくわけじゃない。
それっていうのは解釈があって、言葉によってそれが伝達されて広まっていって、
みんながそれを信じればそれが事実になっていく。
事実っていうのはものそのものではないかもしれないけれども、
哲学と混乱の逆転
あるいはその集団における歴史は真実とか真意にあっていくわけなんだよね。
まさに人間は万物の尺度であるっていう話。
そういう意味で言うと、ソフィストっていうのはまさにこの真理を語るんじゃなくて、
出来事とは解釈を語る。
それによってある種、真理を新しく作っていくんだっていうことを、
案に異めかしているんじゃなかろうかと。
だからゴルゲンオスからすると、あるとかないとかそれに捉えてるから哲学ってのはダメなんだって、
結局人間の出来事、人間ってやっぱり出来事とか意味の世界に生きてるわけだから、
それをある種正しく扱えるとか上手く扱える方がいいんじゃないかっていうことを
言ってるんじゃなかろうかと。
そんな風にも解釈できるんだよね。
はいはいはい。
なのでやっぱりここで言うゴルゲンオスの主張っていうのは、
別に何らかの真理とか新しい筋を語ってるわけではないんだけれども、
もっとパルメディアスっていう人たちに対しても、
もうちょっと多分ちゃんと意味があることを言おうぜとか、
そもそも人間ってのはそこでしか生きていないんだから、
そんな風にものそのものとか永遠とかっていう風なことを考えてもしょうがないんじゃないかっていう風な批判をしてるんじゃないかとも捉えられるし、
その考えたらすげえ納得できるというか、
ソフィスト応援したくなるんじゃないかなっていう風に思ったんですよね。
面白いね。
ここも本当に重層的?繰り返しだなって今思ったんだけど、
さっき永遠があるっていう時に、
永遠とか無限っていうのはもう無限の広がり、そこそこ無限の広がりになって枠がないから、
無限があるとか永遠があるっていうのはないよっていう話をしたと思うんだけど、
これと今のハヤトの例えばリンゴとかと意味の違いっていうのも全く同じだなと思って、繰り返したなと思って、
物自体とか存在そのもの自体って、ハヤトが言ったようにある意味無限の意味が付与できるとすると、
存在そのもの自体っていうものに枠が存在しなくなるから、
そうするとそれってないよねっていう、このゴルギアスの主張が筋が通ってるんだよね、完全にそう捉えると。
意味の方は無限でそれを表彰的に捉えることは可能なんだけれども、無限のうち一つが出てきた表質として捉えることはできるけれども、
リンゴそのものみたいな話をし始めちゃうと、それはあるはあるじゃなくて、
そのパルミエンギスがあるって言ってるものって無限でしょと、永遠でしょと。
それをあるっていうのはおかしいよっていうのはめちゃくちゃわかるし、同じことを言ってるなって思った。
すごいね、よくそこまで捉えられるなって、ちょっとごめん変な話だけど。
同じだよね。
同じだし、まさにそれがパルミエンギスの存在論、あるはある、あらぬものはあらぬっていうところの矛盾だっていう話が言われてるんだよね、まさに。
だから本当にアニキが言う通りですよと。
すごいわね。
結構ね、僕がここからが一番面白いですって言ったと思うんだけれども、
改めて今言ったゴルギアスの説明が終わったところで、何が面白いって感じたかっていうところを少しお伝えしたいんですけど、
こんなぐらい存在そのものは捉えられないんだけれども、
人間が出来事とか意味として、ある種、加工だよね。
加工をして、言葉とかにして伝達するっていう考え方があったと思うんだけれども、
これって通常の哲学からすると逆なんだよね。
哲学は人間が考えていることとか言葉っていうのは混乱していて、誤りだと。
だからこそ理性っていうのはまっすぐ働かせて、存在そのものとか、ある種、秩序そのもの、本質っていう方に行こうぜって考え方なんだよね。
