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2023-07-10 36:29

【19-2】YouTubeの黎明期を開拓 時流を掴んだ意外な突破口(第19回ゲスト・木村隆介)

第19回のゲストは株式会社シオンの取締役・木村隆介さん。建築デザイナー・タスマニアへの留学・上場企業役員など壮絶な過去を伺いました。 【今回の内容】 建築デザインを経てタスマニア留学 / 動画黎明期にアダルトビデオやアーティストのYouTubeプロモーション / アンティークの転売から始まった個人事業 / テレビCMの納品に失敗...? 【番組概要】 この番組は、型にハマらず自分の才能と個性を生かしたライフスタイルを送る方をお呼びし、その生き様に迫る番組です。 パーソナリティーを務めるのは、スモールビジネス経営者の渡辺孝祐と、クリエイティブディレクターの齋藤実帆。 感想は #ぼくスモ をつけてTwitterに投稿お願いします! 【SNSリンク】 ◯パーソナリティ 渡辺孝祐 ⁠⁠https://twitter.com/kosuke_coin⁠⁠ 齋藤実帆 ⁠⁠https://twitter.com/mihosaito_nsw⁠⁠ ◯番組 Twitter ⁠⁠https://twitter.com/oursmallbiz⁠⁠

サマリー

専門学校卒業後、木村隆介さんは建築デザインに興味を持ち、コンペで入賞経験を持つ。その後、フリーランスとして働く。自立神経失調症にかかり、タスマニアに留学。滞在1年半後、日本に帰国。建築デザイナーからYouTubeのプロモーションやアーティストのプロモーションに成功。現在、200人以上の会社を設立し、外国人エンジニアの採用支援をするビジネスを展開。社長の要望に応じ、優れた人材を紹介。営業力により大きな仕事を獲得するが、納品時に問題が発生し、損害賠償問題も発展。しかし、大人の世界でうまく解決し、木村さんは頑張り、その後も仕事をできるようになった。

00:02
それでは木村さんゲスト第2回目です。よろしくお願いします。
お願いします。
前回ですね、株式会社シオンについてですね、ハイクラス人材紹介ビジネスについて伺ってきました。
今回ですね、木村さんが何がどうなって今のこの仕事をやるようになったのかというですね、過去のお話をお伺いできたらなと思いますので、よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
お願いします。
高校卒業されてからですね、高校卒業した後はどうされた?
高校卒業して一浪してるんですよね。一浪勉強してなかったんですけどね。ゲーセンガイをずっとしていて。もう時効なので、もうだいぶ昔の話なんで。
ゲーセンガイを。
ゲーセンガイをして、吉祥寺で無敵なしみたいな感じだった。
そうなんだ。
あれ、もともと東京ご出身なんですか?
専門学校での建築デザインにハマる
東京です。勉強もしてないので、もちろん大学からず。結局専門ぐらい行ったらって話になって、専門に行って、そのまま家業が建設系なんで、現場監督になるかみたいな感じで専門行ったんだけれども、
たまたま自分の担任になった人がデザイン科の先生で、衣装っていうんですけど建築の場合は。衣装の先生で、たまたまその先生にすごく褒められて、何を勘違いしたのかやる気が出てしまって。
なんかおかしくて、専門学校の1年生ってまだちゃんとまともに設計図が書けるようにならないんですね。当たり前1年目なんで。でもなんかその時すごくその建築のデザインにハマって、図書館にずっとこもって本を読んで、ずっとしてて。もちろん専門学校できて以来一番本借りたらしいんですけど。
で、1年後ぐらいにするとだんだん好きな建築家っていうのはできてきて、その時好きだった伊藤豊っていう建築家の方なんですけど、あれです。オリンピックのスタジアムの審査委員長をやってた人ですね。
で、その先生がたまたまその建築の業界史の建築デザインコンテストがあると。で、それの審査委員長がその先生だったんですね。その当時は頭悪いんで、しかもこれに入賞すると懇親会みたいなのがあって会えるみたいなのが書いてあるんで。
