1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #250 パルメニデスが突きつけ..
2024-09-18 58:36

#250 パルメニデスが突きつけた「万物は〇〇である」の限界

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。




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サマリー

今回のエピソードでは、パルメニデスについて考察し、彼の思想や哲学が哲学史に与えた影響を探ります。特に「あるはある、あらぬはあらぬ」という彼の真理が、古代の哲学者たちの考え方とどのように対立しているのかが論じられます。エイレア派の創始者であるパルメニデスが提唱した「あるはある、あらぬはあらぬ」という概念は、従来の自然哲学を超え、存在と変化の根本的な理解に挑んでいます。エピソードでは、パルメニデスの哲学が女神の声を通じた神秘体験に根ざしている可能性が探求されます。また、経験と理論の関係、特に真理を語る上での体験の重要性が論じられます。このエピソードでは、パルメニデスの哲学が「万物はある」という主張を通じて、言葉と体験の関係や、ゴルギアスとの対立についても探求されます。さらに、デモクリトスの原子論がパルメニデスの思想に基づいていることに触れ、哲学の発展について考察されます。また、パルメニデスの哲学における「万物は〇〇である」という概念の限界が議論され、彼が当時の哲学者たちに与えた影響について探られます。

パルメニデスの紹介
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、これまでソクラテス以前に哲学みたいなことをしてきた人たちということで、ヘシオドス、タレス、そしてアナクシマンドロス、アナクシメネス、そしてヘラクレイトスと、結構見てきましたね。
そうですね、呪文みたいですけどね。見てきまして、今回はですね、パルメニデスっていう人を取り上げるんですけれども、
その人のソフィスト界でも取り上げましたね、なんとなく覚えてます?
あれだね、ゴルギアスっていうソフィストが論破しようとした人みたいな、本を書いてる人。
そうです、そうです。
その相手だね。
その相手ですね。ソフィスト界の時はソフィストから見た哲学者っていう感じで、わりと哲学者の奴ら何やってんだと、あいつら何か使えないことばっかり言いやがったような感じで取り上げたと思うんですけれども、
今回は、さっき兄貴が言った通り、いろんな哲学者を見てきた中で、パルメニデスってなんでそんなことを言ったのとか、どういうことを考えた人なのかっていうところを、哲学者観点から見ていこうというふうに思っておりますよという感じなんですね。
そうだね、ソフィスト界の時はパルメニデスのことがよくわかってなかったから、むちゃくちゃ敵だよね、むしろ。敵で論破すべきアイテム界の感じだったから。
実はね、あるはあるみたいな話をしてたみたいな。
そうです、そうです、そうです。
スノフカさんみたいなものは全く知らないところでね、そうだそうだゴルギアスみたいな話だったから。
そうですよ、ちょっと今回はパルメディスさんの方が味方というか、そっちの観点にとって話をしていきましょうということなんだけれども、
前回まででいくと、セラクライトスは、いわゆる万物イコール変化とかの変化イコール万物というふうに、両方入れ替えてもいけるじゃんみたいな話し合いに気がしてくれたと思ってるんですけれども、
持っていると水とか空気みたいな具体的なものじゃなくて、変化とか運動みたいな、働きっていうのかな、そういうふうに秩序を生み出していったよみたいな。
そういうところが結構特徴的で、ある種抽象度が上がってる感じだよね。万物は水だとかさ、火だとか、ヒットワイと言ってはいるんだけど、変化っていうものが秩序を生み出してるんだみたいなところでいくと、
目に見えないものというか、そういうものを取り上げてますよっていう感じだと思うんですけれども、それも結構哲学だったり思想の流れとか、積み上げがあっても発展させるんですよって話を今日はしたいと思ってるんですけれども、
トレメイネスさんは、生まれとしては紀元前515年ぐらいなので、ソクラテスより2,30歳上みたいな、もっと言うかな、3,40歳上ぐらいな感じなんですよね。
哲学的文体の特徴
親世代だね、そうしたら。
親世代ぐらいかな。実際にあて、ソクラテスと話したよみたいなことも記録として残ったりはするんですけれども、
この人は、さっきもおっしゃってた、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、あるはある、
そうなんだ。
神話。で、どういうことかっていうと、実際、彼の文章も全部残ってるわけじゃないんだけれども、断片的にね、一部残ってるものがあって、
例えばそれを見ていくと、第1回とか第2回か、出会ったのは、ヘシオドース大夫じゃないですか。
うん、ゼウス。
ゼウスとか、詩でね、コミのこととか、生活のことを表現してましたよっていう人がいたと思うんだけど、
結構ね、この人とかの文章、もっと言うと当時、カルメイディスさんからしても100年とか200年前ぐらいの、
そういう伝統的な形式とか文章の形式にのっとって、哲学的なことを飾ってますみたいな感じらしいんだよね。
あ、そうなんだ。うん。
当時からするとちょっとお堅いなみたいな感じなのかな。
でね、もっと言うと、ヘシオドースさん側でいくと結構普通の、いわゆる文章だよね。
3文とかって言われるところで、万物とか変化とはどういうことかとかって言ってるんだけど、
やっぱり逆行してる感じかな、むしろなんか。
やっぱりちょっと古いんだね。
ちょっと古めかしい感じ。
感覚からしても。
うちら側の古文の何とかなりきりとかって言ってるぐらい、
違うな、もっと漢語使ってるとか。
そんなイメージかな。
特に詩的な表現で表現してるとかもね。
そうそうそうそう。
だからそんなイメージで結構その文体的な特徴があるんだけれども、
