2022-04-17 20:47

#101/22/4/17 復活のイエス様と出会う時

ヨハネの福音書-18 からのイースター礼拝説教。「どんなに 困っていた としても、復活のイエスによる助けや救い に は、あふれ出るいのちがあります 。イエスと出会うことによって人が気が付くようになるのは、いつも、自分が考えていたよりも遥かに多くの もの を 授けてもらっていると言うことです 。イエスが人間と出会って下さることは喜びを呼び起こし、さらにその 喜びを開いて下さるのです」。ある神学者の言葉より。1.期待した場所にいないという祈り、2.最後に見た姿で現れないという祈り、3.復活のイエス様に出会えると期待する祈り、の3点から学びましょう。
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聖書2017年版でお読みします、ヨハネの福音書20章11節から18節です。
一方、マリアは墓の外に佇んで泣いていた。 そして泣きながら、体をかがめて墓の中を覗き込んだ。
すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスの体が置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。
彼らはマリアに言った。 「女の方、なぜ泣いているのですか?」
彼女は言った。 「誰かが私の死を取っていきました。
どこに死を置いたのか私にはわかりません。」 彼女はこう言ってから、後ろを振り向いた。
そしてイエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることがわからなかった。 イエスは彼女に言われた。
「なぜ泣いているのですか?誰を探しているのですか?」 彼女は彼がソノの管理人だと思って言った。
「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。 私が引き取ります。」
イエスは彼女に言われた。 「マリア。」
彼女は振り向いて、ヘブル語で、ラボに、すなわち先生とイエスに言った。 イエスは彼女に言われた。
「私にすがりついてはいけません。私はまだ父のもとに登っていないのです。
私の兄弟たちのところに行って、私は私の父であり、あなた方の父である方、 私の神であり、あなた方の神である方のもとに登ると伝えなさい。」
マグダラのマリアは言って、弟子たちに。 「私は主を見ました。」と言い、
主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。 以上です。
今日はこのところから、復活のイエス様と出会う時と題して御言葉を取り継ぎます。
皆さん、イースターおめでとうございます。 おめでとうございます。
本当に久しぶりにですね、会堂に来られた方々もいらっしゃいますけれども、
コロナになってからですね、2回目のイースター、2回目の卒業式、入学式というときでしてね、
その中で入学式卒業式を行われたりしてますけれども、もうそんなに時間が経つのだなと思います。
でもまだいろんな変異株が出てきたりしてですね、感染症の熱が冷めやらない。
またご存知のようにロシアのウクライナ侵攻ですね。 今朝またキイブにですね、ミサイル攻撃が再開されたというニュースも入りました。
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そのような中、イエス様が十字架の苦しみ、それは私たちこの世界の苦しみを担う十字架だということを覚えながら、
彼ら彼女らのためにも取りなし、また捧げていきたいと思います。 そんな中ですけれども、今朝のイースター礼拝では、
このマグダラノマリアとイエス様との関わりから学びましょう。 復活のイエス様の希望を心に留める。
その中でですね、彼女や私たちの心を表した祈りに注目しながら、この3つのことを学んでいきたいと思います。
今日の出来事をざっと前にも絵を提示しながら振り返りますけれども、
このようにマグダラノマリアがイエス様のお墓にやってきました。 これは最初のイースターの日曜の朝でした。
彼女はですね、墓に安置されているイエス様の御遺体に香油を塗ろうと思ったんですね。
けれども急いで墓に行ったところ、重さ約1トンもあろう墓石がのけてあった。
そしてこの中を見るとイエス様の御遺体がなかった。 そして急いで行って
弟子たちにも伝えたと、別の箇所にあります。 ペトロやヨハネに伝えたともあります。
また、そんな中で彼女は弟子たちにこう言ったんですね。 読める方は前の見言葉を読んでみましょう。マリアのセリフですね。
誰かが墓から朱を取っていきました。 どこに朱を置いたのか私たちにはわかりません。
ここで注目すべきことはですね、 聖書を見ると
朝早くと書いてあるんですね。 日曜の初め、朱の初めの朝早く、それはどういうことか。
つまり土曜日の安息日が明けた、もう一番最初の時間です。
安息日は歩いていい距離が決まっていたので、イエス様のお墓まで行けなかったんですね。
だからイエス様のお墓に行ける時間が来たら、もう直ちにですね、朝早くマリアは墓まで行った。
そのことがわかるわけです。 そして
イエス様の御遺体に対面できると思うや否や、墓に行きました。 そのような思いはですね、
