1. 志賀十五の壺【10分言語学】
  2. #489 モダリティってなあに?..
2022-10-25 10:10

#489 モダリティってなあに?? from Radiotalk

関連エピソード
https://radiotalk.jp/talk/719924

主要参考文献
『言語類型論入門:言語の普遍性と多様性』 (リンゼイ J. ウェイリー、岩波書店)
『日本人のための日本語文法入門』 (原沢伊都夫、講談社現代新書)

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#落ち着きある #ひとり語り #豆知識 #雑学 #教育
00:06
始まりました、志賀十五の壺。
みなさんいかがお過ごしでしょうか。キャメロンディアスです。
英語の助動詞って、2つ解釈があることが多いですよね。
例えば、mustっていうのは、まあ何々しなければならないみたいな、かなり強いね。
義務を表すような場合と、何々に違いないっていうような意味を表す場合と、
あとは、mayとかもそうですね。何々かもしれないっていうような意味もあれば、
何々しても良いというふうに解釈される場合もあります。
で、これは大まかに言ってですね、今ちょっと順番が逆になっちゃったかもしれないんですけど、
義務を表すものと、その出来事の確からしさとか可能性を表す場合と、2通りに分けられます。
で、前者をよく義務的モダリティとか言うんですよね。英語だとdeonticっていう言い方をします。
後者を認識的モダリティ、epistemicモダリティと言います。
僕はこのモダリティっていうのがすごい嫌いなんですよね。
モダリティあるいはムードって言われることもあって、人によってはこのムードとモダリティをきっちり区別する人もいるんですけど、
とりあえず今回はモダリティっていう言い方で統一します。
これは何かというと、発言っていうか言語っていうのは必ず客観的な事実っていうのと、こういうの命題とよく言ったりしますけど、命題とそれに対する和者の判断や態度っていう2つの要素から成り立つっていう風によく考えられるんですよね。
後者の和者の判断や態度っていうのがモダリティという言い方をよくします。
なので、マストの何々しなければならないとか、メイの何々しても良い、こういうのは義務やあるいは許可っていうのを表しているっていうことで、その命題について聞き手にこういうことをしなさいっていう風に働きかけてるっていうことですよね。
一方、マストの何々に違いないっていうのと、メイのかもしれないっていうのは、その命題に対する確からしさとか、和者の主観的な態度が入っているっていうことになっています。
03:16
それぞれ義務的モダリティ、デオンティックモダリティと認識的モダリティ、エピステミックモダリティという言い方をよくするんですね。
英語ではこういうふうに、マストとかメイとか、あるいはシュッドとか、こういった助動詞は義務的モダリティと認識的モダリティ、両方表しているということなんですけど、
歴史的には義務的モダリティから認識的モダリティが派生したっていうふうに考えられてるんですね。あるいは義務的な用法の方が中心的な用法で、認識的用法、はずだとかかもしれないっていうのは周辺的と、そういうふうにもよく考えられています。
こういうふうに英語では、その明大に対する和者の態度っていうのは助動詞に表れるんですけど、日本語では文末に集中するんですね。
動詞ないし、述語の後にいろんな要素がくっついて、和者の親的態度、つまりモダリティっていうのを表します。
日本語学だとね、あんまり義務的とか認識的みたいな言い方はせずに対人モダリティと対人モダリティっていう言い方をします。
でね、この辺がどういうふうに対応しているかっていうのは、いろんな研究があると思うんですけど、ちょっと今から日本語学の方の話をしますね。
対人モダリティっていうのは、さっき言ったこと、明大に対する和者の態度で、対人モダリティっていうのは聞き手に対する和者の態度ということになっています。
例えば、彼はもうやってきたみたいだっていうのは、彼がもうやってきたっていうのが明大、ある意味客観的なこと自体で、それに対する推測みたいなものがみたいだっていうので表されています。
あるいは、彼はもうやってきたそうだっていう言い方もそのような使い方で、この場合は伝聞っていうふうなね、ことを対人モダリティが表しています。
一方対人モダリティっていうのは聞き手に対して働きかけるようなもので、まあわかりやすいのは終助詞ですかね。
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今のですかねのねがまさにそうなんですけど、確認とかそういったものを表すのに何々だねのねとかよっていうのが使われます。
このよとかねの使い分けっていうのも非常に面白いんですけど、こういったものが対人モダリティです。
日本語で面白いのは対人モダリティの方がより述語に近い方に現れて、対人モダリティ聞き手に働きかける方がより文末、述語の外側に現れるという特徴があるんですね。
彼はもう来たみたいだねっていうふうに、彼がもう来たっていう命題があって、みたいだっていう対人モダリティがあって、つまり命題に対する話者の態度があってから、ねっていうような終助詞、対人モダリティが現れるということになっています。
この順番が入れ替わるようなことはないんですよね。
こういうふうに一口にモダリティと言ってもですね、まず英語は助動詞だし、日本語は文末の、なんて言えばいいんですかね、伝統的には助動詞とか、あるいは助詞とか様々な要素で現れるしっていうことで、言語によって結構現れ方が様々なんですよね。
僕がモダリティが苦手っていうか、ちょっと嫌いなのは、こういうふうに言語ごとに現れ方が様々だっていうのもそうだし、あとは用語の統一っていうのもあんまりなされてなくて、さっき言ったみたいに義務的、認識的っていうような言い方をされることもあれば、
対時的、対人的っていう言い方もされることもあったりとか、それだけ各言語でね、研究が進んでいるっていう証でもあるんですけど、その言語を比べるときには、うまくちょっと統一的なね、用語が必要になってきます。
あとはモダリティとムードの関係とかね、ここはかなり専門的な話なんですけど、ちょっとごちゃっとしてたりするし、
何よりモダリティっていうのは、話者の主観的な態度を表すものなので、難しいんですよね。
例えば、時勢っていうのは、現在、過去、未来みたいに、基本的には発話時におけるその時間的な概念を表す形式なんですよね。
時勢、あるいは点数と言われるものですけど、ある意味客観的なんですよね、これって。
それに比べるとモダリティっていうのは、話者の主観を表すだけに反省しづらいっていうかな、客観的に考えづらいんですよね。
09:08
その明大の外側にあるものなので、そういった意味で僕はちょっとモダリティないし、ムードは苦手なんですよね。
ただ面白いとは思います。
英語のmustとかmayみたいな、その一つの助動詞で、二つの意味をこう表してるわけですけど、こういったこともなかなか面白いですよね。
面白いんですけど、他の言語学の分野に比べると僕はやや苦手かなって感じです。
この辺のモダリティやその周辺については多分関連エピソードがあると思うので、URL貼っつけておくので、よろしかったらそちらも聞いていただけたらと思います。
というわけで最後まで聞いてくださってありがとうございました。また次回お会いいたしましょう。
お相手はしがじゅうごでした。
またねー。
10:10

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