このコンテストで入賞さえすれば伊藤先生に会えるのかと思って、もうアホなんで、まだ設計図も書けないのに。一応要件はA1、2枚の絵と設計図とかで、設計図が必ず筆とは書いてないっていう勝手な解釈をしましてですね。
まず設計図が書けないのでちゃんと。なんか絵だけ、CGだけ作って応募したら、しかもA1、2枚埋められなくて、A1、1枚だけで、要するにA1、2枚以内って書いてある。2枚以内だから1枚でもいいんだろうと思った。
で、先生たちは絶対入選なんかできないって言ってたんですけど、その頃もう全然盲目なんで、耳から何も入らないんでね。このままA1枚だけ送ってしたら、なんと入賞しちゃって。
で、しかもそれで入賞して、でも落ちがるんですけど、結局その懇親会行ったら伊藤先生が忙しすぎてお会いできないという。
で、その時にその学校の専門学校の先生の課長さん、会話まぐれかもな。3回取ったら本物だって言われたんで、3回取ったら僕授業出なくていいですかって言ってたんで。
で、その後2つ取ったんですね。全部学生のうちに3つのコンペ、しかも1つは最優秀取ってるんですね。
で、最優秀取った時も確か伊藤先生が一心最長だったと思うんですけども、また忙しくておられなくて。
で、そこにお話ししたのが熊健吾先生って、多分熊先生はすごい有名なんで今は。
熊先生のとこに、まあ伊藤先生のとこほんと行きたかったんだけど、熊先生の名刺をもらって。
で、その話でちょっと僕デザイン事務所で設計事務所で働きたいんですって。
お、じゃあ秘書に電話してって言われて。
で、お電話したら秘書の方に、うちは大学卒か大学院ぐらいじゃないとしないんですって。
あ、失礼いたしました。
秘書切り。
秘書切りされてしまった。
で、そしたらうちの専門学校は全然無名の専門学校なんで、そこにたまたま非常勤に来てる先生の後輩が、伊藤先生のとこの後輩がいるって話でちょっと聞いてあげるねって言われて。
そしたら伊藤先生すごい人気のデザイナーなので、ただでも働きたい人が行列で待ってるという状況だと。
で、その代わりにちょっと違う先生をご紹介。
この先生も横浜国大の名誉教授だった山本利賢先生って言うんですけど。
その事務所を紹介されて、僕その当時その先生のこと全く知らなくて全然。
すごい有名な先生で、住居論っていう建築の教科書書いてる先生なんですね。
知らずにそこでコンペのお手伝いでプレゼンテーションのビジュアルを作るお仕事を任されて、それで参加したのでそのコンペ取ったんですよ。
なので実物がちゃんと今広島にできてるんですけれど。
そのコンペをして、その時に山本先生また次のコンペもお願いしますって言ったり。
そこで何個かコンペにプレゼンテーションとして参加をさせてもらって、そこでも何回か取ってますね。
実物のコンペを。
本物になった。
本物になったやつです。
すごいすごい。
そこからそこに働いていた方が事務所に転職するじゃないですか。
また他の事務所から木村君ちょっと手伝ってよって来たのが、その次にいたのが種口義男先生っていう、今でこそニューヨーク近代美術館のデザインをした方ですね。
そこのコンペ、ニューヨーク近代美術館のコンペにデザインのシミュレーションをやらせていただいてて。
それをその当時、1990年代最後の世界建築王決定戦とかって言われてた、もう本当世界の有名建築家がコンペに参加してた。
タニブス先生はその時当て馬だろうって俺とか言われてて。
確かにその他、ネームバレーとかもっと有名な先生たちいっぱいいたし、アメリカの有名な巨匠も出てるコンペなので、日本人でなおかつ、伊藤先生も確か出てたかな。
その中で言うと、俺、絶対当て馬だろうみたいなタニブス先生が言ってて。
ただ、たまたまある審査員が、これは空中に浮いてるよ。ただスライズしたはずなんですけどね。
っていうところで、鶴の一声でコンペ案が優勝するんですよ。
なので、今立っているやつのデザインに関わらせていただいた。
なんなんですか?
なんでそんなできるんですか?
