世界とは何か
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。 宜しくお願いします。
宜しくお願いします。
今回もふっさるということで、前回の続き行ってみたいと思います。
はい、前回の幻想学というのは、一人称的な視点、自分が世の中を見る時に、自然的な外に物があって、自分がそれを見ているのかという態度ではなくて、
そういうのを停止、エポケイという言葉を入れたと思うんですけど、そういうやることで見えてくる世界があるよと、そこから始まるのが幻想学だよという話をしたかなと思います。
エポケイも、判断停止とか保留と言われちゃうと、何も考えなくていいと思っちゃう気もしたんだけれども、
多分そのスタート地点が、人間というのは自然的に、この前、自然とかニュートラルみたいな話だったけど、何もしてないと結構勝手に判断しちゃってるよねとか、判断させられちゃってるよねみたいなところを、
一旦その回路を止めましょうぐらいの、止めた上でフラットに持っていきましょう、みたいな雰囲気だったって感じがしたね、前回の。
そうそうそう、本当に無意識でやっちゃってることにちゃんと気づいて、それを止めましょう、意識的に止めましょう、みたいな意味合いの方が近いかなとは思うんですけど、
このエポケイして物を見るっていうのは、具体的なもの、サイコロとか花とかだけではなくて、
いわゆる想像することとか描くのとか、手が指すみたいな、そういう空想の存在とか概念とかにも使うことができるんですよね。
こういう視点からもいろんなものを考えていくと、どんなものがテーマとして出てきて、どんなふうにそれを考えていくのかみたいなことを、
ちょっと今回と次回でしっかりお話ししていきたいとは思うんですけど、
今回はですね、一番大きな話、現象学的に見た一印象的な視点の中で一番大きな世界とは何かっていうテーマをちょっとお話ししたいなというふうに思います。
はいはい、やっぱり出てくるんだね、哲学とかやってるとこのテーマね、我々の生きる世界とは何かと。
普通に考えるとさ、これは普通にっていうとニュートラルな自然的な態度で考えると、世界っていうのは自分として独立してあって、
まさに客観的な、むしろ世界の中に自分が一部を占めるものとして存在しているっていうような、そんな考え方になると思うんですよね。
あるいは哲学好きな方とかだと、最近では現代で有名なマルクス・ガブリエールさんっていう哲学者がいるんですけど、
その人もやっぱり世界っていうものをテーマに扱っていて、なぜ世界は存在しないのかっていう。
彼は世界は存在しないって言ってるんだけど、そういうところが話題になったのをご存知の方もいるかなと思います。
世界ってあるのないのとかって言うとまたちょっとあれなんですけど、
フッサールの方が言っても160年以上1900年とかのところなので、だいぶ前の人なので、
フッサールが絶対正しいとかっていうことでもないんですけど、そこの考え方を知っておくのは楽しいんじゃないかというふうに思ってますと。
フッサールに言わせると、それはエポ系状態の人に言わせるとって話なんですけど、
世界っていうのは直接経験、前回言ったような物事をある種ゼロベースで見るみたいなことの前提となるもの。
ゼロベースで見ても違うから、別に知識とか経験とかあってもいいんですけど、
そういうエポ系状態で見るっていうことを成り立たせるその前提となるものなので、
世界がなければ何も存在しないんだけれども、世界が存在しているかって言われると、
世界の存在と範囲
存在しているとも言えないともちょっと言いにくいなみたいな、そんな感じになっちゃうんですよね。
もっと言うと、世界っていうのは、いわゆるサイコロとか花とかそういうものとは違う仕方で存在をしているんだ、みたいなふうに言うんですけど。
へー、そうなんだ。同じじゃないんだ、そこは。
同じじゃない、そう。それがなぜ言えるかっていうのをちょっとお話ししていこうというふうに思いますと。
改めてその一印象的なというか、エポ系の状態から始めていくんですけど、
一旦その言葉を使えるとして、目の前に何かがある物体があって、それが花であるとかっていうのはわかりましたと。
それは花瓶に入っていて、机の上にあって、それはどっかの部屋の中に、リビングの中にあって、
それを家の中に含まれる1個の部屋でとかっていうふうに、どんどん空間的に広げていったりとか、
それを見て確認することもできるし、想像を広げていくこともできますよねと。
