1. 1年後の自分を楽にするラジオ
  2. 【ハイデガー哲学】生き方に悩..
2024-06-13 19:32

【ハイデガー哲学】生き方に悩むのは不幸じゃない。ちゃんと生きている証拠。

参考書籍:あした死ぬ幸福の王子 ストーリーで学ぶ「ハイデガー哲学」

https://amzn.to/4cBALNp

※Amazonアソシエイトに参加中

00:00
こんにちは、しゅうへいです。
はい、ということで、今日はですね、あの、
Amazonで届いてすぐ読み切ったっていうね、そんな本を紹介したいと思います。
なんか、結構本買うんですけど、あの、割とつんどくになることが多くて、
届いてから1ヶ月後に読むとか、
なんならもう、1年前に買ったやつを、あ、そういえばこれ買ってたと思って読むとか、
えー、そんなことがあってですね、まあでも、まあそれでもなんだろう、
その時必要なタイミングだったんだって思うようにはしてるんですけど、
なんだけど、今日はですね、あの、ボイシーもね、されてる、
あの、トリーさんがね、紹介してた、
【明日死ぬ幸福の王子】やむちゃさんっていう方の本です。
で、あの、やむちゃさんは、あの、えーと、東洋哲学の解説本で僕は初めて知ったんですけど、
すごくね、あの、分かりやすく、しかもなんていうのかな、こう、楽しく読めるっていうかね、
あの、堅苦しくない感じで読めるっていうね、
なんかそんな、えー、感じの本なんですけど、で、やむちゃさんの、
多分新刊になるのかな、【明日死ぬ幸福の王子】。
で、えーと、何かというと、こうまあ、心理学者のハイデガーから学ぶみたいな感じで、
ハイデガー哲学を分かりやすく、こう、物語形式にしてくれてるっていうような感じです。
うん、なんか、そうだな、あの、嫌われる勇気に似てるようで似てないなっていうか、
まあでも、漢字は、イメージは嫌われる勇気みたいな感じです。
うん、そんな感じで読めます、はい。
で、これを読んでですね、まあ今日は簡単にアウトプットをしたいと思うんですけど、
なんかこう、何で自分は生きてるんだろうとか、自分の人生の意味はあるんだろうか、
ね、この人生は何なんだろうかって結構こう、立ち止まって考えて、
まあ考えるというか悩むというか、うん、なんかそういう瞬間ってありますか?
で、まあ僕は結構あるタイプだなと、自分で分析はしてるんですけど、
その中で、あ、そっか、こういう理由で自分って悩んでたのかもしれないなっていう、
なんか一つはっきりとしたものが見えたんですよ。
ただ、もちろんこういう哲学とかっていう本は、明確な答えがあるわけじゃない。
なんか考え方みたいなものとしては提案はしてくれるけど、
そっから先は自分でつかまないといけないみたいなタイプがあるじゃないですか。
だからこの本も明確な答えみたいなものは実はない。
っていうか人によって多分違ってくるんじゃないかなと思います。
なんだけど、その中で、そのハイデーガーの哲学がどういうことを重要視してたかというか、
僕らが普段考えない、なんかその思考の枠の外側のここの部分について考えてるみたいなことは
非常に分かりやすく読めます。
なんかストコーマっていうんですかね、心理的盲点。
自分が普段生きていて、あなたが生きていて、わざわざ考えなかったなみたいなことを考えてるんですよ。
03:01
でもそれ以外、売り上げにつながるかとか、キャリアにつながるかっていうのは分かんないですよ。
でもそういう見方をしておくと、自分の人生、特にどうやって生きるかっていうところにはすごく僕は影響度が高いんじゃないかなと感じた一冊です。
具体的に何かっていうと、要するにハイデーガーの哲学の中で人間って何かって問うてくれてるんですよ。
人間って何だろうってこと。
存在と時間っていう本の中で、存在って何だろうとか時間って何だろうとか。
人間って何だろうか。人間が存在するってどういうことだろうかとか。
そういうことをずっと考えてるっていうか、そういう哲学してる本なんですけど、もともとはね。
それを分かりやすく解説してくれてます。
あなたがもし、お子さんとか分かんない。誰でもいいよ。
人間ってどういうものですかって言われた時にどう答えますか。
あなた自身人間だと思うし、一方で人間って言うともうちょっと広い概念。
いろんな人がいてそれを総称して人間とかって言うかもしれないですよね。
これはね、この本の中にあるちょっと難しいんだけど、引用するとですね。
人間とはこういうものだと言える本質とは何か。
それは人間とは自己の固有の存在可能性を問題とする存在である。
すなわち自分がどんな存在であるかを問いかける存在であるということだ。
っていうふうにハイディがこの本の中で最初に出てるんですよ。
まあ難しいじゃんこれ。
もう一回言うよ。
