1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #221 「こころ」とは何か?時..
2024-06-09 44:30

#221 「こころ」とは何か?時代や場所で異なる「こころ」の定義

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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00:11
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
このラジオは、身近なテーマをきっかけに、哲学について楽しく学んでみようという番組です。
哲学好きの弟と、哲学に馴染みのない兄の兄弟二人でお送りしていきたいと思います。
改めまして、兄の環野翔介です。
弟のハヤトです。よろしくお願いします。
さあ、今回から久々のテーマ2みたいな感じで、「こころ」をテーマというところでした。
はい。結構、「こころ」をやるぞって思ってやってたんですけれども、結構失敗したなって思ってる部分がありまして。
失敗したの?大丈夫?テーマ変える?
いやいや、一応乗り越えたんですけど、想定では、「こころ」って、それこそ結構身近じゃないですか、哲ラジオ的に言うとね。
みんな、「こころ」っていうのは知ってるし、知ってるっていうか、普通に使うしとか。
まあそうだね。なんかすごく身近な感じはするよね。
そうそうそう。だし、テーマ的にもね、例えばそれこそ、「こころとは何か?」みたいな本があって、
なんかね、「こころの歴史とかさ、現代的にはこんな風に扱われてるよ。」みたいな本があるんじゃなかろうかと思ってたんですよね。
ああ、そこはもうある、手に入れたとかじゃなくてあるだろうっていうね。
そうそうそう。探したらあるでしょ、それぐらいって思ってたわけですよ。
ただ思ってれば見つからなかったんだよね。
ああ、そうなんだ。それまでのハヤトが思う「こころ」とはやっぱ違うとか、そういう感じになっちゃうの?
ちょっとその辺りはね、この人とまたちゃんと話していこうと思うんですけど。
思ったよりもやっぱり、「こころ」っていうものがさっさと広いし、
やっぱりね、なんだろうな、そもそもこころとはみたいなもの自体が、いわゆる心理学とかあるじゃないですか、
精神分析とかってあるんですけど、そういうもので扱われるかというと、
個人的な興味としてはみなさんあるんだけども、
学問としてそこに本当に切り込めるかっていうと結構難しいよね、みたいな話があるんですよね。
それこそハヤトが先行してた心理学、臨床心理とかの方ってまさにそこじゃないの?ど真ん中ではないの?
思ってたんだけど、いわゆる臨床心理って心とは何かを解明するんじゃなくて、
いわゆる心に課題とか問題ってあえて言っちゃうけれども、
それを抱えてる方をどう直すかなんだよね、臨床っていうぐらいだから。
03:04
直すっていうか、どうそこにアプローチをするかなんだよね。
なるほど。医学ではないけれども、ちょっとそういうアプローチがあるというか。
そうです。医療行為としては、いわゆる精神科みたいになっちゃうけれども、
逆に臨床心理じゃなくて認知心理みたいなものもあって、
それはどっちかっていうと、記憶とか見るとか、そういうふうな人間の認知機能をどう解明するかみたいなところがあったりして、
いわゆる心とはみたいなところもちょっと違ったりするんだよね。
他にも心理学って、進化心理学とか文化心理学っていろいろあるんだけど、
それも心というものがあるとして、それがどう発展してきたのかとか、
あるいは地域とか文化によって違うのかっていうことはあるんだけど、
そもそも心って話って、単一の学問ではなかなか扱いにくいらしいんですよね。
へー、そうなんだ。
ずばに哲学にもこの人が言ってるっていうのもあるわけじゃないのかな。
あるはあって、心の哲学みたいな分野もあるんですよ。
へー、そうなの。
それもあるんだけれども、また次回とかにちゃんと言おうと思うんだけど、
いろんなバリエーションがあって。
でもやっぱり決着つくのは書いてある話もあるんだよね。
実際、心とは何かみたいな論文とかもあったんですけど、
それは40ページくらいあって、しかもあんまりすっきりしたものではないんですよね。
あー、そうなんだ。