その内容も結構特徴的で、
どういうことかっていうと、
いわゆるあるはある、あらぬはあらだっていうのは真理だって言ってるんだけど、
それをパルメイデスが言うんじゃなくて、
女神がそういう風に言ってるのをパルメイデスが聞くっていう風な一種の物語になってるんだよね。
あ、そうなんだ。
うん。
だからパルメイデス、私がそういう真理を見出しましたよじゃなくて、
女神と話をしたときにそういう真理を教えてもらいましたよっていう風な、
そういう風なある種の神秘体験を語ってますみたいな感じの文章になってますよ。
あ、そうなんだ。なんでだろうね。
当時はいわゆる3文、普通の。ゴレギアスなんか確か元普通の本書いてたよね。
書いてる書いてる。
あるはあるは違うみたいな。
そうそうそう。ないことの証明するみたいな話の本を書いてて、
それも普通にロジカルに書いてあるんだけど。
なんでだろうね。いっぱい民衆の人とか読めるようにとか。
そう、なんでっていう話はね、ちょっと今日は、
もちろんそれも答えはなくて解釈だし、結構それも僕の解釈になっちゃうんだけど、
そんな話を最後の方にしたいなとは思っておりますよと。
じゃあもうちょっとどんな風に書いてるのか、どういうことが書かれてるのって話から見ていきたいんだけれども、
実際にこういう風に書いてたんだっていうものを読んでいくとこんな感じで、
その女神ね、女神っていうのは私パルメイネスを迎えて、
その我が右手をその手に取り給い、
こう言葉をかけて語り給おうと。
これは和訳だからじゃなくて、そういう風な総言な感じで書いてるんですね。
女神が言うには、
なんじはここで全てを学ぶがよいと。
まずは心理の揺らぐことのない心と、
でいれば死すべき者どもの真の信頼なき思惑と、っていう風に言ってるんだよね。
つまりは神としての心理みたいな話と、
死すべき者って言えば人間だよね。
ある種その偏見に満ちた考えと、
その両方を私が語ってあげようっていう風な女神の言葉から始まっていくみたいな感じなんだよね。
はいはい。哲学っぽくないね。
そうそうそう。神話っぽいじゃん。
面白いのが、
女神、ゼウスの場合だとゼウス、私こそが秩序だみたいな話なわけなんだよね。
別にゼウスがそう言ってるかどうかわかんないんだけど、
ヘショドスの時代だとゼウスこそは秩序であるって感じなんだけど、
このプレメイデスに関しては、
女神が真理を教えましょうって言ってるから別に女神イコール真理ではないのよ。
っていう風な違いがあるんだってところを踏まえて聞いてほしいんだけれども。
はいはいはい。
パルメニデスの影響
これまでお伝えしてきたことと重ねると、
タマナスって、絵は描けることがない。
丸い真理っていうのが、あるものはあり、あらぬものはあらぬっていうものなんだけど。
はいはいはいはい。
ある種、死すべき王道って人間のある種誤解とか、
そういう間違ってるっていうのが、あらぬことがあるっていう話?
あらぬことがあるなんだ、そっちは。
ある。
ほうほうほう。
そういう風に、2つを並べて語っていますよと。
ふーん。
うん。
なので、よく僕らがプレメイデスを指して、
あるものはあり、あらぬものはあらぬとかって言ってるんだけれども、
それは女神が語った1つ目の真理みたいな話?
はいはいはい。
果たして、パレメイデスが主張したって言ってるんだけど、
本当は女神がそう言ったっていうふうに、パレメイデスは書いてるっていう感じらしいんだよね。
なるほどなるほど。
女神がそんなふうには、2つの真理、
要は神の真理と人間のある種誤解みたいな話を並べることで、
いろんなことを語っていくんだけど、
それがどんな影響を与えたか、
要はパレメイデスがそういうふうに女神の言葉を借りて語ることで、
哲学にどんな影響を与えたかっていう話なんですけれども、
これも結構、もちろん人によっていろんな解釈があると思うんだけど、
僕が読んでる本だと、
それまでの全ての哲学思想、それこそタレスとかさ、いろいろやってきたと思うんですけれども、
それに対して結構その根底を揺るがすぐらいの衝撃を与えたんだみたいな、
そんなことまで書いてるんですよね。
そうなんだ。
今だとそこまでのある種インパクトが感じると思うんですけど、
それが何なのかって話を今日はぜひ皆さんにお伝えしたいというふうに思っておりますよと。
確かに現時点でパルメイデスは、万物は何とかであるって言ってないもんね。
そうそうそう。
で、そこがまさに結構肝なんだけど、
パルメイデスの話をする前に、これまでの話をおさらいしたいんだけど、
これまではタレス、いわゆるメレトス派の人たちとか、ヘラクレイトス、前回やったような人たちだと、
いわゆる万物の根源は何々であるみたいにしたときに、
その発想の根本には、この世界っていうのはまずは観察してるわけだよね。
多分タレスからのときに、宇宙の外に立つみたいなさ、
そういう視点から世の中とかを捉えてるんだって話をしたと思うんですけれども、
なると結局その世界とかを見ていくと、やっぱりこっちは空気であっちは水で、
あっちはヒルとかっていうふうにいろんなものがこの世の中にあるわけじゃない。
っていうふうに、この世界の多様さとか多彩さっていうものを見たときに、
でもその根源というか、その始まりにはきっと何かがあったはずだとか、
そこにある種究極の物質みたいなものがあって、
そこから多分世界というのは出てくるんだみたいな、そういうふうな世界観があったわけなんだよね。
なのでこの万物の根源は何か何々であるミームがあったときに、
どれだけそれが水だとか空気だとか変化だとかって言っても、
結局その世界観と構造自体はやっぱり変わんないわけなんだよね。
そこは正しい前提になっちゃってるもんね。
そうそうそうそう。だからよく今回枠っていう話をすると思うんだけど、
その枠としては多種多様な世界の根源には唯一の何々があるっていうふうな枠で立ってますよと。
兄貴がゼウスの話に一心協に近づいてるんじゃない?みたいなことを言ってくれたんだけども、
そういうふうな性格がまだありながらも、そういえばまだまだ日には日の神がいてとか、
夜には夜の神がいてみたいな感じで、いろんな神がいる。
