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2022-09-18 36:54

#42 東洋と西洋の考え方の違いって?「論理学」超入門

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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00:00
(♪ BGM)
はい、それ鉄ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回は、これまで有識、今回やってきたんですけれども、
今回ちょっと難しかったのでちょっと補足があるということで、
ハヤトからですね、どういう話なのかちょっとまたそこも聞いていきたいなと思います。
はい、ありがとうございます。
そうですね、難しかったっていうふうに、兄貴も実際に多分感性とかもあると思うんですけど、
多分ね、東洋哲学的なというか、あるとも言えないしないとも言えないみたいな、
「とも」すると聞く「どっちやねん」とか、「それって聞くということやねん」みたいなことが結構多かったかなって思ってるんですよ。
そうだね、確かに「それだ!」みたいな納得感みたいなものはね、「そうなのかな?」みたいなふわっとした納得感は得られたけど。
そうそう、だから関東の時にもね、「関東は難しい」みたいな話したと思うんですけど、
それともちょっと違う難しさがあったんじゃないかなと思っていて。
はいはい、確かに。
僕も「それってどうやって伝えられるんだろうな」とか思ってたんですけど、
ちょうど最近ね、読んだ本で、山内特留さんっていう、1900年代半ばぐらいの日本の哲学者の人なんですけど、
その人の本でね、非常にいい内容があって、東洋思想とか西洋哲学、もっと言うと、
西洋の論理と東洋の論理っていうものを並べて比較して、それぞれこういう特徴があるよね、とかこういう違いがあるよね、みたいな本があるんですよ。
そうか、論理にも違いがあるんだ。
そうそうそう、っていうのを、ある種、初めて日本で言った人というか、そこに焦点を当てた人で、
現代でも、清岡さんとか中澤さんという学者さんが取り上げて、結構また有名になったみたいな感じなんだけれども、
なんでちょっとその話を今日は雑談的にというか、あんまり固くなく、
なんか、僕自身の理解も含めて、ちょっと西洋哲学の古代からちょっとこんな感じだよねっていうのを繰り返って、
ちょっと有意識を理解できるようになるみたいな、ちょっとそんな感じでね、お話ししていきたいなと思ってましたと。
はいはい、いいね。そもそもそっか、今回聞いてきた話を理解する土台みたいな話にちょっと近いのかな、論議的にどう理解するか。
そうそうそうそう、私も今後やっていくね、西洋哲学は、みたいなところとか、西洋と東洋の違いとは、みたいなところにも繋がるかなと思うんで、
ちょっといいテーミングかなと思って、ちょっとお話ししていこうと思いました。
おー、面白そう。
ちょっと期待を上げすぎたかもしれないけど、まあゆるく聞いていただければという感じですと。
03:05
はい。
はい、で、今回に関しては哲学というよりもちょっと論理学みたいな話に少し入るんですけど、
はいはい、論理学ね、そういう学問があるんだね、そもそもね。
そうそうそう、なんか僕も正直詳しいことはわからなかったりとか、現代の論理学といわゆるアリストテレスとかの時代の論理学って結構違うよとかってことはあるらしいんですけど、
はいはい。
まあ割と素朴な話ですと。で、ちょっとね、その東洋を理解するっていう前に、やっぱ僕らとその西洋の考え方とか論理に馴染んでるからそっちから話すんですけど、
はいはい。
まあ一番最初その西洋の哲学で、何から始まったかみたいので言うと、タレスの「すべては水である」みたいなところからなんだけれども、
うんうん。
みたいなところで言うと、ソクラテスンとかちょっとだけ触れたんですけど、パルメニレスっていう人がいますと、
うんうん、名前は出てきたね。
そうそうそう。で、そういう人が何を言ったかっていうと、あるものはあるみたいなことを言ったのね。
うんうん。
で、これって言葉だけ聞くと、いやそれはあるでしょみたいな。
そうだね、それこそ哲学的ななんか、いじられそうだな。
そうそう、どういうこと?っていう感じなんだけど、要はこれを論理学っぽくちょっと記号で言うと、
AはAであるみたいな感じなんだよね、その表し方として。