これは論文が悪いとかじゃなくて、やっぱり心っていうものがそれぐらい掴みどころがないっていうか、
身近だからがゆえに、やっぱり普段僕らが言う心と、明確に定義をして、
心とは何かとかって問おうとしたときの心っていうもの自体が結構変わってくるみたいな、そんなことを思って。
だからすごいネマなテーマだなって改めて気づいたんですよね。
なるほどね。気軽にやっていいとこじゃなかったというか。
なかった、そうそう。
逆に知らないからこそ気軽に踏み込めたみたいなものはあるんですけど。
さっき兄貴も言ってくれたけど、本当はやっぱり心って結構僕は中学生ぐらいかな。
臨床カウンセラーになりたいって思ったのはたぶん中学生ぐらいだから。
そのぐらいからずっと追いかけて、大学も一応心理学科に行ったテーマでもあるし、
今でももちろんそこってすごく興味のあるところでもあるので、
いろんな話とか技術をたどりながら、
心っていうものの周辺にあるトピックを取り入れていきたいなっていうふうに思っておりますよと。
06:06
そうすることで、心とは何かとかってズボッと答えが出るわけではないんだけど、
なんとなく心ってこういうもんだよねーみたいなものが浮かび上がってくるっていう、
いつものちょっと空みたいなね。空そのものはないけど、それをいろんな言葉で説明するみたいな。
そんなことができるんじゃなかろうかと思っていますっていう感じなんだよね。
へー、あーなるほどね。気軽だし身近ではあるんだろうけれども、
ちゃんとアプローチしようとすると結構ふわふわとして捉えどころのない感じだなというところを思ったんだね、そこはね。
そうなんです、改めてね。
へー、どうなるんだろう。でも面白そうだね。
そういう意味ではね、心ってすごいね、やっぱり日常的にも使う言葉ではあるけれども、
どうだろう、兄貴とかが普段生きてて心について考えるとか、そういう場面とかってあったりする?
へー、場面とか。
こういう時に心を感じる、心を感じるっていう言葉がいいのかわかんないけどね。
はいはい、どうだろうな。心とはないかと言われても考えたことはないけれども、
例えばだけどなんだろうな、この人といるとすごい雰囲気がいいみたいなのってあるじゃん。
あー、あるね。
そういう時にこの人の心を感じるというか、言葉以上の愛情だったりとかさ、
愛情って言うと深すぎるか、好意みたいなものとかを感じるみたいな。
例えばで言うと、結構子どもと今4歳か、年中なんだけど、
例えば保育園に一緒に歩く時とかに、近所のおばあちゃんとかに何人か会うわけね。
もう5年ぐらいずっと同じ道歩いてるから。
確かに。
そういう時に例えばすごくいいおばあちゃんとかがいて、
例えばめちゃくちゃ可愛がるとかではないんだけど、めちゃくちゃ子どもへの愛を感じるというかさ。
獲得した時にプレゼントくれたりとか、
すごい素敵な交流が。
この花買ったんだけどこんな感じとか、一緒にこれ花ちょっとしてみようかみたいな。
すごい素敵な話だし、いいよねそういう交流というかなんだろうな。
別にベタベタやるわけじゃないけど、歯おなじみよりはちょっと上みたいな。
そういう関係っていいよね。
そうそうそう。
先に言ってプレゼントみたいなのもあるしね。
例えばクリスマスに子どもをなんとかくにプレゼント持ってきちゃったみたいな。
あーすごい素敵。
人もいるし、全くそういうのもない。
09:00
物とかないんだけど、すごく楽しく接してくれるっていう人もいるし、
いろいろあるけど、それぞれに心を感じるというかね。
物とか金じゃなくてね。
それが面白いなと思っている感じかな。
いいよねっていうか、今の意見も言ってくれたけれども、
普段で別に僕らが心とはとかさ、今心が動いた、
もちろん感動するっていう意味ではあるかもしれないけれども、
そんな自覚することはないかなとは思うんだけど。
ない。今も無理矢理考えたから。
なんか最近あったかなみたいな話だった。
あったかなみたいな。
でもね、ある種振り返ってみると、やっぱりゼロではないよねとか、
あとはやっぱり今大輝くんも言ってくれたんだけど、
その表面的なことじゃなくて、ちょっと深いこととかあったときに、
やっぱり心からの言葉とか心からのプレゼントがあって、
やっぱりそういうときに言ったりするかなと思うんだよね。
なので、ある種人間の奥にあるというか、
普段は見えないけど、手を伸ばしたらありそうなものみたいな感じじゃないですか、心って。
