井上 岳一さん (山水郷ディレクター/日本総合研究所エクスパート)


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地域と企業のすれ違い/SDGs/脱炭素の流れ/企業の地域貢献/地域にお金をあげるだけの企業との関係/名刺の魔力/肩書きに縛られない生き方/祭りの役割/失敗できることが主体性/自然資本を持ち出すなら、企業からスキルを引き出す/個人ではできない/業務を超えたコミットメント?/定価が近代の始まり/媒介にして関係性を再構築する/保守的だけど、外部も受け入れて生き残った/雪という自然資本/楽しさから始まる企業の地域貢献/ポンコツ自慢/

サマリー

地域と企業のすれ違いの理由やSDGsへの貢献の方法について、井上さんとの対話から探ります。経営合理性と心理的安全性の両立、都市と田舎の関係性の違いが地域と企業のすれ違いの理由になっています。また、今ではだんだんローカルでもなくなってきていると感じています。コミュニティを作りやすいはずなのに、やはりそれができなくなってきているのを地元を見て感じています。健やかなコミュニティを作りたいと思っています。また、ポンコツ自慢をして繋がることが大切だと思います。そのために、ポンコツを許容し合う会を開催し、祭り的な雰囲気で楽しむことを提案しています。

企業のイメージと企業貢献
森植えたいんですけど、植林したいとかすごいあるでしょ、東京チェンソーズさんとかも。
ありますね。
いや、日本は植えることより使うことの方が大事なフェーズなんですけど、みたいな。
まず何かできますかって言って、まあ金くれって言いたくなっちゃうけど、自然資本と言ってるんだからこそ、金のことを持ち出したら負けよって感じするよね。
最高っすね。
そこは最後まで痩せ我慢しても言わなくて、企業の何かスキルとか持ってるものを上手く出してもらうみたいな。
東京チェンソーズとやまとわの自然資本論。
はい、東京チェンソーズの高須でーす。
やまとわのフィギュアです。よろしくお願いします。
よろしくお願いしまーす。
はい、じゃあ早速ですけど、前回に引き続いて今回も産水豪ディレクターの井上さんに来ていただいているので、よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
前回は結構産水豪の話とか日本レッドカイブの話も聞いて、しっかり聞かせていただいたりしていて、
その後半、自立共生、地域のコミュニティの在り方とか、そういった話まで膨らんできたんですけど、
やっぱり井上さんが大きな企業さんとか、そういったところとも産水豪的な取り組みっていうのが始まっているのかなっていう気がするんですけど、
むしろその辺をちょっと聞いていきたいなという後半のテーマかなと思っているんですが、
今その企業さんっていうのは、そういう産水とか日本の里とか山に対してどういうイメージを持ちながら何か貢献したいっていうような気持ちでいらっしゃるのか、
どんな感じなのかなみたいなのを、僕らローカル側からすると、たまにお話いただいたりするけど、すれ違って。
すれ違いますよね。
すぐすれ違っていくんですけど。
すれ違いますよね。やっぱりSDGsは大きかったなと思っていて、それと脱炭素ですよね。
あそこら辺から、まず森に関して言えば、やっぱり多くの企業が森を植えたいんですけど、みたいな。
植林したいわ、本当に。
植林したいとかすごいあるでしょ、東京チェーンソーさんとかも。
ありますね。
いや、日本は植えることより使うことのほうが大事なフェーズなんですけど、みたいなことから言って、ああそうなんですか、みたいな。
数年前からそういうのがすごく増えてたんですけど、最近はそこらは一段落したなと思って。
むしろどの意味でもう少し、地方創生って例えば安倍政権が言い出してちょうど丸10年ですよね、来年で。2024年で。
来年、今年か。
地方創生的なものをやっていかなきゃいけない。それをSDGs的な文脈ともう少し組み合わせていくみたいなことを考える企業が増えてきたなというふうに思っていて。
地域にいろんな日本の課題がいろいろ詰まっていて、そういう課題解決に何か企業として貢献することによって、当然SDGsに貢献してるっていうのも言えるし、そんな感じの風潮に今なってきてるなっていうのを感じるんですけど、
ただその時にやっぱりこの企業の時間間隔とか、ロジカルな言語みたいなものを持って地域に入っていってもうまくいかないのですとか、あるいは例えば大きな企業がこの地域のために何かやりたいのですとか言うと、じゃあ金くれと言われるとか。
