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始まりました、志賀十五の壺。みなさんいかがお過ごしでしょうか。
浦尾もてやまねこの袋小路じゃじゃまれです。
今回は、つらみ、ぴえんみたいなね。ぴえんはとりあえず置いておいて、つらみみたいな若者言葉と言っていいと思うんですけど、こういったものについてお話ししていきます。
これは使う人と使わない人で相当差が出るんじゃないかなと思います。
全く使わない人は使わないし、よく使う人は使うと。
このみについては、過去にたぶん2回ぐらい取り上げたことがあって、そちらも併せて聞いていただきたいと思うんですけど、
みっていうのは、伝統的な日本語の節微字というもので、もっと言うと形容詞から名詞を作る節微字です。
楽しみとか悲しみとかね。
ただ何でもかんでもつけていたわけではなくて、ごく少数の形容詞についていたものなんですけど、
今ではつらみとかやばみとか、本来みがつけなかった形容詞にもつくことができるし、
わかりみとか、動詞につくこともできれば、
昔のテレビみあるみたいに、名詞、あるいはこれは名詞句ですよね。
昔のテレビっていうもの全体にみっていうのがついてるっていうことで、
守備範囲が相当広がっているということになります。
まさにこのあたりの話を過去のエピソードでやっているので、ぜひ聞いていただけたらと思います。
今回着目したいのは、お腹痛くてつらみとか、卒業式がつらみとか、
文末に使われるみについて、もちろんつらみ以外でもやばみでも何でもいいんですけど、
こういう文末にあらわれるみについて、少し面白いことが言えるんじゃないかなということで、やっていこうと思います。
さっき言ったように、もともとこのみというのは形容詞から名詞をつくるものでした。
だから楽しみがあるとか、悲しみを力に変えるとか、
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こういうふうに助詞がついて、まさに名詞として使われています。
これは形容詞のままではできないことで、楽しみを奪うみたいに、をがつけるのは楽しみっていう名詞になったからであって、楽しいを奪うとはちょっと厳しいんですよね。
まあこういうふうにみがついたものは、もともとは形容詞だけど、デッキとした名詞ということができます。
こういうふうに考えると、お腹が痛くてつらみみたいなのは、名詞で文が終わっているっていうことで、一種の体現度目ということもできますよね。
お腹が痛くてつらいに対し、お腹が痛くてつらみ。
前者は形容詞の終止形を使っている形容詞文で、後者の方は体現度目、あるいは名詞文ということができます。
ここで面白いのは、お腹が痛くてつらい、今言ったこの形容詞の終止形っていうのも、もともとは体現度目だったんですね。
どういうことかというと、現代日本語のつらいみたいなイで終わる形容詞の終止形は、もともと連体形だったんですね。
つまりつらきみたいな形でした。
で、このつらきみたいにきで終わっているものが、いおんびんという音変化が起こってつらいになっています。
形容詞の故語っていうと、しで終わるっていうふうに思い浮かべると思うんですよね。
だからつらいのご先祖はつらしだっていうふうに。
しかし現代語のつらいっていうのは、つらしからつらいになったんじゃなくて、連体形のつらきからつらいになっています。
実はこれは形容詞だけではなくて、動詞も含めて、現代日本語の終止形と言われているものは、本来連体形、つまり体現度目に由来してるんですね。
わかりやすいのはあるっていう動詞で、これは古文の時間をちょっと思い出してほしいんですけど、これはらへん動詞と言われるもので、終止形はありだったんですけど、連体形のあるの方が引き継がれています。
で、これはなぜかというと、連体形が終止形の役割もぶんどってしまったからなんですね。
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連体形っていうのは体現につらなる形なので、後ろに名詞が来るとき、か、あるいは体現度目という特殊な文脈でしか用いられないものでした。
わかりやすいのは、「係結び」っていうやつで、「山の奥にも鹿ぞ鳴くなる。」とか言うと、「山の奥にも鹿が鳴くようだ。」っていう意味ですけど、この鹿ぞ鳴くなるのとこのぞっていう係助詞があるので、
本来、「鳴くなり」っていう風に、「なり」っていう助動詞が終止形ではなくて、「鳴くなる」っていう連体形になっています。
こういう風に、係結びみたいなときに文末が連体形になっていたんですけど、もう係結びとか関係なく文末が連体形、つまり体現度目が多用されるようになってしまって、いつしか連体形が終止形の役割も果たすようになり、
現代日本語では連体形と終止形の区別がなくなってしまっています。この辺りの話はね、関連エピソードがあるのでそちらも聞いていただけたらと思います。
さて、話はお腹痛くてつらみに戻りますけど、このつらみっていうのは何度も言うように名詞、つまり体現なので、体現度目っていうことですよね。
なのである意味、歴史は繰り返されていると言っていいと思います。
昔、連体形を文末に用いることで体現度目の役割を果たしていたのが、現代日本語ではもう体現度目っていう意識はなくなって終止形ということになっているわけですよね。
つらいっていうのも、もともとはつらきっていう体現度目だったんですが、現代日本語では終止形としてしか意識されていません。
で、そこに別のつらみっていう体現度目が使われることで、今度はこれが新しい終止形になっていくかもしれません。
どういうことかというと、現代日本語はさっき言ったように連体形と終止形の区別がないんですけど、
もしこのつらみっていうのが文末で多用されるようになっていくと、つらみっていうのが終止形で、
つらい出来事があったみたいに、体現にかかる時はつらいっていう形が出るっていうことで、
1回なくなっちゃった終止形と連体形の区別が、終止形つらみ、連体形つらいっていう形で復活するかもしれません。
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これは壮大な妄想ですけど、少なくともお腹痛くてつらみみたいなものが新しい体現度目として用いられているのは間違いないと思います。
そういうふうに見ると、歴史って繰り返すんだなーっていうことがよくわかるかなと思います。
というわけで今回は、文末に出てくるつらみみたいな表現についてお話ししました。
ぜひ関連エピソードも聞いていただけたらと思います。
それではまたお会いいたしましょう。
お相手はシガ15でした。
またねー!