ぎっくり腰の体験
もう2ヶ月ほど前なんですけど、ぎっくり腰になってしまって、
ぎっくり腰っていうのがあるっていうのは知っていたし、
それはあるきっかけで腰が急に痛くなって動けなくなってしまう。
かわいそうな人ぐらいしか知らなかったんですけど、まさか自分がなるとは思ってなくて。
でも、なんか特別変なことをしたわけじゃなくて、
朝会社に行こうとして、MacBookが入ったリュックサックを床に置いてたんですけど、
それを手に取った瞬間、持ち上げた瞬間に、ありふれた表現で恐縮ですけど、
体に稲妻が走るような感覚があって、それで数時間動けなくなると。
その瞬間までは、自分は35歳の男性の体を持って好きな場所に歩いて、好きなことをしゃがんだり、
飛び跳ねたり、何だってできたんですけど。
別に飛び跳ねたりはしてないんですけど普段。
その瞬間から寝てても痛いし、座っても痛いし、もちろん起きてても痛いっていう。
自分の体がうまく扱えない。
歩く速さも半分ぐらいになって足を引きずりながら歩いたり、なんというか。
しんどかったですね。
トイレに行くのも、なんか張っていくような。
手すりに捕まって、ズボン下ろすのもきついみたいな。
横断歩道で車が自分を当たるのを待っている。
そういう時、いつもなら遠慮がちに小走りで横断歩道を走り抜けて、
車に道を譲るみたいなことをしますけど、
それもできず、足を引きずりながらゆっくり渡って、
車がずっと僕が渡るのを待っているみたいな時、
自分の見た目は、別にそのおじいさんでもなく35歳の男性ですけど、
見た目からは想像もできないゆっくりのある歩みで横断歩道を渡っている時に、
これ車からどう見えてるのかなって。
人によっては、そんなこと思う人いないかもしれないけど、
サボってるんじゃないかっていう。
早く渡れよみたいに思ってたりするのかなとか。
あと、しんどいのは電車ですね。
通勤ラッシュの時間に椅子は全部座ってると。
そういう時に吊り革をつかまっていても腰が痛いみたいな時に、
3、40分。これから乗るぞっていう。
そういう時に自分の見た目はやっぱり35歳男性なので、
当たり前ですけど、譲ってほしいなんて言えないし。
僕も別に強い思ったりしてないんでね。譲ってほしいアピールもしてないんですけど。
見た目からは想像もつかない痛みあるぞっていうのは思って乗るんですけど。
でもそういう時、自分は先行後悔してもらっているんだと。
他の人たちは老後にならないと味わえない感覚を、
自分の体が思い通りに動かない。老後じゃなくてもそういう体の方もいらっしゃると思うんですけど。
そういう人の気持ちを自分は老後になる前に一時的とはいえ先行後悔してもらっているんだと。
それにより、体が動きづらいというのはこういうことで、
こんなにも気持ちが億劫になり、自由が奪われていると思い、気持ちが塞ぎ込んだりするんだということを、
老後になる前に体験させてもらっているんだと。
どういう時に譲ってほしくて。
そして自分の見た目からは想像もつかない体を抱えている人たちがいるということに思いを馳せられるようになるんだと。
そういう体験をさせてもらうために今、自分はこの体を手に入れたんだと。
自分の体の仕組みがわからない。体の中身がブラックボックスで。
どうしてそういう風にできているのか、なぜ動いているのかもわからないまま、
それが思い通りに動くという自由を当たり前のように使っているということを知っているし、教えてもらっているんだと。
思うことによってやり過ごしてきたんですけど、やっぱり辛かったですね。
とはいえ、もうすいません、もう3ヶ月経っているんで、かなりもうだいぶ大丈夫になってきて、
普通にいつもの速さで歩けるようになったし、
なんか謎に腰を痛めた時に神経に触れたりしているのかわからないですけど、
右足の小指だけ謎に痺れていたのが1ヶ月以上ぐらい続いていた時には、
このまま死ぬまで右足の小指が痺れていたら嫌だなぁとか思ってたりはしたんですけど、
そういうこともなく治りました。みたいな。
ぎっくり腰。ぎっくり腰になった人は当たり前なのかもしれないですけど、そういうことを思ったりしたと。
ちょっと話は変わるんですけど、なんかこんな風に感じたり、また考えたりしてるっていうことを、
これを誰かに話したり、日記に書くなりですね、しないと忘れちゃうなぁと思って。
忘れちゃって消えちゃうなと思って。
表現活動の停滞
消えちゃったら、感じたり考えたりしてるってことが生きているということなら、
生きている証なのであれば、忘れちゃうことによって消えちゃうことで、
その時自分が考えたり思ったりしてるってことが誰にも伝わらないまま消えちゃって、