人間とは自己の固有の存在可能性を問題とする存在である。
かまいたちのコントであったよね。
それを謝られてるとしたら、僕が謝られてるとしたらどうしてたと思うみたいな。
やばい日本語みたいなコントの中だったけど、それに近いぐらいの感じですね。
人間とは自己の固有の存在可能性を問題とする存在である。
でもこの認識自体が実は僕は生き方にすごく関わってると思います。
もうちょっと噛み砕いてやっていくとですね。
つまりまずそもそも人間って何かって考える前に、人間以外は何かって考えるわけですよ。
簡単に言うとね。
人間以外は何かってわかったら、じゃあ人間は何かっていうふうにわかるかもしれない。
あなたにとって、あなた以外の人間っていうのはどういうふうに捉えてますか。
もちろんそれは家族とか友人とか、職場の同僚とかさ。
コンビニでいつも会うあの店員さんとか、いろんな方がいらっしゃると思います。
別にこれは特段そういう攻撃的な意味を持って言いたいわけじゃないんだけど、
06:01
割と僕らって自分以外の人間とか含めて全てですけど、
割と道具的に認識しているんじゃないかっていうことです。
うーん、なんかこれはちょっと難しい問題ですよね。
道具、まあでも道具っていうのはその何ていうのかな、使い捨てですみたいな。
なんかあのスティック糊買っても、ああもうじゃあちょっと待って、
なんか全然なかなかじゃあ買えよとか、なんかもう壊れたらすぐ買えよとか。
スマホ壊れたらすぐ買えよとか。
なんかそういう意味で言ってるわけではないです。
うーん、もちろんそれはなんかその、じゃあ家族、
ああじゃあ病気になったら買えよとか、そんなことないじゃないですか。
でも、道具っていう定義を考えていくと、
今日もうほんとこれ難しい本なんで読んでほしい。
僕がね多分解説すれば読むのは絶対いいんだけど、僕の中での解釈ですよ。
じゃあ道具って何かっていうと、やっぱ何かしらの目的を達成するためのツールなんですよね。
例えば金槌とかノコギリとかは、家を建てるとか棚を作るとか、
その何かを作ろうとする目的の中に入ってくる体系みたいな、
道具体系とかって言ってますよね。
この本だから建築の道具体系、目的住むっていうのがあって、
その下に家があり、家の下にレンガがあり、板があり、
その板を切るノコギリがあり、くっつける釘があり、
釘を打つハンマーがあり、みたいな。
その道具一つだけでは成り立たないっていうのが確か道具の定義だった気がします。
そんな感じだったと思う。
そういうふうに考えていた時に、自分以外の存在をどこか道具と似たように感じてしまっている。
例えばそうだな、部長が変わるってよくあるじゃない。
部長が変わる、課長が変わるとか、担当が変わる。
それって会社っていうと売り上げとか利益を出していくって目的があって、
それに沿って社長とか部長とか課長とかいろんな人たちがいて、
でもその目的に対して、例えばある方がちょっとこの会社じゃないですっていうふうに働かなくなったら、
違う人が入ってきて入れ替わりますよね。
これは別に人間が道具だって言ってるわけじゃなくて、
僕らは割と道具も人間もそういうふうに交換が可能であるって思いながら生きてるんじゃないかと。
それ自分以外に対して。
で、人間がここから面白いのが、これ猫でもそうだと思うんですよ。
猫もわかんないけど、たぶん瀬戸さん、うちの猫はカリカリを食べるんだけど、
カリカリ食べて、あとタイのウェットフードとか食べたりするんですけど、
それをくれる人を飼い主だと思ってるから、たぶん飼い主っていうか飼い主とも思ってないと思うけど、
大きい猫って思ってるらしいけど。
それが変われば、瀬戸さんはたぶん他の人に餌くれれば、
とりあえずたぶんどこでも行くと思うんですよ。
そういう猫だと思う。
そうじゃないと願いつつもたぶんそうだと思う。
僕はたぶん交換可能性があるんですよ。
だいたい可能性があるってこと。
ファンジブルな飼い主なんですよね、僕は。
09:02
そう。
で、動物はそれを外側に向けるわけです、瀬戸さんは。
交換可能だっていろんなものをね。
道具っていうか食べ物だとか、水だとか、わからない、ねえどこだって。
交換可能ですよ。
なくなったら違うとこ行けばいい。
野良猫とか特に思ってると思うけど、
その交換可能だみたいなものを人間は自分自身に向けてしまう。
っていうのがこのハイレーガーの言ってることなんですよ。
これが最初に戻ってきます。
人間とはこういうものだと言う本質何か。
それは人間とは自己固有の存在可能性を問題とする存在である。
すなわち自分がどんな存在であるかを問いかける存在である。
普段僕らが生きていていろんな道具とか人間関係があるけど、
そこには何か目的があってこの人がいて、
その人が仮にいれなくなったとしたらその役割に変わる人がいる。