つまり目の前の花とかっていうものは、空間的に他の物と関係して存在しているっていうふうに言えますよねと。
これを目の前の花から始めて、家とかまで広げたんだけど、
それを例えば街中にとか、僕だったら京都府にとか、あるいは日本にとか、そのふうに広げていくと、
最終的にはどこか、おそらく端っこ、物理学的な観点からすると、どっかの宇宙の端かなんかわかんないけど、
そういうところにたどり着いて、それが世界の全体じゃないかっていうふうに想像することができますと。
世界の境界と外側
なるほどね。すごい高性能のドローンがあった時に、どこまでも宇宙まで行けるドローンがあった時にどこまで行っちゃうんだろうねみたいな話ね。
そうそうそう、話。そういうYouTube動画とかもあって面白いんですけど、どんどんスケールアウトしていくみたいなね。
そういうふうに考えると、ドローンが一番遠くに行った時には、ある種世界の端っこがあるから、その端っこをちゃんとつなぎ合わせると、
その中に世界のあらゆるもの、物理的な花もそうだし家もそうだし、あるいはその中で生きてる人の空想とか夢とか、
そういうものもある程度もその空間の中でしか起こり得ないよねっていうような境界とか線を引くことができるんじゃないかと。
いうふうに考えると思うんですけど、これも直感的に考えた時に、ちょっと外側、要はドローンがその端っこを見ようと思っていることは、その端っこもちょっと外にドローンがいなきゃいけないじゃないですか。
なるほどね。
でもちょっと外にいるってことは、そこも世界に包まれちゃうっていうのが延々に続いていっちゃうんだよね。
っていうことが空間的に考えた場合、世界っていうのはここからここまでっていうのは線が引けませんというか、そういうふうに想定するのが結構難しい存在だぞ、対象だぞっていうことが考えられますよねと。
はいはいはい。
それはエポケ状態で見たとしてもってことだね。
エポケ状態で想像したとしても。
意外と宇宙っていうものはそもそも物理的な感覚だから、宇宙っていうのを直接再現するのは難しい。
それこそ本当に地球を出て初めて見れるものだけど、空間を最大限広げた時に、その最大限広げる最大限っていうところが限りがないんじゃないかっていうことは想像できると思うんだよね。
意味不明だもんね。この瞬間から何もないですってどういうこと?みたいなね。
そうそうそうそう。
だから昔の人も地球が平らで水が落ちてみたいなことを想像してたのと同じようなことがここでも起きちゃうんだよね。
そうだよね。それを宇宙で今やってるって考えるとちょっと滑稽でもあるもんね。
エポケ状態からすると、世界そのものっていうのは空間性っていうものをある種を超えているというか、もっと言うと世界イコール空間性だっていうふうに捉えることができますと。
そういうふうに考えていくとね。
これは実は時間についても同じようなことが言えて、やっぱり時間と空間ってものを捉えるときの基本的な仕組みなんだけど、
要は昨日あったものが今日あるとかっていうとそれは同じものが存在するってことだし、昨日あったものが今日ないってことはもう存在してないってことだから、
存在ってやっぱり時間とか存在と空間ってすごく密接に関わってるっていうふうに言えるんですけど、
逆に世界っていうのを考えるときに、じゃあ世界がなかったときに時間ってあったんだっけとかって考えようと思うと、
でも時間があったっていうならそれってもう世界がそこに存在するってことだし、
時間がなかったっていうのはそもそもなかったって何よみたいな話になってくるから、
結局世界と時間性みたいなものもそれって一緒じゃないっていうふうに考えることができますと。
一緒っていうか切っては切れないよねっていう話。
そう、切っては切れない。
例えば世界がなくなりました、そのとき時間って続くんですかっていうと、
時間が続いてるってことはそもそも世界なくなってないじゃんみたいな。
ああ、はいはいはい。
さっきの空間の端っこと同じようなことになっちゃうってことだね。
そうそうそう、そういうこと。
なので、ここで今時間とか空間ってもっと世界ってものを紐付けていると話したんですけど、
じゃあ最大限空間的とか時間的広がりを持つものが世界だとしたときに、
それっていうのは僕らの直接経験ではある程度捉えられない。
その想像して限りがなさそうってことはまだ言えるんだけど、
限りがなさそうまでしかいけないものだっていうふうに考えるんだよね。
うんうん、なるほど。
それはむしろ逆転して、そもそもそういう限りがない空間的時間的広がりっていうものがあるからこそ、
僕らはその中において直接経験ができる。