そういう世界だってことしたら多分変わってないんですよと。
なるほど。ゼウスが全部作ってるとはいえ、ゼウスが他の神も作ってるみたいな感じで言うと、
まだまだ多神教っぽさっていう概念は全く捨てられた感じではないという感じ。
そうなんですよね。結局この世界観なんだけれども、実は結構パルメイネスはそれを超えちゃってるっていう感じなんだよね。
今回パルメイネスのあるはある、あらぬはあらぬっていうことを取り上げていくんだけれども、
変化の否定
それって結構全ての多様性とか変化っていうものを否定するような話なんですよ。
ミルトス派とヘラクレイトスどっちも否定しちゃってるんだね。
そうそう、どっちも否定してる。
なぜならあるはあるとか、あらぬはあらぬって言った瞬間に、
例えばタレスで言うと水っていうものの根源で、水が固まると固体で大地になるとか、
空気とかになっていくと、水蒸気とかになっていくと、それが気体になっていくみたいな、
そういう変化っていうものを語ってるじゃないですか。
だからこれは水であったものが水じゃなくて大地になるみたいな、そういうふうな発想なんだけど、
こうやってパルメイネスから言わせると、あるからあらぬ、
水であったものは水じゃなくなるとか、
大地じゃなかったものが大地になるっていうふうに、あるとあらぬを行き来してるんだよね。
これっていうのはパルメイネスからすると禁じてというか、人間の誤りなんだよ。
そうなんだ。
なぜならっていうか、これに関してはそういう主張だというか、別にそれが証明されたとかではなく、
純粋にそういうふうなものをパルメイネスはある種直感したいという話でしか言えないんだけれども、
お互い様だもんね。水がすべてのもとであるみたいなさ。
だからこそ、例えばその弟子とかがさ、さすがに水は火にならないだろうみたいな感じで、
無限なるものみたいなとかさ、空気とか言い始めてるわけで、
そこをパルメイネスはきちんとついてるというか、話でもあるよね、多分これは。
話でもあるし、やっぱり水であれ空気であれ、一つの個別具体的なものなんだよね。
要は、この世の中にいろんなものがあるけどその中のこれだっていう話をしてます。
逆に変化っていうものも、そのもの自体には触れてないんだけれども、
そういうふうにいろんなものが移り変わるっていうその働き、この世の中である働きっていうものを含めて、
それを捉えた時に、あらゆる根源は変化だっていうふうに言ってるんだけど、
このパルメイネスのあるっていうものは、この世の中にある個別のものとか働きとかっていうものを超えてるわけよ。
存在の超越
あるってどこにありますかって言い換えたとするじゃん。
あるはどこにありますか?
そう。
言い換えたらどう答える?
それはあれだね、抽象的な話ですねって。刑事上学の話ですかって。刑事上の話ですよねって。
でもさすがに刑事上にしかないわけよ、あるっていう言葉はね。
具体的な世界じゃなくて、こういったところにしかあるっていうものはもう存在しないと。
そもそも存在するってことがあるわけだからね。
っていうふうになった時に、パルメイネスっていうのは世の中を見て、
その根源とかその在り方っていうのはこうだっていうことを言ってるんじゃなくて、
その超越した視点からあるというものを考えた時に、
この世を証明というか説明できるんじゃないかっていうふうな、そういうふうな発想に至ってるわけなんだよね。
じゃあ逆に言うと、カレスマミュレトス派とかヘラクレイトスであっても、
まだ刑事科の話をしていたって考えられるわけ。
パルメイネスが出たことで、そういう資格ができるようになるって話なんだよね。
そうなんだ。具体的にはわかんないけど、何やってくれてんだパルメイネスって感じだね。
そうね、他の人からしたらね。
だからこそパルメイネスなんだろうな、すごいという人ももちろんいるんだけども、
めちゃめちゃ批判されたりとか、あいつ本当わけわかんないこと言ってるよっていうふうに言われたこともあったらしく。
なのでその弟子のゼノンがある種の師匠の汚名を晴らすというか、
その教えをちゃんと伝えるためにそういうパラドックスとかいろんなものを使いながら、
エイレア派として言えばパルメイネスとゼノンってエイレア派ですって話を
ちょっとソフィスとかで消したと思うんだけど、
そういう派として活動していくっていう流れもあったらしいんだけれども、
そのぐらい当時のパルメイネスをやったことっていうのは、
他の人からしてもちょっと浮世離れしすぎてないかというか、
何言っちゃってるのあいつっていうふうな感じらしいんだよね。
そうなんだ。
なぜならそれは、
それまでのミレイトさんの人たちは、
これね、後世から言うと自然哲学とかって言われたりするんだけど、
あくまでも自然っていうものを観察したときに、
何が根源かとか、宇宙っていうのはどうあるかっていうことを考えてるんだよね。
ほいほいほい。
宇宙っていうのは水からできたとすると、
それは水っていう自然の物質からこの自然としての宇宙ができたっていう話なんだけど、
パルメイネスのあるはある、あらぬはあらぬみたいなことは、
もう自然を超えちゃってるのよ。
まさに刑事上に行っちゃってるって話なんだけど。
普通に考えると、現実的には、
水は飲んだらなくなるしとか、
これビジュサー会でも言ったんだけど、
リンゴを食べたらなくなるじゃないですか。
言われたら、それは現実的にはあるものがなくなるとか、
今はなかったリンゴが、
花を咲かせて実がついてなるとかっていうことはあるんだけど、
パルメイネスは、そういう現実的な変化っていうのは、
古いに足らんことだぐらいに言ってるわけよ。
人間の妄想とか幻想みたいなもんだから、
変化っていうのを捉えてるのは、ある種人間が、
ちゃんと物事を見れないからだぐらいの発想なんだよね。
そうなんだ。
本当に神々が教えてくれた真理を見るとしたら、
リンゴっていうのは、なくならないし生まれもしない。
常にあるんだっていうふうな、
言葉と体験の関係
そういうふうな世界が見えてくるはずだみたいな、
そんな感じなんだよね。
どうなると、面白いね。
そうなんだけど、ミネティス派のアナクシマンドロスかな、
