1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #168 お前はもう救われている..
2023-12-06 41:34

#168 お前はもう救われている。一遍が乗り越えた浄土宗の限界

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

一遍は、浄土教という教えを広めていく中で、信じることの難しさを乗り越えて、信じる側に行けた方であり、彼の教えは浄土真宗にも広まっています。しかし、そういった信じることの難しさを乗り越えられない方もいらっしゃるため、彼の教えは一部の選ばれた方にしか届かないのではないか、と考えられています。一遍が乗り越えた浄土宗の限界については、一遍の思想や宗派の関係者との対話によって、浄土宗の教えに対する理解と信仰心を深めることが示されています。一遍は浄土宗の限界を乗り越えて救済のために奮闘し、民衆と共に生きる存在となりました。一遍が乗り越えた浄土宗の限界について語られ、信じる信じないということも関係なく、自習が広がり、救いを感じることが自明であるという話がされました。禅についての話題に続いて、鎌倉仏教についても豊かに伝えていくことが予告されました。私たちが浄土真宗であるからこそ、身近で悟りを得ることができ、救われる話を感じます。次回の禅と日本の仏教の広がりを踏まえて、禅に興味を持ちたいと思います。

一遍の教えの提唱
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今回も引き続き、浄土教と流れということで、法然の浄土宗、そして親鸞の浄土信宗に続いて、一遍の自宗でした。
そうですね。それを挙げていこうと思っております。
前回、親鸞の中で、信じることの問題というか、自分の心を清らかにして、阿弥陀仏を信じるというのは、人間には無理だというふうに思った親鸞が、
そこじゃなくて、阿弥陀仏の慈悲の心を信じるんだという、そういう発信から受信や、みたいな話を兄貴が言っていたと思うんですけど、
そういう転換を、すごく世の中に広まっている。
そういう意味では、まさに法然が切り開いた日本の浄土宗というものを一歩進めたのが親鸞です、という話だったんですけど、
また、ちょっと違う方向に浄土教というのを発展させたというのが、まさに今回お伝えしていく、一遍、自宗という話なんだけどね。
彼は、生まれたのは1239年です。
親鸞が1173年なので、60年くらいあったんです。
うん、じゃあ、ちょっと被ってはいるんだ。
うん、被ってはいて、しかも親鸞は90歳まで生きているので、1260年くらいまで生きているんですよ。
はいはいはい。
一遍は50歳で亡くなって、当時でいうと普通くらいなのかな。
なので、1289年に亡くなるんですけれども、一応30年くらいかな、20年くらいは同じ時代に生きているんだよね。
だから、もっと言うと親鸞が活躍して、
ある程度その教えが広まったくらいで、一遍もいろんな活動をしている、みたいな時代の流れで。
うんうんうん。
で、そんな一遍の立場というのを一言で言うと、
禁不信を選ばずという言葉があって、信じていたら信じるとか信じないという話なんだけど、
はいはいはい。
そんなのはどうでもよくて、ただただ生編みダブルと唱えればええんですよと。
なるほど、そういうアプローチにしたんだね、信じる。
そういうふうな話なんだよね。
一信にみたいなところね。
そうそうそう。一信にとか言ってるけどって話なんだよね。
で、こういうふうに言われとさ、じゃあ僕がやってた、なんかとっくらえ時に、
クソーとか言うんじゃなくて、生編みダブルって言うんだみたいなさ、そういうのも意味があったんじゃないかと思えてくるんだけど。
そうだね、うんうん。
でもさすがにこれは、そんなふうに言って大丈夫なの、みたいな感じだし、それ根拠ある。
だって。
元の経典に、詩人信行っていうのが書いてあって、心を尽くすっていうのは最低限書いてるわけですよ。
だから、せめて人間かとか、皆仏だとかっていうのはあるけれども、なんだかんだやっぱ、心を尽くすとか信じるっていうのは、もちろん重要であろうっていう話なんですよね。
うんうんうん。
でも、いっぺんはそれを乗り越えて、信じるとか信じないとかじゃないんだよとか言っちゃいますと。
乗り越えたっていうか、無視してるね。うん。
もちろんね、無視してくって言ってるわけじゃないので、なんでじゃあいっぺんがね、そんなことを言い出して、それをどんなふうに主張したかっていうところはね、今回見ていきたいなというふうには思ってます。
はいはい、まあ気になるね。
信じることの問題
うんうん。
で、ちょっとこれは最初にお断りしておきたいんですけど、正直僕もいっぺんのロジックが、ちょっとね、ちょっとやっぱ甘いんじゃないかなって思っちゃってる節があるんだよね。
あ、そうなのか。