いや、たまたまそういうところに行って。
フリーランスとしての活動とタスマニア留学
その頃になると、結構いろんなお仕事をフリーランス。
実際、専門学校に行ってた時、さっきのある山尾先生のところで軟禁されてたとか言っちゃダメですけど。
言うとちょっと怒られそうだけど。
コンペ付けになってて、学校行けてなかった。
発跡、四十何パーセントぐらいしか出てて。
一応僕も専門学校ぐらい卒業したいんでって先生に言ったら、よし待ってろって木村とか言われて。
そしたら山尾先生が僕に、これ持ってかよと。
要するに、このものは学校卒業相当の実力あるって言って、横浜国大名誉教授ってサインをしていただいて。
これを学園長に持って行ってくれと。
やばい。
面白い。
それで卒業はできたんですけど。
できたんだ。
卒業前ぐらいに学校から声がかかってですね。
専門学校の講師やってくれないかっていう。
要するに僕だから、その時21だったかな。
21になる前から夏サマーの講師とかはやらしてもらってたんですけれども。
そのまま僕、でもその時はフリーランスで仕事結構もらってたんで。
移植のわらじということで、専門学校でプレゼント、なぜか建築士を教えてましたけど。
っていうのを教えながら、そういったフリーランスの仕事。
その頃ウェブデザイナーって言葉もなかった。
ウェブデザインやったりとか。
そういうのいろいろやって。
まだヤフーが検索エンジンがなかったことで。
リンク集だった頃に。
そう、ディレクトリみたいな。
そういうところで、ヤフーからもお仕事ちゃんともらってて。
ちゃんとヤフーの本社、今みたいにあんなにデカい会社じゃないですけどね。
そういったことをいろんなデザインとかをやって。
ウェブもやったし、建築のプレゼンテーションも結構やってたし。
っていうような感じで、専門を卒業して3年ぐらいかな。
フリーランスとちっちゃな個人事務所みたいな感じでやってましたね。
ただ仕事がワンサーが来るようになってしまってですね。
経営の家の字も知らずに、そもそも専門学校もまともに行ってないのに。
仕事がいっぱい来るようになって、だんだん後輩とかも雇ってやるけど、
どんどんクレームが溜まるようになってしまって。
打ち合わせも忙しい。なかなか経営の家の字も知らないし、
どっかに事務所に所属もしたことがないので。
結局それでストレスで自立神経失調症になって、
ドクターストップかかりまして。
その時思ったのが24ぐらいだったかな。
とりあえず体壊してまではちょっと続けなくてもいいかなって。
一回それで事務所畳んだんですね。
畳んだらお金が余って、それをもとに外国人の方としても
そういった結構有名な事務所とか外国人の方がいっぱい働いてたんで、
やっぱり英語ぐらい喋れないといけないなと思って、
なぜかタスマニアに留学しました。
タスマニア?
どこだっけタスマニア?
オーストラリアの南極に一番近い島ですね。
タスマニアのデビルがいるとか?
タスマニアに癒しを求めて留学をするという。
たまたまでも毎日夜中に帰る、朝帰るとかそういう生活してたけど、
夜中に帰ると最後のケーブルテレビの番組で旅行番組なんですよ最後が。
それの最後のシーンに港が出るんですけど、
それがたまたまホバートっていう港町で、
それがタスマニアの州都なんですね。
ここ行きたいなと思って何も考えずに行って、
忙しくて一応会社畳んだりとかもしてたんですけど、
留学エージェントなので行って、
初めて飛行場がドッキングしない飛行場に降りたんですよ。
トラップ降りてみたいな。
トラップ降りて。
ビートルズになったみたいな。
まあそこまで思って、
なんかすごいとこ来たなって、来てみて分かったみたいな。
タスマニアでの生活と帰国の決断
降りたら本当に何もなくて、
ああすげえとこ来たなと思ったら、
ちゃんと車で行ったら、
ちゃんとした間違ったとか。
間違った。
っていう感じで、
本当はいろんな各地に点々としようかと思ったけど、
あまりにもタスマニアが気に入りすぎて、
結局1年と3ヶ月くらいいたのかな。
本当はそこで設計事務所時代の仲間とかも、
そっちでオーストラリアに来て、
オーストラリアでもコンペでよいよとか言って、
行けばよかったんですけど、取ったんですよね、その友達が。
でも結局僕も、その時建築のデザインとかもうやる気がなくなってたので。
本当は半年くらいはすごく幸せで、
空気も綺麗だし、ご飯もおいしいし、楽しいし、
ずっとここで仕事もしようかなと思ったけど、
だんだん1年くらいして帰国を考えるきっかけがあって、
欧米って週末パーティーあるじゃないですか。
僕らも例外もないですが、週末はパーティーをしてるわけなんですよね。
東京にいた頃には全然気になったのが、このように気になったんですね。
例えば仲良いA君が、僕らと同じパーティーに来るもんだったら、
C君になっただけで、ちょっとムカじゃないけど、
建築デザインからYouTubeのプロモーションへ
なんかそんな感情が芽生えたのが、こんな些細なことでそんななるっていう。
要するに来た時はもう本当天国の国だなと思ったけど、
だんだんそこでのストレスってあるんだな。