そもそもそういう直接経験が成り立つ場っていうのが世界なんだっていうふうにフッサルとか現象学でいうと捉えるんだよね。
はー、なるほどね。だからあれか。
じゃあ、いわゆる花とか花瓶とかと世界って同じとか言えないっていうか、そこが違うって明確に今の話から言えるわけなんだね。
そういうこと、そういうこと。
世界も一つのものではなくて、これは一つの前提なんだよみたいな話になっちゃうってことなんだ、どうしても。
そう、ほんとその通り。
世界があって初めてものが存在するしとか直接経験ができるしっていうふうに言えるんだけど、
世界が存在しているかっていうと、存在はしてるんだけどものとしては存在してませんよねみたいな。
はいはいはい。
これフッサルは世界っていうのは、いわゆる客観とか世の中にあるもののように存在するんじゃなくて、
唯一性において存在するのだと。
世界の存在と現象学
この唯一性っていうのにとっては複数っていうのは無意味だよっていうふうに表現していて、
つまり世界っていうのは存在してるんだけど、それは他のものと比較してとか、
AがあってBがあるみたいに言えるものじゃなくて、
世界っていうのは唯一それそのものっていうあり方において存在してるから、
他のやっぱり存在比較できるとか自分が見聞きできる存在とは違うんだぞっていうようなことを言うんだよね。
かつ、それを見出すために現象学的なエポケーした状態という以外のものを使ってないんだよね。
ここまでの話でね。
ここまでの話で。
だけどそれをある種明らかにできるくらい、現象学っていうのは強力なツールだよっていうこともここで言ってるんだよね。
要は数学して物理学で観測して、光を捉えてうんぬんとかっていういろんな知見を身につけて、
その真理をもちろん発見していくとか、世界っていうものを捉えていくってやり方もあるんだけど、
現象学っていうのはその現象学だけで一定そこまでのことを存在として記載できちゃう。
はいはいはい。
なるほどね。強力だねそれは確かに。
この考え方からすると、エポケー状態でこういったことまで考えました。
で、あとは物理学とか数学とかは、それを確認、いわゆる検証するための手段にすぎませんっていう、
ちょっとそのくらいの違いというか、できちゃうくらい強力な感じがするね。
そうそうそうそう。もちろんフルサルはそこまで叫びしちゃいに言ってるかどうかを置いておいたとしても、
でもやっぱりそういうことも言えちゃうよねみたいな、そういう話ではあるんですよね。
で、今その時間とか空間っていう話をしてきたんですけど、
これについてもね、やっぱりこの現象学的なエポケー状態で見ると、やっぱどうなるかっていうのは普通の捉え方とは違うんですよね。
今ではあんまり区別せずに、時間とか空間っていうのも普通の日常っぽい言葉で説明してきたんですけど、
世界を一旦説明したというか定義したので、その中にある時間と空間というのをもうちょっと定義していきますと。
もう一回ちゃんとエポケー状態から。
もう一回ちゃんとエポケー状態で。
空間の客観的な存在と基点
では直接体験する時間とか空間って何よっていう話ね。
やっていこうと思うんですけど、まずは空間からちょっと行こうと思うんですけど、
わかりやすいようにまずはこの自然的なニュートラルな態度からいくと、
普通空間って何かの枠とかで仕切られていたその内部空間が内部か、
そういった何もないっていう状況に対して僕らはそれが空間だっていうふうに捉えると思うんですよね。
うん、そうね。
これはやっぱりいわゆる客観的なとか物理的な話の空間のあり方であって、
そこに自分という人がいようがいまいがあるしか関係ありませんと。
これは主観的なとか一人称視点で見た空間の話ではないんだよね。
なるほどね。
それあくまで知識だったりとか一般的にそう言われてるでしょっていうふうな形で考えちゃってるよねと。
そうそう。こっちはニュートラルな話。
じゃあその空間が一人称的に見るとか捉えるとどうなるかみたいな話なんだけど、
空間って自分に対してどんな意味を持つのみたいなところを考えましょうって話なんだけど、
まずフッサールが何を言うかっていうと、
マズモってその空間性っていうのを一人称的なエポケ状態で考えた時に出てくるのは動くっていうことなんだと。
動く。ムーブね、ムーブ。なんだっていうのね。
何かが動くというからにはその動きの基準となる別の地点とか位置っていうのが定められている必要があって、
その動くものと動く基準っていうのの位置を捉えた時にそこにそもそも空間っていうのがあったっていうことに後から気づきますよねっていうふうに言うのね。