それは、そう、僕の理解が当然浅いっていう話は当然あると思うんだけど。
はいはいはい。
うん。でもそれ、それで本当に、なんかいけちゃうみたいなところはあるんですけど。
うん。
でもそこも含めて、こういっぺんの魅力だなとは思うし、逆にだからこそ広まったよねみたいなところもあると思うんで、ちょっとそこは、なんだろうな、皆さんもちょっと、なんだろうな、ちょっと許していただきたいというか。
ちょっと生温かい目で、みたいな。
温かい。
生じゃなくて、温かい目で。
うん。
温かい目で聞いていただきたい、温かい耳で聞いていただきたい回でございますと。
はい。あ、そうなのね。じゃああの、あれだよね、えっと、放電が、なんだっけ、大原問答だっけ、なんだっけ。
大原問答、そうね。
うん。
あったよね、なんか、あの。
あった。
いろんなさ。
いろんな宗派の人からね。
そうそう、質問責めにされるみたいな話だったけど、そこにもし、いっぺんがいたら、結構やられちゃう可能性があることは否めないかもしれない。
あ、下手だと思うな。もういいから踊ろうぜってなるんじゃないかな。
はいはいはい。
そう、踊り念仏もね、いっぺんなので。うん。ほんとそんな感じですけど、で、まずそう、なんでそれをね、言い出したかみたいな話なんですけど、そこに関してはね、まあ、すごい印象的なエピソードが残ってるんだよね。
まあ、これはちょっと、本当に、なんだろうな、ある種こう神話というかね、あの、そういう感じもあるんですけど、まあ、修行中のね、いっぺんさんが、あの、まあ、というか巡礼なね、いろんな各地のお寺とか神社とか回っていくんですよ。
うん。
まあ、そういうのをしてる中で、ま、あるお坊さんに出会うんだよね。まあ、その時のいっぺんっていうのは、まだそんなにこう、有名じゃなかった多分時期かなと思って、まあ、ただとはいえ、こう、じゃあお坊さんに出会ったら、まあ、いろんな教えをね、まあ、やっぱ、浄土経を学んで、それを教えてあげようっていうふうに思うわけなんですよ。
うん。
なので、まあ、そのね、お坊さんに対して、こう、生阿弥陀仏って書かれたお札を結構、その、いっぺんは大事です。それをいろんな人に配っていくっていうのをやってるんですけど、これを差し出して、まあ、こうね、一念の信じ、まあ、信じる気持ちっていうのを起こして、まあ、生阿弥陀仏を称えましょうと。
このお札を受け取ったら、そのね、阿弥陀仏の救いっていうのを、まあ、受け取られるんですよっていうふうに勧めるんだよね。
はいはい。
はい。
あれか、もう浄土経にはまってる。
そうそうそう。
いっぺん。
はまってる。
はいはいはい。
浄土経だし、やっぱり信じる、信心を起こしなさいっていうようなことを言うんだよね。
うんうんうん。
そしたらね、お坊さんちょっと困っちゃうのよ。
うん。
何かっていうと、いや、その一念の信じるっていうのが起きないんです。信じるっていう気持ちは起きないんですよね。
それなのに受け取っちゃうと、嘘つき、要は蒙護っていう、その仏教で禁止されている、その、なんだ、良くない行動になっちゃうから。
うん。
だから、それはできないし、受け取れませんっていうふうにして断っちゃうんだよね。
うんうんうん。
まさに兄貴が前回言ったさ、そう、やっぱ信じるってとりあえず難しいよねっていうことをまさにこのお坊さんは直面してるわけよ。
このお坊さんめっちゃ優秀だね。
うんうんうん。
信じる難しさの乗り越え
そうそうそうそう。
そうそうそうそう。
どの立場から言ってもいいんですけど。
そうなんです。
なので、断るんだけれども、その時ね、別の巡礼者、ま、お坊さんというよりは、その、なんだろうな。
ま、いろいろお寺とか巡って、ま、その、ま、利益にあやかろうみたいな人だよね。
はいはいはいはい。
そういうのがやってきますと。
うん。
そこで一辺思うわけよね。
その、かたやお坊さんが、えっと、お札を受け取ってくれませんと。
で、かたや巡礼者が来てましたときに、いや、このお坊さんがね、このお札を受け取ってくれなかったら、きっとこの巡礼者も受け取ってくれないだろうと。
要はお坊さんがこだわってるんだったら、これは意味がないものだから、自分たちにも要りませんというふうになるだろうと。
で、お坊さんに、ま、一辺もやっぱりちょっと良くないかなと思っても、信じなくてもいいから、とりあえず受け取ってっていうふうにして渡しちゃうんだよね。
え、そうなんだ。
そう、お坊さんに。
うんうんうん。
で、渡したから、その巡礼者にも、一応信心を起こして、まんべんなく備えて、お札を受け取ってって言って渡すことに成功しますと。
はいはいはいはい。
で、あ、よかったよかったってなるんだけど。
うんうんうん。
そう。で、やっぱそこで終わったら、ま、たぶん一辺はね、歴史に残しておりませんと。
ま、そうだね。良くないよね、別にね。
ただ、なんかあの、お札の配り方講座にしかなくてないからね。
そうそうそう。間違いでポケの天使を渡す話と変わんねえじゃん、あんまり。
