2024-02-18 25:37

#199 百倍の報酬 24/2/18

マルコ-31からの礼拝説教。2024年2月18日録音。何かのために大切なものを手放すという経験をしたことがある人は少なからずいるでしょう。ペテロはイエス様に「全てを捨ててあなたに従ってきました。」と迫りました。イエス様は「そのような人はこの世では百倍の報いを、来るべき世では永遠のいのちを受け取る」と約束して下さったのです。そのやり取りをもとに、1.すべてを手放した心の叫び、2.百倍と永遠の報酬の約束、3.さかさまの地位、の3つの点を見て行きましょう。


00:07
マルコの福音書、10章、28節から31節をお読みします。
フェテロがイエスにこう言い出した、「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従ってきました。」
イエスは言われた。「誠にあなた方に言います。私のために、また福音のために、
家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者は、今この世で、
迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑を百倍受け、来るべき世で、永遠の命を受けます。
しかし、先にいる多くのものが後になり、後にいる多くのものが先になります。」
以上です。今日はこのところから、百倍の報酬と題してお話を取り継ぎます。みなさんおはようございます。
今日は良い天気になりましたが、先週の水曜日、木曜日は20度近い、2月のこの辺はニーザ地域ですが、珍しい暖かい日となりました。
今週、おそらく木曜日以降、また冬の寒さが戻る、気温の乱高下が大きな週を過ごしています。
だんだん春めいてきまして、日の出も、先週は6時半を回って、6時20分台になってきましたね。
今朝も建物の合間から6時20何分かの日の出だったんですけどね、
なんだ朝焼けが見えてきて、清々しい朝でした。そんな中ですけども、共に今日、御言葉から学んでいきます。
今日のペテロの最初の言葉は、先週の金持ちの男の人とイエス様のやり取りの中で生まれてきたイエス様の言葉に対して、ペテロが返した言葉です。
金持ちが神の国に入るのはなんと難しいことか。ラクダが針の穴を通る方が簡単である。
誰が救われるんですか?とペテロが言ったら、それは人間にはできないことですけれども、神にはどんなことでもできるのですと言って、
神を信じる、自分の無力さを認めて神様を信頼する者への救いという話でした。
ペテロが思わず、金持ちは何も捨てなかったけれども、私たちは全てを捨てて従ってきましたという、
最初は手放した心の叫びをイエス様にぶつけたようです。
03:03
繰り返しになりますが、28節でイエス様にこう言っています。
ペテロがイエスにこう言い出した。この改革を読んでみましょうか。
ご覧ください。私たちは全てを捨てて、あなたに従ってきました。
ペテロはよく代表として声を上げていると言われています。
イエス様の厳しい言葉を聞いて、その胸の内を打ち上げた、彼の叫びは12弟子の代表の声であり、
あるいはまた私たちの心の叫びの代表だったかもしれません。
この心の叫び、胸の内を正直に打ち上げた声、これは今の時代を生く私たちがどう捉えたらいいか。
それは、まずペテロは先週言いましたが、私たちは文字通りのものを全て手放すわけではありませんでした。
しかし今の時代に生きる私たちもイエス様に従っていく上で、手放したものがあるということなんですね。
例えば、キリスト教信仰によって家族との縁が切れたという人もいます。
今、ノットの災害が話題になっていますが、20年ほど前、1997年、30年近く前ですが、
実は七尾市に、七尾聖書教会に遠回りして学生を連れて、キャラバン伝道と言って教会の手伝いを働きました。
非常に仏教が根付いたところで、よくお坊さんが玄関の前で土俵をすると、
それを開けて家の人が出てきて、ひざまずいて手を合わせて伏せをあげるということをよく卓発していました。
私たちもその当時は家々を回って教会で安寧して、中には祈ってくださいという人もいたので、
お祈りをすると、お坊さんに対してしたように私たちにも手を合わせるおばあちゃんにひざをついて、
そういう仏教が根ざしていましたけれども、教会の人たちも家族に反対されてきている人がたくさんいました。
教会で編み物教室をやっていましたけれども、寒い2月でした。
夫人会でやっているみたいだったんですけど、大きい教会でした。
高校生の女の子が来て、そこの夫人たちが高校生の女の子を指差していって、
この子もね、親がこれなのよと、鬼のあれこれとしているんですけれども、
