ちょうど、昨日かな、私が名古屋で勤めてた大学で、
次の学長が決まったと。
実は私が学長を辞めたのが2016年。
それから8年間ですね、別の女性の方がやってたんですけれども、
私よりずっと年上の方がやってたんですが、
まあ、その方が8年、ちょっと長すぎたんじゃないかと、
私は勝手に思ってますが。
それはさておき、その次の学長が決まったと。
私より4つ下のね、本当に優秀なピアニストですね。
頭もいいと思うので。大変だと思いますけどね、大学運営はね。
頑張ってほしいなと思っているということで、
まあ、ちょっと、ちょっとまあ、ちょっと嬉しいかな、
彼になったことでちょっと嬉しいのと、ちょっとほっとしたと。
ただ、やっぱりこれからの私学、これから4年、8年、特に厳しいのでね、
舵取りうまくできるといいけどなと思いながら、
そんな心配、私がしてもしょうがないんですが。
それともう一つは、私が勤めてた学園には3つ大学があったんですが、
そのうちの隣の大学の学長も同時に決まりまして、同じ理事会でね。
これが
私と同級生でね。
まったく同い年で同級生なんですが、
彼もね、頑張るんじゃないかな。
ようやくホープが出てきたっていう感じで。
これもよかったんじゃないかなと。
60と56なので、そう若い2人ってわけじゃないんですが、
やっぱり大学の学長ってのはみんな60過ぎてからなる場合が多いので、
そういう意味では若いうちに入るのかな。
若い2人にエールを送りたいと思います。
そんな私は46歳で大学の学長になっちゃった。
しかも専門は政治学なのに、音楽大学の学長になっちゃったっていうね、話で。
なった当初はね、結構周りは、なんていうのかな。
それこそ本当にどこの馬の骨だか分かんないのがなったぞと。
大丈夫か、あの大学は。なんて思われてたんですけど。
ちょうどその頃結構、大学もね、かなり危機にあったので、
危機でもなければ僕みたいな馬の骨をね、学長に押し上げなかったと思うんですが、
よっぽどの危機だったんだと思いますね。
藁をもつかむ思いで、私がなっちゃったということなんですが、
その後いろんな世間の評判とかね、
学内的にはやっぱり卒業生含めて期待してくれる人、私のことを知ってる人はね、期待してくれるわけですね。
教職員もそうだし、学生、卒業生もそうだけど。でも知らない人はね、
なんだ46の若造が、とりあえず多少の名門音大の学長になったぞと。
何考えてんの、あの大学は。ぐらいの勢いがあったんですね。
だから結構きれいに分かれるわけです、外野の人たちは。
怪訝そうに見る人と、眺めてる人と。
それからこう、いやこれの方が、この方がいいよ。
ね。
下手に、音楽の人がやらない方がいいよ。
なんてね、言ってくれる人と。
つまり応援してくれる人と、冷ややかに見る人に、パッっとパターッと分かれるわけですね、2つにね。
Twitterなんかでも結構、何を好き好んでやってんだみたいな、そんなになりたいのかとかね、いう書き込みもあったんですが、
いや、こっちはなりたくてなったわけじゃないよという話なんですが。
まあその後、まあ1年、2年経って、まあ私もだいぶいろんなところにはもうせっせと、
冷たい目で見られてもせっせと顔を出して。
そのうちに評判も上がって、何だろうな、やっぱり、大学が変わったっていうふうにね、こう、皆さん思ってくれて。
そういう意味では、あの時代がなかったらもう大変だったというふうに、まあ皆さん言ってくれるんだよね。
それはやりがいもあったし、やった意味もあったかななんてね、思ってるんで。
6年間、結構いろいろありましたけどね。
やりましたけど、まあ一応、やることはやって、盛り返して、次につなげたかなと、
ただ、次の展開がちょっとね、私から見てるとちょっと物足りないので、大丈夫かなと。
心配してるんですけどね。それは、そういうことですね。
