人から始まって人で終わるという、そういった連作詩集になっているというのが一つと、
あと言葉遊びですね。
というのが結構詩の中に入っていて、
すごくユーモラスな作り方のされているシーンで、
そこには喜びもあれば悲しみもあるというような、そのような詩集ですね。
読んで思った作品の印象ですね。
それをですね、語っていきたいなと思います。
まず一つ目がですね、日常やよくあるシチュエーションを描いている詩が多いんですけども、
それを読んでいるとですね、突如ハッとさせられることがあるというですね、
そこが印象としてありました。
例えばですけども、出先のトイレの中に人がいたと。
トイレしようと思って、ちょっと扉を開けたら中に人がいたとかですね。
夜勤が終わった後のバスですね。夜勤が終わった後、バスに乗って家に帰るというですね、そのシチュエーションであったり。
あとこれは学校とかでイメージしやすいかもしれないですが、
全校集会のような人が集められて、校長先生がですね、スピーチするような、そういった場面というんですかね。
そうした場面というのが結構あってですね、イメージしやすい。
そういえば自分にもこういう時があったなという。
そこから始まるんですけど、結構どの詩もです。
日常から始まっているのに突然ですね、その人とは何かというのがですね、ちょっと問いかけられるような展開になっていくというですね、そういう詩が多くて印象には残りましたね。
なんか今回は日常と事実期間がすごいあって、詩って日常描くからそうだと思うんですけれども、
自分がこういうシチュエーションあるみたいな時とか、こういう時にこういうことを感じるようなみたいなことが結構散りばめられているので、
その辺りで引っかかってくることが多いなと思ったし、なんか読んでると自分もこのちょっとしたモヤっとしたことを文章にしたくなるなみたいなのもちょっと感じたんで、
この大雲さん、めちゃめちゃその辺の拾い方というか、汲み取り方みたいなのがすごくお上手だなと思うんですけれども、
だから書けないんですけど、書きたくなる気持ちを書き立ててくれたところもあって、読んでて楽しかったですね、この辺りはね。
ちょっと鋭いところはね、ちょっとドキドキしちゃうんですけどね。
そうですね。実際じゃあどういう詩があったのかっていうのはですね、またちょっと後ほど話していきたいなと思いますんで、
ちょっと今の話のそのちょっと続きにもなると思うんですけども、今回のこの詩集の詩のタイトルが〇〇する人っていうのが結構多くてですね、
例えば最初と最後は人っていう詩なんですけども、それ以外だとよく考える人とか望ましい人、凍りつく人、〇〇する人とか〇〇な人っていうのがですね、この詩のタイトルになっていて、
いろんな人が登場するんですけども、これちょっとあくまで僕の印象ですけども、なんかそれぞれ個人の顔が浮かんでこないような描写がされているなという、
なんかすごく抽象的に描かれているような気はしまして、〇〇な人とか〇〇する人っていう、それが特定の個人じゃなく、
そういう人みたいな栗で人がその詩の中で生きているというようなですね、顔が浮かんでこないような描写で、なので重なる部分があれば結構、
だからこれは自分が当てはまるかもって思うこともあれば、いや今の社会に確かにこういう人とかこういう状況あり得るなと思ったりとかですね、
とはいえですね、そういう個性がない人を描いているっていう言い方をしたんですけども、この本の書名が僕には名前があったっていうですね、
ちょっと僕が思った印象とは逆のようなタイトルになっているので、これが意味しているのがですね、
その個人の持っているものっていうのが大切にされる瞬間っていうのがやっぱりあってですね、ちょっとした温かみとかですね、
温かみって言ったらいいのかな、ちょっとした希望と言ってもいいかもしれないですけど、詩を読んでいるとですね、やっぱりそういう瞬間があってですね、
それはすごい良かったですね、この詩集、大宇野さんのこの、何でしょうね、このすごく優しい眼差しというか、それをすごく感じましたね。
うん、なるほど。なんか私どっちかっていうとあれですね、個人の顔が浮かんでこないっていう感じではなくて、
なんか割と具体的なポイントで自分の中に引っかかってくるんで、登場人物っていうよりは自分みたいな感じでしたね。
自分と重なるか重ならないかみたいな感じで読んでましたね。で、結構感覚が似ているようなことが書かれていると、
というかシチュエーションで自分もこういうことあったなみたいなことが書かれていると、結構共感してしまうので、
すごいわかるってなって、それで結構テンション上がったりとかしましたね。
そうですね、なんかその辺はあるかもしれないですね。
非常にこれ、人っていうのにフォーカスしているんで、丸々する人っていう、三枝さんが話してましたけど、