はいはい。
で、これは当たり前なんだけど、それ以外に言いようがないよね、とか、それまで全ては水である、いや火である、空気であるみたいな、
いろんな議論があった中で、いやもうAはAだ、全ては全てだ、とか、あるものはあるんだっていうことを言ったっていうのは、
なんだろうな、ある種そこから全ての議論が始まるみたいな意味で、すごく本質的なことを言っていたよね、みたいな捉え方をされたりしますと。
はい、逆に言うと当時っていうのは、そのAはAである、そこにあるものはあるんだよ、みたいな表現が当たり前じゃなかったってことだよね、逆に言うと。
そうだねそうだね、2500年前とか600年前のギリシャとかだと、それが当たり前じゃなかった。
目の前に何か見えたとしても、人口が見えたとして、いやこれは水でできてるんだとか、いや土だとか、そういう話をしてたりとか、そもそもちょっとそういう理解すら、
そういう論理的な話すらしてない中で哲学者が、これは水だとか、頭いい人たちはそういうふうに話してたけれども、みたいな、そういうレベルの話ってことだよね。
そうやって捉えていただくとめっちゃありがたいんだけど、まさにそういう世界観の中で、あえてあるものはあるんだということを言いました。
06:01
その次がプラトンの話なんだけれども、みんなご存知、イデアってのがあったときに、プラトンは、あるもの、目の前のものはイデアの写し、要はイデアがあって、それが現実に出ているものがあるもの、目の前のものであるというふうに言います。
幻想界の話だね。
そうすると、幻想界とイデア界の話だったときに、つまり論理学的に言うとAはBであると、目の前のAっていうのはイデアBであると。
だから、レメイディスのAはAであるから、プラトンでAはBであるっていうふうに変わったんだよね。
おー、すごい。面白いね。プラトンもAはAであるとかって認識してたっぽいと思ったけど、こう言われると、確かにAはBだね。
面白い。
面白いのは、目の前のものとイデアっていうのは絶対的に違うもの。要はイデアが本質で、目の前のものはある種偽物みたいな影みたいな感じだから、本来的には交わらないんだよね。
はい、そっか。厳密とイコールではないってことか。
そうそう。
面白いね。
だから、リンゴはリンゴのイデアの写しであるとは言えるんだけど、リンゴとリンゴのイデアは全然違うものだよっていうのがプラトンの二元論的な世界です。
はいはい、なるほど。
そっから実はアリストテレスっていうのが出てきて、論理学って長くアリストテレスの論理学だみたいに言われたんだけれども、西洋では。
はいはい。
ここで三段論法っていうのが出てきますと、よく三段論語って聞くじゃん。
ちょっと改めて説明すると、例えば全ての動物っていうのは生物であると、全ての人間は動物であると。
だから全ての人間は生物であるみたいなのが三段論法ね。
うんうんうん。
これを記号で言うと、AはBであると、CはAだ。だからCはBであるっていう。
本来関係をつないでないBとCっていうものをAを題材にしてつなぐっていうのが三段論法ですと。
うんうんうん、はいはい。
いう意味で言うと、パルメイディスはAについてしか言ってませんでしたと。
で、プラトンはAとBって言ってたんだけど、そのAとBは全然違うものでしたと。
で、アリストテレスはそのAとBに対してCとか、あとABCという三つを立てることによって、それをちゃんとつなぐっていうことを言いましたみたいな。
はー、なるほどね。これがそっか、啓示定学の始まりってことか。
09:04
啓示定学、論理学の始まりなのかな。
論理学なのか。なんか、そう、これができることで初めてなんかね、今目の前で見てないものとか、経験してないことみたいなものについて語ったりとか想像することができるようになるんだろうなーみたいな感じがちょっとしたから。
あー、はいはいはい。それで言うと、語ることはできるんだけど、それがある種納得感を持つとか、誰もが理解できるみたいになったのがこの論理学っていう感じかな。
うーん、はいはいはい、なるほどね。そういう想像が先にあったとして、それを証明だったりとか伝える手段としてみたいな感じか。
そうそうそう。やっぱそれまでのお話的に、誰かが水だって言ったとか、誰かがヒルだって言ったみたいな感じになるんだけど、
あれ、サティレスになって初めて、こういう構造で、要は論理的に正しいとか、ロジックが繋がっているから、この主張は正しいとか、間違っているとかっていうのが言えるようになりましたと。