まだピンときてないけど。
なぜかっていうと要は空間っていうのは当然普通に考えたら経験できないというかその意識に上がってこないじゃないですか。
なるほど、そのエポケ状態でね。
空間っていう概念がそもそも生まれてくるかねって話ね。
どうしたらそれを経験できるかねとか想像できるかねって話なんだよね。
だからまず第一人称的視点でいくとそもそも世の中に広がりがあるっていうことすら言えないのよ。
ただ何かが自分の視界の中で動いたってことは経験できますと。
目でいうと視界の中にあるその対象、別にサイクローでも動物でもいいんだけど、それが動く。
要は自分から見て、左とか右っていう方向性を使えるとして、左から右にそのものが視界の中で位置を変えたっていうことは言えますと。
位置を変えたっていうことは、つまりこれ時間にもかかってきててめちゃめちゃ深い話なんだけど、
さっきまで左にいたものが今右にいるっていうことは時間と空間の両方にかかってるんだよね。
今ちょっと空間の話だけを捉えたときに、空間的にさっきの場所っていうものを起点にしておかないと、
犬が右に動いたっていうことは説明できないんだよね。
あー、はいはいはいはい。
そう、難しいんだよ。これすごい難しいんだけど。
そっか、だからその順番なのか。犬が動いたからそこには犬が動く余地があったよね、空間があったよねっていうのを後から、
あそこにはそういう空間があったんだねっていうふうに空間っていう言葉を使うかどうかとは別として、一応そういうふうに認識はしてるはずだと。
それを空間だと一応定義してるよねという順番っていうのはなんとなくわかった。なるほど。
まあそれ欲しいけどわかった。
いや難しいんだよ。
すごいね。
自然的なニュートラルな態度で言うと、部屋っていう空間の中を犬が自由に動き回っているっていう、
やっぱりその空間が先にあって犬が動くっていうのが後なんだけど、
空間の一人称的な捉え方
エポ系状態からすると犬が動いたということはそこに空間というものを想定し得るっていう順番なんだよね。
はいはいはい。
ただこの想定っていうのは別に自分が想定したから空間が生まれたってわけではなく、
そもそも空間があったんだっていうことに気づくって話なんだよね。
正しいかわからないけど、前回に言うと空間っていう現実があったとして、犬が動いたことでその空間っていうものの諸現実とかされたものなんだっけ?
ちょっと言葉忘れたけど、なんかあるよね?
あるある。空間という現実社会だとして、犬が動いたということによりその空間性が現れてくる、現実されるっていうふうに言ってもいいかもしれない。
うんうんうん。っていうような、たぶんちょっと違うかもしれないけど理解的にはそういう感じがした。
そうだねそうだね。でもそれは確かにちょっと厳密じゃないけど理解しやすいと思う。
なので、そういうエポ系状態からすると、空間っていうのは立ち上がってくるんだけれども、
つまりその空間っていうのは動く犬とかっていう対象に比べると、空間は動かなさっていうのを持ってますっていうふうに伏せられるよね。
うんうんうん。動かれる方だもんね、どっちかっていうとね。
そう動かない。絶対に不動のというか基準となる基点、基準点っていうものがあるからこそものが動くとか、空間があるっていうのを僕らは経験できる。
その土台として空間というものが存在しているのだ、みたいなふうに言いますと。
はいはいはいはい。
現象の隠蔽と空間の再認識
これもちょっと面白いんだけど、さっき言った通り一印象的なエポ系的な視点で何かが動き出したみたいな場合って、
基本的に人の注意はそっちに向くんですよ。犬が動いたら犬に基本的には注意が向くんだけれども、
その時はさっき確認したように動きの前提となる動かない不動の空間っていうものが意識の外に追いやられちゃう。
本当は空間というものがあるんだけど、それを意識せずに犬っていうものに僕ら集中できてしまうんだよね。
うんうん、そうね。
これはフッサールは隠蔽する、隠されてしまうっていうふうに言うんだけど、
つまり何かが現れる、犬の動きが現れるっていうのは空間の動かなさっていうのが隠れちゃうことと一緒に起きているんだっていう話をしますと。
つまり何かが現れるというのは、その世界とか空間とかが隠れるってことと、直立経験的なエポケ的な世界でいうと同時に起きるんだって話があって、
これがめちゃめちゃ面白い。
そうなの?
そこまで言う必要は?
なぜかっていうと、フッサールは学問の基礎を付けようとしてるじゃない?