僕もね、さっきもおさらいしたとおり、大学心理学科に行ったんですけど、
やっぱりもともとで言うと、自分の心を知りたいってことは結構あったんだよね。
だから人の心っていうよりは、自分の内側に何かありそうと言われている心というものについて知ってることで、
もっと自分について理解できるんじゃないかとか、
世の中について理解できるんじゃないかっていうことを思ってたんだよね。
あとは人の相談のようなのが好きとか得意って思ったから、
それが仕事って考えたときに、カウンセラーっていうのがあるんだって知ったっていうのもあったんだけど。
実際に大学で一応4年間、学んだっていうのもあれだけれども、一応所属はしていて。
面白いのが、これすごい余談だけど、
大学生だとよく話して、何学部のどこ、何やってるんですかとかって大学生同士で話したりするんだけど、
心理学科に出すとかって言うとよく言われるのが、
人のことがわかるんだねみたいな、人の心がわかっちゃうんだよねみたいなことを言われて、
俺今何考えてるか当ててみてよみたいな、
無理だしテレパシーじゃねえからみたいな話を言ってたんだけど、
最初は人の心を学んでますかって言うと、すごい期待を抑えるというか、
なんかすごいことができるんじゃないかとか、逆に全部見通しなんじゃないかみたいな。
はいはい、まあそうだね。心理学とか心理ゲームとかさ、
あとメディアとか出てくるときも、そういう感じで出てくる気がするもんね。
人の心を操作するみたいな。
だいごさんとかそうなのかな、よくあるじゃん。
12:03
やっぱりいろいろ話をしながら相手の考えてることとか、思ってることを当てるとかってあると思うんだけど、
ああいうイメージってありますよね、心みたいな話でいくと。
そうね、まさに。
今みたいな話でも、いわゆる心って奥底にあってつかみにくいってこともあれば、
心がわかればその人のことがわかるみたいに、ある種理解できるみたいなこともあったりして、
実際に心って理解できるの?理解できないの?とかいうことを含めても、思った以上に捉えにくいものなんだよね。
だから、過去にビトゲンシュタインがやったと思うんですけど、
彼に言い忘れると、疑似問題みたいに、心なんてないんだ、みたいな言葉だけなんだって言われちゃうような気もするんですけど、
でもやっぱりここまで広く、心っていう言葉で物事が行われたり通じ合ったり、コミュニケーションが取れるっていう中で、
やっぱりじゃあ心には意味がありませんとか、単なる言葉でそれは何も示してませんとかって言われても、
ちょっと釈然としないじゃないですか。
もうちょっとちゃんとしたい。
そうそう、ちゃんと向き合いたいなって思うときに、
なので、いわゆる心っていうテーマというか言葉みたいなものが、これまでの歴史によってどんなふうに取り扱えてきたんだっけとか、
また現代といわれる20世紀、21世紀の学問領域において、どんなことが言われて、どんな問題が残ってるんだっけみたいなことを、
ちょっと自分の興味に紐付けながら、今回お伝えしていきたいなというふうに思っておりますよと。
そういうのがこの心っていうテーマでやりたいことなんだよね。
なるほど、まあそうかね。それこそ本当に捉えどころないからね。
ちょっと、せめてハヤトの話は足掻きみたいな、そういうイメージはあるんですね。
そうですね。少しでも参考になればっていう感じなんだけど。
一応僕も心って言っても大学4年間やってたつもりだったからさ、なんかそれなりにいけるだろうと思ってたんだけど、
やっぱり全然覚えてないこととか知らないこといっぱいあるなと思って。
まあね、学生の勉強なんてね、なんて人言うだろうけど。
当時もそれなりにやってるつもりではあったけど、全然耐えてなかったなと思うし、
今の方が圧倒的に勉強してるとか本読んでるから、
当時からね、今ぐらい勉強してたら研究室とか慣れてたのかなとかちょっとセンチメンタルな気持ちもあったんですけど、
まあ仕方ないかな。やっぱりね、もともと学ばせていただいてた教授が書いてる本とかあちこちにあったりするわけよ、第一印象でね。
15:01
だから当時普通にね、もっとそれの話聞いときゃよかったなとかさ、教授のとこに行ってね、なんかいろいろ教えてもらったらよかったなとかってやっぱ思うんだけど。
なるほど、第一印象の筆者がまさに先生なのにっていうね、自分の。
先生なのにみたいな、当時とかめんどくせえみたいな。
当時読んだ、ちゃんと先生の本?