そう、みたいな感じで、すごい単純化したけれども、そういう論理的な流れがありますと。論理的なというか、論理学に関する流れがあるっていうふうに言えますと。
で、例えば、本当は別のもの、例えばAとBとかイディアとリンゴとかっていうのが繋がるには、その間がないといけないよねと。
要は、イディアがいきなり生まれ変わってリンゴになるわけじゃないから、その間にプラトンはデミュールゴスみたいな、要はその媒介者というか創造者みたいなことを作ったんだよね。
ただ、西洋哲学というか論理学だと、その間、要はAとBの間に何かがあるっていうのは認めませんと。
それを表すのが、その3つの率というか、基準というのがあると言われていて、それが、同一率、矛盾率、排中率と言われるものですと。
言葉としてあんまり聞き慣れないと思うので、一個一個説明していくと、同一率は、まさにパルメディですが言っているような、AはAであるとか、あるものが正しいみたいなことなんだけれども、
例えば、ソクラテスは人間であるっていうのは正しい、疑う用がないですと。
矛盾率というのは、ある言葉とか主張と別の主張が一緒には成り立たないっていうことで、
例えば、目の前に赤い花があったとして、この花は赤いっていうのと、この花は赤くないっていうのは一緒には成り立たないよね。
そうだね、同じ花はそうだね。
そうそう、だからどっちかが間違ってるか、僕は赤い花って言ったから、赤くないって言ってる人は別の違う花を見てるのか、色の認識が違うのか、その人が間違ってるみたいになるじゃない。
12:12
そうね、そこで問題が起きるね、認識に対する。
そうそう、なので、それはある種矛盾しているとか、両方成り立たないっていう、要は否定とか真偽の偽ですよ。
あと、対中率っていうのは、どっちかにしか偏らない、どっちかにしか結局結論はないですよっていう話で、
例えば、明日は晴れかもしれないし雨かもしれないみたいになった時に、晴れのち雨とか、雨のち晴れっていうのはあるんだけど、同時に雨も降って晴れることはないじゃない。
まあね、お天気雨はあるけど、とりあえずね。
まあ、お天気雨ある。
まあ、ないとして、例えだから。
例えとして、まあでもそれはお天気雨でも雨は降ってるから、みたいな感じで、要は晴れるか雨かっていうの間に、どっちでもあるとか、その間ってのは認めませんよ、みたいなのが、論理学的に定められてます。
なので、現実ではもちろんグレーゾーンっていうのがあるんだけど、西洋の伝統的な論理学っていうのにはグレーゾーンっていうのがないんだよね、基本的に。
うんうん。さっきのその矛盾率と対中率の違いがちょっと今の例だとわかりづらいかな。
あ、そうだね。
同じ、なんか、花か天気でどうしてやってもらえると。
はいはいはい。あ、なので矛盾率で言うと、今日は晴れているっていう人と、今日は晴れではないっていう人がいたときに、どっちかが間違ってるよねっていう。
うん。
あるいは、いる場所が違うよねとかっていう、現実で言うとね。
はいはいはい。
全く同じ、あの場所にいる人が、今日は晴れている、今日は晴れてないっていう風な、両方の主張が成り立つっていうのはないよねっていうのが矛盾率。
対中率の方は、例えば明日は晴れるだろうみたいな、明日は晴れか雨だろうみたいなときに、明日になったときにはもう晴れか雨かが決定する。
うんうんうんうん。
だから、その間はない。雨でもあり晴れでもあるとか、なんかそういうのっていうのは基本的に認めないっていうのがこの対中率です。
あー、はーはーはー、そっかそっか。この3つの仕組みがあるよってことか。
うんうんうん。
それが同時に、全部満たすとかではなくてね、あらゆるものが。
あ、そういうことってことか。
うんうん。やれば大丈夫だと思う。
ある主張とか、論理学で言うと明細とかって言うんだけど、それに対してこういう3つの関係性が成り立つよとか、これが成り立たないとさ、論理学じゃないよみたいなことを言います。
15:05
はいはいはい。なるほど。
なんとなくね、論理とかロジックっていうとそうだと思うんだよね。やっぱりロジカルシンキングとかでも、細かく分けてとかミーシーでとか抜け漏れなくみたいな感じなので。
なんか、この意見はどっちにも入るよねってなったら、その瞬間にお前それロジカルじゃないよみたいに言われるようなイメージをしてもらえるといいかな。
うんうん。はいはいはい。了解です。これ以外の、この3つの立派、以外の話をしているってことはちょっと意味わかんない話をしているよねって言われちゃうってことなの?