そうだね。
そう。で、そしたらここでやっぱりね、一辺はね、迷うんですよ。
で、果たしてこの、で、仲間を無理やり渡した子のね、お札なんですけど、そこでは念仏。
なみな仏、なむなみな仏を伝えますっていうことをイコールなんだよね。
うんうんうんうん。
っていう、その、じゃあ念仏に効果はあるんか、意味はあるんかと。
もっと言うと、じゃあ、あみな仏様のね、その救いっていうのは、その信じる心が起こらない人、このお坊さんみたいな人には、永遠に届かないんじゃなかろう、ってなことを思うのね。
でも、だとしたらさ、じゃあ、みな仏はさ、その十多功儀もさ、その修行。
修行をして、一切修行をするぞと。それを果たしたから、今そういった仏になっているのに。
うん。
結局その、と言っても限定されたね、あらゆる選ばれた人しか救われないもので、民衆全体を救うものじゃないんじゃなかろうか、みたいなふうに考えるんだよね。
うわー、一辺も真面目。みんな真面目だな。うんうんうん。
すごい。
いや、それは真面目なのよ。
うん。
はいはいはい。
だから、やっぱりこう、浄土教を信じてるから、まさに生雨やら整えてる人なわけだよ。
うんうん。
あと、もう信じる信じないっていうのを乗り越えて、信じる側に行けた人なんだよね。
うんうんうん。
ただ、じゃあ、信じる側に行けてない人をやっぱり見たときに考えちゃうわけよ。
わー。
まあある意味、神乱みたいな人だよね、に出会ったとき。
そうだね。
うん。
そうそうそう。やっぱり自分の心は清らかになりませんって。
うん。
で、もっと言うと、その神乱のね、浄土真宗でも広まってるから。
ああ、そうか。
だからね、そうそう、教えをいただけばいいと言われても、
うん。
まあ、みんな別に教えをいただくっていうことが、やっぱりよくわかりませんっていう人、やっぱりいるわけなんだよね。
なるほど。
うんうんうんうん。
うん。やっぱりそういう人に出会ったときに、で、しかもこの人はお坊さんだからさ、ちゃんとさ、勉強して修行もしてるはずなのに、
一遍の思想と対話
それができないということが、やっぱりなんかちょっとまだ足りないんじゃないの?っていうふうに思うわけよ。
はいはいはい。
なので、ここまでいっぺんの僕、すごいところだなと思うんだけど、
ここからって、あの、やっぱり、
考えないんだよね。
考えずに、よし、じゃあ、みんな別に行きに行こうっつって、仏様を拝みに行くんだよね。
ああ、なるほど。はいはいはいはい。
だから、自分で考えるとさ、自分の働きになっちゃうから、
うんうんうん。
要は、じゃあ念仏をどういうふうに進めたらいいのかっていうと、心構えを教えてほしいなと思って、
うん。
その、仏様を拝んでいきますと。
はいはいはい。
そうやって、なんか戸間修行をして、まあ、拝んで、うとうとうって始めてると、
うん。
すごいね、こう、白髪のね、山伏。
うん。
で、要は修行、みたいな感じでね。
っていうのが、なんか300人くらいのお供を集めてやっていきますと。
でも、ここからは多分ね、あの、神話というか、多分、かな、そういう世界の話なんだけど、
うんうんうん。
で、お前さんはね、その、山伏が言うことには、お前さんは何と間違った念仏の進むことをしているのかと。
で、あなたが、その、進めてね、その念仏を進めたことで、民衆が初めて王道、悟りを開くんじゃなくて、
もう阿弥陀仏が十和公義っていうね、
そういう昔に、まあ、悟りを開いたときに、もうすべて、民衆っていうのは、王道を遂げるっていうことはもう決まってるんだから。
だから、あなたの、そう、念仏が進めるっていうのが、こうやってきっかけなんじゃなくって、
もう、阿弥陀仏さんが、そうやってくれてるんだから、
そうやって、相手が信じてるとか信じないとか、それでいいのか悪いのかとかっていうのは、
もう、考えなくていいんだと。
まあ、そういう風な、どんな思いで進めるかっていうのが大事なんじゃなくって、
もう、ただただそのお札を配る。
その阿弥陀仏っていう念仏を唱えるっていうことが大事なんだっていうことを知りなさいよっていう風に言うんだよね。
ほー、はいはいはい、なるほど。
で、「あ、なるほど。」と思って、
あ、確かにそれは、自分の中にまだ取り計らいがあったなと。
なので、もうそれも捨て去って、お札を配るっていうことでいいんだっていう風なことを思うんだよね。
うん。
うん、なるほど。うんうんうん。
はい。で、これはね、ちょっと魅力的な素晴らしい話だと思うか、
ちょっとさすがにいかが欲しいよねって思うかは、
まあ、それによるよねというのはね、ちょっとその本のね、学者さんも言ってるんだけれども。
ああ、そうなんだ。
そう。
まあ、やっぱりね、そういう学者さん的には、そういう話があったとか伝わったということは言えるけど、
やっぱり、だから信じろとは、やっぱり学者の立場から言えないわけだよね。
えーと、信じ、どの部分を信じろって言いますか?