そういえば、前々回ですね、これ、リアクション遅れましたけども、
コメントいただきました。もりっしぃさんから。大学の学長さんだったんですか お話に貫禄あるなぁと思ってました。貫禄はないです
46でなった時は貫禄もクソもなくてね、 ペーペーだったわけですが。まぁやってるうちに多少の貫禄がついたということですね
もりっしぃさん、これから起立して聞きますということで、その後起立してちゃんと聞いて いただけてるでしょうか
冗談です。聞き流してください。それはさておき
そんなこんなで結構 日本の音楽大学っていうのは、私が勤めてたところ以外もね、色んな困難を抱えてて
その理由はいっぱいあるんですけど、今日は語りませんが
とにかく私なりに見えていることはいっぱいあるので、 やっぱ5年先10年先30年先を考えたらこうしなきゃいけないっていうのはそれなりに
見えるほうなので。
それに従って、やるべきことを抵抗を受けながらも乗り越えてやってきたと。その結果が出てくるわけですよね。
それなりにね。 そんなことでとにかく6年で終えて、一仕事やったぞと。もうこれからは
悠々自適で、一教員としてのんびり 音大生と楽しく過ごそうかなーなんて思ってたところに
北の大地からね、 音楽学部というか
北海道で唯一の音楽学科を持ってる芸術学部を持っている大学から 学長として来てくれって声がかかっちゃったわけだよね
これは悩んだわけねー。 やっぱりしんどいしやりたくないんですよね。正直言って、学長は。これ面白いのはね、学長をやりたがる
人もいるんですね、世の中にはね。 それは多分やるべきことがわかってないから気楽にやれるんだと。やれてないことも
わかってないから続けられるんだと。私は勝手に思ってるん
ですが。それはさておき、本当にやるべきことをやろうと思ったら、将来に責任を持ってね 。これはね、やれないですよ。自分の人生と引き換えにやらなきゃいけない
から。だからね。ちょっとためらったし悩んだし断ろうかと思ったんだけども
やっぱりその北の大地のとある大学は、 私が名古屋でいたところよりもやばかったと
相当やばいっていうか、もうお前はすでに
死んで
いるの世界でね。 ケンシロウじゃないけどね、北斗の拳じゃないけど。お前はすでに死んでいる、で。
まあそれもはっきり言ったんですけど。なので私が行ってもどうにもならないかもしれないと
お前はすでに死んでいる状態ですよ。って言ったんだけど。 それでも来てくれっていうんで。
大学業界ね、それなりに私も知ってるんで、。やっぱり芸術大学の運営っていうのは難しいわけですよね
それをできる人材、学長としてね、
私が言うのもなんですが、世の中探してもそういないぞということで、ダメかもしれないけど、そこまで言うならということで来たんだけども。
で、やることやったんですよ。やることやったの。ちゃんと首の皮繋げて動脈繋いでね、やったんですが、もうちょっと首の骨を繋ごうとしてたところで、もう4年で結構ですと言ってきたんだよね。
これはね、だったら最初から呼ぶなと思いましたけれども、要するに面白くなかったんでしょうね。
いろいろ変わっていくのがね。だけど変わらなければ生き残れないわけですから、やらなきゃいけないですね。
僕が好き勝手にやってるわけじゃなくて、そうするしかないということなんだけど、これを理解しない
まあ、宗門系の大学なんですが、クソ坊主とかね。
あるいは学内でちょっと、まあ学内はもう8割9割皆さん教職員は支持してくれてたんですが、やっぱりいるわけですよ。
一握りね、数名の面白く思わない人たちがね、まあ教員ですけどね。
これがまたクソ坊主とつるんでね、訳の分かんない動きをしてね。
とにかくもうこっちも、面倒くさくなっちゃったわけじゃないけれども、約束したわけですよね、来るときにね。
とにかくいろんな改革すればいろんな抵抗も出てきますと。
