2020-05-17 37:45

#3/20/4/26神に届く祈り

第1テサロニケ-18 からの礼拝説教です。20/4/26録音
00:04
エペソビトへの手紙、5章、16節から18節をお読みします。
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これがキリストイエスにあって、神があなた方に望んでおられることです。
以上です。 今日はこのところから、神に届く祈りと題して御言葉を取り継ぎます。
皆さんおはようございます。 本日は2020年4月の26日です。
午前10時前ですけれども、教会で録音しております。 今日は晴れやかな日でありますが、
ステイホーム週間と言われている通り、多くの方々が 自宅で待機しておられることと思います。
そのような中で、先週に引き続き、パウロの手紙第1テサロニケ5章の16から18節の箇所を学んでいきます。
この機器の中にあった テサロニケ教会の人々に語られた御言葉、そこから聞きましょう。
先週もお話ししましたが、この箇所には3つの命令があります。 喜び、祈り、感謝の絶えざる実践です。
先週は消えない喜び、冒頭の喜びという言葉について、 常に喜んでいなさいということについて
触れました。今日はその残りの2つ、祈ることと感謝することについて 学んでいきましょう。
ところで、私はよくラジオを聴くのですが、 スピッツの日本のロックグループのスピッツ、ロビンソンなんかで有名になりましたけれども、
そのボーカルの草野咲史さん、そういえば去年の朝ドラの夏ドラの主題歌、 「やさしいあの子も、このスピッツが手掛けました。」その作詞作曲を手掛けているボーカルの草野正宗さんが毎週
ラジオを担当しています。そして冒頭に一人で担当していますが、フリートークの時間が1、2分あります。
そしてこの新型コロナウイルスの感染の拡大が広がった、
騒がれた頃から、必ず彼は冒頭の言葉をこのような言葉で締めくくります。
もしかしたらリスナーの皆さんの中には感染してしまったり、あるいはご家族が感染している方がいらっしゃるかもしれません。
そのような感染の中におられる方々のことを覚えて、一日も早い回復を祈っております。
03:06
このように必ず、病の中にある人のために祈っていますと締めくくるようになったんですね。
そしてこれはキリスト教徒に限らず、今の多くの人々の心情を代表していると思います。
祈りについて書かれているキリスト教のある本、その冒頭にも次のように書かれている通りです。
読んでいますね。
人は祈らずにはいられないものです。
この世界に恐怖がある限り、おのずから人は祈ります。
いまだに計り知れないことが多く残され、私たちに解決できないことばかりです。
私個人のことを顧みてもそうです。
病や悲しみ、精神、心、体の上渇き、思い患い、暗闇、孤独、すべてが私たちを祈りへと向かわせます。
このように書いてあります。
今日は祈りについてお話ししますが、前半は聖書の言葉を中心に、祈りに欠かせない要素について話します。
そして後半は具体的に祈る術についてお話しします。
ぜひこの機会に、皆さんに祈りにおいて良い祈りの時を持ってほしい。
祈りを実践してほしい。そういう願いも込めて、具体的な祈りの方法もお勧めします。
長いですので、音源で聞く方は前半後半に分けてくださっても結構です。
それではまず最初の部分。
主イエス、救い主イエスにおいて祈るということです。
先週お話ししましたが、この16節から18節の3つの命令、
喜び、祈り、感謝の絶えざる実践、その鍵はキリストイエスにおいて、救い主イエスにおいてという言葉です。
ではここでなぜ救い主イエス様によって祈る必要があるのか、その点を見ていきましょう。
イエス様ご自身も聖書に記録してある通り、ご自分の名前と祈りについてこのように述べています。
あなた方は今まで何も私の名によって求めたことはありません。
弟子たちに対してこう言っているんですね。
あなた方は今まで何も私の名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。
06:04
それはあなた方の喜びが満ち満ちたものとなるためです。
ヨハネノ福音書の16章に14節です。