普通の人間っていうのは混乱して誤った考え方をしているから、それを正しましょうと。
ゴルギアスの方はそれは完全に逆転してて、存在そのものとかってそっちの方がむしろカオスだと。
私にすらも捉えられないものだから、やっぱり人間っていうのがそこに言葉とか名前とか、
ゴルギアスの視点
そういうものを使って、ある種、一個の秩序というか世界を作ってる。
そういうふうにして人間は生きてるんだっていうふうなことを言えるんだよね。
だから、ある種、存在そのものとかって触れる必要なんてないし、
それに対してそもそも無理なんだということを主張しているとしたら、
これはすごく哲学的というか、一個のすごい秩序を通った主張をしているなって思うんだよね。
ゴルギアス側がね。
ゴルギアス側が。
たぶん兄貴もね、一個の完全に一緒だとか、秩序通ってないと思ってくれたのがまさにそこだと思うんだけど。
どうだろう、そういう話を聞いた時にゴルギアスが言ってたことに、どのくらい共感できそうかな。
めちゃくちゃ共感はするよね。
これ本当にどっちの立場も分かるなと思うんだけれども、
例えば哲学者から見た世界でいうと、たぶん一人一人が全然違うことを言ってるんだよね。
あらゆることに対して。
例えばリンゴってものがあった時に、さっきも言ったけど、
ある人は投げようとしてるし、ある人は踏みつけようとしてるし、ある人は土に埋めようとしてるみたいな世界って、
たぶん本当に意味不明なんだよね。
はいはいはい。
まさに意味不明。
そうだね、無秩序だよね。
無秩序だよね。
ただゴルギアス側から世界を見た時には、みんななんでこんなことしてるんだろう、じゃあどうしようかなみたいな。
あとこの世界を、いわゆるどっちかに導こうとしてる人にとってはどうしたらいいのかな、
実際みんなこんなこと言ってるけど、どういう意味つけちゃおうかなみたいな。
そこがたぶん実際に動かしていく方と、
そもそもこのリンゴに意味さえあれば、この状況を解決できるようにみんなそれを正しく学べば、みんな正しい方向に行くのにって、
どっちもわかるんだよね。
はいはいはい。
で、現実問題じゃあ例えばゴルギアス側のやり方でやった時に、
仮にじゃあリンゴっていうのはこうします、みんなこうしましょうって言って、
まあでも扇動というかすごい共感性の高いスピーチをして、
そうだそうだリンゴとはこうだみたいな話があったとして、
それが成功する時としない時っていうのはたぶん歴史的にそれはもう、
事実として存在して、それはもう存在して事実としてね。
それを見た哲学者がやっぱり世の儚さとかを、
あの時リンゴをああいう風に言ったの間違いだったじゃんみたいな、
もうやっぱ正しいリンゴがあればみたいな、やっぱその正しさに縋るだったりとか、
その正しさを考えるっていう姿勢そのものをみんな守って、
もうちょっと冷静にその正しそうなリンゴにたどり着けたのに、
こっちじゃなくてっていう、
憎しゴルギアソフィストみたいなのも理解できる、
その正しくないリンゴに説明やがってみたいなね。
っていう意味ではなんかだからどっちが正しいじゃないんだけど、
なんかね、本当どっちも大事って本当に思う、心から思う。
リンゴとその意味
なるほどね。
それがたぶん一番正しいというか、
普通に生きる上でやっぱ大事な判断だなと思うんだよね。
ごちゃごちゃと言ったけど。
でも本当そうで、やっぱその方法の違いもあるし、
前のプロトコラスの時にカイロスっていう話したと思うんですよ、
チャンスとかタイミングが大事だったんですよ。
覚えてます?
うん。
それは本当そうで、例えばリンゴは4つに切るべきだとかって言うときに、
それを今日は受け入れなくても1年後は受け入れられるかもしれないとかってやっぱあるわけじゃない?