人間関係ができてきて。
こんなつまんないことに、自分が感情的にそう思うのがもうアカンなと思って、
日本帰ろうと思って。
帰りましたね。
なんかちょっと面白いというか、意外。
で、帰って、それなりの事務所さんとかの繋がりがあったんで、
うちこいよ、うちこいよって声をかかったんですけど、
元々結構有名な建築家の先生のところでお仕事させていただいた人脈で、
お仕事をいただけたんで、若いのか何を考えてるのかわからないですけど、
そういうのと一切関係ないところで働くことがわけわかんない。
若気のいたりというか。
普通に、今オンラインのマイナビとかいろいろあるんですけど、
あの頃まだ雑誌だったんで、雑誌で。
海外行ったんでちょっと違った、海外と関係ある会社がいいなと思って、
なんかちょっとデザインっぽい会社があって、
そこに応募して、マンションの一室、青山のマンションの一室、
ホントワンルームみたいなところでやっている社長と面談をして、
いつから来れるって言われるんでいきなり。
その時金曜日、じゃあ月曜日からって言ったら、
じゃあ月曜日から来たねって言われて。
すぐそこに入社をして、1日目に最初の日に、
うちに前からいたようなふうにして、
ちょっと営業の誰だについてって言ったら、
すんごい担当者、不動産会社の若いお姉さんに絞られるんですよ。
なんかもうギャーギャーギャーが、
もう全然自分はわかんないけど、
でもよくよく聞いてると、それひどいなと思って、
その頃、要するに僕が入った会社、
建築のパースとかを受けてたんですけど、
パースになってないものを納品して、
だから要するに誰も知識がないまま受けちゃってるから、
誰も何を怒られてるかがわからない。
っていうところから始まって、
そっから本当にドベンチャーなんで、
お土産屋さんのホームページ作ったりとか、
ジャナーのお土産屋さんのホームページ作ったりとか、
不動産用の図面の手書きのやつをデジタルで引き直すとか、
そんな仕事をいっぱい受けてて、
社長はその当時何でも仕事を取ってきちゃうんで、
もう無理ゲーみたいな安い値段で大量に取りすぎてて、
それが1年半ぐらい地獄を見ましたね。
みんなで土日も働いて、夜まで働くっていうようなことをしてたうちに、
社長仕事、営業力がすごくて、
どーんとまたでかい仕事を取ってきちゃうけど、
やったこともないのに。
だんだん大きくなってきて、
WEB3Dとか巨大な自動車メーカーさんのですね、
高度なWEB3Dを受注してしまいまして、
やらざるを得ない状況になって、
みんなわちゃわちゃやってるうちに、
なぜかできるようになったら、
国内でも有数のWEB3Dの会社になっていて、
そこをオフィシャーで開発してたんだよね、
タイとかベトナムでですね。
それの責任者をずっとやってて。
上々も見えてきたかなって思ってたら、
副社長が無謀を起こしてですね。
会社が死にそうになるみたいな感じで。
で、その時に、
どこまで話していいですかね、これ。
そして会社がボロボロになった時に、
さっき言った東証一部の会社に助けていただいて、
僕らがグループに入って、
僕その時も副社長が辞めた後に、
普段はいつも僕だいたい、
辞表をカバンチャーの机の中に入れてたら、
いつでも辞められるように。
だけど、いつも社長に呼ばれて、
誰だら今日辞めるからさ、
お前引き継いでおいてくれって言って、
だいたい言われちゃうんだけど、
僕が出すよりも誰かが辞めてっちゃうので。
また大変だって。
そしてまた誰か辞めたのかなと思ったら、
決めろよってこう言って、
お前明日から役員だと。
ええ。
役員みたいな感じで。
で、その後1年後くらいに、
先ほど言った当初一部の支援があって、
そのグループ委員をするんで、
確か29か30の時に、
当初一部の上場企業のグループの
COに就任してるっていう。
なるほど。
そういう経緯だったんですかね。
そうなんですよ。
そっからは結構いろいろ安定した事業とかもあったけど、
その後は結構大きかったのが、
リーマンショックの時に、
広告代理店とかの仕事が多くて、
下請けをやっていたんだけれども、
リーマンショックで仕事が半分になっちゃったの。
ああ。
もう全然仕事が動かなくなっちゃって、
なんか社長、木村どうすんだとか、
え、僕すか?みたいな。
リーマンに言って。
リーマンのせいだと思いますけど、
仕事がないのは僕ですかね?みたいな感じで。
で、社長に言ったのは、
下請けやってるときついですよね。
なのでちょっと、
うちら広告関係の仕事多いので、
上流で、ただ僕らCMとかを買うことができないので、
広告商材作りましょうかね?みたいな感じで、
そのときに目をつけたのが、
まだ日本語化が100%されていないYouTubeですね。
うわー、すげー。
YouTubeで、海外ではYouTubeで、
アーティストが音楽やって売れてるらしいです、
みたいな感じのうちの他の役員が言ってて、
じゃあYouTubeを使ったプロモーションを考えてみようか、
っていうので、
それを、あるパッケージを作って、
それを売り歩いたんですね。
全然売れませんでしたね。
あら、そうなんだ。
2009年?