でもそれを知らずにみんなその基礎っていうのを覆い隠されたまんま、みんな数学とか物理学とかやってるよねっていうふうに言ってるわけよ。
全然しっくりこない顔してるね。
ちょっとそうはね、しっくりいきたいね。
つまりそれは何かっていうと、自分が何に寄ってたっていうのかとか、なんでその学問の正しさを正しいと言えるのかっていう基盤がないままにみんないろんなことやってるよねっていうことをフッサールは考えてるんだけど、
これって人間が生きてるときも一緒じゃんっていうことだと思うんだよね。
要はなぜ人は動くとか生活するとか物を認識するとかっていうことの土台を知らないままに認識とか行動とかってことをしてるよねと。
それで生きていけるんだけど、それで本当の哲学とか正しさとかってわかるんだっけっていう話を言ってるのではなかろうかと。
僕のだいぶ想像というか思いも込められちゃってるんだけど。
だから物事はちゃんと理解しようとする。
例えばよくある、別に僕らはパソコンの細かい仕組みとかを知らなくても別にインターネットができるし、こうやってズームで話すこともできるんだけど、
より良いパソコンを作ろうとか、もっと優れたものを形にしようと思うときにはパソコンの構造とかそれがなぜ動いているのかということをやっぱり理解しなきゃいけない。
それは電気的なこともそうだろうし、物理とかもしかしたら数式的なこととかも含めてやっぱり理解しなきゃいけない。
人がなぜ生きているのかとか、どうすれば正しく生きていけるのかっていうことを考えようと思ったら、そういう生きているっていうことの根底にあるものを知らなきゃいけない。
でもそれは普段覆い隠されてて僕らから見えないんだよね。
要は世界っていうのは、たどり着けないもので、存在とは違う仕方で存在していてとか、
僕らが何かをやる中では空間とか次に言う時間とかっていうものが根底にあるんだけど、
それは全部覆い隠されていて客観的な物理的な空間とか、流れているように感じる過去未来現在みたいな時間とかっていうものに覆い隠されてしまっている。
ふっさるとか現象的に言うと、僕らが普段自然態度に接している空間とか時間っていうのは直接的な経験じゃないから間違ってるっていうか誤解を含んでるんだよね。
僕らはその誤解の中で生きてるっていうことに気づかずに生きてるんだけど、
それを覆いを剥がしてちゃんとエポ系して、正しく認識するっていうことが正しく生きるとか、正しく物事を考えるっていうことに近づけるんですってみたいな。
なるほど。ちょっと分かってきた気がする。
なるほどね。そっち言うと分かりやすいね。分かりやすいというか。
学問とかちゃんとやったことないから分かんないんだけど、学問の方でも同じようなことが起きてるよねっていうふうにふっさるは思ってたってことね、さっきの。
そうだね。
なぜ正しいかが分かんないまま正しさについて議論してるみたいな話と一緒で、
そもそも僕らはどういう環境で生きてるか、世界とか空間とか時間とかって理解しないまま世界について語っているとか、世界の中でそもそも生きているみたいな。
空間・時間の矛盾と幻想学
それって、要は前提を知らずに行動してる、要はサッカーのルールを知らずにサッカーしてるみたいな感じ?
黙っちゃったよ。
ちょっと待ってね。
いや、でもいいね。久々にこういうちょっと。
なんだろうな、この凄さを表現するのにもっとテキストがあるんじゃないかなと思って。
やっぱりこの隠蔽される部分が凄いなと思ったんでしょう。
凄い、凄いと思う。
そこに気づいたのがあってね。
難しいな。かなり自然に生きている人からすると、かなりアハ体験というか、理解が難しい深さに達してるから、この話が。
これを、「ああ、こんな感じ?」って軽く言えない深さまで達しちゃってるんだよね。
そこだ、多分俺が感じてるの。
ハヤトの感動がわからないわけじゃなくて、これを自然、ニュートラルな、今回で言うニュートラルな人たちが一緒に喜びを分かち合えるような具体的な例えが今思いつかないっていう。
さっきのサッカーの例えもちょっと違うんだよね。
まあね、確かに。
難しい。
やっぱりそれが多分、原子学が知識というより体験だっていう話に近くて。
僕も何かの瞬間にね、そういうことかっていうのを感覚的に理解した瞬間があって、何だったかな?
みんな同じことを経験してるんだみたいなことを思った。
前回言った原子学ってただの主観性で一人一人好きに考えたらいいよじゃなくて、ちゃんと同じ手続きを踏むと同じように考えることができるってことを言ったと思うんだけど、
それを自分なりに追体験した感覚があったんだよね。
だからこのフッサールの言う空間というものが覚え隠されているみたいな話も言葉として理解するんじゃなくて、
確かに覚え隠されている。今自分は世界を、空間を認識したと思った瞬間にその空間というものをもう忘却してしまったみたいな。
そこの体験があると、わはーってリアクションがあるんですけど。
そういうことかっていうのを思うとか、やっぱり無意識みたいな話があるとは思うんだけど、人間が普段生きている上では別にそんなことは気づかなくてもいいんですよね。
どんな空間というものが自分の存在かとか気づかなくていいんですけど、そもそも生きているとはとか、正しく生きるとは何かっていう時に、
やっぱり自分が見えてないものがあるっていうものを指摘するとか、その正しく手順を踏んだらちゃんと見えるようになるよっていうふうに言えることってめちゃめちゃすごいことだと思っていて、