そうそうそう。アリストテレスの論理学ではっていう感じなんだけど。
そうそう。で、その冒頭ね、お伝えした山内特留さんっていう方の本で、まあ本でいくと、こういったものをロゴスの論理っていう風に言いますと。
ロゴスっていうのは結構西洋哲学のキーワードみたいな感じで、まあそれだけでもなんかすごい色々な話があるから一旦ロゴスっていう言葉なんだよって入るんだけど。
で、今お伝えした通り、だから西洋哲学とかその西洋の論理学っていうのは、ある種AとBって読まれた時に、それがどっちかが正しかったらどっちかが間違っているとか。
うんうんうん。
そういう感じで、ある種白黒はっきりつけるグレーゾーンがないですよっていうのが前提にあるんだよね。
はいはいはい。
で、一方で今回そのお伝えしてきたような、その空とかその有意識とかっていうものって、散々お話し通りすごいグレーゾーンがいっぱい出てきますと。
そうだね、なんか全部そう、絶対的なものはないとかね、相対的なものでしかみたいな感覚があったからね。
そうそうそうそう。なので、改めて言うと、東洋のっていうか、もっと言うとインド哲学の流れにある仏教みたいな論理って、
例えばね、世界はあるのでもなくないものでもないのだとか、あらゆるものは空であり、空はあらゆるものだみたいな、色即是空、空即是色。
みたいな感じで、どっちやねんみたいな。
はいはい、これを大真面目な顔して頭いい人が言ってるってことだよね。
そうそうそうそう、みんなけんけん学学議論してこういうことをすごい言ってますと。
で、こういうのを山内さんという方は、レンマの論理って風に名付けましたと。
ロボスとレンマっていう本がまさにあるんだけど、これはレンマっていうと言葉的にイメージ分けづらいんだけど、ジレンマっていう言葉があるじゃない。
ジレンマっていうのをレンマがまさにこれで、ジレンマっていうのは二つのある種ロジックというか主張がある中で、
やはりどっちにも寄れないとか、矛盾はしてるんだけど葛藤もしているみたいな状態がジレンマとしたときにそれがレンマですと。
18:03
つまりその肯定でも否定でもないとか、あるいは肯定でもあり否定でもあるみたいなことを、ある種論理的に扱うのが東洋のレンマの論理なんですよみたいなことを言うのね。
レンマは造語なのかな先生の?
もともとギリシャにも語源というか言葉があったみたいなんだけど、それをちゃんとこれがレンマだみたいに言ったのは山内さんが始めたのかな。
なるほど。
っていう感じです。なので僕もこの本のときにはなるほどと思ったんだけど、やっぱり僕らってある種白黒はっきりつけるとか、正しいものがあったら他のものは真実じゃないみたいな。
それを結構発想できているんだけれども、僕はそうじゃないところで話しているよねと。だからわかりにくいんだよねみたいなことを結構感じたのね。
もっと言うと、僕らって白黒はっきりつけて、結構切り分けて、さっき言ったロジカル神経みたいな感じで、現実を切り刻んでね、ある種取り扱いやすいものとか目に見えるものにしていくっていうのに結構慣れていると思います。
逆に言うと、特定できないものとか、これだっていうふうに言い切れないものは扱えないとか対象にできない。
うん、そうだね。認識の対象外だったりとか、ちょっと取り扱えないよねっていう。
そうそう。例えばまさに人の心とか、情報とか意味みたいなもので、もちろん情報学とか心理学みたいな感じで、何とか取り扱おうとしてきた歴史はあるんだけど、それはそれで。
でもやっぱりそれで本当に心理学で人の心がちゃんとわかりますかとか、今自分の心とか、今兄貴の心っていうものを捉えられますかっていうと、なかなか難しいよねっていうのがあったりします。
はいはい、まさにロゴスの論理側から切り刻んで理解しようとしてるだけだよねとも言えるってことだよね。
そうそうそうそう、まさにその通り。ここからはちょっと山内さんの話っていうよりは僕自身の話、僕自身が考えてる話なんで、そんな話もあるんだぐらいに聞いていただければと思うんですけど、
いわゆる古典力学的なというか、物が固定されてた時代、ある物はあるしその存在って揺らがないよねみたいな時代だったら、結構ロゴスでよかったですと。
要は目の前のリンゴは、隣にあるブドウとは違うよねみたいな、世界ならいいんだけど、今例えばその、やっぱ1900年代にこういろんな科学的な知見も発掘される中で、
21:09
例えばその相対性理論、アインシュタインの相対性理論とか、あと量子力学、素粒子みたいなすごい小さなミクロな世界とかを見る中でいくと、ある種特定できないものというか、確定できないものっていうのが現実にもあるよねっていうのが見えてきましたと。
はいはいはい。
なんかシュレディンガーの猫とかって聞いたことある?