イエス様ご自身がイエス様の皆において、救い主イエス様において祈ることの重要性を説かれました。
それを詳しく見ていきましょう。まず第一は誰に祈るかが明確になるんです。
イエス様のお名前において祈ると。
祈りには対象が必要です。
先週の話にもつながります。
先週、喜びには焦点が必要であり、その焦点は私たちを救ってくださるイエス様と話しました。
祈りにもこの焦点、フォーカスが必要です。
つまり誰に祈っているか、それによって手応えや私たちを受けられる安心感に違いが出てくるわけです。
東京では、昨日までの間に買い物の回数についても自粛要請がなされたようですね。
そんな中、こんなことを考えてみてください。
もしあなたがスーパーに行って、自分が買い物できない日、そういう風に決まってないですけども仮にそういう日があるとして、
自分の買い物できない日としましょう。
そしてスーパーの中の大勢に向かって、大勢に向かってあなたが
誰か私のために買い物してくださいと大きい声で叫んだらどうなるでしょうか。
今であれば飛沫が飛ぶからやめろと言って取り押さえられるかもしれません。
取り押さえようとしても周りが寄ってこないということもあるかもしれませんが、それは去っておきまして、
しかし反対に、それと違ってもしあなたがあなたの家族や親友に
これこれこれを買ってきてくださいとお願いするならば、その願いは叶えられるわけですよね。
そして自分の要求を聞き入れてもらえたという手応えや安心感を得ることができるわけです。
同じように祈りも漠然として、漠然と祈るのではない。
イエス様にお願いするならば、誰に祈っているかわからないといった漠然とした不安は解消されます。
なぜか、イエス様は神が人となってこの地に来られたお方です。
ですからイエス様に祈るということは、神様に祈ることと同じと考えていいわけです。
これは祈りの本質をついています。 あるいはキリスト教信仰の本質をついています。
キリスト教信仰、クリスチャンが信じている神様というのは、漠然としたイメージや力ではなくて、
もちろん力強い神ですが、漠然としたイメージではなくて人格を有しておられるということです。
09:07
その言葉は簡単に今日は触れるのでとどめますけれども、それはキリスト教の本質を表しています。
漠然とした神ではなくて人格を有した神様をクリスチャンは信じている聖書は教えている。
そして神が人格的なお方であるからこそ、私たち人間も人格を持つものとして作られている。
そして神に祈りたいという思いが備わっているわけです。
冒頭にも触れましたが、現在のような何か危機に人が直面した時に、自然に人は何かに祈りたいという心が出てきます。
それは神様に似せて作られた人間が、その人格的な神様に祈りたいという、そういう欲求を持っているという証拠でもあるわけです。
そのようなわけですから、イエス様において、またイエス様に対して、祈る対象が明確にわかって祈ることができる、
焦点を合わせて祈ることができるということは幸いなこと、
ありがたいことと言えるわけです。
イエス様において祈ることについての第二点目、それは救い主イエス様は良き仲介者、仲介者であるということです。
先週4月23日の木曜日に女優の岡井久美子さんが亡くなりました。
その速報が出てすぐその世代のある女性と話す機会があったんですが、
花丸マーケットも見ていたし土地が近いからとてもショックだとおっしゃっていたことを今でも忘れられません。
そのような新型コロナウイルス拡大の中で問題になっていることの一つは、病気がわかっても入院ができないということがありますね。
そしてもう一つは、感染の疑いがあってもいわゆるPCR検査が受けられないということかと思います。
そしてこのPCR検査を受けるためには、いわゆる仲介者が必要なわけですね。
保健所や叱るべき主治医という人が仲介してこそ、初めて検査を受けられるという場合が多いわけです。
このように仲介者の存在というのが重要です。
当然私たちが一般的に考えても何かお願いするときに、特に地位の高い人、そういう一般的に私たちがなかなか近づけないような人に寄付をお願いするとか、
例えば就職をお願いするような時には、誰かの紹介が必要になるわけですよね。