人にフォーカスした作品が多いなっていうので、ちょっと私はその部分で結構いろんなところに引っかかってきたんですけど、
きっと同じように引っかかる人いるんじゃないかなと思います。
次、最後ですね、この作品で印象的というか特徴的なのが、言葉遊びを詩の中で行っていると。
言い方が言えると、言葉遊びから詩が生まれてくるですね。
そういうのが特徴的かなと思います。
すごい面白いなと思ったのは、例えばですけども、発音が合ってないと思うんですけども、
イルリュという言葉があってですね、これイルリュ学っていうのが、イルリュ学といって一流学ですね。
一流二流とかのその一流学っていうのがあって、でこれを実はこのイルリュっていうのは人類と読むこともできて、
登場人物が人類学科、それからイルリュ学科になるんですけど、人類学科と思って入学したら、
実はそこが一流学、イルリュ同じイルリュなんで一流学だったっていう、
そんな一流学科みたいなものがあるのかっていう話なんですけども、
人類学科ともたいったら一流学科だったみたいなんですね。
そこから一流とは何かみたいな、教えられるっていうですね、すごい面白い詩もあって、
こういうのも本当ちょっとしたね、ダジャレというか遊びから詩が生まれていくようなもので、
こういうのが結構所々というか結構ありましたね、この同じ言葉だけど意味が異なるという。
韓国語で同じ響きだけど意味が違う、意味が2つある言葉かな、だと思うんですけど、
一応注釈ちゃんと入れてくれるっていうんで、韓国語分かんなくても読めますね。
私はもう全然ちんぷんかんぷんだったけど、そういうことか、みたいなことになりました。
ここは気づけると楽しいポイントの一つと思うんですけども、
あんまり意識しなくても多分この詩集は全体的に楽しんでいけると思うので。
じゃあここからはもう具体的にどの詩が気に入ったかちょっとお互い話していきましょうか。
そうですね。じゃあまずはやっぱり一番最初に掲載されている人という詩ですね。
これちょっといきなり僕は読んでちょっと本当にハッとするような詩で、
すごくちょっと印象的だったので、まず最初はこれを紹介したいなと思うんですけども、
これはどういう詩かっていうと、出先でトイレ入ろうと思って、
ドアノックしたら中に人がいて、トイレの中にいたのが裸の子供だったんですね。
何も着ていない男の子で。この後ですね、すごいちょっと面白い表現がされていて、
嬉しい恥ずかしいという言葉が続けて書かれていてですね。
嬉しいと恥ずかしいというのが両立しているような、そういう表現をしていて、
これがすごいちょっとこの詩の中ではなかなか今までこういう、
嬉しいと恥ずかしい同時に提示されたことがなかったなというのでですね。
まず最初にちょっと親って思ったところなんですけども。
なんで嬉しい恥ずかしいかというと、生まれたままだから子供は嬉しかった。
子供、その裸の子供ですね。トイレの中にいた子供は嬉しかったと。
その子供に出会ってしまった僕は恥ずかしかったというですね。
そういうのがあって。さらにもうちょっとこの詩が進んでいくと面白いのが、
そこで僕、主人公がですね、君誰?って言うんですけど、
子供は何も答えないんですよね。逆に僕をジロジロ見てくると。
そこで面白いのがね、じゃあ僕は誰だろうって。逆にこの主人公がね、
自分って誰だろうって考えていくというですね。そんな詩ですね。
ちょっと説明するのはなかなか難しいんですけども、何とも言えないこのシチュエーションで、
なぜかその少年に君は誰って問いかけたのに、逆に自分が僕は誰だろうって。
自分で自分を解いてしまうという。その後考えていくというですね。
なかなかこれ面白いなって思いましたね。最初の詩ですけど。
で、これ私はかなりインパクトのある詩が一番最初に来ているなと思っていて、
なんていうか何度も読み返したくなるような詩だし、話もね、
こう言ったり来たりしながら、なんか深くなっていくような感じがあって面白いし、
やっぱこれ他者というかね、こう人がいるから自分が見えてくるみたいなのをちょっと自分は感じて、
いい詩だなって本当に思いました。
そうですね。この中この詩の最後で、嬉しさ、あ、違うんです。恥ずかしさですね。
恥ずかしさから嬉しさに繋がっていくようなですね、そういった文章があって。
ちょっとこの自分を思い起こした時に、恥ずかしいと思いつつ、
嬉しさも込み上げてくるような、この詩と同じような感覚というかですね。
そういうの今まで自分にあっただろうかっていうのは、ちょっと自分の中でふと思いましたね。
この詩で書かれているような、この嬉しさのあんまり恥ずかしい人がいたみたいなんですね。
書かれ方をしてたんですけど、それはでも自分にはそういうのあっただろうかってちょっと思ったりして、