2回前ぐらいにやった、無限なもの。
万物は無限である、無限なものであるって場合の、
この無限っていうのは、
一見この無限ってものって、
ちょっと刑事状っぽい感じなんだけれども、
これ違うんだね。
これまで自然を観察した上で、
水とかって言ってるよりは、
若干、想像感が強いと思うんだけども、
何か自分には、何とは言えないんだけれども、
何かはあるはずだ、みたいな。
万物はXである、みたいな。
そうないか、まだ分かんないけどね、みたいな話で言うと、
さっき言った自然哲学的な営みの域を超えてないんだ、これは。
そうだね、そうそうそう。
パルメギネスの言う、あるはある、あるのもあるのもみたいな話は、
先ほど言ったように、ルールとか概念が全く別の営みが始まっちゃってるってことなんだね。
そうそうそうそう。
ちょっと難しいけど、なんとなく頭では分かったかな。
チャプターに返してみたいな話で、
これも想像でしかないんだけれども、
仮に万物はXXXXミームが当時大流行して、
水だの、火だの、空気だの、草だの、ゴミだの、別に何でもいいんだけど、
そういうふうなことがあてはまって、みんなが言ってたとしたときに、
そうなっちゃうとセブスなんでもありみたいになっちゃうわけだよね。
そうだね。
セブス、万物はリンゴだとか言ってもさ、
よくわかんないけど言ったもん勝ちみたいになっちゃうわけよ。
すると、パルメギネスそう考えたらわかんないけれども、
そもそもこの万物のないないであるゲームを終わらせないと、
次にいけないって思ってたとしても、なんかおかしくないと思うんだよね。
そういうときにいろいろ考えた結果かわかんないけれども、
たぶん彼の神秘体験として、あるはある、あらぬはあらぬってなったときに、
物事が変化しているとか、万物がAからBになってCになったっていうような世界じゃなくて、
それを超えた世界にある種の真理があるというか、
そういうふうな真理を知ることで、この世界の無秩序というか、
そういったものをある種ちゃんと理解できるんじゃないかみたいな、
そういう発想になったっていうのは、なんかわからんでもないんじゃないかなっていうふうに思うんだよね。
わー、はいはいはい。
だし、確かに一応ソクラテスイゼの哲学的なものっていう話はしてるけれども、
かなり違うね。
なんか、タレースとかがどっちかというと科学っぽい、まだ。
そうだね。
自然的な感じが。
観察して、それに基づいて、想像する仮説を立てるみたいな感じはするんだけども、
このパルフィネスは、今で言ったうちら素人が思う哲学だよね。
刑事上の物事を考えるみたいな。
そうね。
なんか、そういう感じで本当に違いそうだし、ここに来て出てきてるんだ、その感覚がね。
そうそうそう、その感覚がね。
だから、よく言えば思想が高めに上ったとも言えるし、
悪く言うと、本当に現実離れしちゃって、本当に伝えないというか、
何言ってんのこいつみたいな感じでも、たぶん、成り変えない危ういバランスなんだと思うんだけど。
やっぱりパルフィネスという人が、これまでのタレース以来続く議論の一切を乗り越えるある地平というか、
そういう世界に一人で駆け抜けていったんですよ、みたいな。
そんな感じなんだよね。
なるほど、ちょっとパラメディレスの立ち位置みたいなものが見えてきた気がするね。
分かった分かった。
さっきさ、兄貴がなんでそんな風に神話的にというか、女神みたいな感じで書いたんだろうねって言ってたじゃないですか。
意味わかんないもんね。
意味わかんないですよ、なんであえてってなんだけど。
これも完全に僕の想像なんだけれども、
実はもう一個パラメディレスにはこういう主張をしたっていう話があって、
どういうものかっていうと、体験と言語、言葉は分けられないっていう風なものなんですよ。
どういうことかっていうと、要は体験を伴わなければ言葉ってどんなことも言えるじゃないですか。
それこそちょっとビトゲン社員っぽいんだけど、要は実際に何も対応しない。
要はその世界にそれはないんだけど、例えば言葉の上では、
明日の今日は昨日で来年だみたいなさ、ぐちゃぐちゃなことも言えたりするわけだよね。
さっきの万物は何々であるもそうだけど、言葉の上だったら別に何とでも言える。
万物の根源は俺であるとかって言っても別にいいわけじゃん。
言葉自体はね。
言葉自体は。
でもただそこにちゃんと体験が伴わないと何の意味もなかったりとか、
結局どういう意味って言われたときにも、結局空理空論にそういうことになっちゃうっていう風な話なんですよね。
体験の方はそうで、
例えば俺がこんな体験をしましたっていうときに、
それがどうしても自分の中だけに留まったりとか、
思理滅裂で全く共感できなかったら、
他の人にとってはもうそんなのは起きてないもん一緒みたいになっちゃうわけじゃない。
UFOを見たみたいな話だよね。
街で見たんだみたいに思って。
ちょっと難しいよね、証明するのがね。
そういうときにそれを正しく言葉なりとか、
UFOなら写真とかそういう証拠だと思うんだけど、
そういうものはちゃんと吟味して正しく伝えて始めて、
その体験っていうものが意味があるものになる。
要は人間の社会において意味があるものになっていくわけなんだよね。
そういうことを考えたときに、
やっぱり言葉と体験っていうものを割り切っても気が浅いというか、
両方あって初めて意味を持つっていうこともパルメディスは言ってるんですよ。
相性悪そうだけどね、経理上学的なものとね。
そうそうそう。
なので、
パルメニデスと神秘体験
なんでそんな風に神話的に書いてるのかっていうことにつながると僕は思ったんだけど、
要はパルメディスは実際に多分、
女神の声を聞くというか、
そういう風な神秘体験を通じて、
このあるはある、あらねはあらねっていうことのすごさに至ってるはずなんだよね。
人に伝えるためのフィクションとかじゃなくて、
小手先の話じゃなくて、
当時の信仰心とかを考えると、
ある意味ムハンマルだったりか、
神の声を聞いた、
神じゃないな、神の使いだったかな。
そういう話だよね、そういう神秘体験みたいな話で、
パルメディスが、いわゆる頭の中で、