社長だって代表取締役なんだから演じてる人なんですよね。
執行役員の役員も役員演じる人です。
だから演じる人が変わればいいです。
演者ですから。
何か劇を演じていて会社でも家族とかでも。
そこでその役が演じられないんだったら変わりましょうみたいな
僕らは世界観に生きてるんですよ。
これは別に家族に対してそう思ってるとかそういう話じゃなくて、
全体の一般的なイメージ。
ハイデが書いてるっていうか、
この本の中に多分そういうふうに書いてるような気がするので、
読んでみてください。
これはちょっと前に紹介した東洋哲学の新名Pさんの本の中にもあったよね。
恋人とか家族も結局は兄と弟も同時に生まれたとか、
兄だけでは存在できない。
弟が一緒に生まれたときに兄が誕生するみたいな話もありました。
それもまたぜひ全てフィクション、空であるっていう話もあったので、
よかったら少し前の放送で解説してるかな。
ちょっとややこしくなってきたかもしれないけど、
頑張ってまとめ切りますけどね。
まずは一番は読んでみるのが絶対いいんだけど、
そういうふうに周りに対して交換可能であるっていうふうに、
僕らはなぜかフィクションの中で生きている。
その交換可能であるっていうことを自分自身に向けてしまうんですよ、人間は。
で、往々にして生き方に悩んでしまうっていうことがこの本に書いてあって、
はーってなったわけです。
そう。
だから自分をある意味道具だと思ってしまってるってことです。
この社会の中で。
でもそういうときありません?
なんか自分は会社の歯車だ。
自分の代わりなんかいくらでもいる。
僕も思ってた、会社のとき。
自分がこれやんなくても他の人やってくれるよなって思ったんですよ。
で、その瞬間なんかプツンと糸が切れたようにやる気がなくなるというか。
で、じゃあフリーランスだったりインフルエンサーだったりとかこうやって発信すると、
何が起こったかというと、
12:01
なんかしゅうへいさんのブログを読んでしゅうへいさんのボイスを聞いてっていう風に言ってくれる。
そういうすごくありがたい。
でも、なんかそれもどこかでは交換可能性があるんじゃないかなってやっぱ自分の中でやっぱ思って、
やっぱ僕は定期的にこの発信する中でちょっと発信の回数が今もちょっと減ったりはしてるんだけど、
あー自分の発信なんてとかって思う時期がある。
でもそれ結構ね、僕の中では大事な時期だと思っていて、
やっぱ自分が本当にしたいこととかどうあるべきなのかってちゃんと考える時間だと思ってるんですよ。
だから、昔は自分は今病み気だとか、しんどい落ちてるとかっていう風にわりと認識してたんですけど、
今はどちらかというと、
なんか多分こういう時だからこういう本が読める。
ちゃんと読めるっていうか、
本当にその本の内容が入ってくると思って読んだりとかします。
そうそうそう。
で、そういう会社の時に歯車だと思ってたのもあるし、
今も、いやでも自分がいなくても多分誰かがやってくれるだろうってやっぱ思ったりとかする部分もある。
そういう風に、自分は何か交換可能なものだっていう風に、
自分以外に対して思ってるっていうか、道具みたいに思ってるっていうか、
別に人を道具だと思ってるって話じゃなくて、
でも道具の定義と同じようにその役柄を演じる人が変わるっていう意味で世界を見ている可能性は高いよね。
みんな道具だと思ってるっていうか、そんな話じゃなくて。
ちょっとここ難しいね、話すのがね。
で、なんだけど、そういう風に見てしまっているという見方が自分に変えてしまう、
そういう存在であるってことです。
だから人間は自分がどう生きたらいいんだろうとか、
自分はどんな存在なんだろうって必ず思うようにできている生物って言ってもいいかもしれない。
そう、だから今うつとかさ、そういう問題あるじゃん。
なんでこんなことしてるんだろう。
で、それはより顕著になったよね。
要するに昔だったらその家の一家で米を作って、
お前が米作らないと誰が作るんやみたいな感じだった。
それ現実問題そうだったと思う。
だけど今はさ、目の前自分が会社に行ってこの仕事をしようがしまいが社会は回ってるわけですよ。
で、小さいところで言うと自分は各家族になってその家族と何かをするってこともないし、
ものすごくそう考えたら会社っていうものから切り離されたりとかすると、
ものすごく孤独、孤立を感じるよね。
で、そうなると自分の道具性みたいなのはあまりにも高まる。
自分が道具っていうか交換可能なんじゃないか。
じゃあ何のために生きてるんだろうみたいな自分への問いかけレベルがどんどんどんどん上がっていく。
そんな時代なんじゃないかなって思うんですよ。
便利になった。資本主義で便利になって米作んなくてもよくなった。