そうです。2009年過ぎて、
うちの社長の講演みたいなのとかをやってるんだけど、
どうしても再生数が17とかは、
なんとかならないっていうようなのを、
ちょこちょこお手伝いをしていたんですけど、
天気があって、
1年くらい本当に売れなくて、
社長もよく売れないのを我慢してくれて、
他でちょっと儲かる事業もできてきてたんですよ。
その頃には。
アダルトメーカーとのプロモーション成功
で、たまたまブレイクポイントがあって、
この商材が、
アダルトメーカーのところでアポが取れて、
プレゼンをしたんです。
こういうプロのYouTubeのプロモーションを選びました。
うん、わかった。
売れたら発注してあげるって言われたの。
なのでもう引き下がれないんで、
とりあえず、
どうなるか分かんないけど、
やったんですね。
そしたら2週間後に部長さんが電話、
キムラさん、売れたよ、とか言って、
うちからでもお金取んないんでね、
他のメーカー紹介するからさって。
で、アダルトメーカーさん、
もう半分くらいですかね、
この辺の組織図の話とはちょっとピーの話になるんで、
の半分から月々にね、
有名な会社さんなんかを紹介で、
朝プレゼンに行ったら、
昼に電話が来ます。
キムラさん、どうやって発注するんですか?とか言って。
めちゃくちゃスピードハッシュで、
もう毎月、
結構な金額を毎月、
サブスクじゃないですけど、
その頃サブスクなんて言葉なかったけど、
毎月、
だいぶ何年か発注しててくれて、
アーティストのプロモーション活動
だいたいその、
こうって言われているとこの半分くらいは、
お客さんになりましたね。
で、もうなんか、
ひたすら新作が出る前のアダルトビデオが、
永遠に来るようにして、
僕はまあその頃、
役員室があったんで、
役員室に資料を当時はいっぱい入れたくて、
デザインをやってたんで、
だったのになぜか、
役員室の戸棚は全てアダルトビデオだった。
開けられないみたいな、
鍵付きにしといてよかった。
確かに。
何入ってんだっていうね。
事情を知らない人来たら、
ヤバい状態で、
もうなんか、
役員室はアダルトビデオ、
こんな感じだった。
で、天気が来るのが、
そんな話から、
音楽レベルから話が来たんですよね。
で、そこで、
まあどこまでこれ話していいか、
まあすごい有名なね、
埼玉スーパーアリーナとかで、
あの、
公演をされたアーティストが、
その当時売れてなくてですね、
で、そのアーティストの、
プロモーションを、
ちょっと手伝ってくれないか、
って言われて、
で、それが、
たまたまその時に、
ブレイクをして売れたら、
そしたらその、
ほとんどの若手アーティストは、
全部仕事をもらえるようになって、
ヤバ!
で、もうほんと、
なんかその頃から、
アーティストのプロモーション、
バンバン受けてて、
もう、
ほんとすごい時は、
オリコンチャート20位内の、
なんか4分の1ぐらい、
プロモーション全部やってる、
みたいな感じで、
すごい!
状況になってて、
永遠にずっと、
今でも活躍してるアーティスト、
結構いっぱいいますよね、
その当時に、
お付き合いさせていただいた、
まあ、
ね、
流行っている、
ね、
鬼さんの、
なんかアニメとかあると思うんですけど、
鬼さんね、
あの、
鬼さんね、
あの、
なんか、
ね、
あの、
手掛けさせてもらったりとか、
で、
まあ結構、
それから、
結構、
その、
芸能界っていうのか、
よく分かんないんですけど、
まあそういったところ、
いろんなところの、
なぜかよく分かんないんですけど、
タイアップの交渉を、
みんなが今入れている、
あの、
あるアプリの、
前身の会社さんの、
のタイアップとか、
ご依頼いただいたりとか、
ほうほうほうほう。
業界の人や。
っていう、
まずはね、
その、
アーティストの事務所とか、
コンサートまで行って、
交渉しに行ったりとか、
はいはいはい。
なんかいろいろ、
いろいろ面白いことをやらせてもらいました。
面白いっすね。
はい。
すごい。
で、
ひたすらなんか、
アーティストのプロモーションやってる、
みたいな感じで、
あの、
まあ調子になりすぎて、
アイドル事務所の社長とかにも、
ビジネスの始まり
いろいろその、
秋葉原にいろんな面白いスポット、
連れてってもらったりとか、
はいはいはい。
その後、
その事務所の、
アイドルを、
まだその頃売れてなくて、
やっぱタイアップが欲しいっていうところで、
ご相談いただいてたりとか、
そういった話、
とか、
なんか、
まあ、
そんなことをしていたんですけれどもですね、
はい。
すごすぎる。
あの、
天気が、
ちょっと、
ちょっと、
ちょっと、
ちょっと、
ちょっと、
ちょっと、
ちょっと、
ちょっと、
ちょっと、
すごいよね。
すごすぎる。
すごすぎる。
天気が、
天気は、
また来ます?