当時読んでた、読んでない。
読んでない、まあそういうもんだよね。
ダリーって言って講義に必要だから読んでたぐらいしかないから。もちろん面白かったんだけど。
今回第一回なので、さすがにちょっととっかかりもなさすぎるのもあれなので、
久々にね、岩波の哲学思想辞典登場してもらいましょうと思っておりますよ。
はいはい、あるんだ、ちゃんと心。
はい、ありますあります。これって報告あるんですよ、ちゃんと。
あるどころじゃなくってね、すごいのよ、なんか文量が。
まるまる辞書の2ページ半あって、計算したんだけど8000字ぐらいあったんだよね。
そうなの?辞書ってそんなんだっけか。
辞書そんなんじゃないと思うけど。
すごい細かい文字でびっしり書いてて、ちょっとした長文のブログみたいなのあったんですよ。
でもすごいそれだけいろんなこと書いてるんで、回数まで説明してみようと思うんですけど、
心っていう言葉自体が、西洋とインド、中国、日本っていう風に、
地理とか文化ごとに違う取り扱い方をしてきたよみたいな話が書いてあったんだよね。
例えば西洋のところでいくと、いわゆる体と心みたいな思想があって、
人間を構成する要素のひとつだよっていうふうに捉えられていましたよ。
これ結構時代的にはアリストテレスの時代までまた遡るんですけど、
彼が書いた本で、まさに心についてっていう本があって、
これは訳文の問題なので一応霊魂論みたいなふうに言われてた時代もあったんだけど、
いわゆる魂とか心とか霊魂みたいな話を扱っておりますよ。
そこで言われる心っていうのは、これすごいアリストテレスの用語満載なんだけれども、
可能的に生命を持つ物体の第一の現実体で定義されてますよと。
生命だから生物だよね。生きてるもの一般の根本に心があるというか、
その根本にあるものを指して心と呼びますっていう話なんだよね。
あ、そうなの。根本って言ってんだね。
そうそう。ニュアンス的には日本語で言うと、心っていうより魂とかなんだろうな、
そういうほうがちょっと近いかも。
18:01
魂っていうのがあるかないかとかって難しい話だけど、
生きてる時には魂があって、死んだら魂が抜けていくとかっていう発想はあるじゃないですか、日本においては。
そういう意味ではここで言う心っていうのは魂に近いかもねっていうふうに辞書にも書いてあるんだけど、
そういうふうにある種生物と無生物とか生命と非生命が分ける根源のところに心があるよっていうふうな考え方なんだよね。
なるほどね。それから体のほうは純粋な機械として操ってるのは心魂だよみたいな感覚はあるってことなんだね、当時。
そういうイメージです。ただ、実はそこまで言っちゃうと二元論っぽくなっちゃって、
要は体と心が分かれるっていうのは実はアリステルスの時代にはそんなにないんだよね。
そうなんだ。
どっちかっていうとやっぱり体と心がすごく関わっていて、
やっぱり体を離れた心はないし、心を離れて体もない。だからさっき魂が抜けてるって言っちゃったんだけど、
魂とかあんたとしても体ってものがないとちゃんとその働きっていうのは生かせないよねっていうか。
へー、あーそうなんだ。
心とか魂だけで何かをやるっていうことが現実的にはないよねっていう考え方がアリステルスなんだよね。
うーん、なるほどなるほど。そこはちょっとなんか、ただ聞いてると二元論っぽく理解しちゃいそうだけど。
そうそうそうそう。
へー、違うんだ。
それは違いますよ。さっき言ってくれたような二元論っていう風に体と心を引き剥がすのがデカルトなんですよっていう話なんだよね。
へー、あーそうなんだ。
それまでは結構くっついてたんだけど、デカルトが何をやったかっていうと、
要は体と心っていうのはあるでしょと。
関係してるって言うけど、それってどうやって関係してんのっていう風に問いを発していくんだよね。
そうすると今度は、問いを分解していくために、
体っていうものを理解して、心っていうものを理解してっていう風にどんどんバラバラにしちゃうんだよね。
あー、なるほど。
そう。で、いう風にすると、前に木山さんが言ってくれた通りで、
体は体の働きがあって、心は心とか魂の働きがあって、
それぞれが別々にあるから、それをくっつけた時に、いわゆる人間ってものがあるよねっていう風に、
そもそも分けちゃうっていう風な発想になっちゃいます。
あー、じゃあデカルト的な価値観から理解しちゃうと、あいつとテレスも二元論っぽく聞こえるというか、
それに過ぎないみたいな話なんか。
そうそうそう。あくまでも、あいつとテレスはそこまで言ってないんだけど、
僕らのデカルト的な、二元論的な発想があると、そういうふうに止められちゃうよねっていう感じなんだよね。
そうすると、体と心が分かれましたってなると、