要は、その、なんだ、要は取り計らいっていうのが一切なくて、その阿弥陀仏の念仏を唱えれば救われるっていうようなことまでは、
うん。
学者の立場からはやっぱり主張できない。
ああ、なるほどなるほど。はいはいはい。
はい。
この白髪の山伏が本当にいたかどうかっていう話じゃなくて、
そうそうそうそうそうそう。
この一辺が悟ったというか、そのこの人に言われた部分の話のことね。
そうそうそうそうそう。
はい。
で、やっぱそれは、その多分次週に行ったらやっぱりそれを、だから演じましょうっていうふうに多分なるんだと思うんだよね。
うんうんうんうん。
まあいずれにしてもね、こういうやっぱり出会いとか出来事、お坊さんとの出会いはまああっただろうし、
まあそのね、山白髪の山伏が降りてきたっていうのは、まあそれは事実ではないとは思うけど、
この一辺がまさにそういうね、お告げというか神秘体験的に、それを受けたっていうのは、まあ多分事実であろう。
するならば、そういうものがあって、やっぱりこう一辺がね、信じる信じないっていうのは関係ないんだと、
言い出したっていうのが、まあ間違いなかろうというふうに、こう現在はね、伝わってるんだよね。
なるほど。
うんうんうん。
うん。
で、ただね、やっぱこれはさ、すごくやっぱ人間味のね、あるエピソードだし、やっぱりね、その困難、そういうお坊さんを信じることができないお坊さんに出会って、
その乗り越えたみたいな、まあそういう感覚はあるんだけれども、
やっぱりさ、その主張、
その主張とか、やっぱり話には、どんだけの妥当性があるかっていう話になってくるんだよね。
まあそうだね。
うん。
うん。
ここだけ聞いとると、何の話もないからね。
うんうん。
ただの神秘体験だからね。
そうそうそう。
ね。
信じるか信じないか
そうそうそうだし、まあさっきやっぱ兄貴が言ってくれた通り、いろんなやつは他のね、宗派の人からさ、
いや、アメダブットはそんなこと言ってないとかさ、もう大正仏教的にもそんなふうに使えるものじゃないよって言われたときに、
やっぱりどんなふうに反論できるのっていう話がやっぱ出てくるわけですよ。
ね。
まあたださっきも言った通り、ちょっとここは、僕正直苦しいんじゃないかなって思う部分とか、
これちょっとまだね、僕もロジックでちゃんと理解できない部分も、正直あるなと思いながら話してるんですけれども、
うん。
うん。
まあちょっとね、こう、なんだろうな。
まず最初、聖徳的な説明でいくと、
要は、やっぱり信じる、信じないとかさ、信じるものは救われるとか、アメダブットの働きをいただいたものは救われるとかっていうふうになってくる。
そういうふうに思っちゃった瞬間に、やっぱりその信じるとか、まあ絶対他力でアメダブットにすがるとはいえ、
そのアメダブットにすがるっていうのはやっぱ自分の心の働きなわけじゃない。
やっぱどこまでいっても、その自我の働きみたいなものが、やっぱり捨て去られてない。
それでいくと結局、その自我の心っていうものが仏の道のやっぱ障害になるとか、
そのアメダブットの心と、やっぱりその自分の心、どうやって救われるかっていうのが、
どうやって調和するかみたいな、やっぱそういう問題に結局、なんか突き当たっちゃう。
だから、それっていうのがやっぱそもそもテーマとして間違いで、
結局は、そうなんだろうな、信じる信じないとか、自分の心があるないとか、そういう次元で考えるんじゃなくて、
いわゆる行動まで、前回こう信じるとか行動、まあ修行するっていうような話をしたと思うんだけど、
行動として、まあアメダブットを唱えるっていうことでOKなんだっていう、
そっちにやっていこうぜっていうようなことを言うんだよね。
はいはいはいはい。
で、これもさ、言って理解はできるものの、本当に信じる信じないっていらないなみたいなさ、
ところまでやっぱり至りにくいとは思うんだよね。
生阿弥陀仏の意味
まあ、そうだね。だし、それとじゃあ言えば、名前を言い出すって言えばいいみたいな、
こういう繋がりもまあちょっとこう難しいというかね、どっちもなくてもいいじゃんみたいな話。
そういうのもあるし、みたいなね。
そうなんだよね。うん。で、ちょっとね、そういった意味でも積極的な理由っていうのもいろいろあって、
一応というか、そっちは本命ではあるんだけれども、
ちょっとそこは入り組んでるんですが、すごく僕が谷砕いて理解したことでお伝えすると、
はいはいはい。
まさにね、親鸞のロジックを踏まえるとちょっと理解しやすいなと思ってるんですよね。
さっき言った通り、この一辺がね、活躍した時代には、すでに親鸞っていうのの教えはまあ広まっています。
うんうん。
で、これは前回お伝えした通り、まずはこの阿弥陀仏のね、こう慈悲を信じる、信じさせていただくんだと。
で、そうするとその結果とって、まあ自然に阿弥陀仏を頼ろうっていう気持ちも、まあ本当に湧き出てきて、
生阿弥陀仏っていう念仏を唱えるんだっていう話ですよね。
うんうんうん。
うん。で、これさえね、やっぱりこう言って筋が通った、あのまあロジックというか流れだと思うんですけど、
まあ、一辺はね、このある種、原因と結果っていうのが逆転ですね。
で、これを検査しちゃうんですよ。要は、最終的にはさ、生阿弥陀仏っていう言葉が神羅に出てくるわけじゃない。
で、いくと、その言葉、出てきた言葉の中には、すでに、阿弥陀仏の慈悲を信じたっていう原因が含まれてますね。
要は、そういう気持ちから出てくるのが、生阿弥陀仏って言葉なんだから、
その出てきた言葉の方にも、生阿弥陀仏、阿弥陀仏を信じてるっていう心が含まれているはずだと、すでに。
うん。
ここ、ちょっと微妙なんだけど、何とくつかあるかな。
まあ、言わんとすることはね、うん、分かる分かる。
そうですね。
さらに言うと、これはちょっと僕の過剰な解釈なんだけれども、
例えばさ、仏教ってやっぱ因果とか縁起みたいな、
ある結果っていうのは、やっぱある原因っていうのはないと起きないっていうのは、やっぱ世界観なわけだから、
生阿弥陀仏っていう言葉が出るっていう結果に対しては、
すでに、
自分自身が生阿弥陀仏、要は阿弥陀仏を信じているか、
その、まさに、十阿弥陀仏、遥か過去に修行をした阿弥陀仏っていう人が、
修行で悟りを開いて、一切術を救ってくれるんだっていう、そういう原因っていうのも全部含まれてるんだと。
そういう遥か過去からの流れも含めて出てくる言葉が、生阿弥陀仏っていう言葉っていうか、まあ、本当に念仏。
うんうんうんうん。
だから、その、生阿弥陀仏っていう言葉自体、あるいはそれを唱えるという行為自体に、阿弥陀仏の働きというか、その計らい、
