1. 志賀十五の壺【10分言語学】
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2022-07-02 10:08

#456 冷たいの語源は「爪、痛い」 from Radiotalk

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#落ち着きある #ひとり語り #豆知識 #雑学 #教育
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始まりました、志賀十五の壺。
皆さん、いかがお過ごしでしょうか。
アルバス・ダンブルドアです。
冷たい、この単語、形容詞の語源は、「爪が痛い」なんですね。
まあ、古文風の言い方をすれば、「爪痛し」なんですね。
まず、この、「爪痛し」が、「冷たし」になりました。
どういうことかというと、
昔の日本語って、「あいうえお」っていう、母音と言われる、
このあぎょうの音って言えばいいんですかね。
それ単体でというか、母音が単語の途中に現れることはできなかったんですね。
なので、この場合は、「爪痛し」だから、「い」が削除されたっていう形になっています。
まあ、同じようなことは他にもあって、
例えばね、私の大切な人っていうのを、「我が妹」とか言ったりしてたんですけど、
妹っていうのは妹っていう字が当てられるものですね。
で、これが、「我ぎいも」になったりしました。
これもやっぱり、「い」っていうのが単語の途中に出てくるので、
この場合は削除というよりは音が一色化になったっていうかな。
まあ、「我が芋」が、「我ぎいも」になっています。
まあ、春雨とかもそうだと思うんだけどな。
あれも、春雨で、「あ」っていうのが単語の途中に出てくるので、
まあ無理やり作業にしたっていうかな。
春雨Sっていうシーンを割り込ませて、
その母音が単語の途中に出てくるっていうのを回避しているということです。
まあ、現代日本語にはそういった制限はないんじゃないかなと思います。
別に、「あいうえお」っていうのは単語の途中でも平気で出てきますよね。
で、ここで今、「つめいたし」が、「つめたし」になったわけですけど、
ここからいきなり現代語の「つめたい」になったわけじゃなくて、
いったんね、「つめたき」っていう形が間にあるんですよね。
これは連体形と言われる形で、
現代日本語では終始形も連体形も両方「つめたい」っていう形なんですけど、
古文の世界では終始形が「つめたし」で連体形が「つめたき」っていう風に形の区別があったんですね。
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つまり、「氷つめたし」と「つめたき氷」っていう風にね。
現代語だったら両方、氷が冷たい、冷たい氷で同じ形ですけど、古文では区別があったと。
で、その終始形と連体形の区別がなくなっちゃって、
もっと言うと、連体形「つめたき」が終始形の役割も担うようになっちゃって、
で、その後、異音便というのが起こって、つまり「き」っていうのが「い」っていう音に変わってるわけですよね。
これは動詞の変化とかにもあって、「書いた」っていうのはもともと「か、き、た」ですけど、
書いたになったりとかね。
そういう音便という変化を経て、現代語の冷たいに至ると。そういうわけなんですね。
というわけで、冷たいの語源は爪が痛いということを今お話ししましたけど、
言語学ってこういうことをやってる、つまり語源の学問だと思っている方もいらっしゃるかもしれません。
まあそれは間違いではないかもしれませんけど、それが全てではないんですね。
むしろ語源っていうのは、ある意味でどうでもいいことではあるんですね。
現代語の冷たいっていうのが、昔の日本語の爪が痛いに由来するからといって、
その語源自体が、現代日本語のシステムというか体系に関わってくるわけではないんですね。
例えば耳が冷たいとか、ほっぺたが冷たいとか言えるわけですよね。
爪が関係なくても、冷たいそれ単体で一つの形容詞として使われているわけなので、
もうそこに語源の爪っていう意味や痛いっていう意味は関わってきていません。
こういうふうに言語の研究をする際は、
その歴史と実際に用いられている体系としての言語っていうのを区別しないといけないんですね。
専門的には通字体と教字体という言い方をするんですけど、
要するにある言語の話をするんだったら、現代日本語だったら現代日本語として、
その歩んできた歴史みたいなのは区別して考えなきゃいけないんですね。
歴史は歴史、それはそれ。
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現代日本語では冷たいっていうその形容詞、一つの形容詞として、
一つの言語という体系の中で分析されなきゃいけないっていう、そういうことなんですよ。
つまり、やたらめったら語源っていうのを持ち出して、
それは正しい言い方だ、間違った言い方だって論じるのは、
まああんまり言語学的ではないんですね。
例えばエゴサっていう言い方がありますよね。
エゴサするみたいに動詞で使うこともあると思います。
これはかなり最近できた言葉だと思うんですけど、
エゴサーチが元で、エゴっていうのは自分自身のことを指すラテン語に由来しているわけなんですよね。
なので自分自身を検索するっていうのがおそらく本来の意味だったんですけど、
今では好きなアーティストをエゴサするみたいに、
自分自身でみたいな意味で多分使ってるんじゃないかなと思うんですけど、
こういうふうに本来の意味からずれた用法もあるんですよね。
なので、現代日本語において、ある特定の層においてですけど、
エゴサっていうのを単にネット検索みたいな意味で使う人もいると思うんですよね。
語源から見れば当然エゴっていうのは自分を指すので、
まあ間違いなのかもしれませんけど、言語学的に言えば、
その語源とかね、歴史っていうのはさっき言ったように切り離して考えなきゃいけないので、
エゴサっていうのが検索するっていう意味で、
ちゃんと使われてるんだったら、それはそれでよろしいんじゃないでしょうかっていう感じなんですね。
ただまあこれってかなり難しい問題で、
冷たいみたいにかなりかけ離れてる例だったら納得できるっていうか、
つまり、現代日本語母語話者で、
ほっぺたが冷たいっていう言い方おかしい、なぜなら冷たいっていうのには爪が入ってるんだからほっぺたには使えないとかね、
そうやって起こる人はいないと思います。
ただ、あんまりそういう隔たりがないような、それこそエゴサみたいなものの場合は、
エゴサのエゴっていうのはラテン語の自分なんだから、
自分のこと以外を検索するのに使うのはおかしい。
まあこうやって起こる人は大量にいると思いますね。
まあ難しいですねこの辺はね。
そもそも言語の変化っていうのは最初は語用、誤った用いられ方から始まるものなので、
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その語用の方がマジョリティになるっていうかな、優勢になれば変化が完了したと言えると思うんですよね。
それに言語っていうのは脈々と受け継がれているもので、世代から世代に、
まあもっと言うと、昨日から今日に、今日から明日へってね、
まあ脈々と受け継がれているもので、
変化っていうのがガラッと起こるわけじゃないんでね。
まあその辺も難しい問題だし、面白い言語の側面ではないかなと思います。
というわけで今回のトークは、何ですか、言語変化の話っていう感じですかね。
最後まで聞いてくださってありがとうございました。
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それではまた次回のトークでお会いいたしましょう。
お相手はシガ15でした。
10:08

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