自分が生きてたってことも消えちゃうような気がして、それはとても恐ろしいことだなと思ったんですね。
ポッドキャストを2020年ぐらいからポツポツと撮っては公開してっていうのをやってて、
ただ最近は全然更新できてなかった。
っていうのは、自分が今暮らしている環境の変化が大きいなと思っていて、
それは一人暮らしじゃなくなったからですね。
部屋に同居しているパートナーがいるという時に、
一人暮らしの時だったらいつでもマイクに向かって話してましたけど、
部屋に他に誰かがいる時に、そんなに広い家でもないんで、
マイクに向かって語りかける度胸はないですね。
みたいに言うと、ポッドキャストを更新してないのがパートナーのせいみたいに聞こえるかもしれないんですけど、
全くそんなことはなくて、そういう必要性を感じないくらいすごく楽しく暮らしていて、
話したいなと思ったら話せる人が近くにいるのはとても素晴らしいことなんですけど、
なんですけど、なんかさっき話したみたいなぎっくり腰になっての初感みたいなので、
その時っていうよりもしばらく経ってから、
そういえばあの時ってこういう風に思ったとか、こういう風に感じてたことってこうなんじゃないかって思ったこととかって、
別にパートナーだけじゃなく友達でも誰でもあんまり話す機会ってないんですね。
だから、そういう時、マイクに語りかけるのが、
そうやって残しておくのがぴったりなんじゃないかなと思って。
マイクの向こうにはこの話を取り留めのない、オチのない話を聞いてくださっている方々がいるんですけど、
誰も聞いてないかもしれないんですけど、
ただ一度マイクを通しての語りかけるっていうこの関係性みたいな、
自分の中に一個そういうチャンネル、出力できるチャンネルが一個あってもいいかなと思って。
だから、なんか定期的にポッドキャストを撮るとかって実は大事なんじゃないかなと思えてきちゃって。
っていうのがあって、ちょっと今回久しぶりに録音している次第ですね。
最近感じている不安。
この機会に最近感じている不安をお話ししてもいいですか?
それは、作るってことを自分がしなくなっていることです。
少し前までの自分は、何か詩を、自分で書いた詩を朗読したり、音楽を作ったり、コードを書いたり、
何か形に作るもの、そういう作る行為をとても大切にしていったように覚えてるんですけど、
最近の自分はあんまりそういうことをしていない。
というのは、生活の環境が大きく変わったのもあるし、
単純に時間がない。平日帰ってきてから寝るまでの時間、やれることは限られて、
まあその時間でもね、やってる人はいるんですけど。
何か作るって心に余裕がないとできなくて、
端的に言えば余裕がないんですね、今。
そういうのと、でもなんかその忙しいってだけじゃない、それはすごく言い訳のような気が。
もう一つ何か要因があるような気がしていて、それはちょっとまだよくわかってないんですけど。
もう一度自分は作るってことをしてみたくて、何でもいいんだけど。
何か作ることによって、僕は作ることによって、
なんか社会と他の他人とやり取りをしてきた。
誰かと自分が作ったものが誰かにつなぎ合わせてくれる。
自分に作ったものに連れてってもらっているようなことがこれまでの経験に何回かあって、
作ることそのこと自体や作ったものが自分をどこか、ここじゃない遠くに連れて行ってくれることが今まで何回もあったから、
作ることはやっぱり、そういう目的じゃないにしても何かを作るということを大切に生きていきたくて、
だけど作ることが億劫になったり、作ることに意義を見出せなくなっている今がとても不安に思っていて、
それを何か良いルーティーンの中で少しでも良い方向に転がしたくて、
っていう時に分からないけど、今感じたこととか考えていることを誰かに伝えるっていう、
それを定期的にやるっていうことがもしかしたら良い方向に転ばす、自分の中のムーブメントを推進できる力になるんじゃないかと思って、
その一つ試しとして、かつて自分がやっていたポッドキャストをもう一回やってみようかなと思って。
ポッドキャストの再開
暗い話になっちゃいましたけど、暗くもないか明るい話ですね。
なので何か無理やりでもいいから、自分の中で定期的にこの録音をするっていうことをやってみたいなと思っている次第なんですけど、
バナナブレッドのラジオなどと称してやっているこのポッドキャストではお便りを募集しています。
メールアドレスは鹿くんアット鹿くんドットコム。鹿くんのスペルはSHIKAKUNです。
何かあればお気軽にいただいたメールはポッドキャストの中で紹介させていただくかもしれません。
それではありがとうございました。