そこもありますね。さっきの自立しなくなる問題は。
地域と企業のすれ違い
例えば山梨県なんて水がむっちゃ取れるじゃないですか。いろんな企業があそこで採水してるわけですけど、そういう企業たちは地域貢献として水を採水してる地域に対して何らかの、小さいところで言えばお祭りの協賛みたいなことから含めていろんなことをやってるわけですよ。
そうすると地域の側は企業にもらうのが当たり前で、これって地域貢献としてやってるけど本当に地域の活力を生み出すことにつながってるのかっていうと、どうもそうじゃねえしなみたいな。でもお金をあげること以外の付き合い方がわからないのですよ。
確かに。一緒に作っていくっていうかは、与えちゃうっていう感じになっちゃうんですね。
そうなんですよ。与える側ももらうほうも慣れてしまって、それ以外の関係性が作れないみたいなことに対して悩んでるみたいなことが、例えば相談があったりとか。
そういう、少し地域とかに入って何かやってみたのだけど何かうまくいかないのです。どうしたらいいんでしょうみたいな感じの相談が最近ちょっと増えてきてるなって感じがしています。
いや面白いな。確かに地方側とかに行った時に大きい企業さんがもしその地域に興味がありますっていう話だと、やっぱりお金もかってるので、もかってそうなんでお金くださいっていう話がわかりやすいですもんね。それがやっぱうまくいかないんだろうな、お互いに。
なんかすごく企業っていうのは不思議だなと思うのは、企業の名前が出てきた瞬間に、例えば地域の側とか、あるいは僕らもそうだけど、トヨタだ、ヤマハだとかホンダだとか何かわかんないけどサントリーだとか、立派な企業の名刺もらうと、トヨタの佐藤さんの前にトヨタの人って見るじゃないですか。
それは実はとても失礼なことだと思うんだけど、その人を見る前にトヨタを見てるみたいな。あるじゃないですか。
なるほど。それ肩書きをっていうところですね。
なんかそうなっちゃうなって。それはトヨタというか立派な企業の人たち自身もそこにある種の、それで得をしてる部分とかアグラを書いてる部分はあると思うんですけど、逆に言うとトヨタである前に一人の井上さんとして見てほしいんだけどって。でもいつまで経っても見てくれない。
確かに。
そういう企業の名刺って地下魔力があるよね。
ありますね。面白いですね。
キーとそうなるし、分からなすぎるとドコって普通になりますもんね。
そうそうそうそう。僕もともと農水省にいて、農水省とか林野町の名刺って出してる。林野町になるとさすがに何ですかって言われることあるけど、農水省だったらまずあれだし。
あと田舎行ってそういう林業関係で林野町知らない人がいるから、名刺を出して不思議な顔をされる気持ちって分かんなかったんだけど、次の日行った会社が小さな家具屋さん行ったもんだから。
言ったら名刺出してもみんな分かんないみたいな、何屋さんですかって。あのなんか切なさってあるよね。
いやー、ありますね。
常に。
あれあれ常に。
でもほらあの東京チェーンソーズさんだったらなんとなくこう、なんていうのかな、名前もこう言うのかな。
チェーンソーズ。
あとチェーンソーズって書いてるから、チェーンソーアートやってるから林業の人だっていう。なんかちょっとね、あれや危ないロックバンドかみたいな。
チェーンソー屋さんって思われますね。
チェーンソー屋さんっていうのは。
一番言われるのはチェーンソー売ってる会社ですかって言われますね。
でもね、なんかアイデンティティーが明確な感じあるけど、大和屋に至っては何屋さんですかって言われますね。
確かに。
しかも何屋さんですかって聞かれても僕も答えられないっていう。
いろいろやってましてっていう感じで。
説明が難しい。
なんかさ、例えばクリエイターとかアーティストとかがくれる名刺って名前だけ書いてる名刺とかって出るじゃないですか。
もうだからあそこの域に行くと名前だけで勝負できるんだって。
肩書きいらないんだみたいな。
でも今すげー思いましたけど、全然別の、僕ら竜巻地に世界的なアーティストの方が住んでるんですけど、
その人が結構仲良くしているの、仲良くしてるって言うと言い方ですけど、すごい仲良いのが、
全然その人のことアーティスト全として扱わないで、一緒に銭湯行ったり一緒に飯食ったり、
飯行きましょうよみたいな感じで仲良くなってる、僕らと同年代の人たち結構いるんですけど、
なんかそうやって街とか自然資本との関わり方っていうのが、
友達みたいに飯食ったり風呂入ったりしながら何かやりたくなった時に、
それぞれが持っているリソースっていうのが違うから、