ああだこうだ考えて、
あらののあらののだって考えたんじゃなくて、
ある意味そういう神秘体験として、
本当に体験してる可能性があるってことね。
これは本当にわかんない。
僕が今というか、
本を読みながら書いて思ったことでしかないんだけど、
ムハンマルとかもそうだし、
空海とかもそういう話があったじゃない。
星がこっちに飛び込んできて、
真理を悟った瞬間の。
瞬間のがあったときに、
その体験みたいなものっていうのは、
その人独自のものだったりとか、
言葉で言えやすいようなことがあったと思うんだけど、
それをやっぱり、
ある種、言葉にしてこそというか、
それを思考として表現してこそ、
ちゃんと伝わるってことを思ったときに、
自分があるはある、あらぬはあらぬってことにたどり着いたものを、
言葉にしようとすると、
そういう体験、要は自分は女神に会って、
女神から真理を聞いたんだっていう体験として、
あるしかなかったんじゃないかなっていう風に思うんだよね。
体験と言葉の関係
確かにそうだね。
さっきの悟るの概念に近いとなると、
確かに言わんとすることは分かる気がして、
悟った人だよね。
空海教官がそうやって悟ったとして、
じゃあその悟りって何ですかって聞かれたりとか、
その悟りに至る道って何ですかっていうのは、
後づけてしかないもんね。
どうやっても。
私はこういう修行をしたら悟れましたとは言えるけど、
これ以上のことはやっぱり言えないわけだよね。
確かに言うと、
あらぬはあらぬ、あるはあるみたいなものを、
きちんと説明せよって言われても、
それがある意味こう、
ゴールでもあり、これもいいです、
スタートでもあるから、
それがある意味、
スタートでもあるから、
そのひらめきに共感してもらうしかないんだよねっていう、
パルメギネスの難しさもあるわけね。
なんでそうなんですかって言われると、
それ以上はまさにスタートでありゴールだから、
説明しようがない。
もうそうだからとしないんだけど、
ただその女神の言葉を、
要は自分が書いて、
ある程度追体験してくれれば、
あなたも体験できたでしょってなるはずなんだよね。
これは科学的ではないし、
ロジカルでもないんだけど、
体験を共有するとか、
自分のひらめきを、
同じようにひらめいてもらうためには、
そういう風に語るしかなかったんじゃないかなって思ったんだよね。
なるほど。さっきハヤトが言った、
ミトゲンシュタインだね、まさに。
論考もそうだよね、確かに。
読んでて、ここまでたどり着いたらまた、
このハシゴはいらなくなるよねっていう話でしかないというか。
ミトゲンシュタインはどっちかっていうと、
論理に基づいて、
この論理をちゃんとたどってくれさえすれば、
たどり着くだろうっていうふうな発想で書いた本だと思うんだけど、
パラメンディスはより体験というか、
女神の声を同じように聞くんだったら、
あるはあらぬ、あらぬはあらぬっていうことの真理っていうものを、
感じるはずだみたいな、
きっとそういうことも含みで書いたんじゃないかなって思うんだよね。
逆に言うと、このような真理は、あることはある、
あらぬはあらぬであるって書いても伝わらないというか、
やっぱりそれなんでってなっちゃうじゃない。
そうだね。それを普通の3文で説明せよって言われても、
伝わらないし怪しさ満点すぎる気持ちだよね。
しかも要は万物は何々であるミームなわけですよ。
万物はAだBだCだとかって言うときに、
あるはあるなんだとかって言っても、
全体が揃わない。
だからこそ、女神の話だって言ったときに全く全然違う。
まさに兄貴も領域というか、レイヤーが違うねって言ってくれたと思うんだけど、
投げかけることの言葉の意味というか、強さというか、
ものが当時の状況を想像するにあったんじゃないかなって思うんだよね。
たぶん本を書いてるんだもんね。
人に伝えてるはずだから。
確かに、まずは聞いてもらう、見てもらわないと始まらないってとこもある。
そうとしか語れないっていう部分と、
フォロワーの思考と哲学
みんなに見てもらうっていうテクニカル的な部分もあるかもしれない。
これはあくまでも僕の個人の感想でしかないから、
全然これが正しいですとかってことではないんだけれども。
この辺はハヤトが読んだ中ではなかった?
特にない。
なんでこんな古めかしい感じでやってるのかが特に増えられてる。
ハヤトが読んだ中ではなかった?
ハヤトが読んだ中ではなかった?
ハヤトが読んだ中ではなかった?
ハヤトが読んだ中ではなかった?
ハヤトが読んだ中ではなかった?
ハヤトが読んだ中ではなかった?
やっぱりある種それが、
伝統的な語り口あるっていうのは間違いなくて、
ギリシャ人からの特有の詩を通じて
表現した話な동きますが、
僕も思ってるんやけど、
なんでわざわざ詩の形では Imago ex Cathedra are used?
わざわざそんなさ、あるはあるとかってよくわかんない中枢的なことを、
なんかそんな神話的なことで、そもそも神話的に書いたってことを知らなすぎたから、
あー、そっかそっか、はいはい。
僕もね、なんでだろうって思ったときに、
もう1個の体験言葉が分けられないってことを見たときに、もしかしてって思ったのよ。
あー、なるほどね、そっかそっか。
やっぱ読書って体験材、読む人からしてもさ、
やっぱりファンタジーとか読むときに、ある種言ったこともない異世界とか、
主人公の辛さを自分も体験するとかっていうものがあったときに、
そういうふうに体験させるっていう効果を狙って書いたとかっていうのは、
なんか十分あるんじゃないかなみたいな。
うん。
なるほど、わかったわかった、そっかそっか。
うんうん。
その分かったっていうのは、
最初はさっきのハエトの話だったり、自分の話の繰り返しみたいにはなっちゃうんだけれども、
今それが、自分の主張だったりとか考えを世に、そうやって古めかしい形で発信するっていうことが、
すなわちパルメニウスにとって、すごい整合性があるんだなっていうのがわかったっていう話かな。
なるほどね、はいはいはい。
それがさっきマーケティングだとか、体験として語るみたいなかな?