21:00
じゃあ本当に心ってあるんだっけとか、そもそも心なんてないんじゃないかみたいなことも疑うことができるわけで、
何だろうな、心なんてなかったっていう風な話までいくのも、ある種自然な成り行きなんだよね。
あいつとテレスによっては別に体と心っていうのは、ある種関係しながらあるから、
別にそれをあるとかないとかって疑う必要もなかったんだけど、
分けちゃうと、じゃあどっちが種でどっちが充なんだとか、
実は体だけなんじゃないかとか、実は心だけなんじゃないかとかってことが出てきちゃいます。
はいはいはい、なるほど。
はい。その辺りの話は大量に増えていくんだけれども、
ざっくり西洋ではそういうふうな流れがありましたっていうふうなことが書かれておりました。
わー、わかりました。確かにな、今のようなスタンス、体と心どっちが種で充なんだみたいな話は、
確かに水戸異変主体にね、それは理事問題ですよって怒ってもらった方がいい気がするね、確かに。
あんま内容覚えてないけど、ちょっと聞き直そう。
そうだね、よかったらぜひ。西洋の話をしたんで、次インドです。
インドって言ってもめちゃめちゃいろんな学説があるんで、ひとまとめはやっぱりできないんだけれども、
すっごい大きく言うと、インドでいう心って、人間の内部機関だっていうふうに言われるんですよね。
どういうことかっていうと、目とか耳って外のものを刺激として受け取るじゃないですか。
実際に外に向かってあるんで、これが外部機関って言われてるんですよね。
そこから得られた何が見えたとか音が聞こえたとか何かを触ったとかっていろんな情報があると思うんですけど、
それを理解するとか、あとは記憶を対象としたりとか、
目から入った光と耳から入った音を結びつけて、これは鳥の鳴き声だみたいな。
そういうふうにくっつけるみたいなことってどうするのっていうと、これを果たしてるのが心だよねっていう話なんだよね。
西洋で言ってるのは、身体と心っていう分解とはちょっと違って、そこで区別しないんだよね。
要は外側に向いてるのが目とか耳っていう機関で、内側でそれを処理してるのが内部機関としての心ですよ。
今で言うと、ちょっと脳の働きに近いとは思うんだよね。
そうね、そういう感じがする。
そういう意味で言うと、人間が生きてる限り、全てこの心を通じていろんな物事を理解したりとか捉えていますよねってなると、
結構華厳教でもありませんよっていうふうに、唯心論。
すべては心であるっていうふうな心っていう話になっていくんだけれども、
これもさっきの西洋みたいに、要は身体と心っていうのが分かれていて、すべては心なんだっていう話じゃなくて、
24:08
人間は外部機関と内部機関があって、内部機関の方の心っていうものが、ある種世界の捉え方っていうふうに大きな影響をしてるんだよっていう話なんですよ。
なので、僕も華厳教のときにそういう話をしなかったと思うんだけれども、
あいつの心って同じ言葉?要は唯心論の心?っていうものでも、
やっぱりインドの捉え方って僕らの普段の感覚と違うんだよね。
へー、あー、そうなのね。
うん、そうそうそう。
ある種、外部機関と内部機関っていうふうに分けると、別に体も外部も内部もあるわけで、器具もあれば骨もあるから、
体と心って別に分かれてないんだよね、インドの考え方と。
はいはいはい。それこそさっき言った構成する要素の一つって感じなんだね。
そうそうそう。そうなんです。
そういう形でいくと、同じ心でもそこから得られるイメージとか指すものは結構違いますよね、というふうな感じでございます。
こんな感じでいろいろ説明してくるんだけど、次が中国。
中国なんですけど、これ時点によると、結構申しの時代とかが昇るんだけど、
もともとは心臓、いわゆる血管を運ぶ心臓の意味だよとか、
あとは思うとか考えるための機関だよっていうふうに説明されてきたんだって。
僕らはそういうふわふわしたものとかじゃなくて、
明確に心臓だとか、ある種の脳だよね、考えるための機関だみたいな。
書いてたんだけれども、そこから結構長い時間を経て、禅が起きるじゃないですか。
禅が起きると何が起きるかっていうと、
禅は一期間じゃなくて、心を磨くと仏になれるとか、穢れた心を埃を取り払うことで、
いわゆるより良い人間というか仏の世界に至れるみたいなことが、
どんどん世相として広がっていくわけなんですよね。
そうすると結構心っていうのが重要になってきて、
実際12世紀くらいに朱子学とかが盛んになるんですけど、
これ歴史とかでやったかな、朱子学。
まあ名前はね。
そのくらいの時代になると、心っていうのは単なる一期間じゃなくて、
27:02
人格的統一的実践主体だとみなされますと。
人格的統一的実践主体ってなんだ?