愛する方を亡くされた方ならわかるんじゃないかなと思いますね。
私別したその家族や愛する人、
これらの方々にもう会うことはできないけれども、せめて
御遺体に対面したい。 十字架の上で息を引き取ったこのイエス様、
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この十字架の上で息を引き取ったイエス様に
生きて会うことはできないけれども、せめてこの亡骸に会って仕えたい。
マリアはそう考えたわけですね。 一刻も早く
イエス様の亡骸に会いたい。 でも
彼女の期待は外れて、望みも全くなくなってしまったんですね。
イエス様の遺体はなく、どこにあるかさえも見当がつかなかった。
イエス様の亡骸に触れることさえできればと思ったマリアの期待、
そのイエス様の亡骸と保とうと思ったマリアの、このイエス様の
絆は断ち切られてしまった。 イエス様の御遺体がないということで、マリアとイエス様の
結びつきもなくなってしまった。 そういうわけですね。
私たちもこのマリアと似たような経験をするのではないでしょうか。
愛する家族や友人を亡くした方ならもちろんでしょう。 そのような経験がなかったとしても、例えばですね
とても大切にしていたものを、ものであれ立場であれ失ってしまうような経験。
あるいは理想を抱いてそれを目指していたとしても、その理想が叶わないという。
挫折と言っていいか分かりません。 そういう経験。
このようなとても大事なものを失う理想は叶わない。 喪失という経験。
であればせめてこれさえ叶えばという小さな期待や 一流の望みを持って
また新しいものを目指していくけれども、 それさえも微かな望みや小さな期待さえも失ってしまう。
そういう出来事を体験したことがないでしょうか。
期待した場所にイエス様がいないという祈りがあります。 このマリアの経験をある信学者が
こう祈りで言い荒らしているんですね。 ちょっと読めるかと読んでみましょうか。
シューイエスキリスト様、あなたに会えると期待していたその場所にあなたがいないと、あなたはどこにもいないのだと思ってしまいます。
マリアはですねお墓に行けばイエス様の御遺体に会えると思っていたんですが、それが叶わなかった。
この祈りが意味するところは、
私たちは時にこのような過ちを犯している。
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私たちの期待が外れるのは、 イエス様は私が望んでいるような方法で、
私の願いを叶えてくださるに違いないと勘違いして、
イエス様の救いの方法を勝手に決めつけている。 墓に行けばせめて亡骸に会える。
その場所に行ってもイエス様に会えないと同じように、私たちも自分の願う方法でイエス様が願いを叶えてくださったり、助けてくださるに違いないという、そういう勘違いをしてしまう。
イエス様の救いの方法を勝手に決めつけてしまうという過ちをこの祈りは表している。
もう一つマリアの気持ち、私たちの気持ちを表した祈り、それは、最後に見た姿で現れないという祈りなんですね。
これも読める方読んでみましょうか、この小祈り。
最後にあなたを見た時の姿のまま現れないと、あなたは誰にも見えないのだと思ってしまいます。
つまり、マリアは最後にイエス様を見た姿、死んでしまったイエス様の姿、そのイエス様の亡骸にお墓で会える、死んだままの姿でイエス様に会えると期待していたわけです。
そのイエス様の亡骸がなかったようにマリアは失望してしまった。
言い換えるとマリアは十字架で亡くなったイエス様が蘇る、その復活のイエス様と再会できるなんてのは、夢にも思っていなかったわけです。当然ですよね。
私たちにとってこの最後に見たイエス様の姿というのはどんなものでしょう。
私たちにとって最後に見たイエス様の姿というのは、私たちが過去の救いや神様の助けの体験をなぞるということに言えるんですね。
ああ、昔ああやってイエス様神様は祈りに応えてくれたな、こういうピンチの時にこういう救いを祈って得られたな、
だからその体験になぞってですね、次も今の試練も同じようなパターンで私を助けてくださるであろうって予想してしまうことなんですね。
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あるいは、あんまりないと思いますけれども、今まで祈りなんて答えられたことなんかないから、どうせ祈っても答えられないな、
まさにイエス様は死んだままだな、そういう諦めがあるかもしれません。まさにイエス様が死んだままの信仰ですね。
で、自分もそうなんですけど、私たちのクリスチャン生活が長くなるとですね、過去の経験から誤った判断をしてしまう。
そしてその同じ助けが来ないと失望してしまう。
それはですね、十字架で死んだままのイエス様に再会しようというマリアと同じ心情なんだということなんですね。
でも、私たちには希望があるんですね。
復活のイエス様に出会える、その期待を祈ることができます。
失望を乗り越える期待の祈りです。
この祈りには続きがあるんですね。読める方、これ祈りを読んでみましょう。前にあります。
それでも神をたたえます。あなたはいつも復活した姿で現れて私を驚かせるのです。
墓で泣いているマリアの背中にイエス様は問いかけましたね。
