1. 宮本雅史が語る 特攻隊と女性たちの戦後
  2. 第2話 妻に別れ告げる旋回飛行
2022-04-21 10:30

第2話 妻に別れ告げる旋回飛行

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先の大戦末期の昭和19年10月から20年8月まで、日本軍は航空機などで敵艦に体当たりする特攻作戦を行いました。特に米軍が沖縄本島に上陸して以降は、10代、20代の若者が鹿児島県内の基地から沖縄近海へ出撃しました。特攻隊戦没者慰霊顕彰会によると、終戦までに6418人が戦死したとされています。

産経新聞の宮本雅史編集委員は、元特攻隊員や遺族への取材を20年以上続け、多くの証言や事実を記事化してきました。これまでに連載された特攻隊に関する記事のうち、女性に焦点を当てたドキュメントを3回に分けて音声コンテンツで配信します。語りは宮本氏が務めます。

第2話は、陸軍特攻隊員としてはただ1人の明治生まれ、当時32歳で出撃した伍井芳夫(いつい・よしお)大尉の妻、園子さんの話です。

 

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特攻隊員と妻子の別れ
産経Podcast 特攻隊と女性たちの戦後
大東亜戦争末期、日本軍は特攻作戦を行いました。
祖国を守るため、多くの若者が命を失いました。
これは、特攻隊と残された家族や関わりのあった方々、
特に女性たちの戦後に焦点を当てたドキュメントです。
語りは、長年、特攻隊員の遺族への取材を続けてきた
産経新聞記者の宮本雅史です。
宮本記者は、昭和28年、和歌山県生まれ。
実験記者として東京地検特捜部を担当し、
政治家の汚職事件などで数々のスクープを放ってきました。
外国企業による日本国内の土地買収問題を発掘したことでも
知られています。
第2話は、特攻隊員の妻、別れを告げる戦海飛行です。
昭和20年3月27日午前8時半ごろ、
埼玉県桶川町、現在の桶川市ですが、
土上空を99式進撃機が突然飛来しました。
進撃機は高度を下げると一軒の民家の屋根と接触しそうなほど、
低空飛行で3回旋回しました。
操縦席からは、手を振る操縦士の姿が見えました。
その後、まるで別れを告げるように翼を左右に振ると、
西の空に消えてしまいました。
操縦官を握っていたのは、5日後の昭和20年4月1日に、
特効隊長として鹿児島県の千蘭飛行場を出撃し、
沖縄近海で戦死した五井義男隊員です。
当時32歳でした。
自宅上空の旋回は時間にして数分。
その間、奥さんの園子さんは家の中でうずくまり、
両手で身を塞いで、進撃機が飛び去るのを待っていたそうです。
五井さんの妻、園子さんには3人の子供がいました。
次女の智子さんは、後に宮本記者の取材を受け、
母親の園子さんについて詳しく語っています。
当時、特効隊員の妻は、
夫の出撃を胸を張って見送ることが務めだったと言われております。
送り出す側と送られる側、
ともに心の中で激しい葛藤があったと思います。
軍神の妻として人前で乱れることは許されなかった時代なのでしょうが、
母は毅然としている自信がなかったのでしょう。
別れの辛さとそれを人に見せられない辛さが相まって、
姿を見せることができなかったのでしょう。
別れの日には子供たちをしっかり伝えよう
戦海飛行の2日前、昭和20年3月25日、
五井さんは桶川市の自宅に立ち寄り、
園子さんや娘たちに会いました。
これが最後の別れとなりました。
当時、五井さんには2人の娘と生後4ヶ月の生まれたばかりの大人9個がおりました。
五井さんは3人の子供を一人一人抱き上げると、
記念写真を撮って、長男には
大きくなったらお父さんの代わりにお母さんを守ってあげるんだと何度も話しかけたそうです。
別れ日は園子さんが非常時お国のためなら当然のことです。
3人の子供をしっかり伝えていきます。
