東京です。勉強もしてないので、もちろん大学からず。結局専門ぐらい行ったらって話になって、専門に行って、そのまま家業が建設系なんで、現場監督になるかみたいな感じで専門行ったんだけれども、
たまたま自分の担任になった人がデザイン科の先生で、衣装っていうんですけど建築の場合は。衣装の先生で、たまたまその先生にすごく褒められて、何を勘違いしたのかやる気が出てしまって。
なんかおかしくて、専門学校の1年生ってまだちゃんとまともに設計図が書けるようにならないんですね。当たり前1年目なんで。でもなんかその時すごくその建築のデザインにハマって、図書館にずっとこもって本を読んで、ずっとしてて。もちろん専門学校できて以来一番本借りたらしいんですけど。
で、1年後ぐらいにするとだんだん好きな建築家っていうのはできてきて、その時好きだった伊藤豊っていう建築家の方なんですけど、あれです。オリンピックのスタジアムの審査委員長をやってた人ですね。
で、その先生がたまたまその建築の業界史の建築デザインコンテストがあると。で、それの審査委員長がその先生だったんですね。その当時は頭悪いんで、しかもこれに入賞すると懇親会みたいなのがあって会えるみたいなのが書いてあるんで。
このコンテストで入賞さえすれば伊藤先生に会えるのかと思って、もうアホなんで、まだ設計図も書けないのに。一応要件はA1、2枚の絵と設計図とかで、設計図が必ず筆とは書いてないっていう勝手な解釈をしましてですね。
まず設計図が書けないのでちゃんと。なんか絵だけ、CGだけ作って応募したら、しかもA1、2枚埋められなくて、A1、1枚だけで、要するにA1、2枚以内って書いてある。2枚以内だから1枚でもいいんだろうと思った。
で、先生たちは絶対入選なんかできないって言ってたんですけど、その頃もう全然盲目なんで、耳から何も入らないんでね。このままA1枚だけ送ってしたら、なんと入賞しちゃって。
で、しかもそれで入賞して、でも落ちがるんですけど、結局その懇親会行ったら伊藤先生が忙しすぎてお会いできないという。
で、その時にその学校の専門学校の先生の課長さん、会話まぐれかもな。3回取ったら本物だって言われたんで、3回取ったら僕授業出なくていいですかって言ってたんで。
で、その後2つ取ったんですね。全部学生のうちに3つのコンペ、しかも1つは最優秀取ってるんですね。
で、最優秀取った時も確か伊藤先生が一心最長だったと思うんですけども、また忙しくておられなくて。
で、そこにお話ししたのが熊健吾先生って、多分熊先生はすごい有名なんで今は。
熊先生のとこに、まあ伊藤先生のとこほんと行きたかったんだけど、熊先生の名刺をもらって。
で、その話でちょっと僕デザイン事務所で設計事務所で働きたいんですって。
お、じゃあ秘書に電話してって言われて。
で、お電話したら秘書の方に、うちは大学卒か大学院ぐらいじゃないとしないんですって。
あ、失礼いたしました。
秘書切り。
秘書切りされてしまった。
で、そしたらうちの専門学校は全然無名の専門学校なんで、そこにたまたま非常勤に来てる先生の後輩が、伊藤先生のとこの後輩がいるって話でちょっと聞いてあげるねって言われて。
そしたら伊藤先生すごい人気のデザイナーなので、ただでも働きたい人が行列で待ってるという状況だと。
で、その代わりにちょっと違う先生をご紹介。
この先生も横浜国大の名誉教授だった山本利賢先生って言うんですけど。
その事務所を紹介されて、僕その当時その先生のこと全く知らなくて全然。
すごい有名な先生で、住居論っていう建築の教科書書いてる先生なんですね。
知らずにそこでコンペのお手伝いでプレゼンテーションのビジュアルを作るお仕事を任されて、それで参加したのでそのコンペ取ったんですよ。
なので実物がちゃんと今広島にできてるんですけれど。
そのコンペをして、その時に山本先生また次のコンペもお願いしますって言ったり。
そこで何個かコンペにプレゼンテーションとして参加をさせてもらって、そこでも何回か取ってますね。
実物のコンペを。
本物になった。
本物になったやつです。
すごいすごい。
そこからそこに働いていた方が事務所に転職するじゃないですか。
また他の事務所から木村君ちょっと手伝ってよって来たのが、その次にいたのが種口義男先生っていう、今でこそニューヨーク近代美術館のデザインをした方ですね。
そこのコンペ、ニューヨーク近代美術館のコンペにデザインのシミュレーションをやらせていただいてて。
それをその当時、1990年代最後の世界建築王決定戦とかって言われてた、もう本当世界の有名建築家がコンペに参加してた。
タニブス先生はその時当て馬だろうって俺とか言われてて。
確かにその他、ネームバレーとかもっと有名な先生たちいっぱいいたし、アメリカの有名な巨匠も出てるコンペなので、日本人でなおかつ、伊藤先生も確か出てたかな。
その中で言うと、俺、絶対当て馬だろうみたいなタニブス先生が言ってて。
ただ、たまたまある審査員が、これは空中に浮いてるよ。ただスライズしたはずなんですけどね。
っていうところで、鶴の一声でコンペ案が優勝するんですよ。
なので、今立っているやつのデザインに関わらせていただいた。
なんなんですか?