そこで役割分担が発揮されると実はすごく良い連携みたいなのが生まれるんじゃないかってすごい感じましたね今。
地域の役割と存在意義
本当そうだと思うんです。だからそのアーティストの方も、
その域まで行くとアーティストの何々さんっていうことでしか付き合えない人たちばっかりが周りになっちゃうと思う。
でもなんか辰野町では全然そんな、
ああとやってるみたいだけどよくわかんないんだみたいなおじさんとかが普通に付き合ってくれるわけじゃないですか。
それが多分彼にとってもすごくある、本当に裸の人間として付き合ってくれる人が辰野にはいるっていう感覚があると思うんだよね。
なんかそういう、だから人間ってやっぱりいろんな、
一つの肩書に縛られない方が多分すごく実は自由で生きやすいと思うんだけれども、
地域の場合はそれを祭りっていうもので、いろんな人といろんな形で付き合えるって場所を祭りが作ってきたと思うんですよ。
今、二宮って小さな町にいてすごい思うんだけど、本当に普段何やってるのかよくわかんないおじさんとかいて、
でも祭りの時になるとのたんに全部仕切り出してめちゃくちゃかっこいいとか、本当にお祭り男っていて、
なんかもう三越の上で踊っちゃったりして、よく落ちねえなみたいな、でもすごいんだよねみたいな、いるじゃないですか。
あの時やっぱすごい思ったのは、祭りがあることによっていろんな人間に居場所ができてるっていうのは、居場所とか役割、出番があるなっていう。
普段されないやつでも祭りであれだっていうのもあるし、別にお祭り男みたいに大騒ぎしなくても縄を縄うのがすごい上手みたいな人が、
お祭りの時重宝されたりとか、いろんな役割が祭りには実はあるわけですよね。
ああいうことを通じて、あいつは本当にダメなやつだけど、あいつがいないと祭りが成り立たないんだみたいなことで存在が許されたり。
企業もそうだけど、今の地域もいろんな出番とか居場所があるような、そういうことを実感できる場所っていうのがどんどん少なくなってる気がしていて、
それをながら取り戻していかないといけない。
そうですよね。そういう場所づくり、祭りも僕ら世代とかどんどん離れていってるようなところはあるから、もう一回意味の作り直しじゃないですけど、
形式化してしまった祭りをやっぱり何でやってんだろうって思っちゃうから。
もう義務でしかなくて楽しくなくて、せっかくやらざるを得なくてやってる、消防団もそういうところもある。
そうですね、確かに。
だからそういうものをもう一回、だからみんなで何か新しく共に作るっていうのはとても大事で、そういうことを通じて隠れた才能が発掘されたり。
ああですね、ありますね。
学校の文化祭とかですらありますもんね。
確かにそれはそうなんです。
そうだね、みんなに役割与えて、じゃあこれやる人とかって言って手を挙げてもらって、みんなに一人一人何かしらやることがちゃんと割り振られて、そこで活躍するっていう場だもんね、文化祭って。
意外とその看板作るのめっちゃうめえやんみたいなとこ行ったりとか。
確かにね。
あとなんかやっぱみんな文化祭とか体育祭とか祭りがつくんで。
祭りですね、確かに。
で意外とそこでやらかしたことが、今度は失敗なんだけど、なんかそれがネタとして笑かすことになったりして、なんか失敗も許す寛容なある種何かになってたりして。
いやすげえわかるな、祭りの前夜の楽しさってないですもんね、なかなか。
経営合理性と心理的安全性の衝突
あるね、やっぱりそういう昔の地域にはそういう何か訳もなく楽しい祭りがいっぱいあったと思うんだけど、それがどんどん今人口も減って、何かどんどんこの職業も変わってきて、それみんなが楽しめる祭りみたいのがどんどんなくなってきて。
でもう何か過労死で何か維持してる感じのものばっかりで、それはもう義務でしかなくて楽しくなくてみたいな。
そうそうそうそう。
そんなことばっかり今なってますよね。
いやそんなことばっかりですね。
いやでもほんと今話聞いて思いましたけど、何かやっぱ成功も失敗も別にない環境がどれだけ作れるかってすごい大事ですよね。
何かそのビジネスになった途端にやっぱそれが結構許されなくなってしまうというか、何かそういう環境が企業がうまく作りきれない、なかなか難しいんだよなと思うんですけど。
確かに難しい。
企業の中では難しいけど、でも何かその企業の中でもそういう主体となるビジネスの、もちろん柱としてあっていいんだけど、その中で遊びとして何か年間一回何かやってみようよみたいな、
別に失敗しても本当にチャレンジとして何かやりたいことをみんなでやってみるみたいなのができてくると、みんなが主体的に何か考えるようになったりするのかもしれないね。
