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石炭を場、早積み破鉄。 中等室の机のほとりは、いと静かにて。 四熱燈の光の晴れがましきも、いたずらなり。
今宵は、夜ごとにここに集い来る、 軽た仲間も、ホテルに宿りて。 船に残れるは、夜一人のみなれば。
いつとせ前のことなりしが、日ごろの望み足りて、 陽光の感銘をこむり、この西雲の港まで越しころは、 目に見るもの、耳に聞くもの、一つとして新たならぬはなく。
筆にまかせて書きしるしつる寄稿文、 日ごとに幾千言をかなしけん。
当時の新聞に載せられて、世の人にもてはやされしかど。 今日になりて思えば、幼き思想、身のほど知らぬ方言。 さらぬも世の常の同色近赤。
さては風俗などをさえ、みずらしげにしるししを、 心ある人はいかにかみけん。
小旅は道に上りし時、にきものせんとて返し察しも、 まだ白紙のままなるわ。
ドイツにてもの学びせしまに、一種の二流、 アドミラリーの気性や養い得たりけんあらず。
これには別にゆえあり。
げにひんがしに帰る今のわれは、西にこうせし昔のわれならず。
学問こそなお心に飽きたらぬところも多かれ。 浮世の浮世をも知りたり。
人の心の頼みがたきは、ゆうもさらなり。 われとわが心さえ変りやす気をも悟り得たり。
昨日のぜは今日の日なるわが瞬間の感触を、 筆に移して誰かに見せむ。
これや二期のならぬ縁故なるあらず。 これには別にゆえあり。
ああ、ブリンジー氏の港を出てより、はや二十日余りへぬ。
世の常ならば正面の客にさえ交わりを結びて、 旅の嘘を眺め合うが後悔の習いなるに。
美容に事よせて部屋の内にのみこもりて。
同行の人々にも物ゆうことの少なきは、 人知らぬ恨みに頭のみ悩ましたればなり。
この恨みははじめ一松の雲のごとくわが心をかすめて、 スイスの山植をも見せず、 イタリアの古墳にも心をとどめさせず。
中頃は世を厭い、身を儚みて、 腹渡日毎に休戒すともゆうべき三通をわれにおわせ。
今は心の奥にこり固まりて、一点の影のみ成りたれど、 踏み読むごとに物見るごとに鏡に映る影。
声に仰ずる響きのごとく、限りなき階級の城を呼び起して、 行くたびとなくわが心を苦しむ。
ああ、いかにしてかこの恨みをしょうせん。
もし他の恨みなりせば、詩に演じ、 歌に読めるのちは、心地すがすがしくもなりなむ。
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これのみはあまりに深くわが心にえりつけられたれば、 さはあらじと思えど、
今宵はあたりに人もなし。
報道のきて電気扇の鍵をひねるには、 なおほどもあるべければ、
いでその概略を踏みにつずりてみん。
よは幼き頃より厳しき庭の教えを受けしかいに、
父よば早く失いつれど、学問のすさみを通ることなく、
旧班の学館にありし日も、東京に入れて予備校に通いしときも、 大学法学部に入りしのちも、
太田豊太郎という名はいつも一級のはじめに知るされたりしに、
ひとりごのわれを力になして世をわたる母の心は、なぐさみけらし、
十九の年には学士の賞を受けて、大学のたちてよりそのころまでにまたなき名誉なりと人にもいわれ、
何が師匠に出師して、故郷なる母を都に呼びむかい、楽しき年を送ること見とせばかり。
官長の覚えことなりしかば、陽行して一家の事務を取りしらべよとの命を受け、
わがなおなさんも、わがやおこうさんも、いまぞと思う心の潔みたちて、
五十をこえし母にわかるるをもさまでかなしとは思わず、
はるばると家をはなれてベルリンの都に来ぬ。
よはもこたる巧妙の念と、見息になれたる勉強力等をもちて、
たちまちこのヨーロッパの新大都の中央にたぜり、
何らの色たくぞ、わが心を迷わさんとするわ。
母大塾かと訳するときは、優勢なる境なるべく思わるれど、
この大道上のごとき云ってる田林田に来て、
両辺なる石畳の陣道を行く組々の市場を見よ。
胸張り肩そびえたる士官の、
まだイルヘルム一世の町に臨める窓に寄り給う頃なりければ、
さまざまの色に飾りなしたる礼装をなしたる、
顔よき乙女のパリ真似美の装いしたる。
彼もこれも目を脅かさぬわなきに、
車道のちゃんの上をおともせで走る色々の馬車。
雲にそびゆる横角の少し途切れたるところには、
晴れたる空の夕立ちの音を聞かせて、
みなぎりをつる吹き井の水。
遠く望めばブランデンブルク門を隔てて、
六重を差し交わしたる中より、
反天に浮び出たる凱旋塔の神女の像。
この数多の景物目障の間に集まりたれば、
はじめてここに来しものの、
王節に厭まなき蒙部なり。
されどわが胸にはたとい如何なる境に遊びても、
あだなる美観に心を奪う御かさじの誓いありて、
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常にわれを襲う外物をさえぎりとどめたりき。
与賀鈴縄を弾き鳴らして越を通じ、
公の紹介状をいだして到来のいを告げし、
プロシアの官員は、みな心よく夜を迎え、
公使官よりの手続だにことなくすみたらましかば。
何事にもあれ、教えもし、伝えもせんと約識。
よろこばしきはわがふるさとにて、
ドイツフランスの語を学びしことなり、
かれらははじめて夜を見し時、
いずくにていつのまに、
かくはまだ見えつると問わぬことなかりき。