そういうのを思えるっていうのはすごくいい詩なのかなっていうのはやっぱり思いましたね。
ではですね、次に印象に残った詩が、凍りつく人というタイトルの詩ですね。
これはキムという主人公が出てくるんですけども、このキムという人の反省が描かれている、
偶話のような詩で、詩というか偶話みたいな感じで読んでいけるかなというものですね。
すごいこのキムという人が結構野心家で、この世で一番背の高い家を作ろうとして、
しかもですね、周りからも応援されていたりすごくですね、称賛されているような人で、
このキムという人がもうイケイケドンドンで突っ走っていって、
マスコミに対してもですね、自分はそういう世界一の高い家を作るんだって言って、
大きなことを言ったりするんですけど、ただですね、キムがそうやって野心を持っていたんですけど、
壁が立ち塞がって、思うようにはいかなくて、だんだんキムが沈んでいくというですね、
周りからも見捨てられてしまって、一人ぼっちになっていくというですね、
そういう詩で、これもなかなか感慨深いところがありましたね、この詩は。
そうですね、なんかもう小説ですよね、これね、詩というよりはね。
そうですよね。
確かに偶和っぽい。個人的にはこの壁っていうのがすごくわかりやすい象徴で、
読んだ人の中に残るし、読んだ人は自分の壁って何だろうっていうのを、
ちょっと投影しやすい形になっているなと思いました。
僕は結構この詩は、最後好きでしたね、
このキムという人が一人ぼっちになっていって、ヘナヘナって崩れ落ちていくんですけども、
そんなキムの背中を支えてくれたのも壁であったと。
立ち塞がったのも壁であったら、支えてくれたのも壁であって、
その壁は硬いけれど心地よさもあったっていうですね。
なんかこの最後の終わり方はすごいいいなと。
あとはこの詩と、そこまで当てはまってないかもしれないんですけど、
僕も20代の頃ですね、本当20代前半とかの時かな、
やっぱり結構仕事でしんどかった時とかですね、たまに夜とか寝れない時があったんですけども、
実家に帰って猫を抱っこすると、なんかすごい寝れたっていうのがあってですね、
もうダメだって思った時の何か、そのすがるものがあるっていうですね、
なんかそういうちょっとした感覚みたいなところが最後書かれてるんですけども、
なんかそこもちょっとわかるなっていう。
自分の場合は壁じゃなくて猫だったなとかって思いながら読んでましたね。
支えてくれるものね、確かにね。
これ壁が立ちはだかるけど、支えてくれるのも壁だっていうの面白いよね、このね。
そうですよね。
イメージできたけどね。苦労して取り組んで大変だったけど、
でも何かしら自分の中で生まれてきたものが支えるみたいなイメージが俺はあったけど、
そうか、三枝さんはもう猫にすがせたわけですね。
そうですね、自分もそういう時あったなってちょっと思い出しましたね。
なるほど、俺も猫にだいぶ救われてますけどね。
じゃあ次はですね、松人という作品を紹介したいんですけれども、
ちょっとこれもう私ちょっと朗読したいので、読ませていただきます。
松人
路地には松人がいる。路地にも大通りにもスーパーマーケットにも市場にもいる。
学校の正門にもいる。息子が母を30分待つ。男が男を30日待つ。
おばあさんがおじいさんを30年待つ。体が体を待つ。心が心を待つ。
いつも待つ。どこででも待つ。あちらこちらに待つがある。
今月の生活費を待つ人がいる。チャンスを待つ人がいる。希望を待つ人。成功を待つ人。
ライバルの失敗を待つ人もいる。昨日の栄光を再び待つ人。
明日の幸福を初めて待つ人もいる。松を反復する人と松を覆す人がいる。
路地をうろついたげく携帯電話をかけようとする手がある。切実な瞬間がある。
松人の前を走っていく人がいる。松人がいるのかどうか知らず全速力で走る。
どれほど待っているのかも知らずに利己的に走る。松は衝突しようがない。
一つの情熱が一つの松をかすめていく。息を切らせた人の後ろにため息をつく人がいる。
弾む二つの心臓がある。松人がいる。松が影のように長く伸びている。
松人はその人がいつ来るのか生半可に予測しない。来ると言ったことがないからだ。
待っているとようやく行った時、その人はもう後ろ姿だった。その瞬間松が凝固した。
じっとしていても後ろ姿は遠ざかった。必死で近づいても後ろ姿は小さくなっていった。
松が追われまで松は解消されようがない。前姿で後ろを追う人がいて、後ろ姿で前に向かう人がいる。
松人は振り返らない。
30分が30日になり、30日が30年になり。会う時はアニョンでいたくてアニョン。
会う時はアニョンではいられなくてアニョン。松人が路地にいた。待つ時までいた。
という詩なんですけれども、大分私刺さりましたね。
この待つっていう感覚、たぶんね、自分すごく持っている気がして、