その地域では、親に反対されて教会に来るのが当たり前だったんですね。
で、ある、私もちょっと首を痛めて、その当時、石骨院に、教会の石骨院の男性のところに治療がかかったんですけれども、
06:06
その方もですね、高校時代にイエス様を信じて、家族に反対されていた。
だから礼拝に行くのに、まさに便所の窓からですね、脱出して礼拝に来ていた、そういう方もいたそうです。
まあそれは極端な例ですけれども、今の時代で、例えば海外に行く宣教師とか、
牧師になった人にはですね、文字通り社会一般の名声や地位とかですね、富とか成功ということを手放したり、
無縁の生活を送る人もいるかもしれません。
あるいはですね、それとは別に、自分の意に反して、何かを手放す人もいるかもわからないですね。
例えば、試練を通してイエス様を信じた人がいるかもしれません。
あるいは教会に来るようになった時に、何かを自然に気がついたら、無くしていたということがあるかもしれません。
例えばですね、イエス様を信じた後、あるいは前後にですね、病気になってしまって健康が損なわれてしまった、
健康を失ったという思う人がいるかもわからない。
あるいは仕事を失うとかですね、就労形態が望むようなものにならなくて、
仕事とかですね、あるいは収入というものに制限がかかってしまうということがあるかもしれません。
それはイエス様への信仰とは別にそういう経験をする。
でもですね、そのような、いわゆる改革付きの社会一般が言うところの成功とか理想とかけ離れた状態に置かれてしまうということが、
私たち、たとえイエス様を信じていてもあるかもしれません。
で、繰り返しますが、そういうことはこのペテロと違って、私たちが自ら進んで手放したかものではないと思います。
しかし、何かを手放した、手放さなければならなかった、そのような苦しみと言っていいのか、
そのような正直な胸の内や心の叫びをイエス様に訴える、祈る、そういう点においてはですね、
この何もかも捨てて、全てを捨てて、あなたに従ってきました、というペテロの心の叫びと通じるところがあるのではないかと思うわけです。
そういう、もし何か喪失感というものがあるならば、正直にペテロのようにクリスチャンであれば、イエス様の前に祈ることもできるでしょう。
2番目、100倍と永遠の報酬の約束ということです。
そんなペテロに対してイエス様は即座にお答えになりました。
イエスは言われた、まことにあなた方に言います、私のために、また福音のために、
09:01
家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者は、今この世で、迫害とともに家、兄弟、姉妹、母、子供、畑を100倍受け、
来るべき世で永遠の命を受けます。100倍の報酬をこの世で受け、
あの世では永遠の命を受けるとイエス様はおっしゃったわけです。
ペテロが全てを捨てて、全てを失いましたと言った心の叫び、告白に対してイエス様は、その100倍を受け取るなと即座にお答えになったわけですね。
この意味に、まず文字通りの意味を知る必要があります。先週も話しましたが、イエス様が実際にこの言葉を言った時に、それを聞いた人はどういうふうに受け取ったのか、どういう意味があったのか。
ペテロや、あるいは、ちょっとそのすぐ後の諸大教会といって、ペテロの説教を通して、初めて生まれた教会の人たちにもこの言葉が響いたと言うんですけども。
彼らは文字通りの共同生活を送っていました。
中には、イエス様ゆえに家族に反対されて、そして何もかも捨てて、イエス様の群れとか、イエス様が天に帰った後、ペテロの説教によってできた最初のエルサレムの教会、キリスト教共同体に入ってきた人たちもいたようです。
その中には文字通り、聖書にありますけど、自分の全財産をその当時の諸大教会に捧げた人たちもいたわけです。
で、使徒の働きの中にはですね、2章の44から45にこういう状況が書いてありました。当時の諸大教会の状態。
信者となった人々は皆一つになって、一切のものを共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて皆に分配していた。
実はイエス様がこの語った意味というのは、ここと深く関係していました。
イエス様が言ったようにですね、文字通り家族のもとを離れたり、畑というのは畑に象徴された富とか財産を捨てて、あるいは当時捧げて、イエス様の群れに入った人たちは当然人間関係を失ったかもしれない。
けれども、新しい共同体に入ることによって、新しい兄弟姉妹を得た。そして新しい財産を得る。そのことが第一義的に言われています。
12:08