要はさっき言ったように、心を磨けば人として優れた人間になれるみたいな話。
そういうのが根本で、健全な精神は健全な肉体に宿るではないけれども、
自分というものを鍛えていく手段として、心っていうものを対象的に捉えるんだというか、
心っていうものがあるからこそ人っていうのは、
人格を見分けるんだみたいな、そういう文脈で答えることが増えてくるらしいんだよね。
なるほど。今の逆だよね。健全な精神は健全な肉体に宿るだと、肉体鍛えるようになるから。
確かに確かに。
それと逆バージョンって話だよね。
逆バージョンだね。
禅の話はまたよかったら聞いていただきたいと思うんですけれども、
ある種、禅によって自分の力で悟るとか、
ある種、もともと穢れてなくて、ただ埃が積もってるからそれを取り払えばいいんだみたいな、
そういう風な仏教というか文明化ができたわけなんですけど、
それが禅の時代を経た後の朱子学においては、
ある種、不完全な人間、我々人間は不完全なんだけど、
それが、ある種、中国では天の領域だね。
完全な状態になるっていうのが、
心を正しく扱うことが大事なんだみたいな、
そういう風な発想にどんどん繋がっていくんですよね。
そうなんだ。ほうほうほう。
もともとは単なる心臓みたいな一つの、いわゆる器官、言葉の心っていうものが、
どんどんどんどん膨らんでいった。
この12世紀ぐらいの中国の話だったんですよ。
大分重要視されるというか、大事なものになっていったんだね。
そうだね。
そうそうそう。
朱子学とかが日本に入ってきて、今の僕らの文化の根っこにもなってきたりするから、
心を磨くとか、心を大事にするっていうのは、
結構このあたりの影響も強いんじゃないかなって思ってたんだよね。
結構朱子学っていうのは、日本に影響を与えてるんだ。
めちゃめちゃ与えてる。
僕も実はあんまりちゃんとわかってなくて、
これもちゃんと扱いたいなとまたテーマとして思ってたり。
実はちょうど先日いただいたお便りでも、
まさにこのあたりの朱子学とか読め学とかやってほしいです、
みたいなことをいただいたりしたんで、
またちょっとお便り会でもご紹介したいとは思うんですけど、
そういうタイミング的にもいいかなと思うので、
30:01
今後でそういうテーマを取り上げたいなとは思ってます。
ぜひぜひ。
最後、今まさに日本の話もあったけれども、
辞書の中でも、辞典の中でも、
日本における心は?みたいな話がありますと。
これちょっと一冊本を書いたんで、
これはもう一回分として、
今回の心会の中の一回分として取り上げたいと思ってるんだけど、
まさに日本人の心っていう本があったんだよね。
これは辞典でも参考物件に挙げられてた本なんだけど、
これは面白くて、
辞典の1行目から、
日本の心ってどう書かれてるのって書いてるんだけど、
いわゆる漢字の心、心理の心、
あと情、感情の情、
あとは意味の意。
これも心って読んだりするんですよね。
へー、そうなの。
実は。
意味としては、
人間、人が身体の内側に働かせる、
意志、感情、認知、資料、気分、成功等の内容を広く指す、
っていうふうに書かれてますよと。
おー、はいはいはい。
中国ではもともと心臓の意味だったとか、
インドでは内部器官だったって話をしたと思うんだけど、
日本の心ってめちゃめちゃ広いらしいんだよね、それに比較しても。
あー、そうなの。広いんだ。
中国とか西洋でもこういうふうに理解されてたっていうよりは、
ちょっととりわけ広めに理解されてるって感じなのか。
そうなんだよね。
で、普通その漢字の内側の感情とかってことだけじゃなくて、
例えば歌の心みたいな感じで、
物に対してもそういうことがある。
なるほど、その物とか自然に宿った物の心みたいな。
あー、それ日本の結構独特な。
結構ね、特有らしくて。
そうすると今度は趣とか情緒みたいな、
意味に近くなるんですよね。
言われると、ひらがなの心っていうのは、
結構人だけじゃなくて物とか言葉とかにおいて、
属するとともに、それぞれの交わる、交換する次元において捉えられるよ、
みたいなふうに書いてあったんだよね。
結構この部分を読んで衝撃的だったというか、
だから自分、心って好きなんだって思ったんだけど、
結構ね、僕が前もお伝えした、追いかけてる意味みたいなものとすごい近いんだなって思った。
33:03
日本語の心っていうのが。
なるほど。
いわゆる心理学的なところで言うと、
物を見るとか聞くってどうなのとか、認知機能がとかって話になるんだけど、