うん、そうなんだよ、かっこいいからなんか知ってる。
みんな大好きじゃないですか。大好きな人も多いなって思う。
なんかで絶対、小説だったりマンガとかでも。
そうそうそう、すごい誤解されて広まっちゃってるってのはあるんだけど、わかりやすいからちょっと改めてお伝えすると、ご存知の方はご存知の通り、箱があってその中に猫がいるってなった時に、例えば毒ガスかな、なんかそれを入れますと。
その時に猫が生きてるか死んでるか開けてみるまで観測者にはわかりませんよねみたいな話があった時に、これ観測者にはって言わないとすごい間違っちゃうんだけど、だから箱の外にいる僕らからすると、その中の猫が生きてるか死んでるかはわかりません。
でも猫にはわかってますよねと。
うん、はいはいはい。
自分が生きてるかは、生きてるんだったら自分を認識できるし、死んでるなら認識できないとか、そもそも認識する事故というかね、それがないよねってなった時に、これがある種主観であったり実存であったりして、
実存っていうのは、また今後ね、静鉄哲学の中で実存主義っていう、結構一派というか流派みたいなのがあって、それもまた扱っていこうとは思ってるんですけれども、
ただ、ある種一般的な人とか猫じゃなくて、今箱の中にいる私としての猫みたいな時に、それって主観だし、ある種現実的に存在する私みたいなものがあった時に、
やっぱりその、なんだろうな、世界っていうのは自分の主観で語るしかないというか、自分の主観から世界が立ち現れてくるっていう、まさにこれって有意識の考え方じゃない?
うーん、そうはね。
そういった考え方にも、一定の説得力があるというか、箱の中にいる猫と箱の外にいる人間と比較した時に、箱の中にいる猫にしかわからない世界とか、
現実っていうのがあるよねっていうのが、まあまあそうだよねって言えるかなと思うんだよね。
はいはいはい。そこはそうだよね、なんか一緒くたにしたりとか、俺は全部わかってるとか、相手がわかんないとか、ということの意味のなさみたいなものってことに近いのかな?
24:08
あ、そうそうそう、まさに。だから猫でも外にいる観測者でもない、ある超越的な視点としての自分みたいな感じで、世界を捉えることって意味があるんだけとか、
そこの視点に立つことって、どういうことなんだっけ?みたいなのが結構大事な視点だったりするんだよね。
確かにね。
なんでその、まあ今ね、ちょっといろんな話をしたけれども、やっぱりグレーゾーンがあるとややこしいし、直感的な理解がすごく難しいじゃないですか。
うん、確かに。
あとやっぱり脳科学的にも言われてるらしいんだけど、脳って曖昧な状態を嫌うらしくて、要はエネルギーを使っちゃうから、
そうだね。
うんうんうん。だからやっぱりこうね、決断したいとか、落ち着かせたいというのがあるらしくて、
その思考というか脳の作りとロゴスっていうのはすごく信用性が高いよね、みたいな話もあったりします。
はいはい、なるほどね。それを人間、一人の個体として見たときもってことなんだね。社会が動向じゃなくて。
そう、生物的なというか、神秘科学的な観点から言ってもそうだよね。
ただやっぱり、そういう思想とか仏教の思想を理解しようとしたりとか、もっと広い雲のことを考えようと思った時には、やっぱりそのロゴスを超えなきゃいけない。
そうじゃないと、ただ何か繰り返し言ってるなとか、あるとかないとか言いやがってみたいな、ナンセンスだみたいな感じにやっぱり捉えられちゃうし、
だからその、理解するのが難しいんだけれども、やっぱりそういうのをある種ちゃんと理解しようとするには、
自分がどういうロジックとか論理で物事を捉えているかとか、どういう観点である種世界と関わってるかみたいなことを認識できると、
逆に仏教とかもある種理解しやすいよねみたいなことをちょっと思ったりしましたと。
はいはい、なるほど。その前提、条件をちゃんと、拝見をきちんと理解しておく。もしくは、2人で話すんだったらお互い理解しておくとか、
あと本とか何か書くんだったら、そこまでちゃんと説明しておいた方が相手の理解も深まるかもねというか、正しく理解してもらえるかもねみたいな、
まあそれはやっぱり、あれなんでエネルギー使うけどねっていう話はね。やっぱり。