そうそうそう。
マーケティングというよりは、それもあるだろうけど、確かに本当に整合性なんだろうね。
その体験っていう概念が、こっちは言葉であるみたいな話で言うと、
自分のこの考えを語る、人に伝えるときの形としては、確かにベストな感じがするよね。
その3分のこれはこうであるって、授業みたいに教えるみたいな形よりは、
本当に体験してもらうっていう。繰り返しだけど、その整合性がすごいバシッといった。
そうそうそう。今ちょっとパルメニウス目線に立って話そうっていう話だと思うんだけど、
今みたいな兄貴の参画を持ってくれると、前回のソフィスト界でゴルギアスっていう人が出して、
ソフィストの観点から何者も存在しないっていう主張を通じて、パルメイウスを論破したみたいな話をしたじゃないですか。
逆にゴルギアスはソフィストとして、別に心理がどうとかってことじゃなくて、
相手の主張をもつれさせるというか、ある種を崩して、自分の方が正しいって言わせるって話だと思うんだけど、
逆にレイヤーの違いってすごく浮き彫りになるかなって思うんですよね。
パルメニウスをやろうとしたのは、別に言葉の上であるはある、あらぬはあらぬっていう、
それを例えば以降の命題として、その正しさを主張しようとしたってことじゃなくて、
そうじゃなくて、いわゆる体験が伴わない、万物は何々であるとかって時に、
リンゴだとか、俺が万物だとかって言ってる人がいたとして、それって本当に体験ともなってるのと、
本当に真理を語ろうとするんだったら、自分が体験したこととか、
自分が本当に心から実感して信じられるものを語るべきじゃないかっていうふうな、
そういうことを言おうとしたんじゃないかっていう話なんだよね。
なるほど。
自然哲学が科学っぽい仮説と検証みたいな話をしたけれども、
違うね、これ。この明太子派的な自然哲学的な振る舞いと、
このカルメニウス的な本当の意味での体験と言葉と仮説、検証、
たぶんこっちもあると思うんだけど、その中に組み合わせみたいな感じの指摘がね、
いわゆる単純的なっていう。
そうだね、そうだね。
やっぱり今の現代科学で言うと、当然、水っていうのは分子で原子とかいろんなことが見えて起きてるけれども、
でも今の科学でも本当にそれを体験してますかとか、本当にそれが実証できてますかって言うと、
やっぱりできないことも多いわけだよね。
数式では表現できるけどとかさ。
言葉だけとか数式だけならどんな壮大な宇宙の話もできるし、
11次元の幕があって、そこから3次元の世界ができてるとかってことも論証というか証明はできるわけだよね。
でもやっぱりそれが、じゃあ実体が伴ってますかとか、本当にそこにある種自分も入り込んでますか、
その世界に入り込んでますかって言うと、多分違う人も多いだろうと。
11次元とかって話をしてる人の中にどれだけ自分も11次元の存在であるっていうふうに思えてますかって言うと、
思えてる人ってすごく一握りだと思うんだよね。
あー、それ、なるほどね。その一流の中同士のさらに超一流と一流の攻め合いみたいな、すごいレベル高そうな話みたいな。
そうそう、レベル高い話だと思う。
ありそうな話だね。
手伝う人に関しても、例えばタレスとかは本当に、やっぱり万物は水だって言って、水っていうものにすごい自己同一したかもしれないし、体験したかもしれない。
それはそれでOKなんだけど、
例えばそのミームとして広がってる世界を想像するときに、多分なんか言ってるだけとか、
なんか理解して頭で話すだけで、結局実感ともあってねえじゃんっていう人もいたとする。
やっぱり自分もそのパルメイネス、ここも全部想像で、だからちょっと想像なんだけど、
パルメイネスはある種神秘体験かもしれないけど、ある種女神から聞いたような形で自分というのは真理を本当にある種信じていると。
そういうときに、そういうところから出てる言葉とか発想って思いで、それまで実学っていうものを乗り越えようとした。
そういうふうな営みだったんじゃないかっていうふうにやっぱ思うんだよね。
なるほど。
ああ、そうか。ちょっと混沌としたタレスのミームが流行っちゃってる世界からすると、やっぱちょっとある意味ソフィストたちも思ったと思うんだけれども、
このパルメイネスもちょっと違くね、みたいなものは、たぶん、もやもやと感じてはいったはずだったんじゃないかなっていう。
健康と哲学の相互関係
あれでしょ。例えば、タレスみたいな人が、健康は食事が9割みたいな本を出したとして、
はいはいはいはい。
その弟子が、健康は運動が9割みたいな本を出してて、
はいはい、出すよね、出す出す。
世の中にいろんな健康は、呼吸が9割みたいなのとか、健康は睡眠が9割とか、いろんなたぶんめっちゃ広くなったと思う。
売れそう、売れそう。売れると思うわ。
でも、健康は立ち方が9割、もうなんかめっちゃボチャボチャして、意味がかない世界で、全部正しそうだと、9割って言ってるしみたいな。
はいはい。
バンパーツはまだ言ってないしね。
そうね。
ときに、パルメイネスが全く違う概念を出すみたいな。
そうね。
健康は生き方そのものであるみたいな、全然なんか違う話をしてるみたいなさ。
そうそうそうそう。
健康はあるのであるみたいなさ。
だからそう考えるとなんか、面白いよね。面白いし自然ではあるかなとは思うよね。そのヘキヘキとする感じで。
そうそう、流れとしてね。
結局何なんだよって、そうそうそう。
みたいなことがやっぱり行われていたんじゃないかろうかと。
逆にゴルギアス、ソフィストから言わせると、
あるはある、あらねはあらねっていうのは言葉としても明らかに矛盾してるし、
体験がとかって言うけど、逆に言うと、お前リンゴ食べたら亡くなるだろうって、その体験はどうなるんだよってなるんだけど、
それも言葉の上の話なんだよね。
言葉と体験の論争
だからゴルギアスっていうのは言葉上の論理的な矛盾を示すことで、
パルメイネスの主張をある種なくそうと批判しようとしてるんだけれども、
本当にパルメイネスを批判したいんだったら、否定したいんだったら、