本当そうだと思います。
だから今はおっしゃっていただいて、遊びっていうのと失敗できるっていうのが多分主体性が発動するためのとても大事な条件だと思っていて、
経営合理性とか突き詰めてくる中で遊びがなくなり、失敗が許されなくなるっていう。
だけどGoogleとかが心理的安全性が大事だっていうから、経営者は心理的安全性と唱えるみたいな。
でもコンプラ違反を起こした瞬間にもう激怒りされて。
うちの会社とかも心理的安全性とか言いますけど、やっぱりミスするとすごい怖い。
全然僕も心理的安全性とか、
やっぱりなかなか企業の中でそういう失敗してもいいんだっていうのを当たり前に作っていくっていうのはすごい難しいなって、やっぱり感じますよね。
確かに。僕も次から本当に大企業の方にお召しいただいても、その肩書きを気にせずに温泉とか誘いたいなって。
そうそうそう。そうなんだよね。
一回とりあえず飯行きますみたいな感じで。
でも確かに向こうとしてはそれ望んでるんだよね、きっと。
多分やっぱさ、長野県でもやっぱ大きい企業って限られてるんですけど、多分その人は本当にどこ行っても金出してくれって言われ続けてるだろうなっていうのが片側見てても思うので、
やっぱりそれはガード固くなりますし、どんどん離れていっちゃうし。
向こうもね、そうだよね。
ガス会社とか電力会社とか鉄道会社とかNTTとか、ああいうインフラ系の会社ってもう自治体にたかられ、市民にたかられって。
ずっとやってきてるので、やっぱり基本を防御するみたいなことになっちゃうわけですよ。
なっちゃいますよ。絶対になります。
高るほうが悪いですよね。やっぱり金持ってるだろうし、地域あってこその企業なんだから元企業として地域貢献してくれていいっぺみたいにこっちも思っちゃうじゃないですか。
思っちゃいます。特に大企業は内部留保とか利益とか出るじゃないですか。
だから、そんなのあるならちょっとぐらいいいよねみたいな感じになりますよね。
思っちゃうね。少なからずね。
企業による地域貢献の難しさ
自然資本って言ってるんだからこそ、やっぱり例えば企業と出会ったときに、
自然資本って言ってるんだからこそ、自然資本って言ってるんだからこそ、
自然資本って言ってるんだからこそ、
最高っすね。
そこは最後まで痩せ我慢しても言わなくて、そうじゃないところで企業のスキルとか、
自然資本って言ってるんだからこそ、
自然資本って言ってるんだからこそ、
自然資本って言ってるんだからこそ、
自然資本って言ってるんだからこそ、
そこは最後まで痩せ我慢しても言わなくて、
そうじゃないところで企業のスキルとか、
持ってるものをうまく生かしてもらうみたいな。
手取る場合からお金って言いたくなっちゃうんだけど、
これは痩せ我慢すること、こっち側も大事だよね。
企業の側もやっぱりお金っていうのは最終手段で、
お金になる前の新しい資本を作れないかとか、
そういう感じでいかないと、
お金が出てきた瞬間に終わってしまうという感じがする。
そこはでも若杉さんの哲学もそんな感じですね。
僕も取材に行ったことがあるんです。
会社、それこそ働きの○○だとして、
役所の仕事でそれ行くの難しいんですよねって言われた時に、
役所は関係なく個人のお気に入りで来てくれっていうふうに伝えるし、
杉だらけクラブも買い品のないゼロインクラブなんですけど、
お金を返さないことで、
返しちゃうとむしろそれが余計なものになってしまうっていうことを
すごく言ってたのが印象的でしたけど。
やっぱりさっきの防御じゃないけど、
例えば自治体の職員じゃなく個人として付き合ってくださいとか、
個人として来てくださいって言うと、
いやいや、それが一番できないんですって話になってくるわけですよ。
それは業務を超えて個人的なコミットメントをしろってことでしょうみたいなことになって、
若杉さんはそれで揉めていくわけですよ。
若杉さん的な考え方に対するアンチもやっぱりすごく多くて、
仕事の範囲に収めていれば心理的安全性がむしろ保てる。
仕事の人格を切り離して、仕事で付き合っていればどんな嫌な人となって付き合えるけど、
仕事を離れて一時人格として、人間対人間として付き合わなきゃいけないってなると、
負担が大きいっていうふうに思う人たちもやっぱり多い。
確かに確かに。
それは絶対いますよね。
都市と田舎の関係性の違い
逆に田舎に、ちょっと田舎に抵抗感のある人とかはみんな多分そういう、都会の方が好きって言ってる人たちは、
やっぱり人とそんなに付き合いたくないっていう人めっちゃ多いと思うから。