そっからはちゃんと理事長、理事長ね。当時の理事長、ちゃんと守ってくださいねと。
間違ってもクソ坊主から矢が飛んでくるような、後ろから矢が飛んでくるようなことだけは守ってくださいねと
言ったんだけど、その約束を守ってもらえなかったという思いもあってね。
あとはちょっと回復したから、自分たちでできると思っちゃうん
だよね
これがね
これ前にいた大学もそうなんですよ。
なんとなくできると思っちゃうんですよね。
これはねそう簡単じゃないんですよ。
簡単にやってるように見えてもね。
いろいろ考え抜いてやってるわけで。
なんか愚痴みたいになってきちゃいましたね。
だけどそれがなんとなく見てると
やれる気がしちゃうんだよね。
で、もういらないと
じゃあだったらやってみてくださいと。
私の最後の捨て台詞が
もう2度目はありませんよと
やれるもんならやってみてくださいみたいなね
そんな話になっちゃったわけだよね。
58でリタイアしちゃったと。
結局46で間違って学長になっちゃって
58で間違ってやめちゃって
12年間、足掛け12年、大学の学長なんていうのを
この若さでやる人は
世の中広しといえどもいないんですよね。
最初になった時は全国で4番目に
若い学長だったんですね。
これ大学ランキングにも載ったわけですけど
それぐらいいないわけですよね。
しかも60前で辞めるっていう人もいないわけね。
みんなだいたい60過ぎてなって
65、67、68下手すると70近くなって辞めるという。
で、豊かな老後を送るわけですけども。
私の場合にはそれがサイクル的には
もうそれこそ20年近く早く
15年ぐらい早くサイクルがまわっちゃったということでね
残りの人生どうしようというのが今の状況ですね。
これ今日、前半にして
後半は来週大晦日、大愚痴大会にしようかな。
まあいいや。ってことで
あんまりいい話題じゃないです。
ちょっとやばい話もしちゃったんですが
もうこのままアップしちゃえということで
年末大特価クリスマスイブということで
救世主は生まれるのか
大学業界に救世主は生まれるのか
日本の政治
私、政治学者ですけど
日本の政治にも救世主メシアは生まれるのかってね
そして私の人生にメシアは現れるのか
そんな人生いろいろでした。
思い出の一曲何にしようかな
はじめるラジオキャンパス
サンデー。12月24日の配信をお送りしております
思い出の一曲、クリスマスキャロルの頃には
稲垣潤一さん
なんでこの曲にしたか?
というとあんまり理由はないんですが
有名な曲ですよね
稲垣潤一さんの中でもね
これね
なんとなくクリスマスソングがいいなと思ったんですが。
最近聴いてないなということで
これが目についたというのが
最大の理由なんですが。
実はこれ今調べてみたんです、
wikipediaで。
そうしたらなんと発売されたのが
1992年10月28日
私の29歳の誕生日でしたね
これ
ちょっとこの時、娘がもう1歳になってましたね
だからちょうどその頃ですね。
クリスマスキャロルの頃には
この時期いろいろ私ありまして
娘が生まれる前
妊娠中と生まれた後とね
結構プライベートでいろいろありまして。
それで
これはクリスマスソングに
数えられることが多いけれども
実は歌詞を聴くと
倦怠期の恋人同士がクリスマスまで距離を置いて
お互いの今後を見つめ直そうといった内容を
男の視点から歌った楽曲なんだって。
ちょっと改めて聞き直さなきゃなと思いましたけれども
ある意味ちょっとそういう気分だったんだね
私もねその当時ね。
うーん
なんかすごく
これを選んだのはちょっと運命だったかなっていうことで
もう一回ちょっと歌詞を
改めてね
ちょっと咀嚼しようかなって思ったりしてますが。
まあそれはさておき
そのプライベートの話はまたいずれね
いずれすることになると思いますが。
そんなわけで
第3コーナー北海道あれこれですけど