1. 志賀十五の壺【10分言語学】
  2. #672 日本語の構造:南不二男..
2024-07-27 10:27

#672 日本語の構造:南不二男の四段階 from Radiotalk

関連エピソード
https://radiotalk.jp/talk/786418
https://radiotalk.jp/talk/719924
https://radiotalk.jp/talk/863821

主要参考文献
『現代日本語の構造』 (南不二男、大修館書店)

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#落ち着きある #ひとり語り #豆知識 #雑学 #教育
00:00
本日は、日本語の構造というのをテーマにお話ししていこうと思います。
イメージとしては、以前話したこともあるんですけど、日本語の構造っていうのは、
階層があって、玉ねぎみたいに、内側の要素から外側の要素が包み込んでいくようにして、
全体の文が出来上がっているというような考え方がございます。
BGM、行けい!
始まりました、志賀十五の壺。皆さんいかがお過ごしでしょうか。カモメはカモメです。
今回は、南不二男という先生の四段階仮説みたいなね、南不二男の四段階というのをテーマにお話ししていきます。
似たような話はね、過去にしたことがあります。
シャープ434が、日本語の複分の不思議というタイトルでお話ししていますので、そちらもね、合わせて聞いていただけたらと思います。
南不二男の四段階っていうのは、ABCDまで含むこともあって、四段階と言われてるんですけど、
そのABCDと、これは文らしさの段階というのがあって、Aっていうのが最も文らしくない要素で、
Dっていうのが一番文らしいというか、逆に文と呼べるのはDという段階だけだというのがあります。
では、ABCというようなね、D以外の段階は文ではないのかというと、まあそうなんですよね。
どちらかというとこれは、従属説と言われるもので、関連エピソードでも話してますけど、その複分の文らしさっていうのが、
より文らしくないものから文らしいものへ、AからBCとね、文らしく段階を踏んでいるっていうのが南不二男説でございます。
で、それが日本語の構造と関わっていて、 A類っていうのは一番文らしくないわけですけど、それが最も
文の中でも中核の真ん中の方しか表すことのできないような複分で、で、Bとなったらもうちょっと外側の要素も含み、
Cとなったらまた外の階層も含み、で、Dとなるとこれが普通の文ですので、
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すべての文の要素を含むことができるというようなことなんですね。 具体的にお話ししていきますと、やっぱりAからお話しするのがいいと思います。
A類っていうのが一番文らしくないわけなんですけど、 これは
複分で考えるんですよね。 で、その中でも〇〇しながらとか、〇〇しつつっていうのがここに入ります。
例えばテレビを見ながらご飯を食べたということですけど、このテレビを見ながらっていうのが文らしくないということなんですね。
テレビを見るっていうのは文らしいんじゃないかと思われるかもしれませんけど、この 〇〇っていうのが含むことができるのはかなり制限されています。
まず主語っていうのを含むことができません。 これは主節とは違う主語を持つことができないということで、
太郎がテレビを見ながら 二郎がご飯を食べたとは言えません。
テレビを見ながらご飯を食べたといった場合は、テレビを見るのもご飯を食べるのも同じ主語でないと許されません。
あるいは時制というのも含むことができなくって、 つまり現在とか過去の情報っていうのをながらは持つことができないんですね。
テレビを見ながらご飯を食べた。この食べたっていう 主節の方が過去だからテレビを見たのも過去と解釈されるんですよね。
まあそういったことでいろんなものが時制とか主語とか持つことができないということで、
逆に言うと時制とか、あるいは点数とか主語っていうものは文のその階層の中でも
中核よりちょっと外側にある要素ということができます。 ただ、ながらっていうのが全く何も文らしい要素を持てないかというとそういうわけではなくて、
今言ったようにテレビを見ながらっていう風に目的語は取ることできるんですよね。 あるいは
親に見られながらみたいに この受け身っていうボイスっていうものも含むことができます。
なのでこの目的語とか受け身とかあるいは私益と言われるボイスっていうのは 主語や時制よりもより中核的な要素ということができるんですね。
時々日本語で主語っていうのは認めなくてもいいということがありますけど、 ただこういう風にながらっていうのは目的語は取れるけど主語は取れないみたいなことを考えると、
主語っていうのは日本語でも認めてもよろしいんではないかという気がしますね。 これちょっとまた別の話ですけどね。
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さて、最も中核的なA類に対してその1個外側のB類っていうのは
A類と違って別個の主語を取れるし、別個の時制も取ることができます。 これはのでみたいなものが当てはまります。
昨日足が腫れたので病院へ行くとか言った場合、 足が腫れるっていう風にその足っていう別個の主語が出てこれるし、腫れたっていう風に
過去形があるわけで、 主説とは違う時制も取ることができます。
さらにB類ののでみたいなのは丁寧も含むことができて、 足が腫れましたのでっていう言い方ができますよね。
こういう風により多くの要素を含むことができるわけですけど、 さらにそれより多くの要素を含むことができるのがC類です。
C類でできるのは 推量というのが含むことができます。
C類に含まれる 副文の形式として 逆節と言えばいいですかね。
がというのがあります。 足が腫れただろうが みたいに だろうみたいなのが出てこられるんですよね。
この推量みたいなものは のででは含むことができません。
このB類とC類の差というのは、命題とモダリティの差、 その境界ということができるかもしれません。
時制までは命題に属するもので、推量みたいな だろうみたいな、そういったものは 話者の態度とか判断を表すもので、
そういったものは B類には含まれずに、C類になって初めて出てこられる ということになります。
さらにC類には 主題というのも現れることができるんですね。
要は和というのが出てこられるということで、 C類は普通の文に近いような気がするんですよね。
ただ C類といえど、これも完全な文とは言えなくて、
冒頭言ったように D類というのが 一番普通の文というか、主説の文なんですよね。
そのC類とD類の差というのは何かというと、 これは終助詞ですね。
終助詞というのは、明日来るよね、みたいな、 ようとかね、みたいなものですけど、
こういった終助詞は、 たとえ文にかなり近いような気がするC類であっても出てこられません。
明日来るがは当然言えるんですけど、 明日来るよがーとか、来るねがーとか、来るよねがーとか、
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このがーの前に終助詞っていうのは出てこられないんですよね。
で、この終助詞って言われるのもモダリティと言われるもので、
特に対人モダリティ、聞き手に対するモダリティと言われるものです。
そういったものが日本語の構造の中で一番外側にあって、 副文には出てこられないものということができると思います。
ですので、 日本語の構造っていうのを、
命題っていうのが中核にあるとしたら、その外側に、
命題目当ての対時的モダリティっていうのがあって、 その外側に対人モダリティ、聞き手目当てのモダリティっていうのがあって、
で、その境目っていうのがB類、C類、D類となっているということができると思います。
このモダリティの話についても関連エピソードがあるので、 ぜひ聞いていただけたらと思います。
というわけで今回は日本語の構造について、 南藤雄先生の研究をご紹介いたしました。
それではまた次回のエピソードでお会いいたしましょう。 お相手はシガ15でした。
またねー!
10:27

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