何を探しているんですか?他の聖書の箇所なんかにもそれが見てとれます。
そしてマリアは振り向いて最初イエス様を見たにもかかわらず、イエス様だって気づかなかったんですね。墓の番人だと思って。
そしてイエス様がですね、面と向かってマリアに名前で呼びかけた。マリアよ。
その呼びかけられた声を聞いて名を呼ばれて初めてマリアはイエス様であることに気がついたわけですよね。
彼女はまさかイエス様のお墓で生きたイエス様と対面できるとは夢にも思っていなかった。
それは驚くような希望の訪れであり、救いの体験だったんですね。
イエス様の復活の希望は、当然私たちがこの地上の生涯を終えた後、神とともにいつまでも生きる、そういう私たちの死後の希望です。
しかし私たちは復活のイエス様の救いや希望を今から体験できるんですね。
私たちのせめてもの期待が破れて一流の望みが途絶えた時に、そんな中で復活のイエス様は私たちの名前を呼んで、そして私たちに救いと希望を授けてくださるんですね。
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イエス様は今私たちはマリアのように目で見ることができません。
しかし私たちの目がこの時のマリアのように開かれると、生活の中でイエス様が自分を救ってくださったということに気がつくんですね。
それはまさに目には見えませんが、目が開かれて復活のイエス様と今対面した、そのような経験なんですね。
そして私たちは驚くんです。
さっきもアシマスさんと30年以上前に自分はこんなことがあったけど命拾いしたって驚いたんですけども、イエス様を助けてくださったって驚いたんですけどもね。
ある心学者がこんなことを言っているんですね。ちょっと難しくて長いんですけど読んでみますね。
どんなに困っていたとしても、復活のイエスによる助けや救いには溢れ出る命があります。
イエスと出会うことによって人が気がつくようになるものは、いつも自分が考えていたよりも遥かに多くのものを授けてもらっているということです。
イエスが人間と出会ってくださることは喜びを呼び起こし、さらにその喜びを開いてくださるのですと言っているんですね。
新しい年度が始まって2週間以上経ちましたね。日本は4月始まり、アメリカは1月始まりです。
ズレがあってコミュニケーション難しいんですけど、新しい年度が始まりました。皆さんの新年度はいかがですか。
先ほども言いましたけど、本当にコロナの先が見えない。私いつもそこの歯医者さんに話したら、ある専門家が言うには、最低5年後かかるよって言うんですね。
そうなのかなと思いましたけど、次から次へと新たな変異株が出てきたりして、そして世界情勢にも不安がある、私たちそれぞれの日常生活にも試練があるかもしれません。
しかし私たちも日常の生活の中で、そんな日々の生活の中で、復活のイエス様は私たちに現れてくださいます。
そして私たちの想像を超えた驚くような方法で、私たちに希望と救いを与えてくださる、そのことを期待しましょう。
皆さんもあると思うんですよね。本当にイエス様って生きておられるんだな、私たちの生活に介入してくださるんだなという経験、
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そうやってイエス様と出会う経験をこれからも皆さんされると思うんですね。そのことをお互い期待していくイスターとしたいと思います。
最後にこれまでの祈りをまとめて紹介しますね。これちょっとまた間違ってますけど、
シューイエスキウスト様、あなたに会えると期待していたその場所にあなたがいないと、あなたはどこにもいないのだと思ってしまいます。
最後にあなたを見た時の姿のままで現れないと、あなたは誰にも見えないのだと思ってしまいます。
これだけ読んでみましょう。それでも神をたたえます。あなたはいつも復活した姿で現れて、私を驚かせるのです。
最後にですね、このヨハネが示したイエス様の約束の言葉を読んで終わりにしましょう。
イエス様の復活の希望の言葉を読んでみましょう。
あなた方も今は悲しんでいます。しかし私は再びあなた方に会います。
そしてあなた方の心は喜びに満たされます。その喜びをあなた方から奪い去るものはありません。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
あなたが日々様々なものを私たちに授けてくださること、おりにかなった助けをくださることを感謝いたします。
私たちは多かれ少なかれ様々な試練に日々会いますけれども、
その度ごとに生きたあなたの介入があること、復活のあなたご自身を私たちに表し、私たちをお救いくださることを信じて感謝いたします。
どうぞその希望と期待を胸に抱きつつ、このイースターの朝、新しい年度に向かって歩いていくことができるように導いてください。
そしてどうぞ私たちを地の主よの光として、あなたの民として生かしをお持ちくださるようお願いいたします。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それではしばし御言葉に応え一分ほど黙祷し、主に祈りを捧げてください。
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