そこでこのイエス様。イエス様は神様の御子、お一人ごとして神様と私たちの仲介者となられたわけなのです。
12:08
実はそのことはこのパウロが別の手紙においても言及しているわけです。
ちょっと読んでみましょう。 手元への手紙第一、二章、五節です。
神は唯一です。また神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリストイエスです。
ここがある通りです。ではなぜ私たちにはイエス様の仲介が必要なのでしょうか。
このような理由があるわけです。 それは私たちの罪のゆえに本来私たちは神様の前に出ることができない存在だからです。
神様は罪がない清いお方です。 そのような清い神の前に人間が出ると命を保つことができないと聖書にはあります。
しかしイエス様は神御自身でありながらもその十字架の上で私たちの罪をあがなうべく代価を支払ってくださったわけです。
イエス様の十字架とは何ぞやと言われた場合、 神の前で私たちの罪をあがなう、償う
代償行為だと言えるわけです。 聖なる犠牲とイエス様は十字架の上でなられたわけです。
ある人はそれの祈りに絡めてこう言います。 私たちの祈りの中心には十字架があるのです。
十字架を橋渡しにして私たちは神と祈る。 聖なる神の前で祈ることができると言うのです。
このようにイエス様は罪ある私たちと罪のない神様との仲立ちをしてくださった。 それゆえに仲介者としてイエス様の存在が意味を持つわけです。
さらに3番目。イエス様のお名前において祈るという言葉はどういうことか。 それを見ていきましょう。
それは私たちが神の前の立場を保障されるということです。 皆さんはこういう祈りの締めくりの言葉を聞いたことがありますか。
シュイエス様のお名前によって祈りますアーメン。 教会に馴染んだ人であれば当然聞いたことがありますね。
それはクリスチャンの信仰の告白であるわけです。 今まで言ったイエス様が神様との間の仲介者である。
そのような信仰を表すためにですね 祈りの締めくりに
シュイエス様のお名前によって祈りますアーメンというわけです。 今テレワークが推奨される中でこんな皮肉があるって笑われてました。
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家で仕事をしていても 決済の反抗をもらいに出社しなければいけないという
そういうおかしなことがあるわけです。 イエス様のこのお名前というのは
反抗のようなもの。反抗は赤いですからこのイエス様の十字架の地首をそのイエス様の名前があればこそ
神の前で私たちの祈りが聞き届けられるという具合です。 イエス様の存在が私たちの神の前での資格を保証するわけです。
私たちは 自分自身が神の前に出る資格がないと思うことがあります。
私は神様に祈りを聞いてもらえるほど良い人間ではない。 真面目な人であればあるほどそのように思うと思います。
そしてもし 自分の神の前での不適格さを
数え上げたらキリがないのではないでしょうか。 例えば自分の罪。
あるいは意志が弱い。 神様と約束したとしてもそれを果たすことができない。
あるいはクリスチャンとしていわゆる熱心さがない。 いろいろ理由を挙げたらキリがないかもしれません。
しかし 祈りについて本を書いているある信学者が
このようなことを言っています。 聖霊なる神様が私たちに
このように言うと 彼は想像をたくましくして書いています。
私たちに向かって イエスの皆によってやってきなさい。
イエスの皆はイエス様のお名前は清くないものを 清い神の前に立たせることができるのですから。
そう聖霊は挙げましてくださるというわけです。 今まで言ったことはこう言い換えることができると思います。
つまり私たちが祈るにあたって 私たちの神様の前の立場を保証するのは
私自身のあるいはあなた自身の良し悪しとか あなた自身の人間性の良し悪しではないんです。
ただただ十字架で私たちの罪をあがなってくださったイエス様が 私たちの立場を保証してくださるということです。
ですから次のように祈ってみましょう。 こんな祈りです。
私には祈る資格がありません。 神様私には祈る資格がありません。
18:05
生き生きとした祈りの心も持っていません。 また祈ったことを叶えていただく何の資格もありません。