そうなんじゃない、私やっぱ本だと難しいなと思うのは、今この本を読んでいるあなたはきっとロゴス的な思考をしておりますみたいな、そのコミュニケーションってめちゃくちゃ難しいんだよね。
そうね、たぶんあれじゃない、3冊くらい書かないといけないじゃん。ロゴスに立っている人用と、あと何ていうの、レンマ側に立っている人用と、あとそれ以外の人用みたいな。
27:05
もうね、そんなことしたらコミュニケーションコストが上がって上がってしょうがないから、だからこそやっぱり仏教だとまず禅とかやって、まずロゴスを超えることで体験させましょうとか、問答とかやって、やっぱりそうじゃない世界を見ましょうみたいなのがやっぱり出てくるんだと思うんだよね。
やっぱり全員、問答法というか、禅の師匠と問答するかというと別にしないし、別にしなくていいと思ってるし。
そうだね、あっという間に一日終わっちゃうしね。
そうそう、みたいなところもあるから、あくまで僕らというか、僕らこうやって今ラジオやる中でなんとなく兄貴と普通話をしながら、そんな方もあるんだねっていうのを聞いている方にもなんとなく伝わったらいいなとは思ってるくらいなんですけど、
今後もやっぱりその西洋とか東洋を行き来しようと思ったりはしますし、西洋哲学というのもいろいろ扱っていこうと思うんですけど、その前提としてこういうことを観点として思っていただけるといいんじゃないかなと思っていて、
例えばやっぱり西洋哲学の中でもロボスの論理の中でも、やっぱりどれだけ個人を大事にできるかとか、自分というものをどう捉えるかというものはやっぱり出てくるし、考え方として。
逆に仏教はもともと個人の感性というか仏になるみたいなのが重視はされているんだけれども、やっぱりその仏になった人がどうやって世界と繋がるんだっけとか、いろんな人と交流していくんだっけっていうのはあんまり実は仏教の中ではちゃんと扱われていない問題なんだけど。
ヨウ:うんうんうん、そっかそっか。仏陀はそこまでもしかすると行ってないみたいなね、仏陀になった後お釈迦様は行ってないってことだよね。仏陀になった後どうすべきかみたいなことまでは語ってないのかな、もしかするとね。
ヨウ:そうだね、もっと言うと仏陀にみんなが仏陀になったら、別に現実社会とかどうでもいいっていうか、そんなもの存在しないから語る必要がない。 そこからみんないなくなっちゃう、絶滅するか、その世界から。
ヨウ:そうだね、人間であることにあんまり価値を置いてない感じがするから。だからあんまりそこは議論されないんだけど、でも僕らはね、この現実社会、地球に生きる人間としてやっぱり物事を考えなきゃいけないから、そういう意味で言うと仏教だけ、仏教的なものだけでもあるし、いい社会って作れないよねっていう感覚もあるし。
うんうんうん、そうだね、確かに今まで聞いた中と、やっぱり西洋、特に古代西洋とかって、もちろん個人向けというよりは、社会、いかに社会とかコミュニティを作ってそれを共通認識だったりとか、同じベクトル向けてみんなでやっていくかみたいな、結構そういう使われ方に近いんじゃないかなっていうのを個人的には感じていて。
30:09
一方で仏教、特に原始仏教の方っていうのは、そういう社会の繋がりとかコミュニティがどうこうっていうのは薄くて、もうちょっと個人に深掘っていくというか、どんどん内に入っていく、そういう違いはあるのかなと思うからね。
それが多分、どんどん現代になるにつれてそれがまた融合してきているというかね。仏教も多分、その後国の統治に使われたりとかってする段階もあると思うんですね。
そういう、そこを何か視点で見るとまたその哲学の使われ方か、どういう背景で生まれて、それがどう使われて、どう育ってきているかみたいなね。僕は個人的にはもっといろんな話を聞きながら深めていきたいなっていうのはすごい感じてる。
本当にそうだよね。僕もそのいろいろ、山内さんの本とか読んだ時に、やっぱりその西洋の哲学っていわゆるポリス、マーティネとかの集団の中で生まれた思想だと思うし、やっぱり集団を大事にするとか、集団の中での自分の在り方みたいなことに直結しているだろうし。
しかも絶対君主が生まれる前の古代共和制というか、民主制かな。
そう、そう、そう的な世界だし、逆に仏教でいうと、バラモンのある支配というか、特権階級がいて、すごくきつい、しんどいという中で、個人として、自分としてどうやって生きていくかみたいなところから生まれたのがやっぱり仏陀の仏教だったりすると思うから、そういったものもすごい影響はしているんだろうなと思ったりしてましたね。
