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志賀十五の壺です。
言葉っていうのは、まあ変化していくものですね。
まあ、いろんなレベルであります。
発音の変化もあれば、意味の変化もあるし、文法の変化もあるっていうことで、
さまざまなレベルで変化しているものです。
日本語だって、そりゃあ千年前の日本語とは違って、
だからこそ、我々は古典とか古文という形で、昔の日本語を勉強したわけですよね。
古文とか読んでいると、まあ確かに理解できるところもありますけど、
全然意味がわかんないようなところもあったりするわけです。
日本語であるのは確かだなとは思うんですけど、現代日本語とはやっぱり違うと。
変化しない言語っていうのはないと思いますね。
時代とともに、やっぱり言語は変化していくものだし、
あるいは言語接触によってね、カタカナ語が増えるみたいな感じで、
そういった要因でも言語って変化していくものだと思います。
日本語がこれから先どういうふうに変化していくかっていうのを予測するのは、
結構難しいことじゃないかなと思いますね。
例えば日本語を全然知らない言語学者が、千年前の日本語っていうか、
源氏物語の日本語を見て、
現代日本語のこの体系を予測できるかっていうと、やっぱり無理だと思いますね。
当然それは徐々に徐々に変化していくもので、
ある日突然ガラッと日本語含めね、言語が変わるっていうことは、
そうそう起こることではないので、
言語を取っ替えるって言うんだったらまだあり得ますけど、
その一つの言語が変化するっていうことは、
やっぱり時間をかけてね、起こるものだと思います。
どうだろうなぁ。
もしかしたら、言語の変化のスピードっていうのは、
やや遅くなってるかもしれませんね。
というのが、昔だったらね、
現代ほど識字率が高くなくて、文字を扱える人っていうのが少なかったわけですよね。
ただ現代では、ほとんどの人が少なくとも日本では読み書きができるので、
やっぱり書かれた言葉というか、学校で教えられる言葉っていうのは、
ある種、規範的な言語として、言語の変化に歯止めをかけるようなところがあるんですよね。
話し言葉ではわかんないっていうところを書き言葉ではわからないとか言ったりするし、
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何々なのだっていうのも、書き言葉だったらなのだというところを話し言葉ではなんだと言ったりすると。
だから話し言葉の方はどんどんどんどん変化していったとしても、
書き言葉があまり変化しないので、そういう側面があるんですね、書き言葉って。
なので、母語話者のほとんどが読み書きできるような今の現状だと、
ちょっと変化って起こりづらいんじゃないかなってなんとなく思います。
だから話し言葉が書き言葉に反映されるのに結構時間がかかるんじゃないかなと思います。
まあ物によるかもしれませんけどね。
言語の変化っていうのは最初は語用として認識されると思います。
誤った用いられ方と書いて語用ですね。
まあそれは当然といえば当然ですよね。
変化があるっていうことは、ルールからそれるっていうことなので、
最初は間違った表現として世間にまず認められると思います。
それがだんだん多くの人に使われるようになれば、変化したということになると思います。
例えば現代日本語の存在を表すあるっていう動詞がありますよね。
このあるっていうのは、ちょっと学校の古文の時間を思い出してほしいんですけど、
ありっていうら行変格活用の動詞だったので終止形はありだったんですよね。
現代語でもちょっと限られた範囲でありっていうのは使えると思うんですけど、空席ありみたいにね。
ただまあそういう限られたところでしかありっていう形は出てきませんね。
つまり文の最後は終止形ありっていう形じゃなきゃいけなかったのに、
現代日本語ではあるでもう落ち着いちゃってますよね。
このあるっていう風に文末をするのは間違いだったっていう時代があったはずなんですね。
このあるっていうのが文末で見られるのは係り結びの時だけだったんですね。
これもまた古文の時間を思い出していただいて、
どうなむやーかっていうのが出てくると文末を連体形にしろっていうルールがあったわけなんですけど、
例えば男ぞあるみたいに男ありに対してぞっていうのが入ってくるとあるっていう連体形に変わるわけですよね。
これが係り結びというルールですけど、このぞっていうのが出てきてないのに男あるみたいな言い方が広まっちゃって、
現代でもあるっていうのが修飾形で使われているわけです。
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実際ね、その係り結びのマニュアルみたいなのが出回っていたらしいんですね。
ぞうなむやーかっていうのが出てきたら連体形に文末をしなさいと。
こういうマニュアルがあるっていうことは、つまりその時点で係り結びっていうのがある意味滅んでいたっていうことなんですね。
もし係り結びが滅んでいないんだったらそういうマニュアルなんか必要ないわけですけど、
女子のぞうなむやーかみたいなのがなくても文末をあるっていう形にね、いわゆる連体形ですけどにするっていう言い方が広まっていたのでわざわざマニュアルがあったと。
つまりマニュアルが必要なぐらい、いわゆる間違った言い方が広まっていたっていうことなんですね。
はーそうなのかと皆さん今聞いてらっしゃるかもしれませんけど、これを現代語に当てはめれば、らぬき言葉がちょうどこれと似てるんじゃないかなと思います。
らぬき言葉ってなんだっけっていうのをわざわざ調べて、そういうのをわざわざまとめてあるサイトとかがあるわけですよね。
つまりそれは、らぬき言葉を使う人がもう増えすぎて、マニュアルが必要な状況になっているということです。
だからまあこの先、見れる食べれるみたいな言い方は、規範的な言語になっていくと思います。
まあすでにもうなってるとこはあるかなと思うけど、書き言葉だとまだなってないかなって感じですね。
まあここで言いたいのはですね、言語の変化っていうのはまず誤り、誤用であるっていうふうに認められて、
その後もう手がつけられなくなると、それがもう定着した表現になるということですね。
昔だったら係り結びじゃないのに、文末が連体形になるとか、現代だったららぬき言葉とか、まあそういうことですね。
日本語の未来について言えるのはせいぜいこれぐらいかなと思いますね。
他にも探せば誤用と言われる、誤った表現というのはいっぱいあると思います。
それがある意味、未来の日本語の姿といって差し支えないと思います。
あとはね、未来の日本語で起こりそうなことは、申し込んだ際の際とか、ぶつかった場合の場合とか、
お忙しい中の中とか、こういったものはもうすべてひらがなで書かれるようになると思います。
どうかな、今ではまだ漢字で書く人の方が多いと思うんですけど、
あとは時とかね、朝起きた時の時とか、こういうものはすべて副文を作る役割なので、
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ある意味その場合とか時っていう具体的な意味を離れて、抽象的な文法的な役割を担っています。
そういったものはひらがなで書くっていうのが、ある種日本語のルールなので、
これからそういったものはどんどんひらがなで書かれるようになるんじゃないかなと思います。
というわけで今回は日本語の未来についてっていうかね、言語の変化についてお話しいたしました。
最後まで聞いてくださってありがとうございました。また次回のトークでお会いいたしましょう。
お相手はシガ15でした。