うんうんうん。
っていうのが、もう、ある種含まれているというか、そこに全部包まれてるんだみたいな、そういうことを言い出すんだよね。
うーん、まあ苦しそうだけど、言いたいことはね、わかるって感じかな。
うんうんうん。
はい。
だから、これは僕が、ある種ちょっと解釈して伝えたことなので、別に一辺がそういうことを言ってたわけじゃないし、もうちょっとこう、ロジカルなね、過去こういう人が言ってるっていう話とかもしてはいるんだけれども。
うんうんうんうん。
まあ、ただね、やっぱ結構その、一辺も苦しかったと思うのは、なんか有名な人の教えをとってくるっていうよりは、なんか、田舎の方、田舎って言ったら失礼かな。
一遍の浄土経
でもなんか、そういうことを主張している、なんだろうな、ちょっと有名じゃないんだけど、独自のロジックを持ってくる。
独自のロジックを持った人がいるみたいな人を見つけて、ほら、この人も言ってるでしょ、みたいなふうな感じで論を転換していくんだよね。
あー、そうなんだ。
うん。
そっか、今言った、その、例えば親鸞がこう言ってたでしょ、みたいな、そういう元王道の解釈みたいな話は、あんまりしてないのか。
うん。そうだね、あんまりしてない。まあ、したとしても、あんまり残ってない。うん。
そう。
まあ、なんか、こう、いわゆる権威というかね。
うん。
信頼性みたいなところで言うと。
ははは。
ちょっと難しいのかもしれないね。
そうだね。
なるほど。
まあ、もともとそういう偉い人の話を聞いたりはするんだけれども、それを途中まで拾って、そのあとやっぱり自分の説にするとか、
はいはい。
さっき言ったように、ちょっとマイナーな人の説を取ってくる、くっつけるみたいな感じになっちゃうからね。
あー、そうか。難しいな。
うん。
それは、たとえどんな魅力的なものでも、いわゆるね、権威っていうところからすると、どうしても弱くはなっちゃう感じがするよね。
なるほど。
うん。
で、実はね、これは、その、まあ、あんまりコウノカイで一平の生い立ちっていうのは話しなかったんですけれども、そこにもね、影響があったんじゃなくてっていう話があって、
ほうほう。
彼っていうのは、あの、本年とかね、信頼みたいに比叡山で学んだんじゃなくて、
え、あ、違うの?
そう。比叡山じゃなくて、太宰府で学んでるんですよ。
あ、ごめん。その、うん、違いがわかんない。
ははは。
はいはいはい。
あの、比叡山は京都にある、本当にこう、いわゆる、なんだろうな。
一流の、まあ、学問図なんですけど、太宰府は、あの、福岡にあるさ、なんだ、あの、それこそ、韓国とかなのかな。
そういう、いわゆる、海外との、その、貿易とかを担っていた。だからまあ、当時でいうと、いろんなこう、文化の、なんだろうな、えっと、華やかな地ではあるんだけれども、
やっぱり、いわゆる、まあ、首都、京都というか、やっぱりそういうところから、貴族たちがいるところからすると、ちょっと辺境。
なんか、あれだよね。
あの。
うん。
だから、そこからの道真似がさ、京都から太宰府に飛ばされるっていう話があると思うんですけど。
ああ、はいはいはいはい。
だから、あれは、やっぱり、都の人からすると、やっぱり、左遷というか、都を打ちたわけだよね。
なるほど、そっか、まあ、そっか、多分、いわゆる海外の貿易拠点だったりとか、いろんな文化拠点みたいな、交流拠点みたいな話で、すごく反映はしてるけれども、いわゆる日本のスタンダードではないところみたいな感じになっちゃう。
そうそうそうそうそう。
うん。
そこまでも、そう、地方だし、まあ、なんだろうな、やっぱり、都からすれば辺境の地みたいな感じなんだよね。
うんうんうん。
えっとね、あの、一辺は、最初から浄土経を学んでるんですよ。
へえ、あ、そうなんだろう。
そう。
いろんな、そう、天台宗とか仁教とかっていうのは、いろいろ学んだんじゃなくって、もっと浄土経一本なんだよね。
なるほど、あ、じゃあ、かなり現場たたき上げみたいな人なんだね。
そうだね、そうそう。
うん。
まあ、よく言えばね、ある種、純粋にこう浄土経の道を突き進んでいるし、そうね、変な、なんだろうな、そういう、いわゆる、なんだろうな、その、出世欲とか、政治の、なんだろうな、中止にいったやろ、みたいなこととも、やっぱり、離れてるんだけれども。
そう。
悪く言うと、やっぱり、他の宗派のことは、まあ、例えば、まあ、本年と新蘭に比べられたら、それはね、あの、それ、一辺もしんどいと思うんだけど、当時のね、秀才っていうか、もう、本当に。
はい。
もう、本当に、こう、トップレベルなわけだから。
でも、やっぱり、比べちゃうと、まあ、他の宗派のことは、あんまり知らないよね、というか。
へー。
まあ、あるいは、貴族とか、そういう人たちは、やっぱ、付き合いっていうのは、そんなにないような人なんだよね。
まあ、そっか、だから、その、経緯というか、そういうところの、その、説得力みたいなものの差が、ちょっと出ちゃうみたいな、どうしてもっていう話か。
一遍と比叡山・太宰府
そうそうそう。
その、一流の大学での、その、一流の建築家みたいな人と。
うんうんうんうん。
もう、中卒で、あの、もう、現場から、叩き上げで、もう、あの、大工やって、陶業なって、みたいな。
で、そっから、建築の道に入りました、みたいな人がいたときに、どっちもすごいんだけど。
そうそうそう。
やはり、その、経緯的な話で、どっちの方がっぽいですか、みたいな、あの、話。
で、経験則が、めちゃくちゃすごい人と、もう、あらゆる、その、もう、世界の、そういう、あの。
最先端の、学術的な論文とか、読み合わさって、そういうとこから来れる人、みたいな、の違いみたいな話だよね。
どっちもすごいんだけど。
そうだね。
そうそうそう。
だから、ほんとに、たぶん、そんな感じで。
だから、やっぱり、なんか、こう、じゃあ、どっか、一大プロジェクト、まあ、オリンピックでもみるんだけど、そういうプロジェクトで、やっぱり、こう、設計手法だったら、やっぱり、こうね、比叡山出た人がいいよね、みたいな、たぶん、そんな感じになっちゃうんだと思うんだよね。
うんうんうん。
で、だから、実際、その、いっぺん自身が、そんなに、こう、なんだろうな、別に難しいことを言おうとしなかったっても、正直あると思うんだよね。
はいはいはい。
うん。だから、やっぱり、こうね、ある種、こう、難しいことが好きなのって、どっちかっていうと、知識人とかさ、まあ、貴族みたいな、ちょっと、やっぱり、そういう人たちなわけじゃない?