三越百貨店が江戸時代だっけ。
平貨で売るっていうのが三越が一番最初に始めた商売の革新だったわけですよね。
それまではどうなってたかっていうと、人間関係によって値段は変わってたわけです。
なるほど。
同じ商品でもこの人には100円で売るけど、この人は一元産だから1万円で売るみたいな。
そういう商売だったわけですよね。
それはややこしいから、平貨製にして誰が来ても同じ値段で売ろうっていうふうに三越はやっていくわけですよ。
それで爆発的にその商売が伸びていくんだけど。
だからもともと人間関係的な部分で商売もあったんだけど、
人間関係を切り離して金銭だけの関係にしていこうっていうのが近代の産業が成り立つ一つのきっかけだったわけです。
だからなんかめんどくさいんですよ、やっぱり。人間関係を引きずると。
だから商売にはそこは、仕事には引きずりたくないっていう人はやっぱり結構多いと思う。
いや、それも分かるな。
そうだね。分からんではない。
僕はやっぱり経営側にいるので、そこを強要は絶対できないっていう気持ちがすごい強いので、
個人のLINE使いたくないよねとか、メッセーはごめんね、メッセーは許してみたいな感じが。
強要はできないので、やっぱりある種、会社人とか組織人を離れて一個人としていろんなことを始めたときに、
実はそっちの方が楽しいのだみたいなことに、
気づいた人たちから入ってこれるような、そういう入り口を作っていくっていうのが、たぶん大事なんだと思う。
そうですね。
日本列島改造論で、自然と暮らしが離れていってしまったっていうところから、
コミュニティやその働く、仕事と暮らしがまた離れていくことによって、
それも実は自然と暮らしが離れることの一因になってそうなところがすげーあるなーっていうのを持って、
人格を切り分け、暮らしと自然を切り分けて、どんどん個人そのものがどこにいるんだっけみたいな状態になってくると、
自然からは逸脱していくんだ。
そうですね。だから、個人というか自分というか、自分という関係っていうのは自らの部って書くから、
自らの部というのはいろんな関係性がある中で初めてわかることだと思っていて、
そういう関係性っていうのは、僕ら山西郷って言ってるような地域、
地方に行くと自然との関係があり、人との関係があり、それだけじゃなくて、過去の人との関係もあるわけじゃないですか。
林業なんてやってると前の世代が植えてくれた木があるから、今があるわけで、
常に先人たちの面影みたいなのを感じながら仕事をすることになるんだと思うんですけど、
同時にまだ見ぬ人たちというか未来の人たちとのつながりもすごくあるわけじゃないですか。
自分が植えた木とか自分が手入れしてる木っていうのは、
たぶん自分が生きてる時には使われないことかもしれなくて、未来の人たちが使うものだよねみたいな。
自然との関係、今の人との関係、あと過去の人との関係、未来の人との関係って、
実はこれぐらいの4つの関係っていうのは、あと神様との関係とかもしかしたらあるのかもしれないけど、
こういう関係性が、実は健やかな関係性がたくさん持ってたときに、
たぶん自分っていうのは安定するし、未来に対する希望が生えてくると思うんだけど。
確かに。
でもその関係性がしがらみとしてめんどくさいから切り切ったのが、たぶん近代だったと思うんですね。
はい。
だからそれを今、健やかな形でもう一回その関係を作り直すっていうことをしていかなきゃいけなくて。
本当ですね。
でもそれは都会の場合結構難しくて、やっぱり未来につながるものとか過去との関係とかが、
意外と都市の場合はもう町自体がどんどんがらがら変わってっちゃうから感じにくい部分とか、自然が感じにくい部分とかあって、
結構コミュニティっていうのは作りやすいのだけど、都会のほうがいなくて、人は多いから。
確かに。
だけどそれは人と人との関係だけになっちゃうから結構きついところもあって、
そこに人と自然の関係とか、死んだ人との関係とか、人と未来との関係みたいなものがいくつか関係が複層的にできてくると、
今の人との関係だけにならないから、なんか相対化できて関係もすこやかになっていくとか、
なんか一つだけの関係だと煮詰まっていくんだけど、いろんな関係を持つことによって、
その全体の関係のバランスが取れていくと思うんだけど、
それは田舎のほうが実は持ちやすいところにあると思うんですよね。
子供の頃とか、僕それこそ本当に田舎閣営の地元ではないですけど、
新潟の越後湯沢ってところで生まれ育っているので、
田舎閣営が新幹線を通してくれたおかげで東京へのアクセスがめちゃくちゃ良くなり、
