1. 志賀十五の壺【10分言語学】
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2022-06-04 09:54

#448 世界の形容詞、形容詞の世界 from Radiotalk

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#落ち着きある #ひとり語り #豆知識 #雑学 #教育
00:04
始まりました、志賀十五の壺。
皆さんいかがお過ごしでしょうか。
サイバトロンのこんぼりです。
今回のテーマは、形容詞と名詞の関係というか、
形容詞の話ですかね、をしていこうと思います。
形容詞。
日本語だと、必ずいいで終わるものですね。
何でもいいですけどね、寒い、暑い、重い、軽い、赤い、白いとか。
端的に言えば、状態を表す単語のグループと言っていいかもしれません。
あるいは感情とかですかね、嬉しい、悲しい、怖い、こういったものも全ていいで終わっています。
どんな言語にも形容詞はあるかっていうのは、わりと議論が分かれるところみたいなんですね。
名詞と動詞っていうのは、どんな言語でも区別されるけど、形容詞はどうだろうっていうのは、
研究者によって様々で、
言語によっては、形容詞っていうのは名詞に近いような特徴を見せたりとか、
あるいは動詞に近いような特徴を見せたりします。
韓国朝鮮語の形容詞っていうのはかなり動詞に近いんですよね。
日本語の形容詞も動詞に近いと言ってもいいかもしれません。
例えば寒いに対して寒かったみたいに過去形があったりするので、
若干動詞に近いかもしれませんけど、それでもやっぱり形容詞っていう別個の品種を考えたほうが都合がいいんですね。
さっき言ったように意味としては、何か状態とか、あるいはそのものの属性とか特徴を表すっていうのが形容詞なんですね。
で、文の中でどういうとこに現れるかっていうのを考えると、
この本はいいとか、この水は冷たいみたいに、文末に現れるっていうかね、日本語だと。
術語として機能することもあるんですけど、
名詞をそのまま修飾して、良い本とか冷たい水みたいに言うこともありますよね。
今回はこういうふうに形容詞が名詞を修飾する場合に焦点を絞ってお話ししようと思います。
現代日本語では今言ったように、良い本とか冷たい水みたいに形容詞が名詞にそのままかかっていくというか、形自体は変わることはないんですね。
03:05
当然語順としては名詞の前に形容詞が出てこないとダメなんですけど、
古典ではふるさとっていう歌にあるように、山は青きふるさととか、水は清きふるさとみたいに、
このふるさとっていう名詞を修飾するときに形容詞はきっていう形で終わってたんですよね。
これは名詞にかかっていくということで連体形と言われるものです。
この連体形に対して修飾形っていうものもあって、これは死で終わってたんですね。
山は青しとか水は清し、こういうふうになってたわけなんですけど、現代日本語では連体形と修飾形の区別はなくなっています。
つまり古典においては名詞を修飾するときに形容詞が特別な形を持っていたということができますね。
今言ったように古典では連体形というものがあって、名詞を修飾するときに形容詞の形が変わるということは、
その名詞と形容詞の関係が密接であったというふうに言い換えることができるかもしれません。
ただヨーロッパの言語とかを見てみると、さらにその形容詞と名詞の関係っていうのが密接なんですね。
例えばラテン語なんかでは、良い女の子っていうのはプエラボナっていうふうに言うんですね。
語順としては女の子良いという語順になっています。
のでボナっていうのが良いって形容詞なんですけど、このボナっていう形容詞の形はプエラっていう名詞にかなり結びついている形なんですね。
まずこのプエラっていう少女っていう単語は女性名詞で、単数か複数かで言えば単数で、さらに日本語のがーみたいに主語の時の形なんですね。
もしこれが複数で良い女の子たちがーという時はプエラエボナエっていうふうにまた別の形を使うし、あるいは良い女の子たちをっていう目的語に相当する場合はプエラースボナースっていうまた別個の形になるんですね。
だから日本語風に無理やり言うと、良いが女の子がとか、良いたちが女の子たちがとか、良いたちを女の子たちをっていうふうに、その収束する名詞に連動して形容詞の形もいちいちいち変えるタイプの言語なんですね。
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これってなかなか日本語にはない感覚ではないかなと思います。
似たようなシステムはアフリカのスワヒリ語にもあって、例えば良い子供っていうのはムトートムズーリって言うんですね。
このムトートっていうのが一人の子供っていう意味なんですけど、もしこれが子供たちっていう複数になった場合、ワトートワズーリっていうふうに名詞にも形容詞にもワっていうものがつくんですね。
さっきの子供が一人の場合はムトートムズーリっていうふうに両方ムというものが現れます。
このスワヒリ語っていうのもラテン語と同じく名詞と形容詞っていうのが密接に関わってるというかね、連動している言語ということになるんですね。
今お話ししたようなラテン語とかスワヒリ語みたいに、いちいち名詞の特徴によって形容詞の形をいちいち変えなきゃいけないような言語に比べると、日本語って楽ちんだなと思いますね。
特に現代語は冒頭お話ししたような連体形と修飾形の区別もないので、良い本でも良い子供でも良い子供たちでもその名詞の前に良いっていうのを持ってくればいいだけなので、形容詞の特徴というか性質っていうのがそういった言語とはかなり違っているということができると思います。
ただ日本語には良いみたいな形容詞に加えて、きれいだみたいな、学校では形容動詞と教わる品種もあるんですね。これ形容動詞って言ってるから動詞っぽい印象を受けるかもしれないんですけど、普通はこれは形容詞の一種として考えられています。
日本語教育では良い形容詞とな形容詞っていう風にそれぞれ言われてるんですね。きれいだみたいなものはきれいな人みたいに、何か就職するときになっていうのが出てくるのでな形容詞っていう風に言われてるんですね。
この形容動詞っていうのはかなり懐の広い品種というか、きれいだみたいに漢語も受け入れてるし、グロテスクなみたいな外来語も形容動詞にすることができるんですね。
09:04
これってね、形容詞では結構厳しくて、対義とかね、あれって対義から来てるんですけど、対義とかエモいとかね、そういった少数の例を除いて、いわゆる形容詞というか、良い形容詞っていうのは和語しか許さない品種ということができると思います。
というわけで、今回のトークは日本語を含めいろんな言語の形容詞についてお話しいたしました。最後まで聞いてくださってありがとうございました。また次回のトークでお会いいたしましょう。お相手はしがじゅうごでした。
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