ちなみに余談なんですけども、マルコの福音書のこの捨てたものの中に、男性に向けて言ってますから、妻って入ってないでしょ。
面白いでしょ。妻って入ってない。で、受けるものにも妻って入ってないんです。これはしばらく前に見たイエス様が基本的に夫婦が一心同体だから離してはいけませんという話がありましたよね。
あれと合致してます。前も言いましたが、奥さんを捨ててまで来るってことは言ってなくて、ペテロなんかは奥さんと一緒に出境の際に入った。
夫婦をすごくたっとんだっていうことをわかってください。それはそれとしまして、第一義的には当時の弟子たちや初代教会の人たちがいろんな面で全てを手放して捧げて入ったけれども、新しい社会の中で文字通り新しい家族ができたよ、文字通り他の人の財産を自分も共有できるよということを言っています。
イエス様は大事なことはここで手放したことを嘆くように聞こえるペテロの言葉、それを非難しなかったわけですよね。これまで見てきたように、あえて弟子たちは失敗しましたね。イエス様を信じられなかった。
いくつかの不信仰のような失態を繰り返した中でイエス様は彼らをちょっと叱責したわけです。でもここでは一転して嘆くような聞こえるペテロに、優しく慰めや励ましの言葉や約束の言葉を即座にかけたわけですね。
同じように私たちが何かを手放した、手放さなければならなかった、そういう胸の内をイエス様に打ち明けた時に、イエス様は私たちを批判しないで、私たちに同じように憐れみをかけてください。励ましてください。そういうような救いの品ということを覚えておきましょう。
すべてを失いましたと言ったペテロに対してイエス様はその100倍を受けます、即座におっしゃいました。それは驚くべきことです。ちょっと想像してみてください。全部を失いましたと言ったら、いや、100倍を受けるとイエス様は即答した時にペテロは驚いたと思います。
ただもう一つ大事なことは、この世で受けると言っていることと同じなんですが、迫害と共にと言っているんです。
皆さんもご存知のように初代教会は迫害に遭いましたね、イエス様の信仰に。そのことをイエス様は言っている。
15:06
それは迫害を受ける当時はそうでした、文字通り。そして今この世界の中でも文字通り信仰の家に命を失う人もいるんですね。詳しくは言いませんけれども。
そういう人もいますが、さらにここには、たとえ迫害を受けなくても、今まで述べてきたように、イエス様の弟子は試練や苦しみを受けるその事実があるということも、この迫害のうちにという言葉に意図されているわけです。
すべてを捨てて、すべてを失いましたという弟子たちに対して、イエス様は、その100倍を今受け取るとおっしゃった。
このことから私たちは次のことを知ることができるんですね。 私たちはイエス様に信じて従う上で、いろんなものを手放すこともあります。
そしてその中で、いわゆるご利益宗教のようなハッピーハッピーなライフが待っているわけじゃなくて、老苦や試練と無縁の生活を送ることはないでしょうという現実もあるんですね。
しかしその中で神様は、100倍に相当するものを私たちに報いてくださると理解してもいいと私は思うんですね。
私たちの教会の、例えば目の前にいる兄弟姉妹が100倍の報いかもしれません。
あるいは、私もそうしましたけれども、自分の身の回りのものをよく見合わせたり、自分の生活をよく考えてみると、
今置かれている中に、この100倍に相当するような報いを神様が良いものとして与えてくださっているということに気がつくことがあると思うんですね。
当たり前と受けている。そういう機会にもなればと思います。
さらにイエス様は、この世で苦しみの長い、迫害の長い100倍を受けるよ。
でもそれだけではなくて、来たれべき世で、永遠の命を受けるよと約束してくださいました。
これは普通に読んでしまいますけど、驚くべきことは、この直前に、金持ちは永遠の命を受けたいと思ってきたのに去っていきましたよね。
この間も言いましたが、ペテロからしたら、あの金持ちというのは、立法も全部守っていると言い切った、そして神の祝福である富を持っていて何でもできるような人だったんです。
18:00
神に祝された人。しかし、そんな人もイエス様は、神の国には入れないよと言った。
ペテロが羨むような、経験な人、金持ちな人、祝福にされた人も、永遠の命に入れないと言った直後に、イエス様はペテロに、いやあなたは、永遠の命に入るんですよと言った。
すごい衝撃的な言葉としてペテロに響いたわけです。
そのような意味からも、この永遠の命の約束ということを、私たちも感謝しておきたいと思います。
最後、逆さまの地位ということを、最後にお話しします。
