2022-03-15 08:28

(5)吉田監督誕生 残り1%のどんでん返し

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阪神が21年ぶりにリーグ優勝した昭和60年。感動で身震いしたバース、掛布雅之、岡田彰布の甲子園バックスクリーン3連発。古葉竹識率いる広島との死闘。日航ジャンボ機墜落事故での球団社長死去の衝撃…。そしてつかんだ栄冠。「吉田義男監督誕生秘話」から「栄光の瞬間」まで、トラ番記者だった田所龍一の目線で、音声ドキュメントとしてよみがえります。

昭和60年の阪神の快進撃を象徴する〝伝説〟の試合―とくれば、誰もが4月17日の巨人戦での甲子園バックスクリーン3連発―と言うでしょう。

 でも、トラ番記者たちが「今年の阪神は違うで」「何かが起こりそうや」と感じたのは、この3連発が出発点ではありませんでした…

 


【原作】 産経新聞大阪夕刊連載「猛虎伝―昭和60年『奇跡』の軌跡」
【制作】 産経新聞社
【ナビゲーター】 笑福亭羽光、内田健介、相川由里

■笑福亭羽光(しょうふくてい・うこう)
平成19年4月 笑福亭鶴光に入門。令和2年11月 2020年度NHK新人落語大賞。令和3年5月 真打昇進。特技は漫画原作。

■内田健介(うちだ・けんすけ)
桐朋学園短期大学演劇専攻科在学中から劇団善人会議(現・扉座)に在籍。初舞台は19 歳。退団後、現代制作舎(現・現代)に25 年間在籍。令和3年1月に退所。現在フリー。
テレビドラマ、映画、舞台、CMなどへの出演のほか、NHK―FMのラジオドラマやナレーションなど声の出演も多数。

■相川由里(あいかわ・ゆり)
北海道室蘭市出身。17歳から女優として、映画、ドラマ、舞台などに出演。平成22年から歌手とグラフィックデザイナーの活動をスタート、朗読と歌のCDをリリース。平成30年「EUREKA creative studio合同会社」を設立し、映像作品をはじめジャンルにとらわれない表現活動に取り組んでいる。
猛虎伝原作者田所龍一

【原作】
■ 田所龍一(たどころ・りゅういち)
昭和31年生まれ。大阪芸大卒。サンケイスポーツに入社し、虎番として昭和60年の阪神日本一などを取材。 産経新聞(大阪)運動部長、京都総局長、中部総局長などを経て編集委員。 「虎番疾風録」のほか、阪急ブレーブスの創立からつづる「勇者の物語」も産経新聞(大阪発行版)に執筆

 

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00:01
第5話 吉田監督誕生!残り1%のどんでん返し
昭和59年10月23日
その日は、トラ番記者たちにとって忘れられない長い一日となった。
午前中、大阪梅田の阪神電鉄本社で行われた臨時役員会議で、
誰もが予想していた村山新監督がものの見事にふっとび、
旧店吉田新監督が決定したのである。
午後1時から電鉄本社で契約を結び、
午後3時からホテル阪神で吉田吉夫の監督就任記者会見が行われた。
雛壇の上で、田中隆夫オーナーが吉田監督決定の経緯を説明した。
来年は旧団創設50周年にあたり、
人心を一心してチーム作りに臨むことになりました。
安藤監督が辞めた後の後任として西本さんにお願いしたが実現できなかった。
後任監督はその西本さんをよく理解している吉田君に決定いたしました。
新体制で阪神タイガースをしっかり立て直してほしいと思っています。
田中オーナーの横で吉田監督が頬を好調させている。
全員で村山を押したんとちゃうんかいな。
大洲旧団社長も99%って言うてたのに。
まさか残り1%のどんでん返しがあろうとは思いもよらなかった。
この日午前中に行われた役員会議は田中オーナーの一人舞台になったという。
前日のトップ会議で田中オーナーは終始聞き役に回り発した言葉は一晩私にくださいの一言だけ。
ところがこの日はどうしてももう一度吉田君を監督にさせてやりたいと熱く心情を語ったという。
03:11
臨時役員会を終えた大洲旧団社長は大きなため息をついてこう言った。
これほどまでにオーナーの気持ちが吉田君にあったとは思わなかった。
みんなの意見を覆して吉田君を監督にすることは私のわがままだと思います。
ですから私はオーナー職を辞します。何とか頼みます。
と頭を下げられた。我々は頷くだけでもう何も言えなかったよ。
旧団オーナーの職だけではなく阪神電鉄の会長職をも代償にしてまで田中オーナーは吉田監督誕生に固執したのである。
なんでそこまで。
それを知るには第一次吉田大政の3年前昭和52年まで遡らなければならなかった。
一体7年前に何があったのか。先輩のトラバン記者たちは今回の田中オーナーの執念を8年越しの悲願と呼んだ。
7年前の昭和52年第一次吉田大政の3年前。
この年吉田阪神は55勝63敗12引き分け前年の2位からBクラスの4位へと転落していた。
チーム本ルイダは184本と2年連続でセリーグの1位になったものの防御率はリーグ4位。
それでも旧団は早々と吉田監督の留任を発表した。
ところがこの決定にマスコミが大反発したのである。
単に成績不審が反対の理由ではなかった。
当時の吉田大政は崩壊状態。不審の責任を取らされる形でのコーチの首のすげ替えが頻繁に行われた。
自分が連れてきたコーチをコロコロと変えてしまう。そんな吉田監督に審なしとマスコミは批判した。
そしてその声は吉田監督では勝てないという論調になりやめさせろの世論に変わっていった。
11月2日阪神旧団は吉田監督の解任を発表した。
その発表記者会見を当時オーナー代行だった田中オーナーが務めたのである。
06:02
報道陣を前に田中の口元は悔しさで小刻みに震えていた。
団長の思いの吉田監督解任劇から8年。田中オーナーはその日が来るのをずっと待ち続けていたのである。
そして今回役員たちの推す村山案を覆し自らも含めた旧団人事の刷新を行った。
4席から6席へという椅子の数の変更がホテル側に知らされたのは深夜近く。
それは翌日の役員会での異議は許さないという田中オーナーの気迫の現れだったのだろう。
ホテル阪神15階のパールの間。
勤病部の前の6つの席には吉田新監督、熊俊二郎新オーナー、中野はじむ新旧団社長、小津全旧団社長、岡崎旧団代表、そして悲願を果たした田中全オーナーがデーンと座っていた。
お相手は正福天皇と、私、内田健介がお送りしました。
08:28

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