そもそもあなたの神秘体験っていうものが嘘であるっていう、そこまで否定しなきゃいけないんだよね。
一旦そこまで同じ土俵まで理解しなきゃいけないんだよね。
一回悟らなきゃいけないんだよね。悟りを否定するにはね。
否定するにはね。
本当にそういうのをやりたいかとか、やる必要があるかってやると難しいし、
とりあえずやっぱり宗教談義になっちゃう。
例えば、お前の神はいなくて俺の神はいるんだよとかさ、
キリストはいなくてブッダはいるんだよとかって、よくわかんないことになっちゃう。
なりかねないのか。
なりかねない。
悟ろうがいいけれども。
そうそうそうそう。
俺は悟った人談義になっちゃうと、
そういう、お互いの根源を否定し合うみたいな感じになってしまいますよね。
だからやっぱりそれがいいかどうかっていうのはあるんだけれども、
要するにゴルギアス・ソフィストと、
哲学者・パルメイネスの議論みたいなものを考えれば、
そこまでレイヤーが全く合ってない。
そういうことがわかるんじゃないかなと思ったりしましたよ、という感じなんだよね。
それが言葉と体験っていうレイヤーだよね。
やっぱりそれが分けられないっていうふうに考えているパルメイネスと、
言葉は言葉の世界だとか、
ある種、言葉で人を操れるというか、
伝導して政治を思いで回り抜けるっていうのはソフィストだし、
ある種、言葉だけじゃないとは思うんだけど、
万物はないないだよっていうふうにないないだよっていうものを変えていくことで、
真理にたどり着けると思っている哲学者っていうところも、
もしかするとパルメイネス目線から見たら同じように見えてたかもしれないよね。
そうだね。今度ゴルギアス、ソフィスト目線で言うと、
体験っていうところの定義も違くないそうだもんね。
そうね。
要するにパルメイネスは、仮に神秘体験みたいな感じで閃きがあったとすると、
それは体験なのかと。
ゴルギアス言ってたよね、人に伝えられない体験は体験ではないみたいな話があったと思う。
確かね。だから認識とか、何か神秘体験も、きちんとある意味に伝えられなければ、
存在しないというか体験じゃないから、人の同意も得られないし、
本当の意味での社会においての真理みたいなものにはなり得ないみたいな。
それはすごい現実社会としての説得感、納得感が高かったなと思ったからね。
パルメイネス的にこのひらめきが本物であるとか、
例えばいろんな万物はまるまるである人を見ると、
なんか三流から一流まで混ざってんなっていう、もやもや感みたいなね。
そこもわかる気もするしね。
そうね。
やっぱりそういうふうな、パルメイネスの視点に立った時に、やっぱりそう主張せざるを得ないというか、
やっぱりそういうことにたどり着いた時に、やっぱりあるはある、あらねばあらねというところの、
明らかに間違っている現実世界においては違和感があるし、
そんなことおかしいよねっていうようなことも言わざるを得ないような、そういうふうな世界があったんだろうなと思うし、
逆にそれを言ったからこそ、この後の世界、この後の哲学の世界っていうのは、やっぱりパルメイネスと戦わなきゃいけなくなっちゃいますと。
へー、まあそっか、そうだね。
どういうことかっていうと、あるはある、あらねはあらねっていうことをどう土台にしてやっていくかというか、
例えば、変化しないとかって言ってるわけよ、パルメイネスは。
変化っていうのはやっぱりあるからないになることとか、ないものがあるっていうふうに変わることだから、
それをある程度禁止するんだよね。
だった時に、ヘラクレートさんは完全変化だったじゃん。
変化、あれはAがBになってCになってっていうふうに言えたんだけど、
パルメイネス以降の人は、変化をしないっていう世界観において、
どうやって物事がたくさんあるっていうことを説明するかとか、
どうやったら物事が生まれてるっていうふうに見える、我々の認識っていうものを説明するかとか、
そういうふうに物事を考えなきゃいけなくなったんですよ。
でもなんでそんなに破壊力があったんだろうね。
ある意味そのまま万物はミームの方から無視されてもいいわけじゃん。
分からなすぎてね。
それはね、破壊力がありそうなのがあって、そこに縛られるというかさ、
デモクリトスの位置づけ
そこが新たな土台になるみたいなのって、何だったんだろうって。
それが具体的に言えないんだけれども、それはそれで一個の真理だよなとか、
ある種哲学者からしても確かに我々、変だっていうものに囚われすぎてたとか、
そもそも確かにこの枠、要はさっき言ったような平穏性があって、
その中でどれが正解かを見つけるようなゲームに参加したっていうふうにやっぱり理解をしたんだと思うんだよね。
だからその万物ミームの方の人たちの、いわゆる一流的な人たち、本当に頭いい人たちは確かにと思っちゃったんだね。
おそらくそうだと思う。
だからやっぱりゲームのルールがこうやって変わっちゃったっていうことに、やっぱりパズルを得なかったなと思うんだよ。
なるほど、なるほど。
だからこそ、これはいいね、例えば祝だけど、やっぱりそれに乗っかんなきゃいけないとか、
それこそ仏教もそうだよね。要は大乗仏教と小乗仏教だったときに、
お前ら自分だけ救われて、他の人の幸せどうするんだよって言われたときに、
そんなもの関係ない、自分は自分の幸せだけでいいんだとは言えないような世界があったのと同じような感じで、
別にあるはあるとか言ってなくて、万物探し、この世の根源をもっと探せばいいんだっていうふうには済ませられないような世の中もあったんだと思うんだよね。
なるほど、なるほど。
そういうふうな想像になっちゃうんだけどね。
そういうふうなパルメイデスのあるものはある、あるものはあるという主張、
これに乗っかっていろんなことを考えていろいろやるんだけれども、
その中の一人が名前だけを出しているデモクリトスなんですよと。
デモクリトスは原始の人だよねとか、アトムの人だよねっていうふうになってると思うんですけど、
これも明らかにやっぱりパルメイデスの議論を踏まえて話してる人らしいんだよね。
え?あ、そうなの?