それはやっぱり幻想学はやってくれている。
なるほど、はいはいはい。
もっと言うと、幸せの青い鳥じゃないですけど、幸せはどこだどこだって言って、そこにあるじゃんって言われたときに、
確かにあったと思うんだけど、気を抜くとすぐにまたなくなるみたいな、そういう世界って僕らあると思っていて、それを指し示してくれている。
なるほど、そういう存在をきちんと証明というかね、みんなが分かる形でこうやって言語化してくれているってことだね。
そうそうそう。
幻想学と無意識の探求
感じろだけじゃないっていうね。
感じるだけじゃない、そう。
禅とか感じろというか、自分で辿り着けなんだよね。
悟る悟らないっていうような、悟ったか悟らないかなんだけど、やっぱり幻想学はどっちかというと、ちゃんと手順を踏んで行ってこういうふうに考えると、
その世界に辿り着けるはずだよっていうところまでやっぱり説明してくれるから。
はいはいはいはい。
そうね、だからこれで面白いと思ったのは、今言った幻想学で伏せたあるは、ある意味自分の無意識にアクセスする空間っていうものが隠蔽されているんだというところに辿り着く手段を、
たぶんきちんと一個一個その階段ステップをちゃんと作ってくれてるだけれども、
それはゼロベースからエポテイル状態からこうやってこうやってこうやってこうやっていくと、そこの無意識状態に辿り着きますよねっていうのはめちゃくちゃわかりやすいんだよ、それはそれで。
なんだけれども、一方でそのニュートラルというか自然な、その無意識に気づけてない人たちからすると、それって真逆のステップなんだよね。
はいはい。
一個一個剥がしていくステップ。
はいはいはいはい。
剥がしていってそこに辿り着く。剥がしていってそのエポテイル状態にまず辿り着くのか。
そうね。
剥がしていくことでその無意識にいきなり辿り着くのかはちょっと難しいというかあると思うんだけど、たぶんそこなのかもしれないね。
なるほどね。
難しさというか。
確かに。
そのなんだろうな、アンラーニングじゃないんだけれども、その現象学は積み重ねてる、ちゃんとエポテイル、前提を忘れた上でエポテイルに辿り着いてそこから積み重ねましょうっていう話をしてくれてるんだけれども、
うん。
剥がしていくところの難しさみたいなものも同じく感じるというか。
ああ、でもほんとそう、ほんとそう。
うん。
だからそれが、その、ハヤトがさっき言ったようなその、やっぱ感じる部分にちょっとなっちゃう部分もある。
うん。
その頭では剥がしていくってのは分かるんだけれども、感覚でその本当に剥がれたみたいな。
そうね。
あの体験ができるかどうかとかするかどうかみたいなところのやっぱ難しさも同時にやっぱりこう感じるというか。
うん。
そこかな、なんかさっきのハヤトのあの感動に。
うん。
多分その、こううまくね、こう、あ、ごめん長いんだけど、そこの感動はやっぱすごくその主観的というか。
うん。
多分個人的な経験なんだよね。
はいはい、そうね、それはそう。
だからそこをみんな、いやそうだよね、みんなそうだそうだみたいになりづらい難しさがあるのかもしれない。
感覚と頭の差
ある。
うん。
し、やっぱりあの、いろんな本を読んでるとやっぱりふっさるとは現状だからすごく誤解されやすい、やっぱり学問というか考え方らしくて。
うんうん。
前回と言うようにその独学論でそれっていうのはただあなたが考えてるだけじゃないかみたいな話とか。
うん。
だからそれってなんかこう、結局主観的に考えてるだけだから別に何ら新しいこと言ってないんじゃないかみたいな話っていうのはあるんだよね。
でもそれが兄さんも確かに言ってくれた通り、あの確かに剥がしていってそれでポケして判断を停止するんだっていうことを頭でわかるのと、
実際にその判断停止した状態で物事を見るとか考えるっていうことにやっぱり運命の差がある。
うんうんうんうん。
で、僕もそれは正しくできてるかどうかはもちろんね、わからないというか、全然あなたがエポ系誤断ですとかって言われてるわけでもないしそんなことはないだろうから。
うんうん。
わかんないですけど、なんとなくそのきっとこういうことじゃないかみたいなこういうことっていうのは、
あの、なんだろうな、やっぱりちゃんとスキームを入れる。
目の前にあったこれはパソコンであるっていうふうに一瞬で思っちゃうんだけど、その思ったことに対して内省するというかそれを一旦、なんだろうな、
こう遮断するみたいなところの手続き感っていうのをなんとなく自分なりにやったというかなんかこう理解しようとした中で感じた部分がある。
はいはいはいはい。
本当だ、1ヶ月ぐらいずっとフルスタイルのことがわかりたくて、フルスタイルの解説本ばっか読んでた時期とかがあって同じソーンをずっと1ヶ月読むんだみたいなそういう時期もあったのよ。
なのでやっぱりそういう体験を経て、やっぱりなんかこう話してる部分があるから、
なんとなくこう、なんだろうな、伝わんなかったことによって逆にそういうのも思い出してる。
あーはいはいはいはい。
そうね、だからやっぱり物を見るっていうことに対してとか考えることに対してその考え方が変わりましたかっていうのとか見方が変わりましたかっていうことをやっぱり問うのはすごくやっぱり難しいよね。
客観的時間と直接体験する時間
なんかやっぱり体験だからこれは。
はい、ちょっとそんな感じで今空間について話をしたんですけど。
まあちょっとずれまくったけど。
確かに一応時間の話もちょっとしとく?