この希望を待つ、成功を待つとか、ある瞬間もずっと待っている気はするんですよ。
待っていってる気もするけど、待っていってる感覚もすごいなんかあって、
この詩から能動的なのか自動的なのか、ちょっとどっちなんだろうみたいな、
とかもすごい色々考えさせられる詩で、めちゃめちゃ好きでしたっていう。
途中であったね、松が追われまで松は解消されようがないっていう言葉が、
もうグサッとされて、そうなんだよなって思って、
結局何かもう自分が望んでいるものに出会うまでは終わらないんだよなみたいな。
なるほど。
めちゃめちゃいい詩だったなと思ったんで、ちょっと朗読させていただきました。
この待つ詩とはね、いいですよね。
すごい待つっていう、なんかすごい不気味なニュアンスの言葉と思っていたんですけども、
すごいなんかこの詩を読むと、待つっていうのも深いなって思いましたね。
最後の30分が30日になり、30日が30年になるっていうのも、
なんかそういうことなのかなと確かに言われると、
ちょっと30分待っていたことも、時間過ぎていくとそれが30年になるっていうのもね、
あり得ることだなって思いましたし。
自分は一体何を待っているんだろうとか、これもね、なかなか考えたくなりましたね。
あとね、これもなんか人と喋りたくなる詩かもしれないですね。
ああ、そうだね、確かに。
何を待つとかとか、そういう話とかって、意外とそういえばしたことないんじゃないかって思ったんで。
で、次ですね、紹介するのは、読む人というタイトルの詩ですね。
これも結構面白い話で、主人公は趣味を聞かれた時にですね、
どういう趣味を答えるといいんだろうかというので、
本を読んだりするのはいいんじゃないか、そういう読書ですね。
そういう反応があってですね、読書家になっていくっていう、そういう人なんですけども、
ただ最終的にはですね、この読書家になった主人公がいついかなる時、
それが本じゃなくても、ポスターでもビラとか牛乳パックの成分表とかですね、
自分が年をとって老眼になったり病気になっても読むのをやめなかったと。
最初はですね、この主人公って趣味何を持てばいいんだろうっていうので、
無難な人になりたかったんですよね。
なんかそういうちょっと最後やっぱり切なさが出てくるようなシーンですね これもなかなかやっぱりですねもうちょっと考えさせられるものがあるので印象の
残ったシーンとして取り上げてちょっとね感想を話せたらなと思いますね 僕はやっぱりこの詩の中で途中一文ですね
向き合うべきか背を向けるべきかっていうこのバッタリであった同級生に対して 主人公がですねそのように考えるんですけども
これってでも結構自分でも当てはまるなと思うところがあって実際 昔ですねその学生時代仲が良かったり
学生時代に知り合った人でも やっぱりその大人になってじゃあ同じぐらい仲良くなれるかというとちょっと話は違ってくる
と思っていて記憶とか感情としては やっぱり昔どっちかというと仲が良かった人とかだったらやっぱり仲もバッタリであったり
したら嬉しさとかですね懐かしい記憶って出てくると思うんですけど じゃあその人とまた向き合うべきか
それとも大人になった自分たちがもしやっぱりお互いそれぞれ 違うなっていうのがあれば背を向けるべきかとかっていうのもですね
出てくるなと思っていてこの辺はなんか自分でもそういうことはありそうだなという ので本当自分ごとみたいな感じでこの詩は読んでますね
みえさんはその感情にだいぶリンクしちゃったわけですね なんか私はあれですねちょっと後半の方に
みえさんが今言ったその向き合うべきか背を向けるべきか ちょっと後ぐらいに手を繋いでいたはずの人が容赦なく手のひらを返すようにって
あって まあ同じだけどね昔仲良かった人が相変になっちゃうってことあると思うんで
そこの感情にはすごくリンクしたんですけど これでもなんかもうどっちかというとちょっと仲悪くないかなって
この感じ結構人ですよね 生きた時間が
人を分かつ時もあるんだなっていう 最初の詩から最初の人と最後の人はやっぱいいですよね
この詩集がぐるっと回ってくるような感じがあって僕には名前があったと
それがグッと落ちてくる気がする
連作詩集というので全部読んでみるとやっぱり繋がっている部分ってあるんだろうなっていうのは感覚としては思いますし
この人の最後の終わり方ですね今回のこの詩のが人が人を呼んだちょっと前まで人だった人をこの人をっていうので終わっていて
本当人って存在はしているんですけどもでもこのシーンの中だったら主人公の僕かな
僕から見ているその人はもう僕の中の世界ではもう人ではないみたいなんです
なんか人という存在が急に浮かび上がってきたり急に消えていったりするっていうすごい儚さのある本当世界だなっていう
やっぱりこれはこのシーンからは感じましたね