確かにそうだよね。
今3人家族で4つに切っても1つ余っちゃうしね。
そうそうそうみたいなね。
でも4人家族やったら喜んではい4つに切りますって言うかもしれないっていう時に、
それは哲学者からしたらもうありえないと。
要は今日正しくて来年間違ってるとかっていうのは真理でもなんでもないんだけれども、
ソフィストからしたらそれでいいというか、
その時々で正しいものをいかに作り出すかっていう話だと思うんだよね。
ただそれができたら苦労しないんだっていうのは多分どっちもわかってるんだよね。
哲学者もソフィスト側もね、本当はね。
だからこそやっぱり行きとこに着くと極端になって、
そこで永遠とはとか無限とはとかってなるし、
やっぱりソフィストからすると口発調みたいな感じですごいことばっかり言いやがるみたいな。
ソフィストと哲学者の関係
それはもうやっぱりどっちも裏表なんだなって思ったね、今兄貴の話を聞いて。
だからどっちも大事なんだよね。
だから本当お互いが多分牽制してるような状態、
三軒分日じゃないけれども、
本当にそれで例えばソフィストみたいな人たちが民衆と、
じゃあ次殺しましょうって言ってる時に、
ソフィストが本当にそれでいいんですかっていう冷静な目を向けさせる。
哲学者はね、哲学者は。
っていうのがないとやっぱり暴走することがある。
そうなんだね。
バランスなのかなとは。
多いよね。
なので今回ゴルギアスっていうのを語ってきたんですけれども、
もちろんさっき言ったようにロジックが完璧だとかすごい人を知るとかっていうことではなくて、
単純になんだろうな、まさに今みたいな話、
ソフィストとしてちゃんと哲学者を批判しようとしたというか、
ソフィストとしてのあり方っていうものをちゃんと実現した人なんだなって感じたんだよね。
今回改めて読んだ時に。
面白かったし、今回ソフィスト界だからゴルギアス側の視点から言うと、
今さっきソフィスト側と哲学者は建設し合うべきだっていう話、
まあ理想の話をしたんだけれども、
そのゴルギアス側の視点からすると、
その哲学者側がすでにみんななんか浪走しちゃってんじゃん。
そうね。
こっちが正しい、あれが正しい。
哲学って本当は一つのものが正しいっていうものであるならね。
そうね。
だからもうおかしいじゃんって、ちゃちゃ言いたくなる気持ちもすげえわかる。
そうそうそうそう。
それがまたソフィスト側の価値ではあるんだ。
さっきやっぱりほら、ナイトが言った、ゴルギアスは何も生み出してない。
何も新たな論は出してないし、
結構今でも何か批判することにそういうことを言う人もいるし、
その面も実際あると思うんだけども、
実はそれでじゃあ本当に何も生み出してないのかっていうとやっぱ違うじゃん。
なんだかおかしな状況に対して、
本当にそれでいいのっていう疑問だったりとか、
向こうにいた人が気づきんみたいなものが生み出してるわけで、
だから本当の本当に頭がいい人が、
あれこれ、例えば自分が考えたことと違かったかもとか、
ここの土台が間違ってたんだって自分が気づいてないことに、
本当に頭がいい人が気づくってめちゃくちゃ大事なことだと思うんだよね。
めちゃくちゃすごいことだと思うんだよね。
何かを生み出すとは違うけれども、
そういう意味でもソフィストとかコンサルみたいな人の立ち位置、
自分がそういう仕事に近い、
自分も何も生み出してないからさ仕事できるんだろう。
まあまあね。
ちょっと感情移入する部分もあるんだと思う。
だからオルディアンスの当時の環境を考えると、
絶対これかき混ぜたくなるんだろうなっていうのは分かる。
そうだし、ペルさん両方が大事だとは思う。
いわゆるコンサルとかもそうだし、アドバイザーとかコーチとかもそうだけどさ、
やっぱりプロのアスリートがいてこそコーチが輝くし、
コーチがいないとアスリート一人ではなかなかたどり着けない境地があるとかって、
やっぱり今ってあったりするじゃない。
そういうのは本当にお互いを補い合うような存在なのかもしれないよね、本当はね。
好きな本で、野球岩監督かな、吉井雅人って名前聞いたことあるかなと思うんだけど、
出してる本で、最高のコーチは教えないっていう本が。
なんかタイトル聞いたことあるかな。
これすごい面白い、結構前だけど読んで面白いなと思って今でも覚えてるんだけど、
いわゆるさっき流行ってたオリンピックのような出るような選手がいてコーチが輝く、
逆もしっかりみたいな話があったんだけど、
この本の中で吉井雅人があれだとプロの中でも一流と二流というかソロじゃない人と、
二流みたいな人がいて、その中でもいろんな個性の人がいるから、
それぞれによって同じことを伝える人の伝え方だったりとか、
その伝わり方っていうのが全然違うんだみたいな話をしてて、
吉井雅人は関わった中で超一流はダルビッシュしかいないみたいなこと書いてて、
そこらへんになるとほとんどほっといてもいい。
ただ聞いてきたことにこっちが間違わないように答えるっていうことに全力を尽くすだけでいいみたいな。
だから教えることじゃなくて答えることしかなくなるみたいな。
もうそのレベルになるとね。
そういうのがレベル分けというか相手によってみたいな話があって、
ああ面白いなと思って。
ただこの吉井雅人にしても自分の思いを選手に伝えるだけみたいな、
っていう話もあったらしくて。
その人なりのコーチ論というか、その編成も面白かったなと思って。
ちょっと思い出したから。面白かった。
ね。やっぱそういう部分はあるかもね。
今ちょっとサフィスト編ということでいろいろ話してきてて、
ある種思い分けず哲学批判というか哲学ドアやねと思ったんですけど、
やっぱりどっちがいい悪いじゃないよねって話でもそうだし、
やっぱり両方ないと、ある種両方、一人の人にというよりは一人一人あってもいいし、
尖ってる人が両方いて、その尖った人同士がもしかしたらくっつけ合うとすごいことが起きるみたいな。
やっぱりゴルギアスとパルメイデスみたいな議論にしても、
やっぱりパルメイデスっていう、そもそも何かを突き詰めて、
批判も多いけれどもやっぱり認識を超えた人っていうことがいたときに、
やっぱりゴルギアスがそこに批判を忘れることで、
やっぱりこんだけのものが生まれたって話あるだろうから。
やっぱりね、そのぐらいの面白さというか関わり合いの可能性ってあるよね。
いやー、そうだね。ただやっぱり何かを生み出す人っていうのはゼロからね。
それはもうそれだけで尊いなとは思うけどね。
だからそれがどうなんですかって突っ込むのは、
そういう人が作った土俵の上で遊ばせてもらってるだけだから。
そこは忘れないようにしないとなっていうのは、
リスペクトがね、絶対そこはあるけどね。
本当に面白くて、まさにゴルギアス自身が、
なんかこれは遊びである、戯れであるみたいな言葉を使ってるらしいんだよね。
そうなの?