心置きなく出発してください。分を祈りますと告げると、
五井さんはそれでは任務に満身いたしますと答え、
用意していた爪と髪の毛を渡したそうです。
それが夫婦で交わした最後の会話だったそうです。
五井さんと園子さんが結婚したのは昭和14年3月。
結婚生活はわずか6年間でした。
特交要員の命令が下ったのは昭和19年の12月19日。
五井さんは当時熊谷陸運飛行学校沖川分教所で
見習い士官や少年飛行への教育に当たっておりました。
園子さんは妻と3人の子供がいる夫には
特交命令は出るはずがないと信じていたそうです。
ところが、特交命令が出たわけですが、
特攻遺族として生きる園子さん、そして懐妊の衝撃
実は戦後、昭和30年、
次女の友子さんが中学1年生のときこんなことがあったそうです。
陸軍の幹部が突然園子さんを訪ねてきたそうです。
幹部は特交遺族の慰霊のため全国を回っていたそうですが、
仏壇に手を挟んだ後、次女の友子さんの顔を見ながら
こう言ったそうです。こんなような小さいお子様がいて
どうしてご主人は特交に行ったのでしょう。
子供のいる人は特交には出なかったはずなのですが、
これを聞いたときその子さんの表情は表現したそうです。
母は一瞬大きな声で
あなた様はと言いかけて後は言葉を飲み込みました。
母があんなに声を荒げたのは見たことありませんでした。
当時特交隊員には子供がいないと盛んに言っていたのに
うちは3人もいたのよ。あなたは全てを知っているはずなのに
なぜそんなことを言うのという気持ちがあったんだと思います。
母は納得できなかったのです。
戦争による悲劇と園子さんの人生
私はこのとき初めて父が特交隊で戦死したことを知りました。
災死を残して戦死したのは逸井さんだけではありません。
特攻攻撃で多くの隊員が災死を残し惨劇しております。
なのに多くの部下に必死対応命じておきながら自分は生き残り
しかも平然と口にした元幹部の一言は
その無神経さが許せなかったのだと思いますとも話しておりました。
園子さんは戦後、夫を失った悲しみを抱えて生き抜きます。
逸井さんの死を知った園子さんには
追い討ちをかけるような悲劇が襲ってきました。
逸井さんが特攻出撃して3ヶ月余り過ぎた昭和20年7月21日
長男が十分な治療ができず、栄養もとれず
そのため自家中毒症で息を引き取ったのです。
二人の娘を育てるため、夫と息子を失った悲しみを抱えながら
激しい戦後が始まりました。
園子さんは後取りの息子、生後4ヶ月の息子を守りきれなかったことに対する
自分が許せなかったというふうに盛んに繰り返していたそうです。
戦後、園子さんは桶川の国民学校、現在の桶川小学校ですが
そこの教師として教団に立つことになります。
ただ園子さんが言うには、園子さんは父の部下だった人や
ご遺族とは極力付き合わないようにしていた。
戦争を忘れよう、後ろを振り向かないようと考えていたなと思います。
父の話は家庭内でも禁句でしたと。
穏やかな園子さんだったようですが、教え子たち、子どもたちが戦争映画を見て
かっこいいと言ったときは必ず叱ったとそうです。
園子さんは友子さんに、時が経つにすれ徳校も美化されていくような気がして
たまらなく不安になったというふうに話していたと言います。
園子さんの後半人生
園子さんは昭和54年に教員を退職してから毎年
伊豆井さんの明日の4月1日には靖国神社に参拝していました。
毎年5月のチランで開かれる徳校慰霊祭にも参列していました。
しかし沖縄には一度慰霊に行きましたが、体が震えてしまうと言って
二度と行かなかったそうです。
園子さんは68歳で息をひとりました。
御明日は3月25日、この日は久しきも伊豆井さんが
徳校出撃を控え、別れの挨拶のため最後に自宅に戻った日だったそうです。
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