そういう意味での恩恵とかはすごく預かっているエリアに住んでいたんですけど、
子供の頃ってすごく、コミュニティってわけじゃないですけど、
やっぱり越後湯沢町という中にもさらに地区ごとに分かれていて、
その地区の人たちが生まれた子供たちをみんな知ってて、
みんなで子育てしてるわけじゃないですけど、
勝手に子供がどっか行ってても危ないところに行きそうだったら誰かが通報してくれるとか、
親に勝手に連絡してくれて、子育てをみんなでやってるっていうような感覚があったり、
コミュニティの形成
子供の流れに多分周りの人たちもみんな見てくれてるからみんなのことも知ってるし、
その付き合いは全然嫌な感じ、子供だから嫌な感じがしなかっただけなのかもしれないですけど、
それが当たり前だったし、今地元に帰ってもそういう見守ってくれてた大人の人たちとは
普通に話して酒飲んでみたいなことが起こられたり、そうするんですけど、
多分それも今だんだんローカルでもなくなってきてるっていうのは、
すごく話を聞いて思って、コミュニティは作りやすいはずなんですけど、
やっぱりできなくなってきてるっていうのは、自分の地元を見てると感じてるところがあって、
そういうのを取り戻せるようになってきたらいいなっていうのが本当に思いますね。
その健やかさっていうのが本当にキーワードだと思います。健やかなコミュニティっていうのを作っていきたい。
しがらみまくっちゃってるからね。
そうなんですよね。本当そう。
でも一回自然を媒介にするとかすると、山とかいいんですよ、やっぱりそういう意味で言うと。
地域の人間関係だけやろうとすると辛いんだけど、一緒に山仕事をするとかすると、
そこでできるコミュニティとかってすごい健やかじゃないですか。
作業を媒介にするとか、さっきの祭りもその一種だと思うんですけど。
人間関係を人間関係として再構築するのではなくて、何かを媒介にしながら再構築していくってことだと思うんです。
楽しい場を先に作っちゃうほうがいいんですね。
そんな話をこの間、京都の教材の先生としては、
京都には自造盆という、自動産の周りで行事をするような子どもたちとやるようなことがいまだに結構あって、
それも自造盆っていうのはあるでしょ。
だから死者、お先祖様みたいなものを媒介にしながら地域が立ち上がっていくってことだと思うんだけど、
今生きてない人たち、あるいは自然みたいなものを媒介にしながら人の関係を作っていくみたいなことが、
もう一回求められているのかなって思ったりしますね。
そうですね。そういうものをどう作っていくのかっていうのが、
今それぞれ地域でもコミュニティとか若い次の世代の人たちが入ってきて、
同じような世代間でのコミュニケーションを取り始めているような状態だと思うんですが、
そこをどう横軸じゃなくて縦軸を伸ばしていくっていうのが結構大事だし、
そこにそれこそ企業さんも肩書きではない形で参入していただいて、
お金じゃない繋がりから始まっていくっていうのが、
実はすごく面白い自然資本と企業のあり方の一歩目なのかもしれないなと感じますけど。
そうですね。だから今の話で自然と人の関係と、都市と地方の関係とか、
上の世代と下の世代とか、いろんな混ぜ合わせなきゃいけない、
二項対立的な世界っていうのがいっぱいあって、
そういうのを一回肩書きを外してシャッと混ぜていくような、その場のデザインみたいなのが、
奥田さんたちがやってる焚き火の場みたいなのもそうなのかもしれない。
そうですね。溶かすには熱が必要だってことですよね。
そうそう。
焚き火の熱。
いろんなものを温め直して、温めて環境を溶かしていって、
健やかな環境を作っていくみたいなことを、
そういうことができる人たちの周りにいい感じのものが育っていくと。
本当に。やっぱり別の地域でも、
未だに移住者に対する冷たい仕打ちみたいなのは聞いたりするので、
そうするとそこって発展しないし、出ていっちゃうので良くないなと思うんですけど、
そこじゃない地域を作って、
自分たちの地域からまずはやっていくということなんだと思います。
そうですね。
前、マナゾルの昔町長やってた人と話しててすごく面白かった。
マナゾルって神奈川で唯一の仮想指定されてる町ですけど、
マナゾルは港町なので、
やっぱり港町って本当にいろんな人が来るから、
すごい誰でもかでも受け入れてたら、
例えば犯罪者みたいなのもいたりするわけじゃないですか。
だからやっぱり保守的なところはあるんだって言ってたんですよね。
港町だからこそ保守的になると。
ただやっぱりマナゾルの歴史からすると、
過去の経験からの学び
