00:04
始まりました、志賀十五の壺。みなさんいかがお過ごしでしょうか。
ララ・クロフトです。
今回は有生性というものをテーマにね、お話ししていこうと思います。
ある生きる性別の性で有生性、です。
これは名詞について言われているもので、
生物名詞と無生物名詞で言語の仕組みがいろいろ変わってくるというようなお話なんですけど、
ただ、これが生きているかどうか、生物か無生物かでスパッと切れるというよりは、
より有生性が高いもの、より有生性の低いものというふうに、
階層を成しているというふうに考えられるんですね。
同じ生物名詞の中でも、動物名詞よりは人間名詞の方が有生性が高くて、
さらに人間名詞の中でも、普通の人間名詞、男、女みたいなものよりも、
固有名詞、人名みたいなものの方が有生性が高くて、
さらに有生性が高いのが、私とかあなたとか彼とか、こういった代名詞だと考えられているんですね。
今言ったことをまとめると、代名詞というのが一番有生性が高くて、
その下に固有名詞、その下に人間名詞、
その下に動物名詞が来て、その下に無生物名詞が来るというふうに、
有生性の高いものから順に階層を成しているんですね。
これが何なんだということなんですけど、
日本語にもこの有生性の階層というのが関わっているところがあって、
存在動詞のいるとあるの使い分けっていうのはまさにこれに関わっているんですね。
いるっていうのは、動物名詞以上にしか使えないと思います。
彼がいる、太郎がいる、男がいる、犬がいる。
この辺までは使えますけど、本がいる、机がいるとは言えなくて、
そういった場合あるを使いますよね。
つまりいるっていうのは有生性の高い名詞にしか使えないということができます。
あるいは同じく日本語の複数を表すたちっていうのも、
この有生性の階層に関わっていて、
03:02
多分人間名詞以上じゃないと使えないんじゃないのかな。
私たち、太郎たち、男たち。
犬たちとか猫たちっていうふうに言う人もいるかもしれませんけど、
いずれにせよ有生性の高い名詞にしか、
このたちっていうのは使えないということになってるんですね。
この有生性が関わっている言語の仕組みというか現象として、
分裂能覚性というものをお話ししていこうと思います。
何のこっちゃって感じだと思うんですけど、
主語や目的語をどうやって表すかっていう、
そういった仕組みの話なんですね。
この分裂能覚性が観察されるのは、
オーストラリアの先住民言語であることなんですよね。
どんな言語でも自動詞と多動詞というものを持っていると考えられていて、
自動詞っていうのは名詞が1個しか出てこないというか、
必須な必要な名詞が1つだけであるような動詞のことです。
私走るとか石落ちるみたいなものですね。
こういったものは名詞が1個しか出てこないので、
名詞の方に、つまり主語に日本語みたいにガーみたいなのは特別必要ないんですね。
私走る、石落ちるって言ってしまえば、
何が主語であるかっていうのはすぐ分かるということになります。
一方多動詞は名詞が2つ出てこないと意味が通らないような動詞です。
この多動詞っていうのは意味的に優生性の高いものから優生性の低いものに動作が行われるものと考えられているんですね。
極端な例で言えば、私本読むみたいなものですね。
私っていうのは代名詞なので優生性が一番高くて、
本っていうのは無生物名詞なので一番優生性が低いですよね。
こういった場合、私が主語で本が目的語っていうのはすぐ分かるんですね。
なので、がとかをみたいなものは特別付けなくても、私本読むでどっちが主語でどっちが目的語かっていうのが一応分かるということになっています。
なんですが、問題は目的語の名詞の優生性が高い場合ですね。
06:03
例えば、あなた彼殴るといった場合、
どちらも代名詞なので優生性は非常に高いんですよね。
こうなってくると、どっちがどっちを殴ったのかっていうのが分からないということになります。
こういった時にオーストラリアの先住民言語では目的語の方を特別な形にするんですね。
つまりオーみたいなものをくっつけて、あなた彼を殴るといえば彼の方が目的語だっていうのが分かるんですね。
つまり目的語になりづらい優生性の高い名詞が目的語になった時に特別な措置を行うっていうことなんですね。
これは私本読むみたいな場合には必要のないことです。
なぜなら優生性の高い低いがはっきりしているからなんですね。
あるいは優生性の低いものが主語になってしまった場合も特別な措置を行わないといけないんですね。
私クマ襲うといった場合、優生性の高い代名詞が主語で、より低い動物名詞が目的語と解釈されてしまうので、私がクマを襲うと解釈されてしまうんですが、
ここでクマが主語の場合は、日本語のがーみたいなものをくっつけて、私クマが襲う。
こういった言い方になるんですね。
今までの話をまとめると、多動詞っていうのは優生性の高いものが主語になりやすくて、低いものが目的語になりやすいと。
優生性の高いものから低いものに動作がなされるっていうのが自然な流れなんですね。
この流れに反するとき、つまり優生性の高いものが目的語になったり、低いものが主語になったりする場合、特別な措置を行う。
つまり、おーみたいなものをつけてみたり、がーみたいなものをつけてみると。
こういったことになってるんですね。
このような仕組みを用いるオーストラリア先住民言語のがーやおーの仕組みっていうのは、優生性の高いものと低いもので異なるっていうのがお分かりいただけるかと思います。
つまり優生性の高い代名詞みたいなものは、目的語になったときだけおーっていうのがくっつきます。
一方優生性の低い、例えば動物名詞みたいなものは、他同士の主語になったときだけがーっていう特別な形を使うんですね。
09:12
でね、こういう二つの異なるがーやおーの仕組みのことを、さっきちょろっと言った分裂の覚醒というふうに言って、
専門的な言い方ですけどね、優生性の高い名詞は主覚対覚型の覚表示、優生性の低い名詞は脳覚絶対覚型の覚表示というんですね。
この二つが何なのかっていうのは関連トークを聞いていただけたらと思います。
この分裂の覚醒っていうのはヒンディ語なんかでも見られるもので、こっちはこっちでね、また別個の理由で分裂の覚醒が見られるんですね。
ぜひ関連トークを聞いていただけたらと思います。
というわけで、今回は優生性という言語学の話と、それに関わるオーストラリア先住民言語なんかで見られる分裂の覚醒のお話をいたしました。
まあこれね、かなり興味深いんですけど、説明も難しいし、聞いてる方も難しかったんじゃないかなと思います。
それではまた次回のトークでお会いいたしましょう。お相手はシガ15でした。