だって、どっちかっていうと、もう、ほんとに、いっぺんは、もう、民衆からの、やっぱ、支持っていうのは、何せ、すごかったんだよね。
なるほどね。
うん。
そっか。
うん。
まあ、そうやったら、その、投票で比べちゃダメなんだね。
まあ、そうだね。
信頼いっぺんっていうけれども。
うん。
ちょっと違うのか。
うん。
ある種、その、詳しいロジックとか理由っていうのはさ、一般民衆からしたら、まあ、そんなに、まあ、必要ないわけよ。
うんうんうん。
うん。
やっぱ、どっちかっていうと、自分たちが、そもそも、それを、心地よいかどうかみたいな話なんだよね。
まあ、ある種、仏教というか、宗教で言うと、本当に、僕ら救われますかと。
うんうんうん。
やっぱり、修行もできないから、もちろん、天台主なんか、まあ、そもそもね。
天台宗なんかそもそも無理だし 密教のいろんな絢爛華やかな仕様
などももちろんできません 浄土宗に至ってもやっぱり自分の
子は磨いて磨いてそこに無くす っていうのは無理だし
阿弥陀仏と阿弥陀様の御心に完全 に預けようと思ってもそんなこと
はできないと思ったら自分がいる みたいな
そういうふうに来た民衆にとって 名の阿弥陀仏と称えるだけで心の
持ちようなんて関係ないんだっていう 言葉とか
このお札を受け取れば阿弥陀仏 の慈悲を受け取ったも同然みたいな
話ってそれは大いに刺さります よねってなかったもんね
それはそうだね
一説によるとこの一篇はもちろん 50年経って北は平泉までから
南は九州まで本当にあちこちを 旅してたらしいんですよ
平泉っていうのが岩手のところ だと思うんですけど
その中でこのお札念仏札っていう らしいんだけど
これを25万人以上に配りました というふうに言われてるんだよね
当時の多分日本の人口が幅があるん だけど多分1千万人いるかいない
かぐらいなのでもちろんただ10% に配ったことはないんだけれど
もうまあまあすごい数だし森岡 市の人口30万人ぐらいで森岡市民
全員にこのお札乗りましたみたいな こんな感じなんだよね
すごいね
うんやっぱりそれをちゃんと受け 取ってもらったってもそうだし
やっぱりそれが必要なんだとか それで救われるんだっていうこと
を本当に信じてたんだろうね
一遍の教えと踊り念仏
うんうんうん
うん
なので
やっぱりこうねあの一遍っていう のは
そういう意味では確かに法然とか 神壇とか違って
本当に民衆のために生きたという か民衆と共に生きた人みたいな
感じなんですよね
結局あれなのかじゃあ浄土宗から 多分そのね受け取ってもらえない
受け取ってもらえないお坊さん に出会って
そっからその自衆みたいなものに 至ったんだね多分そのタイムラグ
はあると
思わないしその後もそのティッシュ 配りを続けてたって話なんで
オフだね
オフだ配りね
やっぱ自身は結構教団とか集団 としては結構厳しいちゃんとした
ときみたいで
割とちゃんと弟子というかそういう 宗派もいるし
こういうみんなで頑張っていこう じゃあみたいな感じだったんだ
よね
やってることとしては別にそんな なんか難しいことを教えよという
よりは
うんうんうんうんうんうんうん そんなようなイベントをしてるんですよ
ダブルととなればいいんだ
お札をねやっぱりちゃんと配っていけばいいんだ
っていう話で
なんかそのね
さっきもちょっと触れたんですけど
有名な踊り念仏
一編といえば踊り念仏ぐらいの
イメージもある人はあるかと思うんですけど
それでも自然発生的に
行われたみたいな話があるらしいんですよね
そうなんだ
これ一編が進めたとか
広めたわけじゃないんだ
一編は始めたんだけれども
なんか別にすごいこう
考えて考えてよし踊りだみたいな
なんかさ
そうするとさ
ダメダメダブルって言えない?