哲学とか論議構造自体も面白いしね、背景とか、その編成みたいなものを合わせて理解することが、またロゴスとかレンマンのさらに背景というか、立脚点みたいな感じで深まればいいなというのがね、そこは個人的には好きって感じがする。めっちゃ個人。
でもやっぱり面白いし、それが分かると、じゃあ今後僕らどうやって考えていったらいいのかとか、どういう哲学が大事なのかみたいなことも多分繋がったりするだろうから。
哲学を共通認識するというか、哲学を対話する、話すという意味の土台には多分なるんじゃないかなと思うしね、その土台とか認識がずれてると哲学の話してても、多分ずれることってめっちゃあるんだろうなっていうのがすごいラジオの話を聞いててすごい感じるしね。
そうだね。なのでやっぱり哲学って言っても本当にいろんなバリエーションもあるし、もっと言うと個人的なものだったりもするから、いろんな歴史の流れはあれども、そういうのをいろいろ人を見る中で、僕自身ももっともっと気づいていきたいし、皆さんにもお届けしていきたいなというところで、
33:21
今回いろいろ話をして、有意識とどう繋がるのみたいなところがあったかもしれないんですけど、最後だけまとめると、次ね雑談でまたいろいろ話したいなと思ってるんですけど、もともと有意識っていうのは、説一切、有無っていう全てはあるっていうところと、空だよね、琉磯の空で、あらゆるものはない、空であるみたいな。
ないとも言えないし、あるとも言えないみたいな、そういうものがあった中で、ある種それを統合するというか、空だとちょっと行き過ぎてるから、有意識というかあらやしきっていうものもあってね、みたいなところに出たのが有意識でしたと。
なので、ある空っていうのは、もちろんないんだけど、それを空だと思う自分はあるみたいな、あるけどないみたいなものから始まってたっていうところがあったときに、西洋の論理とポロの論理っていうのを比較すると、西洋はやっぱりあるかないかとか、真か偽かみたいな結構二言論的なやつなので、ある種、西洋の論理だと有意識は扱えないというか、
やっぱりちょっと正直よくわからんわけわからんもんだみたいになると。でも、東洋の連馬っていう論理でいくと、AとBとか、真と偽の間に、真でもあり偽でもあるとか、真でもなく偽でもないみたいなものっていうのは扱えるので、
結構そういう根底の論理みたいなものが有意識のある種根底にもあるよねとか、空の根底にもあるよねっていう風に見ていただくと、ちょっとわかりやすいんじゃないかなっていう感じでお話をしてきたところでございました。
はい、なるほど。今回は論議、どう西洋と東洋の違いを論理的に理解するか、論議がどう構造が違うかみたいな話。今回聞いた感想というか、これをどうさらに扱っていくかみたいなのは、ちょっと次の感想会とかで実際どうなったかっていう話をもうちょっと緩く話していただいたらなと思うので、
こんな感じかな、そうするとこの構造。面白いね、確かに西洋と東洋を理解するっていう意味で土台となる話をしてもらった気がする。
僕も最近読んでホットだったので、ぜひ皆さんにお伝えしたいなと思って差し込んでみたっていう感じでした。
最後にもう一回、本のタイトルとかをご紹介して、せっかくなんで。
本なんですけど、もともとは山口特留さんの『マロゴスとレンマ』っていう本があるんですけど、基本あんまり手に入らないので図書館とか行かないと。
36:06
わかりやすいのは清香信夫先生という方がいらっしゃって、『間を開くレンマの地平』っていう本があるので、これもわかりやすいかっていうと結構難易度があるんですけど。
今みたいな話を聞いた上で読んでいただけると結構つきやすかったりするかなと思うので、よかったら興味がある方は読んでみてくださいという形であります。
よろしくお願いします。ではまた次回の感想会ということで、ゆるくいきたいと思いますので、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。ありがとうございます。
♪~
36:54

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