なんでそんなできるんですか?
いや、たまたまそういうところに行って。
その頃になると、結構いろんなお仕事をフリーランス。
実際、専門学校に行ってた時、さっきのある山尾先生のところで軟禁されてたとか言っちゃダメですけど。
言うとちょっと怒られそうだけど。
コンペ付けになってて、学校行けてなかった。
発跡、四十何パーセントぐらいしか出てて。
一応僕も専門学校ぐらい卒業したいんでって先生に言ったら、よし待ってろって木村とか言われて。
そしたら山尾先生が僕に、これ持ってかよと。
要するに、このものは学校卒業相当の実力あるって言って、横浜国大名誉教授ってサインをしていただいて。
これを学園長に持って行ってくれと。
やばい。
面白い。
それで卒業はできたんですけど。
できたんだ。
卒業前ぐらいに学校から声がかかってですね。
専門学校の講師やってくれないかっていう。
要するに僕だから、その時21だったかな。
21になる前から夏サマーの講師とかはやらしてもらってたんですけれども。
そのまま僕、でもその時はフリーランスで仕事結構もらってたんで。
移植のわらじということで、専門学校でプレゼント、なぜか建築士を教えてましたけど。
っていうのを教えながら、そういったフリーランスの仕事。
その頃ウェブデザイナーって言葉もなかった。
ウェブデザインやったりとか。
そういうのいろいろやって。
まだヤフーが検索エンジンがなかったことで。
リンク集だった頃に。
そう、ディレクトリみたいな。
そういうところで、ヤフーからもお仕事ちゃんともらってて。
ちゃんとヤフーの本社、今みたいにあんなにデカい会社じゃないですけどね。
そういったことをいろんなデザインとかをやって。
ウェブもやったし、建築のプレゼンテーションも結構やってたし。
っていうような感じで、専門を卒業して3年ぐらいかな。
フリーランスとちっちゃな個人事務所みたいな感じでやってましたね。
ただ仕事がワンサーが来るようになってしまってですね。
経営の家の字も知らずに、そもそも専門学校もまともに行ってないのに。
仕事がいっぱい来るようになって、だんだん後輩とかも雇ってやるけど、
どんどんクレームが溜まるようになってしまって。
打ち合わせも忙しい。なかなか経営の家の字も知らないし、
どっかに事務所に所属もしたことがないので。
結局それでストレスで自立神経失調症になって、
ドクターストップかかりまして。
その時思ったのが24ぐらいだったかな。
とりあえず体壊してまではちょっと続けなくてもいいかなって。
一回それで事務所畳んだんですね。
畳んだらお金が余って、それをもとに外国人の方としても
そういった結構有名な事務所とか外国人の方がいっぱい働いてたんで、
やっぱり英語ぐらい喋れないといけないなと思って、
なぜかタスマニアに留学しました。
タスマニア?
どこだっけタスマニア?
オーストラリアの南極に一番近い島ですね。
タスマニアのデビルがいるとか?
