2022-03-16 07:30

(6)「〝牛若丸〟 誰もが『知将』と認めたが、妙な逸話の多い人」

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阪神が21年ぶりにリーグ優勝した昭和60年。感動で身震いしたバース、掛布雅之、岡田彰布の甲子園バックスクリーン3連発。古葉竹識率いる広島との死闘。日航ジャンボ機墜落事故での球団社長死去の衝撃…。そしてつかんだ栄冠。「吉田義男監督誕生秘話」から「栄光の瞬間」まで、トラ番記者だった田所龍一の目線で、音声ドキュメントとしてよみがえります。

昭和60年の阪神の快進撃を象徴する〝伝説〟の試合―とくれば、誰もが4月17日の巨人戦での甲子園バックスクリーン3連発―と言うでしょう。

 でも、トラ番記者たちが「今年の阪神は違うで」「何かが起こりそうや」と感じたのは、この3連発が出発点ではありませんでした…

 


【原作】 産経新聞大阪夕刊連載「猛虎伝―昭和60年『奇跡』の軌跡」
【制作】 産経新聞社
【ナビゲーター】 笑福亭羽光、内田健介、相川由里

■笑福亭羽光(しょうふくてい・うこう)
平成19年4月 笑福亭鶴光に入門。令和2年11月 2020年度NHK新人落語大賞。令和3年5月 真打昇進。特技は漫画原作。

■内田健介(うちだ・けんすけ)
桐朋学園短期大学演劇専攻科在学中から劇団善人会議(現・扉座)に在籍。初舞台は19 歳。退団後、現代制作舎(現・現代)に25 年間在籍。令和3年1月に退所。現在フリー。
テレビドラマ、映画、舞台、CMなどへの出演のほか、NHK―FMのラジオドラマやナレーションなど声の出演も多数。

■相川由里(あいかわ・ゆり)
北海道室蘭市出身。17歳から女優として、映画、ドラマ、舞台などに出演。平成22年から歌手とグラフィックデザイナーの活動をスタート、朗読と歌のCDをリリース。平成30年「EUREKA creative studio合同会社」を設立し、映像作品をはじめジャンルにとらわれない表現活動に取り組んでいる。
猛虎伝原作者田所龍一

【原作】
■ 田所龍一(たどころ・りゅういち)
昭和31年生まれ。大阪芸大卒。サンケイスポーツに入社し、虎番として昭和60年の阪神日本一などを取材。 産経新聞(大阪)運動部長、京都総局長、中部総局長などを経て編集委員。 「虎番疾風録」のほか、阪急ブレーブスの創立からつづる「勇者の物語」も産経新聞(大阪発行版)に執筆

 

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ナビゲーターは、私、内田健介でお届けします。
第6話 牛若丸
誰もが知性と認めたが、妙な逸話の多い人。
吉田義男という人は、一体どんな人だったのだろう。
初めてのナビゲーターを見ると、
昭和8年、7月26日生まれ、監督就任が発表された昭和59年には、51歳だった。
27年に京都の立命館大学を中退し、タイガースに入団した。
旧団発行の阪神旧団50年史によると、当時、阪神は東京六大学で屈指の章と、
慶応大学の松本豊の獲得を目指していた。
東京六大学から初の阪神入り、ようやく内定の段階までこぎつけた。
ところが、正式契約を前に松本が家庭の事情で阪神入りを断念してしまった。
阪神は仕方なく、当時立命館大の2年生だった吉田を中退させて獲得した。
そんな中で、吉田は猛練習で技を磨いていった。
チームメイトから、吉田は飯を食っているときと風呂に入っているとき以外はグラブを外したことがないと言われたのもこの時期である。
昭和30年に初めてセリーグのベスト9に選ばれ、以後6年連続通算で9度のベスト9に輝いた。
牛若丸の異名を取った吉田の華麗なプレー。
ボールを取ってから送球するまでの速さは、昭和36年に慶応台から成物入りで入団した将都の安藤基が、
秋キャンプで吉田のプレーを見た瞬間、辞めて故郷へ帰ろうと本気で荷物をまとめたほどだった。
昭和44年に現役を引退。
5年間の野球評論家生活の後、阪神の第18代監督に就任した。
プロ意識を植え付けるため各選手を極限まで鍛え上げる。
勝っても負けてもファンを納得させる試合を心がける。
当打のアンバランスをなくし、機動力を生かした攻撃を展開する。
と3つのスローガンを掲げ、徹底した血の入れ替えを行った。
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昭和51年に南海との間で柄懐を放出し柄元を獲得するなど、
在任3年間で実に20人の選手を入れ替えた。
厳しさを全面に押し出した吉田監督。
当時のトラバン記者たちも野球の知識や勝つための作戦、
再敗については吉田監督を致勝と認めていた。
にも関わらず、みな一様に人間性の面では疑問符を付けたのである。
先輩記者たちの吉田監督への評価はボロクソだった。
一言も二言も多い人。お金に汚くケチ。平気で腹心を切れる非常の人。
と言いたい放題。
だが昭和59年10月23日、旧団旗の前で熊新オーナー中野新旧団社長と
がっちり手を握り合った吉田監督からはそんな印象はみじんも感じられなかった。
選手を育てるということを第一にやっていきたい。
野球づけというか私生活とグラウンドを一体にして選手を鍛えていこうと思います。
主力のトレードはしないつもりです。前回は人を入れ替えるということによって
チームの体質を変えようと大きなトレードをいくつもやりました。
けど今度の場合は目先の一勝が欲しいためのその場しのぎのトレードは必要ありません。
それよりむしろ若手をどんどん使ってチームの土台を作ることが私の仕事だと思っています。
初めて聞く吉田監督の決意は新鮮な響きがあった。
それにしても妙な逸話の多い人でもあった。
例えば疑惑の交際費事件という話がある。
何やら危なっかしい話のようだが実はそうでもない。
噂によれば当時阪神では監督交際費として年間300万円が支給されていたという。
それを何を勘違いしたのか吉田監督が自分の郵便貯金口座に振り込み
そのお金で自家用車を買い替えたというのである。
もちろん事実ではない。
一応吉田監督にも確かめると
そんなことしまっかいな。つまらん話ですわ。
と一生に負されてしまった。
担当記者たちと喫茶店で取材を受けた際は自分の飲んだコーヒーだよ。
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これ誰が払いまんの。お宝でか。
と言って払わなかった。
これが発端で記者たちから監督交際費ぐらいあるやろにと言われ
郵便貯金に振り込んだらしいでと話が膨らみついには
それで自家用車を買い替えたとどんどん話に尾ひれがついて伝説の逸話になったようだ。
普通ならこんな根も葉もない噂話が広まれば怒りが爆発しても不思議ではない。
だが吉田監督は心が寛大なのかそれともとんと無頓着なのか。
この種の話は怒りにまで結びつかない。
私がこれってほんまですかと聞いたときも
そんなあほなことしませんわ。つまらん話です。
と笑って終わってしまうのである。
お相手は勝負固定ウコート。
私、内田健介がお送りしました。
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