マナゾルが危機に陥ったときに、
やっぱり外の人の知恵をもらって、
なんとかその危機を回避してきたのだとか、
克服してきたのだって、そういう歴史があるんだっていう言い方をしていて、
それすごい面白いなと思って。
日本の村社会って基本は保守的なんです。
基本は保守的なんだけど、やっぱりそういうときに危機に直面したときに、
外の知恵を取り入れられたところは、
たぶん残ってきてるってことだと思っていて。
だから今保守的に見える地域も、
歴史の長い地域は必ずそうやって外の人を迎え入れることで、
アップデートできた時期っていうのは絶対経験してるはずなんですよ。
だからそういう歴史とかをひもといていくと、
実は今保守的に、保守的っていうのはやっぱり、
集団が生き残るためにデフォルトで保守的なんですよ。
やっぱり自分たちが保守的でこの地域はだめだって思ってるときも、
昔のエピソードとかを持ち出してあげることで、
実はこのときにこういうオープンになることによって、
生き残ってきたよねとかいうことによって、
自分たちの持ってる自己イメージっていうのは書き換えることができると思っていて。
そういうことが必要なんだと。
それは村社会もそうだし、大企業もそうだっていうことですね。
そうです。
みんなだから自分たちを見る物語っていうのが一つになっちゃってて、
そこの想像力が働かなくなっちゃってるのを、
もう一回そこの事態を物語で解きほぐして、
新しい物語を生かしてあげることによって、
自分の組織とか地域とか集団の見方が変わる。
それがアップデートするきっかけになるっていうことだと思う。
ですね。
いやーでも、
そのきっかけ、そうだね。
本当、ローカル出身だからこそ思うんですけど、
やっぱりローカルの人たち、
もちろん自分たちの生まれたエリアが面白いと思ってる人もいるんですけど、
でもやっぱり諦めてしまってる人たちも大半いて、
そこが外からの情報が入らないからそうなってしまうのか、
アップデートする機会さえあれば、
めちゃくちゃ面白いことが生まれてきそうなんだろうなって思うんですけど、
その機会が上手く作られてないのかなっていうのがすごく感じるところがあって、
雪国なんか本当にやれること死ぬほどありそうだなのに、
自然資本でいうと雪って本当に、
日本では結構どこでもあるけど、
それでもやっぱり特殊なエリアだと思ってるので、
僕たちのエリアはね。
確かにね。
日本一雪が降るエリアなんで、
スリーズも含めて。
そうそうそうとか、
それを地元の人たち、
外の人たちが来てそれを何か使おうとするとまたちょっと、
うまくいかなかったりするから、
地元の人たちにその可能性をどこまで感じてもらえるのかってところが、
すごい重要な気はしているので、
だからそういう意味で今井上さんが言ってくれたみたいな、
何かこう、過去のものをひのもといていくのか、
アップデートする機会を自分たちでどう作っていくのかみたいなところが、
めちゃくちゃ大事だなと思いましたね。
そこは本当に外の目なんですよね。
そうですよね。
やっぱりアイターンでもUターンでもいいんだけど、
なんかある種、外の目を持った人が地域とうまくやれたときに、
変わっていくっていう部分があって、
そこは外の目だなと思いますね。
やっぱりなんか本当にそういう、
肩書きのない名刺じゃないですけど、
人と人とのつながりみたいなところに、
結構立ち止まる重要性をすごい今日感じましたよ。
大手企業さんが来たときに、
金くれるんですか?みたいな感じ。
そうじゃないよねっていうのがめっちゃ大事だな。
やっぱり森づくりの話とかでも、
やっぱりそこは、そこは何て言うんですか、
そういう資金っていうのを当てにする部分ってどうしても、
全国的には多いと思うんですけど。
そうすると確かに森と、
企業さんの関係性って悪化するかもしれないですね。
そうなんですよ。
できることないですか?って企業は言ってくるんだけど、
それは僕らも分かんないので、
とりあえず僕らが楽しいと思うことを、
まず一緒にやってくれませんか?みたいなことで。
いいですね。
なんかそういう感じなんだと思う。
それでもう関わりたいと思ったら、
関わり方を見つけてもらうみたいなことだと思って。
そうですね。
まずなんかだから、わけもなく森に入っていった時の心地よさとか、
森で作業したり、木を切り倒した時のアドレナリンが出る感じとか、
原始の地というか、
そういうところに原始のDNAが蘇るじゃないですか。
はいはい。
ああいうところにまずガチガチになっちゃってる企業の人たちを
どっぷり疲らせて、