元々の日本的な心っていう、
そういう物にも人にも何にでも当てはまるみたいな広さって、
ある種、分かりにくいし捉えにくいんだけど、
僕はやっぱりやりたい、
人生に意味があるのかとかと同じくらいで、
心とは何かって結構好きだなって思った。
なるほど。でも言わんとそういうことは分かれるかも。
確かに心っていうのもね、何か物ごと、さっき言葉に対してさ、
必ずしもこの心だけがあるみたいな感じしないもんね。
人によるというか、それこそ心なんだね。
しかも面白いのが、日本の心っていうのは、
いいものも悪いものも示すみたいな話があって、
汚れた心もあれば清らかな心もあるっていう風に、
西洋とか理性みたいな感じが近づいていくから、
心を正しく働かせるとか、
そういう正しさの方の文脈で伝えることが多いらしいんだよね。
例えば、汚れたとか正しく物事を理解できないのは、
心を正しく働かせないからだみたいな感じで、
心の働かせ方が間違ってるみたいな話になります。
でも日本で言うと、別に心自体が汚れたり清らかになったりするから、
心が純粋無垢なものがあって、
その働き方が歪められるとかじゃないんだよね。
そもそも心自体が汚れるとかっていうのがあるよねって話があったときに、
全然違うんだよねっていう話が書いてありましたと。
なるほど。似てるようで違うというか。
理性とかって言った方が分かりやすいかもしれないけど、
理性は正しく使うか使わないかなんだよね。
だから正しく物事を捉えられないとしたら、
理性が間違ってるんじゃなくて、
理性を正しく使えないあなたが間違ってますっていう風な感じなんだよね。
これは啓蒙的な感覚なんだけど。
でも日本で言うと、いわゆる穢れみたいな感じで、
いわゆる誰かの例えば亡くなるとかさ、
そういったことに接すると、
魂とか心自体が一旦穢れるというか悪い状態になりますと。
それをやっぱり清めたりすることで、
また心がきれいになるっていう風に、
心そのものがやっぱり変化するんだよね。
36:00
っていうのは結構違うというか、
言われてみれば、
なるほどねって僕は思ったんだよね。
ここだけでも結構難しい話してるよね。
難しい話してる。
難しい話してる。
一見これは同じじゃん。一見同じようにも見えるから。
そうだね。
ちゃんと働かせるっていうところと、
穢れを戻すから、どちらにせよちゃんと働かせろとかさ、
心きれいにとかって言われると同じような感じもするんだけど、
たぶん心の働き方というか、
その捉え方が本当に違うっていう話なんだよね。
ちょっとうまく言語化できてないんだけど。
なんだろうな。
例えば何か機械、何でもいいんだけど、
掃除機でいいや。
掃除機を使いましょうっていう時に、
うまく掃除できませんとかってなるじゃない。
掃りうまくせえませんとかっていう時に、
自分の掛け方とか、
いわゆる愉快に対する力の入れ具合が違うのかなっていうのが、
専用的な感じ。
道具としてどう使うかみたいな。
そもそも掃除機の吸引力を上げようとか、
そもそもゴミが詰まってるからちゃんと捨てて分解して、
もう一回吸引すればいけるよねとかっていうのが、
たぶん日本的な感じで、
掃除機そのものにアプローチできるみたいな。
すごいわかりやすい今のは。
本当。
そうだね。それはすごいや。
なるほど。
俺たちは完全無欠な理性っていうものを持ってるんだから、
あとはその疑いのない理性をどう使うかだ、
みたいな扱い方みたいなことを。
そうそうそう。
なるほどね。
すごいすごい。
やっぱ結構違いますよね、という感じなんだけど。
そういうふうにもともといろんな意味を表してた心っていうのが、
日本ではどうあったかっていうと、
時代が経てって言っても明治ぐらいなんだけど、
大きな傾向として書かれてたのが、
自分の心ってふわふわしてるじゃないですか、
さっき言ったいろんな意味があるから、
それをより高い次元の外部の心に託すことが多いんだって書かれてたんですよ。
どういうことかっていうと、
例えば周りの他人とか仏様でも、
いわゆる聖人でも神でも何でもいいんだけど、
玉作の言葉で見心のままでみたいな言葉ってあるじゃない。
見心っていうのは御心だから、
要は誰かの心っていうものを自分に取り込むっていう動きがあるよねって書いてあるんだよね。
39:02
はいはいはい。
要は例えば、わからないけど、
戦国時代とかで、
いわゆる殿様と家来があったときに、
殿様がこうしたいなら、自分もそこに一心でやりますみたいな。
自分の気持ちとか心じゃなくて、
