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始まりました、志賀十五の壺。
みなさんいかがお過ごしでしょうか。
本王子レッシーです。
今回のエピソードタイトルにあるみたいな、
流行に敏感な若者、
これって二通りの解釈ができるんですよね。
一つは、若者の中でも流行に敏感な若者、
その一部を限定しているっていうような意味と、
もう一つは、若者全体が流行に敏感であると、
そういう解釈と立つあります。
こう言われても、ちょっとピンとこないかもしれませんので、
文脈を整えると、
流行に疎い若者はまだ取り入れてないが、
流行に敏感な若者はすでに取り入れてるみたいな言い方は、
若者のその範囲を狭めてるっていうことになりますよね。
一方、なんだろうな、
中年に比べて、
流行に敏感な若者はすでに取り入れてるっていう言い方をすると、
これは若者全体が流行に敏感であるという、
その特性を持っているという解釈になります。
日本語だとこういうふうに解釈の揺れが出てくるんですが、
英語だとこの辺りをけっこうきっちり区別していって、
これはね、高校英語であるんだと思うんですけど、
関係性の制限用法と非制限用法と言われるものです。
制限用法っていうのは、その通りですね。
その名詞の範囲を制限している、狭めているっていうことで、
さっきの例だと前者にあたるものです。
後者の方を非制限用法と言って、
別にその名詞の範囲を狭めてるわけではないんですね。
で、英語の関係説は、この関係説の前にカンマを入れることによって、
その違いが現れます。
で、話す時もイントネーションが変わってくるので、
この2つが区別されるんですよね。
こういうのでよく例に挙がるのは、
例えば、東京に住んでいる私の弟っていう時に、
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英語だと2通り言い方があって、
一つは制限用法で、
My brother who lives in Tokyo
これがいわゆる制限用法。
で、もう一つは、
My brother who lives in Tokyo
っていう風に、
書き言葉だとカンマが入るような非制限用法があります。
この前者と後者の違いは、
前者は制限用法なので、
弟の中でも、
あるいは兄弟の中でも、
東京に住んでいる弟ということで、
兄弟が複数人いるという解釈になるんですよね。
いくつかある可能性の中から一つをピックアップしているというような用法になります。
一方後者の方の非制限用法、カンマが入る方は、
これは弟が一人であるっていう解釈にもなるし、
あるいは聞き手が弟のことをもう知ってるという時にしか使えません。
つまり、いくつかいる弟の中から一つを選んでるっていうわけではなくて、
すでに弟っていうのは特定されていて、
で、関係説がやってるのは、
その範囲を狭めてるっていうわけではなくて、
単純にその特徴を述べているっていうようなことになっています。
日本語に訳してみると、やっぱりこの辺りの違いっていうのはよくわかんなくって、
東京に住んでいる弟といった場合、
何人か弟がいて、それが東京に住んでいるという解釈にもなり得るし、
単に弟っていうのを説明しているだけっていうような解釈もできます。
これはさっきの流行に敏感な若者と同様ですよね。
なので英語にとってはこの制限用法と非制限用法ってものすごく重要な区別なんですけど、
日本語はそのあたり結構無頓着で、
まあ言われてみればそういう解釈もあるかなぐらいの感じじゃないかなと思います。
ただ日本語の関係説は日本語の関係説で結構面白い特徴を持っていて、
さっきの東京に住んでいる弟っていうのは、
ある意味元の文っていうのに戻すことができるんですよね。
弟が東京に住んでいる。
つまり主語である名詞を関係説で就職していることになります。
もちろんこれは目的語でも言えることで、
弟が昨日買った本っていうのは弟が本を昨日買ったっていう言い方になるし、
あるいは間接目的語だって言えますよね。
なんだろうな、弟が本をあげた女の子っていうのは弟が女の子に本をあげたっていう風に、
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まあ元の文に組み直すことができるんですけど、
英語も同様ですその点は。
ただ日本語の関係説は、こういうふうに元に戻せないっていうようなものもあるんですね。
でこういうのは関係説と言わないこともあります。
日本語の場合は連体説っていうことの方がもしかしたら多いかもしれません。
どういうことかというと、ドアが閉まった音みたいなもので、
構成としてはドアが閉まったっていう関係説、文っぽいものが音っていうのを修飾しているので、
東京に住んでいる弟と平行的に見られるんですけど、
これはね元の文に戻すことができないんですよね。
音がドアが閉まったとか、ドアが音を閉まったとか、
ドアが音に閉まったとか、どう頑張っても元の文に音っていうのは入り込むことができません。
こういうふうに元に戻すことができないものを外の関係とか言ったりするんですよね。
逆に東京に住んでいる弟みたいに、
元の文に戻すことができるようなものを内の関係と言ったりします。
この辺はなかなかね言われないと気づかないものですよね。
有名なのはね、あとはサンマを焼く匂いとかっていうのも、匂いっていうのは元の文に戻すことができないんですよね。
さっき言ったように日本語っていうのは、主語だろうと目的語だろうと間接目的語だろうと、
あるいは文の要素ではなくても関係説、あるいは連帯説で修飾することができるんですけど、
言語によってはこの辺に制限があることがあります。
これは階層的になっていて、主語っていうのが最も関係説化されやすくて、
だから東京に住んでいる弟っていうのは言いやすくって、で次になりやすいのは目的語。
その次に間接目的語っていう風に、この関係説で修飾される名詞になりやすさに階層性があります。
階層的だっていうのはどういうことかっていうと、目的語は関係説化できるけど、主語はできないっていうような、
そういう言語は考えづらくって、目的語ができるなら必ず主語はできるっていう風に、そういうふうなことが予想されています。
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極端な言語だと主語しか関係説化できないっていう言語もあるんですね。
これはマダカスカルで話されているマラガシ語っていうのがそうで、この言語では主語だけ関係説化できます。
直接目的語や間接目的語はできないということになってるんですね。
そういうのと比べると、日本語も英語も別に主語だろうが目的語だろうがなんだろうが、結構簡単に関係説化できるので、
その辺の制限は緩い言語と言えるかもしれません。 というわけで今回は
関係説についてのお話でした。 内の関係と外の関係の話とか、
あるいは今お話しした階層性の話とかは、 関連エピソードがあるのでそちらも合わせて聞いていただけたらと思います。
というわけで最後まで聞いてくださってありがとうございました。 また次回お会いいたしましょう。
お相手はシガ15でした。