タスマニアに癒しを求めて留学をするという。
たまたまでも毎日夜中に帰る、朝帰るとかそういう生活してたけど、
夜中に帰ると最後のケーブルテレビの番組で旅行番組なんですよ最後が。
それの最後のシーンに港が出るんですけど、
それがたまたまホバートっていう港町で、
それがタスマニアの州都なんですね。
ここ行きたいなと思って何も考えずに行って、
忙しくて一応会社畳んだりとかもしてたんですけど、
留学エージェントなので行って、
初めて飛行場がドッキングしない飛行場に降りたんですよ。
トラップ降りてみたいな。
トラップ降りて。
ビートルズになったみたいな。
まあそこまで思って、
なんかすごいとこ来たなって、来てみて分かったみたいな。
なんかそんな感情が芽生えたのが、こんな些細なことでそんななるっていう。
要するに来た時はもう本当天国の国だなと思ったけど、
だんだんそこでのストレスってあるんだな。
人間関係ができてきて。
こんなつまんないことに、自分が感情的にそう思うのがもうアカンなと思って、
日本帰ろうと思って。
帰りましたね。
なんかちょっと面白いというか、意外。
で、帰って、それなりの事務所さんとかの繋がりがあったんで、
うちこいよ、うちこいよって声をかかったんですけど、
元々結構有名な建築家の先生のところでお仕事させていただいた人脈で、
お仕事をいただけたんで、若いのか何を考えてるのかわからないですけど、
そういうのと一切関係ないところで働くことがわけわかんない。
若気のいたりというか。
普通に、今オンラインのマイナビとかいろいろあるんですけど、
あの頃まだ雑誌だったんで、雑誌で。
海外行ったんでちょっと違った、海外と関係ある会社がいいなと思って、
なんかちょっとデザインっぽい会社があって、
そこに応募して、マンションの一室、青山のマンションの一室、
ホントワンルームみたいなところでやっている社長と面談をして、
いつから来れるって言われるんでいきなり。
その時金曜日、じゃあ月曜日からって言ったら、
じゃあ月曜日から来たねって言われて。
すぐそこに入社をして、1日目に最初の日に、
うちに前からいたようなふうにして、
ちょっと営業の誰だについてって言ったら、
すんごい担当者、不動産会社の若いお姉さんに絞られるんですよ。
なんかもうギャーギャーギャーが、
もう全然自分はわかんないけど、
でもよくよく聞いてると、それひどいなと思って、
その頃、要するに僕が入った会社、
建築のパースとかを受けてたんですけど、
パースになってないものを納品して、
だから要するに誰も知識がないまま受けちゃってるから、
誰も何を怒られてるかがわからない。
っていうところから始まって、
そっから本当にドベンチャーなんで、
お土産屋さんのホームページ作ったりとか、
ジャナーのお土産屋さんのホームページ作ったりとか、
不動産用の図面の手書きのやつをデジタルで引き直すとか、
そんな仕事をいっぱい受けてて、
社長はその当時何でも仕事を取ってきちゃうんで、
もう無理ゲーみたいな安い値段で大量に取りすぎてて、
それが1年半ぐらい地獄を見ましたね。
みんなで土日も働いて、夜まで働くっていうようなことをしてたうちに、
社長仕事、営業力がすごくて、
どーんとまたでかい仕事を取ってきちゃうけど、
やったこともないのに。
だんだん大きくなってきて、
WEB3Dとか巨大な自動車メーカーさんのですね、
高度なWEB3Dを受注してしまいまして、
やらざるを得ない状況になって、
みんなわちゃわちゃやってるうちに、
なぜかできるようになったら、
国内でも有数のWEB3Dの会社になっていて、
そこをオフィシャーで開発してたんだよね、
タイとかベトナムでですね。
それの責任者をずっとやってて。
上々も見えてきたかなって思ってたら、
副社長が無謀を起こしてですね。
会社が死にそうになるみたいな感じで。
で、その時に、
どこまで話していいですかね、これ。
そして会社がボロボロになった時に、
さっき言った東証一部の会社に助けていただいて、
僕らがグループに入って、
僕その時も副社長が辞めた後に、
普段はいつも僕だいたい、
辞表をカバンチャーの机の中に入れてたら、
いつでも辞められるように。
だけど、いつも社長に呼ばれて、
誰だら今日辞めるからさ、
お前引き継いでおいてくれって言って、
だいたい言われちゃうんだけど、
僕が出すよりも誰かが辞めてっちゃうので。
また大変だって。
そしてまた誰か辞めたのかなと思ったら、
決めろよってこう言って、
お前明日から役員だと。
ええ。
役員みたいな感じで。
で、その後1年後くらいに、
先ほど言った当初一部の支援があって、
そのグループ委員をするんで、
確か29か30の時に、
当初一部の上場企業のグループの
COに就任してるっていう。
なるほど。
そういう経緯だったんですかね。
そうなんですよ。
そっからは結構いろいろ安定した事業とかもあったけど、
その後は結構大きかったのが、
リーマンショックの時に、
広告代理店とかの仕事が多くて、
下請けをやっていたんだけれども、
リーマンショックで仕事が半分になっちゃったの。
ああ。
もう全然仕事が動かなくなっちゃって、
なんか社長、木村どうすんだとか、
え、僕すか?みたいな。
リーマンに言って。
リーマンのせいだと思いますけど、
仕事がないのは僕ですかね?みたいな感じで。
で、社長に言ったのは、
下請けやってるときついですよね。
なのでちょっと、
うちら広告関係の仕事多いので、
上流で、ただ僕らCMとかを買うことができないので、
広告商材作りましょうかね?みたいな感じで、
そのときに目をつけたのが、
まだ日本語化が100%されていないYouTubeですね。
うわー、すげー。
YouTubeで、海外ではYouTubeで、
アーティストが音楽やって売れてるらしいです、
みたいな感じのうちの他の役員が言ってて、
じゃあYouTubeを使ったプロモーションを考えてみようか、
っていうので、
それを、あるパッケージを作って、
それを売り歩いたんですね。
全然売れませんでしたね。
あら、そうなんだ。
2009年?