また来ますね。
また来たー。
僕、
まあ広告、
大手代理店とか、
まあいろんなとかなほとんどの出入りをしていてですね、
うん。
まあ面白い仕事いっぱい貰ってたんですけれども、
うん。
なんか、
よく分からないんですけど、
ステルスマーケティングってのが禁止みたいな風潮が出た時あんですけども、
ステマ。
ステマって言われてるですね。
ああー。
ああー。
そういったこのプローモーションっていうのが、
じゃないですか なんかそんな風潮でなぜかうちの会社じゃないとこがあるステマをやってしまう
ブログにやらせブログをやっちゃったんですよ でそれを余波でそのプロジェクトに参加してたうちもいろいろあってですね
である大手クライアントがそのことがあったんでもう 部長さんの首が飛んだらしいんですけど
でそっからその時に付き合ってた業者も全部デッキになったんですね
大ピンチじゃないですかそうただ会社としては実際といろいろもう事業が立ち上がっ ていて儲かっていて社長にももう多分事業意欲がなかったのかなぁってね
社長何したいですか儲かったら何でもいいんじゃないって言われてですね まあそっかなんでそろそろじゃあ置い止まさせていただきますということでまぁその時に
まあ先ほども出会って副業の方もまあ結構稼げていて実際とそれは あの大学生とかを雇っててまぁそれでまぁまぁあの回ってて
なんでまぁとりあえず疲れたからとりあえずゆるーりと なんか会社辞めて仕事しようかなっていうので辞めて自分で会社をあの創業した
ですねまぁ大学生なんでその子たちがも大学生の間はまあゆるーく 一人で別にだ従業員を雇うというかアルバイトだけで回しててただ一緒にやってきて
いく ここがどうするって言ってる時にうちに来るっていう話だったんでそこから真面目に会社経営を
はじめたと思う それはどんなビジネスそれは本当さっき言った船原さんはやってたまあ通販
で始め物販を始めたというところですね そのもともとアンティークの転売やってて
そうもうアンティーク好きだったんであの最初は趣味で買っていてなんか 転売するとあずいぶん高くれんだっていうのでそれをぐるぐるやってたらなんか月50
万ぐらい利益でるなってて で50万ぐらいで行きてたけど家のマンションがもうダンボールだらけなってこれはちょっと
嫁にもねーって話なのででもで近くで歩いてたらなんか 月5万円てなんかよくわかんない倉庫の一角みたいなのがあの寝台でた
じゃあこれ申し込もうと思ってそこからあのアルバイトの大学生雇ってって話の なるほどねいやちょっと今謎が解けたのは
ゆるかった木村さんの雰囲気が結構みんな必死じゃないですかねガツガツ ガツガツねやっぱねその
脱サラしてみたいな人ももちろんいるし人生変えたいみたいな人いるけど キマさん中緩かったから僕すごいしゃべりやすかったんですよ
ゆとりがそうそうそういう事情だったのねみたいななんか当時話してもなんかまあ いろんな会社の役員とかやっててみたいな
ブーブー言いながらなんで副業はアンティークが好きな趣味であり始めたそう だ趣味でいらないのとかダブっちゃうとかあるじゃん
ブーブー言いながらなと思ってちょろちょろやってたら本当は今振り返るとその ぐらいでちょっと並行して仕事してるのが一番良かったんじゃないかなと思うけれど
会社にしていくとやっぱりスタッフも増えてきたんでそうするとその分稼ぎを増やさ ないといけないのでまあそうすると何かの時代の変化で例えば
どんどんどんどんいろんな手数料が高くなったりアマゾンの手数が高くなるとか なんか後輸入関税がどうのものがだんだんだんだんなかなか儲かりづらい状況ができていったり
とかして そのまあそんなことをやっている時にまあさっき話まあ1回目で話をしたあの
ブーバーコラボレーションみたいな話があって でそしたらそこでやっぱりみんな中小企業というか小さい会社の社長ばっかの集まりじゃないか
はいでそしたら人が足りない人が足りないでまぁ当時ってほんと人が取れない 時期だったので本当
買い手市場だったんでまだあの頃は今はもう売り手市場じゃないかもう町のがつく でその時は買い手市場で就職先がないって時代だったんで
とはいえそれでも中小企業の2,3人とかの会社に人って来ないじゃないですか なのでそこに外国籍の優秀な方をちょっと紹介をするっていうのをちょろちょろ
なんか最初はなんかボランティアの近い感じでやっていたんですけど だんだんだんだそれが社長さんの口コミとかご紹介なのかで広がっていって
外国人エンジニアの採用支援