神よあなたが私の心をご覧になるなら 全く顔を背けてしまわれるような穢れに満ちています。
しかし私のゆえではなく 私の祈りのゆえでもなく
私の罪に由来する悩みのゆえでもなく ただイエス様のゆえに私の祈りをお聞きください。
このように祈ってみてはいかがでしょうか。 救い主イエス様において
祈る そのことをですね
考えると イエス様がこのように
私たちにあなたに言って祈りを励ましている そういうふうに理解することができるのです
イエス様はこのように問いかけておられると 今から私はあなたの生涯
その生涯と共に歩み最後には天国にまで連れて行こう 悩みや困難に遭うときには
私に告げなさい あなたの一生
昼も夜も 必要なものはすべてまたそれ以上のものを
何の咎めもなくあなたに与えようと イエス様はあたかもこう言ってくださるが如く私たちを祈りに招いておられます
まず大切なことはイエス様の皆によって祈る それ以上の祈りの秘訣がないということです
この祈りにおいて自分ではなくてイエス様のお名前を 救い主イエス様ご自身を根拠にしないならば
私たちは祈りにおいて失望して祈りが滞ってしまいます そしてその祈りは喜びも成長もない義務的な習慣になってしまうわけです
ですから私たちはイエス様のお名前によってありのまま神様に告げましょう 祈りの中で私たちの信仰を信じている思いも
あるいは思い患いもあるいは私たちの世俗的で 祈りに疲れた心も
ありのままに神様に告げてイエス様の皆によって祈ることが必要です それでは実践的な部分
何をどう祈ったら良いのかということをいくつか挙げていきます これも挙げたら迷拠にいとまがないのですが
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今日は挙げるのにがふさわしいと思うことをいくつか絞って取り上げます まず具体的な祈りの言葉を2つ紹介します
朝の祈りと夕の祈りです 祈りはとにかく具体的に実践してこそ身につきます
祈りは呼吸に例えられますけれども普通の呼吸私たちは意識しなくてもできますが 例えば
腹式呼吸というのは実践練習しないとできないわけですよね でそれが身につけば私たちは心を落ち着けることができるわけです
とにかく祈りは実践あってこそ身につくものでありその恩恵に預かることができるわけです そして祈りの中で今日まず取り上げるのはマルチンルターの2つの祈りです
聖書の詩編を始め信仰の先人たちの祈りを私たちの良き祈りの模範となりますからそのまま 祈ってみることをお勧めします
ルターの祈りですねまず朝の祈り 天皇お父様
巫女イエスキリストを通して感謝します 昨晩もすべての災いと危険からお守りくださりありがとうございます
今日一日もまたすべての悪と罪から私をお守りください 私の行いと生活のすべてが
御心にかなうものとなりますように祈ります 体も魂も
私のすべてをあなたの御手に委ねます 悪しき者が私を脅かさないように見つかりをお使わしください
アーメン 続いて夕べの祈りです
寝る前の祈りとも言えます 寝る前ですね特に子供は怖くなるわけで私も子供が小さい頃一緒に乗っ
てるよく言われました こんな祈りでした神様怖い夢変な夢恐ろしい目
君の悪い夢を見ないようにしてください必ずですね忘れてしまいましたけど 変な夢のリストがあってその通りに乗りたいと言うんですね
このように眠ることはですね 夢という自分のコントロールができない中に落ちるという不安が子供があったようです
また キリスト教の歴史の伝統の中にはですね眠りと死を連想続けることがありまして
眠ってる間にこの命を引き取ってし命を引き取るというそういう不安があってですね 寝る前にこの
守られるように祈るということが習慣となっていたようです まずブターの竜の祈り紹介しましょう
天皇お父様巫女イエスキリストを通して感謝します 今日もお守りくださりありがとうございます
今日私が犯したすべての罪をお許しください 今晩もあなたの恵みによって私をお守りください
24:01
体も魂も私のすべてをあなたの御手に委ねます 悪しき者が私を脅かさないように
御使いをお使わしくださいアーメン まあ2つの祈りの実例です