こういうのなんかわけもなく楽しいなみたいな感じにしてから、
なんか関わってもらった。
だから田んばささやまで、
大発さんが、
大発の社長が小屋作りにハマって、
小屋作りのワークショップに行ったら、
そこで大発の社長がハマっちゃったんですよね。
はいはいはい。
そしたら社長が楽しい楽しいもんだから、
みんなイカツラを終えなくなって、
みんなイカツラを終えなくなって、
みんな小屋作りに通うようになってみたいな話になって。
だからそこから結局もう少し企業として関わるために、
じゃあ農業ドローンの開発する拠点を作ろうとか。
楽しさから始まって、
そうやって企業として何か、
この地域でやれることを探していくっていう、
そういう関わりになっていって、
ああいう感じでいいなと。
確かに。
モッカーですよね。
モッカーがやってることで。
そうですね。
まあでも、モッカー楽しいでしょうね。
そう。そうなんですよ。
あのメンバーさんとか。
やっぱり何でモッカーが楽しいかっていうと、
彼なんかは本当に木を切ってきて、
その切ってきた木を自分で製材もし、
それを家具とか何か作品にするみたいな。
だから何でもできるから、
企業の人が何かをこう体験を共にするとき、
体験の幅が広いんだよね。
いろんな人間にとって、
居場所と出番を作ってあげられるっていうのが、
モッカーの凄さだと思って。
そうですね。
辻さんのユーモアが最高です。
でもそう、途中で何か話したかったなっていうところも、
最後繋がってきたんですけど、
そういう楽しさとかユーモアとか、
そういう楽しさとか、
そういう楽しさとか、
洗練されたシンプルなミニマルなデザインから、
抜けがあったりとか、
愉快なデザインっていうのが、
ポンコツ自慢と繋がり
多分大事だろうなっていうのを、
僕も裸に感じているところがあって、
多分そこは何か全部繋がってて、
寄せ付けないかっこよさではなくて、
溶け込んでいく、
いろんなデザインがあって、
そういうのが大事だと思うんですよ。
寄せ付けないかっこよさではなくて、
溶け込んでいく愉快さみたいなことが、
森も企業さんも地域の人も、
溶け合っていくときにすごい重要なものなんだな、
っていう印に感じますね。
最近僕は、
もっとみんなポンコツをめでられるような感じの
関係の作り方がいいなと思っていて、
スギダラの連中見てて面白いなと思って、
ポンコツ自慢するんですよ、みんな。
お前ポンコツだなって若杉さんに言われるのが
一番の褒め言葉みたいな。
そうすると自分がいかにダメな人間かを
みんなで自慢し合うみたいな、
ポンコツ自慢をするみたいな、
ああいうコミュニティの作り方ってめっちゃいいなと思って。
いいっすね。
確かにすげえいいな。
ポンコツ自慢したいっすもん。
だいぶポンコツっすからね、僕も。
みんなどっかしらでポンコツじゃないですか。
でもポンコツだからじゃあ、
僕のポンコツの部分は君のあれで埋めてよみたいな。
ポンコツを通じて繋がっていくみたいなのが
結構大事なんだろうなって、
改めて思ってます。
ポンコツを許容し合う会
みんな片肘張らず、カッコつけず、
ポンコツを許容し合う会を森で開催して、
それがたぶん次の時代の妖怪の話を作っていく。
そうそうそう。
ポンコツをめでる会っていう。
ポンコツをめでようっていう。
大事なんだ。
特定のポンコツさがある種の妖怪として現代に現れる。
すいません、ちょっと取り留めもないところもあったかもしれないですけど、
僕的にはもう最高に楽しくて、
いや今日楽しかったです。
気づきがあったんですよ。
ということで井上さん、本当に忙しい中聞いていただきました。
ありがとうございました。
いやいや、ありがとうございました。
ありがとうございました。楽しかったです。
また今日のキーワードで、
やっぱり祭り的なことっていうのがすごくあって。
そう、肩書きをなくして個人で集まり、祭りを開くだね。
だよね。
なんで、ちょっと。
祭りをした後、反省会でみんなでポンコツ自慢すると。
そんな時間が愛おしいですね。
ぜひちょっと自然史本論でできるかはわかんないですけど、
そういう祭りを、否か日の原で。
日の原でね。
やりましょう。
いいですね。
ということで本当にありがとうございました。
いいえ、ありがとうございました。
今後ともよろしくお願いします。
こちらこそ。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
42:06

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