これが今やってるあのハイクラスの人材の最初のスタートなんですけども で結構これでもやっぱりその当時はやっぱり中小企業のところってなかなか人材がいい人材
要するにやる気もなくてどうでもいいみたいな人しかぐらいが取れる それだと会社成長しないじゃないですかそれは日本語がちょっとぐらい変でもいい大学
海外で出てる人の方がよっぽど優秀じゃないですか なのでそういった方を支援就職しお互いねウィンウィンっていう感じでそれが結構
ブレイクしてめちゃくちゃ取ってくれる社長とかいて でそこからまあやってまああのコロナに突入するぐらいで外国人が全然来なくなったりとかしちゃった
会社は取り返して日本人にシフトしていくというような流れですねそれでだんだん 最初の頃からコンセプト決めてて話すのが社長が一番面白いんであまり人事だと
わからないんでその先が本当に取りたい人っていうので基本的には社長とのお付き合いしかしてなかったので でそこからだんだんあのシフトしてやっぱり外国人が紹介できなくなってねやっぱり日本人
紹介するとそれは喜ぶじゃないですかっていう感じでだんだんだんだんニーズが上がっていって まあやるんだったらだんだんハイクラスかなっていうのでなってやってるうちに今の形態になっている
というまあ今もまあ基本うちハイクラスの人が多いんですけれどもまあそういった 若い若手ハイクラスからまぁ cxo クラスまであのご紹介をしているという
話ですね たどり着いたたどり着いたねー
長いと出せませんよすぎる
すごいのすごい結構いろんな転換があったじゃないですか なんだろ判断基準というか基本面白いかどうかとかなんですか
ブーブー言ったりベンチャーにあ 建築はやっぱ好きだにハマったからですよね好きであったからっていうところでずっと
やっていてまぁ 就職も考えたんですけどその時結構普通の専門卒の2倍以上の稼ぎがあったので
どうしましょうかねー 旧人表一応見たんですけどなんか安定はしてないかもしれないけどいけるとこ
行ってみようかなみたいな感じで回ってきて前 天気は最初やっぱり体壊したところがあっていいんですよね
でまぁちょっと何かね自分探してみんな言うんですけど僕も自分探し行ったんです けど
いっとも見つかなかったんですよね 見つかんないですよね見つかんない見つかないないからその後がやっぱすごいなと思ってその
ペラペラその旧人雑誌を見ながら決めるっていうのが すごい色んな誘いがあるな運なのかよくわかんないですけど
なんかあんまり転職活動もしなかったんだ本当の転職活動ってその1回っきりなんですよ 僕だからエージェントやってるのにいいのかわかんないですけど実際と独立就職独立なので
転職してないんですよ 確かに1回も実際言うと 確かにエージェントとか通さずに本当にペラペラですもんね
成長と転職活動
当時あんまりエージェントがそんなにメジャーじゃなかったと思うんですけど なのでまあエージェントやっているんですけど結局エージェントやってるとポイントが
あって転職歴っていうのがやっぱり企業のロイヤリティとしてやっぱり企業は判断 するんですね転職歴多い人ってやっぱなかなか
大手とかは軽減しますよね なのでやっぱり転職歴少なめっていう人がやっぱり
まあ重宝されるかなっていうまあ必死状価値は 転職するとどんどん自分の価値を下げている
まあ異国一羽アップしていく人はいますけれども 下がっちゃうんだ
下がるケース多いですね通常であれば なるほど
でもそれでそのちっちゃい会社に入る時のモチベーションというか 何がそうさせたのかがめっちゃ気になるんですけど
逆に大手に興味がなかったんですよ 大手は実は誘いあったんですよヘッドハントで結構
多摩地とかにあるでかいビルの会社さんとか そういうところか
うちは大手だからって言われて誘われたんですけど なんか
いやーでもその後結構だいぶヤバくなった気がするけど それピンとこなかったんですか単純にそれともなんかおつまんなそうだなぁと
誘い文句がちょっとなんか全然なんか うち来たら安定だって言われたんで
まだ若かったんで安定ってなんだろうというそもそも思っていて そもそもそういう通常のなんか出世コースみたいなものから最初から外れちゃってるので
安定ってなんだろうなぁみたいな感じでピンともこなくて そういう人は大学行きますよね
そうなんで
っていうところでまぁまだ行かなくて だから結局そのベンチャーに入ったのもなんか
今までと関係全く縁もゆかりもないとこに行こうっていうので自分で就職 発祥をして
それ面白いですよなんで いやアホなんですねアホなんですよアホなんじゃない
チャレンジしたいみたいな感じなの そういうのもないの?