うん。
そうか。万物はアトムであるって言ってるじゃん。
言ってない言ってない。
違うんだよ。
万物アトムであるとは言ってないんだよね。
言ってないの?そうなんだ。
完全にその万物側の人だと思ってた。
ちょっと待ってね。何て言ってるかっていうと、万物がとか言ってなくて、
原子論の完成者がデモクリトスだって言われてて、
彼はですね、あるものはあるものに少しも劣らずあるって言ってるんですよ。
へー。
もうパルメイデスじゃん、もうこれ。
いや、そうだね。そうなんだ。
パルメイデスじゃんっていうか、パルメイデスを引いてるじゃん、どう考えてもね。
そうだね。の上で、上に立ってる。確かに。
の上で、そうそうそう。でもあらんでものがあるって言ってるんですよ、デモクリトスさんは。
はいはいはいはい。
これが何でとか、そこが何で原子につながるのっていう話を次回やって、
ソクラテス以前の哲学者の話っていうのを一回終わりにしないとと思っておりますよと。
なのでちょっと今回ね、あんまりパルメイデスが深い話を深く掘り下げたって感じじゃなかったんだけれども。
そうね、そこは聞こうと思ってたけど、そこはあえて。
うん、あえて。そこの議論って、さっき言った通りスタートでありゴールだから、
パルメイデスを深く知るっていうよりは、その後のデモクリトスを知ることで、
あ、そんな風に、やっぱりこのミルトスさんの議論と変わるのねとか、
そういう発想をしないといけなくなっちゃうのねっていうことが、後の人を見たほうがわかるんだよね。
そういうことか。普段だったらここから、じゃあパルメイデスのあるあるって具体的にどういう話だったんだろうねっていうさ、
そういう風にいくのかなと思ってたからさ、あれって思ったけど、そうか、
今日話した通りこれ悟りみたいな話だから、あんまり深く言ってもおかしくなっちゃうのか、逆に。
面白いんだけど、やっぱり神話的な理解とか、話的になっちゃうから。
あー、もう結論が、ある意味結論ありきだからね。
結論ありきだから、もうあるはある、これしかないっていうことが結論でしかないから。
なるほど。
なのでごめん、今回はヘシオドスから続く話をした上で、結構発展したね、発展したね、世界観変わってるねって言ったじゃん。
でもこのパルメイデスでさらに世界が広がって、それこそ啓示条約っていうものがちゃんとできてくるわけよ、後で言うところ、後のように言うところ。
それを踏まえて考えた人のデモクイトスってものを見ることで、
そこからさらにプラトン、ISISが発展させていくんだけど、
だからその3人がこんなに手強く発展させられたんだっていうところの、まさに第0話みたいな話の、
これ多分12話アニメがあるうちの、今10話くらいまで来たんだけど、パルメイデスで。
そうなの。
まさに転換点としてのパルメイデスっていう話をさせていただきましたっていう感じだね、今日は。
なるほどなるほど。分かりましたらしい。
いわゆるソクラテス以前の哲学者たちのパルメイデスの位置づけは、
ほんとこんな感じなんだ。具体的にこんな論展開をしてすげえとかじゃなくて、
もうこの神秘体験的なものの、もう一つバーンってこれなんだ。
そう言っていいと思う。もちろんね、あるとは何かとかって話してるんだけど、
それもやっぱり、例えばあるっていうものは奪えないし、滅びもしないし、
もう一つの完全な終わりなきものだとかって話もあるんだけど、
それも言われたらそうかもしんないけど、分からんなって感じになっちゃうじゃない。
はいはいはいはい。
だからそれを掘り下げるともちろんできるし面白いんだけど、
それよりも、そういうふうにある種ゲームのルールになった時に、
パルメニデスの影響
みんなどう考えたんだろうっていう方が面白いんじゃないかなと思って。
はいはい。わー分かりました分かりました。
ちょっとそこはね、不十分な感じがしたんだけども、
ガッツリデモクリトスを見ていく中で、
なんとなくあるあるということだったんだろうな、みたいなところも
少し良いところになるかもねっていう話だった。
そうなるし、ちょっと極論すぎるから、さすがにそれで全部を良しとはできないよねっていうのは、
多分当時の人の悩みというか、
そういうちょっと困惑もある中でどう考えたかっていうことが、
デモクリトスの原子炉にすごい入り込んでくる。
わーなんか面白いね。そっかそっか。
だから当時の哲学者たちを、ある意味メニューですが、
破壊して、
そうね、ひっくり返しちゃって。
その破壊者をさらにソフィストン・コルディアスが論破しようとしてるんだけれども、
なんかその固定さがちょっと面白いね。
ハルウェーニスすごいし、
ゴルディアスは、ある意味、
すごい野望なことをしてるんだけど、
でもソフィストとしては楽しいんだよね。
ソフィストとして、演出世界としては、確かに楽しいことを言ってる。
なんかめちゃくちゃ面白いね、そういう感じ。
そういう学び合いというか、それを発展させるデモクリストスとか、
それに立りつくまでのタレスたちとかって、
いろんな縦と横が繋がってくると、
すごい味が増すというかさ、
踏みごたえ出てくるじゃない、なんか。
というふうなことで、ごめん今回はパレウェーニスの話というよりは、
パレウェーニスが何をひっくり返したのかとか、
どういうことでそれを転換しようとしたのか、
当時の哲学というものを、
という話をお召しましたという感じだね。
次回への期待
分かりました。
今回の楽しみをよりね、ちょっと味わうためにも、
次回でお送りします。
楽しみにしていたいと思いますので、
引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
58:36

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