あなたは殿様の心を持って一つで、
私はこう動きますよみたいなことが、
自然に行われてきたのが日本じゃないかっていうふうに書かれたりするんだよね。
それは宗教的な意味合いだけじゃなくてね。
じゃなくて、日常的な意味で。
そっかそっか。
見心って言うと宗教的な感じがするけど、
そうだけじゃないってことね。
御主人か、御主人のためみたいなね。
そうそうそうそう。
だから、これは結構世差的というか、
もちろん今日本人らしいって言っても、
日本人もいろいろもちろんいると思うんだけど、
やっぱり思いやりとかじゃなくて、
誰かの心を理解するとか、
相手の心に自分の心を重ね合わせていくみたいな感覚って、
いっぺんあるかなとは思うんですよね。
有村社会的なのは強いよって話だよね。
そうそうそうそう。
おそらくね。
まさにそれがどういう文化的な背景から来るのかとか、
そもそもそれって何なのみたいな話が、
ちょっとこの辞書を読んで興味が湧いたので、
そういう辺とかはぜひね、
今回心をテーマにした1回分で皆さんにもお伝えしていただいたり、
僕もちょっと勉強したみたいなって思ってます。
そんな感じなんですよ。
今日は一旦心っていうテーマに対して、
その時点の8000字くらいだった内容をここに詰まって、
お伝えしながら、地域というか文化差というか、
過去からちょっと時代を経てみたいなところを読んできたんですけど、
やっぱりね、それぞれだけでもね、
インドならインドの心の話があり、中国なら中国の話があるっていうふうに、
何十冊何百冊の研究とか本が詰み重ねてるようなところでもあるんだけど、
ざっくりね、心ってやっぱりこんだけ広いテーマだよねとか、
それこそ、やっぱりちょっと人知りには言えないみたいなことは、
ちょっと見えてきたんじゃないかなと思うんですよね。
もちろんこれを全部扱うわけにはいかないし、
まずは西洋の心からとか言っちゃうと本当にどうもなくなっちゃうんで。
次は、西洋の学問的な心に対する近現代の話に絞って、
心ってどんなふうに扱われてるんですかとか、
いわゆる理由派じゃないけど考え方があるんですかっていうのをお伝えしていきたいと思います。
42:05
その後は、やっぱり心って言えばみたいな話なんだけれども、
いわゆる精神分析から始めた、それこそフロイトみたいな人とか、
あとはさっき言ったような心の哲学とは何だみたいな話とか、
あとはちょっと脳の話。
やっぱりね、心と脳って結構密接に関わってる中で、
脳って今どんなふうに扱われてるのかとか、
あとはさっきの日本人の心みたいな話とかっていうふうにちょっとあちこち飛ぶんだけれども、
いろんな話を自分で興味関心とかに紐付けながら、
いろいろお届けしていきたいなと思っているのが今回の心っていうふうなテーマ切りのお話でございましたというふうな感じですね。
はいはい、いやーわかりました。
ちょっとハヤトが最初言ってたね、
このテーマむずいわというか、大変だというところで意味がわかったね。
あまりに広いからどっからでも切れちゃうんだね、これね。
そうだね、本当にそう思った改めて。
まあね、それこそ基本教とかホワイトヘッドみたいな、
めちゃめちゃ理解するのが難しいとかってことはないかなとは思うんで、
まずは心ってそんな広がりがあるんだとか、
そんなふうに言われたら確かに分解して理解できるよねとか、
そういうふうな楽しみ方を教えていただけると嬉しいなと思ってますっていう感じですね。
いやーそうだね、確かに。
今回もさ、心一でどう思うって聞かれたけどさ、冒頭で。
そもそも考えたこともないから、
自分にとって心ってなんだってとか、
心ってこういう概念があって、その中で自分はこんな感じで捉えてるのかなみたいなね。
なんかそういうふうな、すごいいい機会になるかなって個人的には、
そういう意味でも楽しみだなと思うんで。
ありがとうございます。手にいただけると嬉しいなと思う。
今回はちょっとこのぐらいでおしまいにして、また次回ですね。
西洋のというか学問的な領域における心の扱われ方みたいな、
そんなものをまたお伝えしたいなというふうに思っております。
はい、分かりました。
では次回以降ですね、そんな広い心を見ていくというところで引き続き倒しんでいきたいと思います。
では次回もよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
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