しようしよう。
そしたら空間に関してはそういう動かない空間っていうのがある種想像されますよというか、直接体験で出てきますよっていう話なんですけど、
さっきも言った通り時間についても結構似てるようなことが言えますよと。
例えば僕らは普段使っている何時何分何秒とか、過去現在未来とかっていう区別された時間っていうのはこれも全部客観的な時間ですと。
これは分かりついてもいわゆるデジタル化的な1秒とかって区切られた時間と、ある種再現のないというか、そういう時間みたいなものって全然違うねっていうのは分かると思うんですけど、
これを直接体験する時間として語る場合どうするかっていうと、ここではメロディー、いわゆる音楽っていうものが結構例として挙げられるんですよね。
例えば僕が読んだ本だと、日本人が書いた本だと、いわゆる同様のチューリップってあるじゃないですか、サーイーター、サーイーターってやつね。
音にするとドレミらしいんですけど、例えばこれで真ん中のサーイーターのイの音を聞いている瞬間、その場面っていうのを直接体験で考えてみましょうと。
これをいわゆる体験じゃなくて概念で考えると、レを聞いた瞬間はレの音しかないから、これじゃあメロディー成り立たないじゃんっていう話になるんだよね。
要は時間っていうのは区切られたもので、その瞬間だけを取り出したものみたいに考えちゃうと、それはもうレの音しかないから、その前にあるドとかミの音っていうのはそこには影響してこない。
つまりメロディーとしてサーイーターっていう音楽が生まれるっていうことが説明できないっていう風になりますと。
これは直接体験の説明で言うと間違いというか違うよねって風になるんだよね。
それはふっさわれがどう考えていくかっていうと、その一印象的なエポケ状態の感覚の中では、現在っていう時間がちょっと幅をもって厚みが出てくるんだみたいな風に捉えますと。
どういうことかっていうと、その一瞬前に起きたドの音と、あとはその後に起こるであろうミの音っていうのも一定に人間は予測ができるんだと。
その現在の中に今起きているレの音、これは現印象的現実みたいな言葉で言って、ちょっと前に起きたことを、これを把握するのに持つ持続の時年的に現実ではあって、
ちょっと後に起きそうなこと、これを予測のように持つ持続の時年的現実ってこの3つの現実があって、それが現在っていう直接体験の幅の中に3つが入ってくるんだよっていう説明をするのね。
なので、今起きている音はレの音だけなんだけど、さっき聞いたドの音も自分は経験しているし、この後たぶんサーイーまで聞いたらミの音が出るだろうなっていう予測までを現在直接的に体験しているっていう風に言いますと。
ちょっとこれは苦しい説明でもあるんだけど、確かにサーイータのタが全然違うジャーンみたいな音だとびっくりするじゃないですか。
びっくりするっていうのは要はその予測とか予示、あらかじめ想定したものが違ったから驚くのであって、その予測とか現在が未来を捉えてないとその驚きも起きないよねみたいなことを言ったりするのね。
なので、直接経験的なエポ系状態の在り方っていうのをイメージすると、過去があって今があって未来に続くとかっていう過去から流れる時間じゃなくて、まず現在その現印象。
現在感じているものっていうのがあり、そこに対してちょっと前の影響を与える8時っていうものがあり、未来をちょっと予測するっていう意味での4時っていうこの3つが直接体験に含まれてるよっていう風にはね。
客観的に言うと全部現在、今って所属してはいるんだけど、そこがちょっとはみ出してる過去とか未来っていうのがあるから人間はちゃんとこういろんな体験っていうのを積み重ねていけるんだみたいな、それが直接体験から考える時間の在り方だよっていう風に言うんだよね。
そんなデジタルなというか、一瞬一瞬聞き取っていくような感覚ではないってことなんだね。ある意味その前後の文脈だったりっていうものが全然あるよっていう話はね。
これはまさに学問的な話でも一緒で、例えば僕らって普通0.00001秒、何秒みたいなものって認識できないじゃないですか。すごい超高速のシャッターを切るカメラとか何かがあればその世界を見ることはできますと。
でもそれも物理的にそれを捉えるよりは、経験っていうところで言うとあくまでもそれは一つの幅のある現像の中に含まれている。
0.00001秒とかっていうのも、その前後にやっぱり幅を持っているからこそちゃんと存在できるというか、その時間の中に捉えることができるよねみたいな。そんな考え方っていうのが出てきますと。
時間と存在の関係