なんかようわかんないけどその当時は多分頼りたくないみたいな感じだったんですけど 頼りたくない
いやなんか気持ちわからんでもない ゼロからスタートしたいみたいな感じ?
思うか思わないかで言うと多分思うんですけど やるかやらないかって言ったら多分やらないかと思うんですけど
入ってみてそこ後悔しましたけど 最初の仕事が謝りに行くっていう仕事ですからね
めちゃめちゃ夜までこってり絞られて その時営業の子もごめんねみたいなこと言いながら
最後ラーメンを食べて帰るみたいな
こってこてー
でまぁ社長は昨日ありがとうなぁみたいな もういいですね
そんな感じでしたね
その会社は何年いたんでしたっけ? 13年ぐらいだったんですね
自表引っ込めたりしながら13年
そうまぁでも結構忙しかった時はでも一番思うと楽しかったかもしれないですよね
会社が本当高速で会社が大きくなりましたからね
最大多分グループはいろいろ関連とかもいると アルバイトとかも含めて200人超えてたと思うんですよね
社長の営業力と大きな仕事
社長はでもデモというかめっちゃ営業力すごい人
本人は中身を理解してないのになぜか仕事を取ってくる しかもでかい仕事をどんと取ってくる
で取ってきたら自分本人わかんないから 自分がどうやってこれを納品するかも知らないのに取ってきて
あとよろしくっていう人でしたね 問題が起きなければOKみたいな感じで
問題いっぱい起きましたけどね
めちゃくちゃなんかもういろいろ技術が足りなくてですね
処刑代みたいにもうテレビCMでも変わってるプロモーションの一部を受けてたんで
納品ができなさそうな時になって
やっぱりCM押さえてると損害賠償がまあ億単位の話が出てきて
そこに尋問させられるみたいな感じで
関係各社がどういうことみたいな
どうしてくれるのみたいな感じで
でもなんか大人の世界ってうまくできていてなんかなんとかなるんですよね
なんでどうなんとかなるの
僕もちょっとようわかんない
そういうのなくてその会社の社長とも仲良くね
その後また継続的にお仕事頂いたっていう
納品問題と継続的な仕事
逆に怖いよ
社長もすごいけどその下で頑張った木村さんもすげえな
よくわかんないですけど
でも日々いろいろ新しいことが起きるっていうのが本当ドラマスティックでしたよね
海外の拠点を作って海外の拠点も行って副社長が模倣を起こしても
その後にタイで2番目のビルに移転してるんですよね
すごい
高級ってことですか
高級ですもちろん
1位はクライアント様の支社が入ってるのでそこに移転するわけにはいかないのでですね
そういう事情
二番目のビルに移転させていただいてですね
やばいやばい
そのうち今度タイがぶっかかると
もう社長がベトナム出張行ってたら
社長がベトナムから電話来て
木村 ベトナム支社作るぞ後よろしくなっちんって
で僕その1週間後にベトナムに飛んでましたよね
ちょっとでも振り回されて楽しい感あるかもしれない
いやでもなんか若かったのか
なんかとりあえずできないのが当たり前だし
とりあえずやるかみたいな感じで
すごい
なんか行って
ベトナムもありえないこといっぱい起きたんですけど
ほんとなかなかインターネットが繋がらないとか
繋がらないでなんか驚愕で
そのビルのビルは最新鋭のビルに入ってるんですけど
ビルの前に連線が引っ張ってるその線が個人の所有で
その許諾が取れる
えっ電柱って個人の所有なの
どういうこと
よくわかんなくて
スタッフからよくわかんないよ
えっみたいな感じで
どうすればいいんですかって感じですね
よくわかんない
なんかで超ぼったくり吹っかけられるとか
えっその金額おかしくない
ベトナムのネットといえば海底ケーブル切れる問題とかありますね
へえそうなんだ
当時はほんとネットは悪かったですね
すごいですがお時間になってしまいました
バイバイや
いやめちゃくちゃ面白かったです今回
過去の話を聞いてきましたありがとうございました
次回はですねこれからの話だったり
木村さんねその仕事の価値観みたいな
そういうちょっと真面目なのかな
そんな話を聞いていけたらなと思いますのでよろしくお願いします
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