そうです。2009年過ぎて、
うちの社長の講演みたいなのとかをやってるんだけど、
どうしても再生数が17とかは、
なんとかならないっていうようなのを、
ちょこちょこお手伝いをしていたんですけど、
天気があって、
1年くらい本当に売れなくて、
社長もよく売れないのを我慢してくれて、
他でちょっと儲かる事業もできてきてたんですよ。
その頃には。
いろいろその、
秋葉原にいろんな面白いスポット、
連れてってもらったりとか、
はいはいはい。
その後、
その事務所の、
アイドルを、
まだその頃売れてなくて、
やっぱタイアップが欲しいっていうところで、
ご相談いただいてたりとか、
そういった話、
とか、
なんか、
まあ、
そんなことをしていたんですけれどもですね、
はい。
すごすぎる。
あの、
天気が、
ちょっと、
ちょっと、
ちょっと、
ちょっと、
ちょっと、
ちょっと、
ちょっと、
ちょっと、
ちょっと、
すごいよね。
すごすぎる。
すごすぎる。
天気が、
天気は、
また来ます?
また来ますね。
また来たー。
僕、
まあ広告、
大手代理店とか、
まあいろんなとかなほとんどの出入りをしていてですね、
うん。
まあ面白い仕事いっぱい貰ってたんですけれども、
うん。
なんか、
よく分からないんですけど、
ステルスマーケティングってのが禁止みたいな風潮が出た時あんですけども、
ステマ。
ステマって言われてるですね。
ああー。
ああー。
そういったこのプローモーションっていうのが、
じゃないですか なんかそんな風潮でなぜかうちの会社じゃないとこがあるステマをやってしまう
ブログにやらせブログをやっちゃったんですよ でそれを余波でそのプロジェクトに参加してたうちもいろいろあってですね
である大手クライアントがそのことがあったんでもう 部長さんの首が飛んだらしいんですけど
でそっからその時に付き合ってた業者も全部デッキになったんですね
大ピンチじゃないですかそうただ会社としては実際といろいろもう事業が立ち上がっ ていて儲かっていて社長にももう多分事業意欲がなかったのかなぁってね
社長何したいですか儲かったら何でもいいんじゃないって言われてですね まあそっかなんでそろそろじゃあ置い止まさせていただきますということでまぁその時に
まあ先ほども出会って副業の方もまあ結構稼げていて実際とそれは あの大学生とかを雇っててまぁそれでまぁまぁあの回ってて
なんでまぁとりあえず疲れたからとりあえずゆるーりと なんか会社辞めて仕事しようかなっていうので辞めて自分で会社をあの創業した
ですねまぁ大学生なんでその子たちがも大学生の間はまあゆるーく 一人で別にだ従業員を雇うというかアルバイトだけで回しててただ一緒にやってきて
いく ここがどうするって言ってる時にうちに来るっていう話だったんでそこから真面目に会社経営を
はじめたと思う それはどんなビジネスそれは本当さっき言った船原さんはやってたまあ通販
で始め物販を始めたというところですね そのもともとアンティークの転売やってて
そうもうアンティーク好きだったんであの最初は趣味で買っていてなんか 転売するとあずいぶん高くれんだっていうのでそれをぐるぐるやってたらなんか月50
万ぐらい利益でるなってて で50万ぐらいで行きてたけど家のマンションがもうダンボールだらけなってこれはちょっと
嫁にもねーって話なのででもで近くで歩いてたらなんか 月5万円てなんかよくわかんない倉庫の一角みたいなのがあの寝台でた
じゃあこれ申し込もうと思ってそこからあのアルバイトの大学生雇ってって話の なるほどねいやちょっと今謎が解けたのは
ゆるかった木村さんの雰囲気が結構みんな必死じゃないですかねガツガツ ガツガツねやっぱねその
脱サラしてみたいな人ももちろんいるし人生変えたいみたいな人いるけど キマさん中緩かったから僕すごいしゃべりやすかったんですよ
ゆとりがそうそうそういう事情だったのねみたいななんか当時話してもなんかまあ いろんな会社の役員とかやっててみたいな
ブーブー言いながらなんで副業はアンティークが好きな趣味であり始めたそう だ趣味でいらないのとかダブっちゃうとかあるじゃん