ちょっと言葉が例えば
いわゆるこう
物を喋れない人もいるから
そういう人のために踊り念仏を作ったんだとか
って考えがちなんだけど
僕ちょっと思ったんだけど
そうじゃなくて
一編よく理屈は抜きにしてね
こんなボン
作ってくださるアミダブ
がいらっしゃると
そのお知らせを聞くだけで
もう嬉しくって
もうねじっとされないから
踊ってしまいますわみたいな
一遍と浄土宗の限界
そんな気持ちを表現するために
踊ったみたいな感じがするんだよね
あーそうなんだ
これはなんか
浄土真宗の
アミダブルに近いものがあるよね
もう
信じたらやっぱり
手に入れちゃうんだみたいな
はいはい
そうそうそう
場所は
長野県のある武士の館で
一編が踊り始めた
というのはきっかけです
というような話があるらしく
きっかけではあるんだね
そうそうそう
武士の館で踊って
それいいじゃんみたいな感じで
みんな踊りだして
ゆくゆくは広まって
屋根付きのステージの上で踊るとか
あるいはみんなで
念仏を唱えるときに
踊り始めちゃったら
水石人がいるし
床が抜けちゃうみたいな
それちょっとね
コントみたいな話も残ってるらしいんですけど
なるほどね
ああいっても会ってみたいね
なんかね
魅力的な人なんだろうね
そうやって全国旅しながらね
本当だと思う
だから本当に
自分たちの目線でというか
民衆と同じ目線で
ある種の福井というか
仏の教えても示してくれた人だったんだろうね
はいはいはい
やっぱり一辺自身は
ちゃんと学んでる
学問としての
ある種情報教ももちろんやってはいるから
やっぱり民衆主体に当たって
どういう風にロジックづけようかとか
自分の中で論理をつけようか
という風には
すごく苦労した人
なるほど
そこがやっぱり
羊というかキャリアの違いという話だね
法年と新蘭との違いか
はいはい
なのでやっぱりね
信じる信じないっていうのも
関係ないんだみたいな話は
さっきも私たち
僕自身そこまではなかなか
セットは落ちてこない
だけどやっぱりそれの
立場の魅力というか
やっぱりそう言われないと
救われない人とか
そう言われたからこそやっぱり信じれる人
逆に信じれる人
信じる信じないっていうのは
どうでもいいんだよって言われて
初めてじゃあその教えは
信じれますっていう人もいたんだと思うんだよね
うんうんうん
なるほど
いやでもこれすごく
勝手な解釈かもしれないけれども
だから筋は通ってる気がするけどね
今日の話しか
聞いてないから
分かんないけれども
今回の話と
あとは前回の新蘭の
あたりの話を
踏まえると
なんかまずその前提として
元々やっぱり阿弥陀仏が
修行して
いわゆる阿弥陀の本願だっけか
本願やった時に
もうその
この主情が救われることが
決定済みであるっていう話
そこっていうのは
ある程度こうなんだろうな
他の宗派というか
仏教の経典として
割とそのありなのかなそこは
どうなんだろうね
その解釈はありなんだ
その解釈はあり
うん
うん
うん
うん
,あの18番目で
一切主情を
まあ
ただし
仏教に受け付けた
ものとかは除く
みたいな感じが
書かれてるから
そこはありなんだよね
ありなんだよね
だからそこはもう
じゃあすでに
今やっぱ生きてるというか
この世にいる
その人々が
もう救われることが
もう自明のことであると
もうあの決まって
定められた運命である
っていう風にすると
だしそう言ってたよね
もうそうとなってるんだから
うんうん
そこを前提とすれば
別にその信じる信じないは
堂々もよくて
もうあの
まあどう
どうしようが
そのね
おきてやぶりみたいなことを
しなければ
もう救われるのが
自明であるとすれば
なんか納得いくよね
別にあの
波や
信じていようが信じてまいが
阿弥陀仏
異様が異馬異馬異馬異馬異馬
うん
あの救われるんですよと
でただその
そのことについて
その救われる
阿弥陀仏に救われているか
もう救われ済みであるってことが
うん
多分みんな知らないよねと
でそれをただみんなに教えてあげるよ
みたいな解釈
うんうん
でまあ仮にだけど
こうは言ってないと思うけど
例えば生阿弥陀仏っていうのを
信じて救われるために言うんじゃなくて
もう感謝だよね
うん
もうあの阿弥陀様ありがとう
あーそうね
まあであの敬意しますと
ありがとう感謝
感謝
そう信じますとかじゃなくて
連れてってくださいじゃなくて
ありがとうの気持ちを超えて
生阿弥陀仏っていう風に
うん
あの言うんですよと
そういうあの
もう救われてることを知ったからには
ちゃんと感謝していきましょうねと
うん
いう風に解釈すれば
なんかめちゃくちゃ納得するなと思った
うんうんうん
ちょっと曲解してるかもしんないけど
そうねそうね
うん
例えばこう
なんか正しさではないんだけど
多分一見からすると
それでもいいじゃんって
多分ね言うと思う
そんぐらいの一頃の
うん
うん
,
そうそうそう
広さがあるみたいな感じだよな
広さがあるし
やっぱりまあこれはちょっと今日
あのお伝えしけなかった部分なんだけれども
その阿弥陀仏ってやっぱりただの言葉じゃなくて
それ自体が阿弥陀仏のなんだろうな
働きでありなんだろうな
その存在であり
全てが包まれているぐらいの
やっぱりとこまでいくはいくんだよね
うんうんうんうんうんうん
ただただ言葉を言うんじゃなくて
まあ名号とか
まあ念仏ではあるんだけど
うーん
この言葉を言うってこと自体に
もの凄いパワーがあるんだぜ
みたいな感じなんだよね
だからある種その感謝の心含めてだし
そういうような気持ちで
名分と唱えましょうと