そうそうそう。
だからやっぱりなんだろうな、ある種そういう自覚もあったのかもしれないけどね。
今日の話を聞いた限りはその辺の自覚はありそうだよね。
うんうん。
だから今回はかなりゴルギアスさんを持ち上げてというかね、
かなりクリストさんすげーっていうところで語ってきましたけれども、
ちょっとね、さっきお伝えした通り、
次回はよりですね、今回流したパルメイディスさんとか、
ジェノンさんとかも含めて、ソクラテス以前くらいの哲学者っていうものを取り上げていく中で、
こんな人もいたんだとか、ソクラテスの前にこんなことを考えていた人たちがやり取りしてたんだとかですね、
そういうところもお伝えしていきたいなと思っておりますよと。
で、そのほうが当時の混乱具合というか、教科書と言っても4,5人くらいじゃない?有名な人とかさ。
そうなんだよね。私さ、このソフィスト界でプロタゴラスの
人間は万物の尺度が出た、出たじゃないや。
万物の尺度である。
尺度である。
古代哲学者の研究
言葉が出たときに、何の気にしにさ、やっぱタレスの万物は水であるとか、
あの流れと同列のイメージで当たっちゃったというか、思っちゃったんだけど、
だから哲学者とソフィストの吐き入れも全然なかったなと思って。
やっぱり僕らは教科書でしか基本知らないから、
教科書で同じページに書かれたなぐらいの認識なんだけど、
これもちょっとまた余談なんだけど、
さっき言った通り、ソフィスト側の哲学者について図書館に行って調べてたんですけど、
やっぱり何十人という人がいるし、
その人たちの断片というか、やっぱりその人たちの言葉自体は残ってなかったりするんだけど、
それこそパルメディアさんについてアリストレスはこう言っているとか、
他の人たちはこんな風に言ってるってことで、パルメディアさんはこう言ったってことが伝わってきてるわけなんだよね。
そういうのをまとめた研究書っていうのがあって、
300ページ、もっとあるか、400ページぐらいの本が5冊ぐらいになって、
そこで以前の哲学者について語られた言葉をまとめましたっていう本が出てたりするんだよね。
それが300×5冊、それで。
5冊、うん、5箱で5冊。
すごいなと思って、この本はまた次回ご紹介するんですけど、
学問の積み重ねってすごいなって思った、本当に。
っていう面白さもあるんで、
僕もこれまで全然知らなかった即あて数以前の人たちっていうところを
次回取り上げて1個テーマとして扱いたいなというふうに思っておりますっていう感じですね。
次回の展望
楽しみだし、そういう流れでいくと、先にソフィスト側やってよかったなって思うね。
そうね、そうね。
変にありがたいやりがたいやって。
混乱したりとか、お互い言い争ってるとかっていうのもあった中で、
でもそれぞれの人は真剣にこんなことを考えてましたみたいな。
そんなことを触れていきたいなと思ってますっていう感じですね。
分かりました。
ソフィスト会は今回で終わりなんだ、一応。
そうですね、一旦こちらで終わりと思っております。
じゃあ次回雑談会挟みつつ、古代の哲学者側。
哲学者側の話もちょっと触れていこうと思ってますっていう感じですね。
分かりました。
その辺も引き続き古代の空気を楽しんでいきたいと思いますので。
では、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。