ブーブー言いながらなと思ってちょろちょろやってたら本当は今振り返るとその ぐらいでちょっと並行して仕事してるのが一番良かったんじゃないかなと思うけれど
会社にしていくとやっぱりスタッフも増えてきたんでそうするとその分稼ぎを増やさ ないといけないのでまあそうすると何かの時代の変化で例えば
どんどんどんどんいろんな手数料が高くなったりアマゾンの手数が高くなるとか なんか後輸入関税がどうのものがだんだんだんだんなかなか儲かりづらい状況ができていったり
とかして そのまあそんなことをやっている時にまあさっき話まあ1回目で話をしたあの
ブーバーコラボレーションみたいな話があって でそしたらそこでやっぱりみんな中小企業というか小さい会社の社長ばっかの集まりじゃないか
はいでそしたら人が足りない人が足りないでまぁ当時ってほんと人が取れない 時期だったので本当
買い手市場だったんでまだあの頃は今はもう売り手市場じゃないかもう町のがつく でその時は買い手市場で就職先がないって時代だったんで
とはいえそれでも中小企業の2,3人とかの会社に人って来ないじゃないですか なのでそこに外国籍の優秀な方をちょっと紹介をするっていうのをちょろちょろ
なんか最初はなんかボランティアの近い感じでやっていたんですけど だんだんだんだそれが社長さんの口コミとかご紹介なのかで広がっていって
当時あんまりエージェントがそんなにメジャーじゃなかったと思うんですけど なのでまあエージェントやっているんですけど結局エージェントやってるとポイントが
あって転職歴っていうのがやっぱり企業のロイヤリティとしてやっぱり企業は判断 するんですね転職歴多い人ってやっぱなかなか
大手とかは軽減しますよね なのでやっぱり転職歴少なめっていう人がやっぱり
まあ重宝されるかなっていうまあ必死状価値は 転職するとどんどん自分の価値を下げている
まあ異国一羽アップしていく人はいますけれども 下がっちゃうんだ
下がるケース多いですね通常であれば なるほど
でもそれでそのちっちゃい会社に入る時のモチベーションというか 何がそうさせたのかがめっちゃ気になるんですけど
逆に大手に興味がなかったんですよ 大手は実は誘いあったんですよヘッドハントで結構
多摩地とかにあるでかいビルの会社さんとか そういうところか
うちは大手だからって言われて誘われたんですけど なんか
いやーでもその後結構だいぶヤバくなった気がするけど それピンとこなかったんですか単純にそれともなんかおつまんなそうだなぁと
誘い文句がちょっとなんか全然なんか うち来たら安定だって言われたんで
まだ若かったんで安定ってなんだろうというそもそも思っていて そもそもそういう通常のなんか出世コースみたいなものから最初から外れちゃってるので
安定ってなんだろうなぁみたいな感じでピンともこなくて そういう人は大学行きますよね
そうなんで
っていうところでまぁまだ行かなくて だから結局そのベンチャーに入ったのもなんか
今までと関係全く縁もゆかりもないとこに行こうっていうので自分で就職 発祥をして
それ面白いですよなんで いやアホなんですねアホなんですよアホなんじゃない
チャレンジしたいみたいな感じなの そういうのもないの?
なんかようわかんないけどその当時は多分頼りたくないみたいな感じだったんですけど 頼りたくない
いやなんか気持ちわからんでもない ゼロからスタートしたいみたいな感じ?
思うか思わないかで言うと多分思うんですけど やるかやらないかって言ったら多分やらないかと思うんですけど
入ってみてそこ後悔しましたけど 最初の仕事が謝りに行くっていう仕事ですからね
めちゃめちゃ夜までこってり絞られて その時営業の子もごめんねみたいなこと言いながら
最後ラーメンを食べて帰るみたいな
こってこてー
でまぁ社長は昨日ありがとうなぁみたいな もういいですね
そんな感じでしたね
その会社は何年いたんでしたっけ? 13年ぐらいだったんですね
自表引っ込めたりしながら13年
そうまぁでも結構忙しかった時はでも一番思うと楽しかったかもしれないですよね
会社が本当高速で会社が大きくなりましたからね
最大多分グループはいろいろ関連とかもいると アルバイトとかも含めて200人超えてたと思うんですよね