そうすればもうほんとにそれは
救われているんだよみたいな
救われるんだよ
っていうよりは
うーん
本当にこう一編が
なんの
通じてくねが所で
至った境地だっていう感じなんだよね
うん
だからまあそうなのね
と思うけどね
だからまあそうだね
なんかすごい一般に広まって、ただロジックはちょっと弱いみたいなのもね、なんか分かって面白かったし、相当魅力的だったんだろうな、これは。
うんうんうんうん。
でもあれだろ、今はそんなにさ、周りで自習ですって人いないんだけど。
多分ね、自習自体はね、多分結構落ち着いたってんじゃないかな、今だと。
うんうんうんうん。
でもやっぱりなんだろうな、そもそも現代に伝わってるっていう戦術すごいよねって話は、まあ前提あるし。
これは800年前とかだからね。
うんうんうん。
まあ確かにそうだね、なんか何しろとかって別に言われてないから、そんな広ま、逆に広まんなかったのかな、なんか。
どうなんだろうね。
どうなんだろうね、うん。
でも、まああとはやっぱりそのキリーみたいな話として、
うん。
やっぱりこう、
広める力がある種こう、強くなんなかったりとかもあんのかもね。
やっぱね、それこそさ、法然のさ、浄土宗ですらね、既存の人たちにこうある種攻撃されて、
うんうんうん。
抜群されそうになったわけだけど、
うん。
で、まさにこの自習とかもさ、いやもうこんな信者も信じなくてもOKとか言われちゃったらさ、
やっぱりね、元々の仏教の人からすると、いやそんなことないでしょ、とか。
うん。
さすがにそれは、なんと言い過ぎじゃないとかってなるとは思うから。
ああ、まあ、確かに。
うん。
ああ、あれ自習みたいなのも取り込めそうだもんね。
そうそうそう。
そうじゃなくて、こういうふうに生身だ仏って言うんですよ、あ、そうだったんだとかって、
うん。
なんか思っちゃいそうだもんね。
そうそうそうそう。
もう浄土真宗側の方が正しいとかって思わされちゃいそうというか。
まあ、そういうようなこう駆け引きじゃないけれども、時代の流れの中で、まあやっぱりこう自分はじゃあどっちがいいんだとか、
うん。
なんだろうな、あの、どういう救いが自分に合うんだろうかっていうのが逆に言うと出てきたんだろうね。
うん。
まあ逆に言うと一辺は本当にそのなんだろうな、まあ社会的にこう地位が低いって言うとあれだけれども、
うん。
まあ本当にこう病気の人とかさ、やっぱりそういうもう本当に自分では動けないようなぐらいの人。
うん。
で、もう本当に苦しいしんどいっていう人でも、やっぱりこう死んだというか、やっぱり一辺によって救われた人がいるみたいな話も残ってるぐらいなので。
うん、なるほどなるほど。
うん。
そういう阿弥陀仏の救いを、まあ本当にその広げていくみたいな意味ではすごくやっぱり役立てたんだろうな。
役立てたんだろうなっていうふうに思うんだよね。
まあそんな感じでね、えーと、今回そのコーナーから始まって、まあ浄土経の地位について、新談1編と見てきたんですけど、
自習の広がりと救い
まあ一旦ね、こう、今倉仏教の中の浄土経編は以上にしようかなと思って、
まあ一回ここで雑談とかも挟みながら。
はいはいはい。
はい。次はえーとね、その禅ですね。あの永済、幻体宗と桃源の曹洞宗。
はいはいはい。あ、そうなんだ。お、また。
ちょっとしばらくその東洋系が続くってことはね。
そうだね。正確なままで鎌倉仏教をもうちょっと豊かに伝えていきたいなっていう。
うんうんうん。
なのでまあ、鎌倉仏教パート2みたいな感じで、ちょっとやっていこうかなと思うので、それを捉えていこうというふうに思っております。
うん。日本の禅ってことはね。
はい、日本の禅だね。
分かりました。了解です。
浄土真宗の身近さ
いやーちょっとね、あのー、すごい身近なところでね、やっぱ自分たちが浄土真宗だからね。
うん。
そこがね、こういう流れで来てるんだ、こういうロジックがあって、その悟れる、救われるっていう話してるんだなーって思う。
そこはね、ちょっと知れてよかったなーと思うんで。
ね、よかったです。
うん。もっと次回の禅とかも踏まえながら、ちょっとね、その日本の仏教の広がりだったりね、その深みみたいなのを感じられたらいいなーと思うし、好きあらばじゃあ自分はやっぱ禅にしようかなとかね。
そういうね、終始がね。
そういうね、何が合うんだろうなっていうね。
そうそうそう。
うん。
の可能性も探っていきたいなと思いますね。
はいはいはい。
そうですね。
禅がどういう感じなのか。
ね、だって、禅なんてさ、それこそあのー、ね、あのー、えっと、スティーブ・ジョブズじゃないけどさ。
なんだよね。
結構その、海外でなんか、仏教とかでもさ、禅とかってさ、
うん。
言葉として結構広まってるイメージもあるじゃん。
そうだね。
そうだね。
それがやっぱどういうものなのか。
うん。
うん。
うん。
うん。
うん。
うん。
うん。
うん。
とかさ、その辺にも多くあると思うんで。
そうそう。
っていうのをちょっと知っといてもね。
うん。
でいったらおもしろいんじゃないかなあ。
たいな持っか。
やっぱりなるほどね。
うん。
じゃあそんな感じでですね。
はい。
次回も引き続き楽しんでいきたいと思います。
じゃあ、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。
今回もありがとうございました。
はい、ありがとうございました。
41:34

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