イエス様は一番最後、このまとめとしてこのようにおっしゃいました。じゃあ読める方は短いので、しかしから一緒に読んでみましょうか。
しかし先にいる多くのものが後ろになり、後ろにいる多くのものが先になります。
これは謎めいた言葉として有名です。そして教官福音書の中では、いろんな入れ替えたり、場所が入れ替わって語られている不思議な言葉なんですけれども、
あえてこの文脈でどう意味があるかということを、皆さん、私もなるほどと思ったので知って帰ってください。
ここの分かったようで分かんない言葉の中で知ってほしいのは、先にいるものというのは、最上位にいるものという、英語で言うとファーストという英語に訳されているもの。
ギリシャ語ではプロトコンと言ったかな、とにかく一番最初、だから最高の地位にいるとかということと捉えていいです。
そして後ろにいるとか後にいるものというのは、最下位、微力欠とかそういう意味を言うんです。
おそらくこのあえて言えば、社会的なランクとか社会的に認められている地位みたいなことを指しているということです。
つまりここで何をイエス様がおっしゃっているかというのは、この逆さまの逆転の地位というのは、
つまり、神の国や永遠の命や救いという観点から見ると、いわゆる神様の目にとって本当は最上位にいるものが、この地上では最下位にいるように見えるんですよ。
そして実際に永遠の命を得て、そして神の国にも入れるような、神様の目には最上位に本来いるべきものが、この地上では最下位にいるように見えるんですよ。
ちょっと分かっているか分からないんですけども、この世の地位やランクの価値観と神様の考える地位やランクの価値観があべこべですよと言っています。
21:06
そして本当はペテロをはじめイエス様の弟子たちは、あえて分かりやすく言いますと最高位のものなんだ。持ち物についても地位においても最高位なんだよ。
でもこの世の中においては財産とか神以外のものを優先するこの世の中においては、そういう目に見えない中で一位に見えるイエス様の弟子たちはあたかも最下位に言えるように見えてしまうよね。そういう意味なんです。
でもここでイエス様が本来ペテロに言いたかったのは、ペテロたち弟子たちは神の目には最上位、最高の存在なんだよと励ましていると見て取れるわけです。
このように逆さもの地位が今は現実のように見えるけれども、神様の国の民に与えられる100倍の報酬と永遠の命という最大限の報酬を覚えて十字架の道を進んでいくのが弟子の道だということなんですね。
これは実は8章のイエス様への信仰告白から始まる単元のまとめの言葉でもあるんです。イエス様の十字架を背負ってついてきなさいということから始まる大まとめの言葉でもあるんですね。
そうは言いますけれども、とにかく私たちは目に見えるものではなくて、私たちが置かれている中にある気がつかない100倍の報酬に気がつきながら、そして永遠の命というこの無限大の報酬を覚えてこの弟子の道を歩んでいく。
そのようなお互いでありたいものです。
最後にこれはペッパウロが苦しみの中で打ち明けた言葉、ちょっと難しいかもしれませんけど、読んでこの時終わりたいと思います。
最初だけ読みますね、まず。
私たちのひとときの軽い観覧は、それとは比べ物にならないほど重い、永遠の栄光を私たちにもたらすのです。
最後だけ読んでいきましょうか、私たちはから、3、はい。
私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を止めます。
見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。
24:04
読みましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
ペトラは文字通り何もかも捨ててイエス様に従ってきた。
その思いの丈をイエス様に打ち明けました。
ぶつけました。
その中でイエス様は、この世の大いなる報いと、また永遠の命の無限大の報いについてお語りくださったことを感謝いたします。
どうぞ私たちも手放したもの、手放したと思えるものを、それが胸に拠来する時に、
正直な思い、献身や痛みや感謝、様々な思いをイエス様に打ち明けることができますように。
その中でどうぞ、イエス様の報いの言葉、約束の言葉に新たに目が開かれ、
私たちの周りに置かれているあなたの祝福、また先に置かれているあなたの約束に目を止め、
この世の旅路を歩んでいくことができるように、どうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは1分ほど、御言葉に応えて、黙祷する時間をとりましょう。
25:37

コメント

スクロール