こういう発想っていうのは、実際まさに取り上げようとしているハイデガー。ハイデガーがまさに存在と時間っていう本を書いていて、ここでも結構その時間とは何かとか存在と時間と関係とは何かっていうところが出てくるので、これについてちょっと楽しみにしていただきたいっていうような感じですね。
なるほどね。時間って結構重要なテーマなんだね。
重要。時間がないと存在できないからね。人っていうかそのものは。
先ほど言ったように空間を移動することもできないしみたいな話もあるしねってことだよね。
時間はないみたいなことを言う人もいるから、物理学者とかでもね。やっぱりそもそも時間ってなんだみたいなのは結構哲学的にもすごく受け継がれているというか、語られているテーマっていう感じですね。
そこがどう定義するかみたいな話で言うとね。
今日は世界とか何かっていうところと、世界として含まれている空間とか時間は何かっていうところを現象学的に見てみましたよっていう感じなんですけど。
やっぱり難しいっていうか、それを言葉で聞いてなるほどねって思うのと、やっぱり自分の体験としてそれを味わうことってやっぱりすごい違いがあるんじゃないかなっていうのは兄貴の話で改めて感じたんですよ。
まあそうね。それこそは結構今回のテーマでもある気がするしね。
そうだね。
現象的な見方が正しいかって言うと別にそんなことはないし、それができなきゃダメかって言うと全くそんなこともないんですけれども、
やっぱりそういう考え方を持つとか、そういうふうに物事とか世界と関わってみようとすることでやっぱり見えてくることとか、
これまで光が当たってなかったけど当たって考えられるテーマっていうのがあるっていうふうにやっぱり思うんですよね。
確かにそれは応用編な感じがして、まずはそうだよね、自分が今どう考えさせられてるかっていうところにまず気づくみたいな、その第一ステップがある気がするね。
もっと言うとそのいわゆる客観的とか物理的とか自然的に考えるっていうことで、実は考えられなくなってしまっているものがあるとか見えなくなってしまっているものがあるってことに気づく。
自然物理学的なとか合理的な考えっていうのが唯一だと思っていると、そもそもそこでは見えないものがあるってことに気づかないから、
そういう意味で幅を広げるっていう意味での役立ち方っていうのもあると思うんだよね。
なるほどなるほど。
その現実者っていうのがあった時に、もうその現実の片方の側面からしか見てなかったよねみたいな話だよね。
そうだねそうだね。
世界観についての個人差
そういう意味では態度、なぜその態度という言葉がつながっていると、やっぱりそこがすごく主観というか個人に関わるものだからっていう話なんですけど。
前回もちょっとお話ししたんですけど、こんな風に世界を捉えるのって結局自分だけが世界の中心で自分が世界を生み出してるんだみたいなこととか、そもそも自分というのは意識なんだみたいな。
やっぱりそういうドクラガロン的なね、自分が特権的な位置を占めるぞみたいな考えに落ちるんじゃないかみたいな話とか。
その中で他人ってどうやって現れてくるのみたいな話っていうのが、結構次のテーマとして出てくるかなと思うので。
はいはいはいはい。
そうですね、もちろんフッサルが考えているところもあるので、次回他者っていうものをテーマにして、具体的な僕らの生活にも役立ちそうな意味での現象学っていうものをお伝えしていきたいと思っております。
はいはい。すごい、サルトルの復讐というか、サルトルの前にこんなことを考えていた人がいるんだなっていうね。
全然サルトルに難しいというかね、感じもして。
そうね、やっぱりサルトルの原理というか、サルトルが使っているツールが現象学だから。
そこで他人っていうのはね、確かにそれぞれが考えている中でどう他人、人と人が関わっていくのかみたいなところは、確かに現象的に言うとどう言うんだろうみたいなのが気になるね。
そうそうそうそう。なのでぜひその辺りも含めて楽しんでいただきたいというところでございます。
ちょっとやっぱり難しいというか、西洋哲学なのでやっぱりちょっとね、理屈っぽい部分もあって、なかなかわからないよって人もいるかもしれないんですけれども、
それはね、それでぜひ味わってみていただきながら、何でこんなにわからないんだっていうことを味わうのも、それもひとつの贅沢だと思っているので。
だってわかんないじゃん、こんなこと言われても。
まあそうはね、実際難しい話だし、そんな感じするし。
ぜひね、ちょっとここ、本当わかんないんだけどみたいなのはお便りとかで質問いただければ補足とかではいとしてくれると思うので、そういうのもぜひぜひお気軽に報告していただければと思いますので。
次回も楽しんでいきたいと思いますので、引き続きよろしくお願いします。
よろしくお願いします。今回もありがとうございました。