好きなことできるようになった。お金さえ稼げば。
でも一方でそれはある意味全ての人が交換可能みたいな。
そこのポストを誰か他の人がやりたかったらやっていいよってなってしまう。
妻のアレコさんから教えてもらった本で
ゆっくり急げっていう本があるんですよ。
僕もまだこれね10分の1しかまだ読んでないので
15:00
正直はっきりとこうだっていうのは言えないんだけど
くるみどコーヒーっていう天主の影山さんという方の本なんですけど
この中にものすごくはーっと思った一節があって
これもちょっとまた後でまとめて紹介するんですけど
輸入品あるじゃん。くるみ。アメリカからじゃあカリフォルニアから輸入します。
でもこの長野県のとあるところでくるみ作ってて
その輸入品の3倍ぐらい高いらしいんですよ。
じゃあ3倍高いから日本のくるみはもっと生産性を上げて機械化をして
アメリカのくるみに勝てるようにしないといけないのか
っていうことではないっていう話なんですよね。
それは自分たちがくるみどコーヒーを東京でやっていて
そのくるみを毎年鳥居に長野県のところに行くと
そうしてその交流が生まれていると
少なくとも自分たちにとっては
それはカリフォルニアのくるみでは成り立たないことだっていうふうに書かれて
ある意味機能的価値というか情緒的な価値というか
繋がりというかそっちにもあるっていうことです。
だから何が言いたかったのかちょっと忘れちゃったんだけど
難しいね。こういう哲学の本は
ちゃんと伝えないといけないと思いながら
自分もちゃんと理解でまだできてない部分があるから
ちょっと伝えるのは難しいんだけど
このくるみじゃないといけないっていうふうに思うってことも
それはこの本の中の内容とリンクしてるんじゃないかな
なんてことをちょっと思いました。
なのでゆっくり急げまたどっかで紹介したいと思います。
だから今日の話は何かというと
人間という存在はこのハイデガーの中で
自己、自分がどんな存在であるか問いかけてしまっている存在であると
だから考えてしまう
生き方について悩んでしまうっていうのは
もうその構造的にそうなんです。
その考えてしまう安さみたいなものは
現代にどんどん加速している
それはもう事実ですよね。
だからこそ自分がいなく
自分はここにいるっていうか
居場所であるっていうふうに思えることが
ものすごく重要になってくるんじゃないかなと思いました。
自分は交換可能性があるものではないって思えるかどうか
自分自身が
難しいよね。
でもこれ人によるとも
自分は交換可能性がないって
要するに自分じゃないといけないって思いすぎると
それがまた責任になってしまう可能性もあるし
一方で自分は交換可能であるって
ふらーっと風のようにいられるから
楽であるっていう人もいると思うから
人によって考え方が全然違うと思うんですよね。
なのであなたはどう生きるかっていう
生き方の問いです。
この中に本来的な生き方
こういうふうに生きていくといいんだっていう
ハイデイ側の主張もあるので
それも最後にちょっと紹介しておきたいと思います。
本来的な生き方を話す前に
本来的ではない生き方
非本来的な生き方を紹介しておきます。
何かというと
18:00
交換可能な道具のような生き方
リブライカツールですね。
リブライカツールです。
事故固有の存在可能性を問題としない生き方
非本来的な生き方です。
だから逆に自分は何のために生きるのかって
考えてしまうってことはある意味
本来的な生き方なんです。
自分の人生とは何だったのかを問わない生き方
死を忘却した生き方
これが非本来的な生き方
じゃあこれを逆にすればいいわけです。
本来的な生き方
本来的な生き方は交換不可能な道具ではない生き方
事故の固有の存在可能性を問題とする生き方
生き方に悩みましょうってことですね。
自分の人生とは何だったのかを問う生き方
っていうのが本来的な生き方だっていうふうに
ハイデがまたはこの本の中で主張されていると
あなたはこの今日の内容どういうふうに感じましたか
よかったらボイシーとかポッドキャスト
コメント欄とかあとはシェアとかでもいいですし
自分の中でぜひ考えていただいてもいいですし
本のリンクも一応今日付けておきますので
よかったらもうね一気に僕もこの1日2日ぐらいかな
2日ぐらいで一気に読む
もう久しぶりですね
こんな一気に読むっていう本は
なのでぜひよかったら読んでみてください
というような話でございました
またこういった本の紹介とかも
引き続きやっていきたいなと思うので
チャンネル登録とかフォローとかしていただけると
すごく嬉しいです
はいということで今日も聞いただいてありがとうございました
この後も心地いい時間をお過ごしください
バイバイ
19:32

コメント

スクロール