次にですね求める祈り これは一般的に馴染みの深い祈りお願いの祈りですね
私たちは ともすると自分の祈りが間違った祈りではないかと考えて真面目な人であればある
あるほど真面目な人であればあるほど間違った祈りをしないかずずしくないかということで 神に願うことをためらいますでも
神に願うことを恐れてはいけないんですね 親のことを考えてみてください親は小さい子供が近づいてきて欲しいものを求める時にですね
その求めを聞いてそれを喜ぶわけですその会話そのものを喜ぶわけですね しかし何が与える何を与えるかは親が決めることです
同じように私たちが神様祈る時も たとえ誤った祈りであったとしても
すべてにおいて神様に 気軽にですね祈ってみましょう
人間もそうですがすべてのことを語り合うときだけ 自由でこの解放された会話が成立します
そして 神との関係においてもそうですが神との関係においても私たちが願ったことを聞き入れて
与えるかどうかは神様が判断することなのですね そのようなやりとりの中で私たちは3つのことを学ぶんですね
まず第一は神様に何でも願うことができる自由な祈りの喜びです 2番目は
その中で自分の利己主義とか浅い考えを知ります そして3番目神様の長期的な思いやりです
後になって 与えられたものを与えられないものを振り返って神様は長期的な展望を持って最善を与えてくださったんだ
なと振り返ることができるわけです パウロもこのように御言葉で教えています
ピリピリとの手紙の4章6節ですがこう言っています 何も思い患ないであらゆる場合に感謝を持って捧げる祈りと願いによって
あなた方の願い事を神に知っていただきなさい こういう祈りをですね
私もこの2,3年ですねこの御言葉に深く学んで触れてから具体的にこう祈っています ぜひ皆さんもですね具体的に
願い事を神に知っていただくよう祈ってみてはいかがでしょうか 次は感謝の祈りです感謝の祈りは今日の聖書の当該歌書において命じられています
27:05
すべてにおいて感謝しなさいでこれは自虐的な自虐的な祈りとは違います 自分を苦しめらしきことすべてに感謝するというそういう類のものではないわけです
まず大事なことは神様から何か受けたならば当然感謝するべきだということですね 受けることよりも受けた後に感謝することのが難しいのはよく私たちも知っている通りです
私が名古屋にいた頃ですね 親が父親がまとまったお金を送ってくれたことがありました
当時は今ほどスマホももちろんなかったですしパソコンなんかも普及してなかった時代です から
電話が手紙を書くしかなかったわけですお礼 でそれをせずにですね
放っておいたらというかまあ放っておいたんですけども放っておいたら母親から電話があってですね お父さんが怒ってるよって言うんですね
何も言ってこないじゃないかそれで慌てでですね 電話をしてすいませんでしたありがとうございましたといったのを覚えております
まあ そのように
受けることよりも感謝することのが難しいのは常です
祈りにおいて求めることは難しいかもしれませんが感謝することはもっと難しい ですね
しかし 考えてみれば私たちは毎日
多くのものを神様から与えられています私たちが願おうが願う前が気づくが気づく前が 神様は私たちに数えきれないものを与えてくださっているんですね
ですから感謝の思いがすぐ思いつかなくても このようなものを神に感謝してはいかがでしょうか
体の健康 精神的な活力
仕事そのものやその仕事ができる能力や喜び勉強もそうでしょう 住居
ね今住居がないという方の問題を取り沢されていますから あるいは家庭食事飲み物
愛する人々や自分を愛してくれる人々について神に感謝する 昨日
25日の長官にこんな線流を見つけました こんな線流です
今までは 幸せだったと今気づく
今までは幸せだったと今気づく 現在のコロナ禍において
制限下に置かれているわけです その中で当然のごとく今まで周囲にあるものがどれほどたったいものか
それこそ神様の贈り物がどれほど 素晴らしいものであったのかを実感したのではないでしょうか
今こそイエス様の皆によって神様に感謝しましょう あるいは感謝から祈りを始めるのも良いでしょう
30:10
そしてイエス様がしてくださったことをイエス様に感謝するたびに
イエス様は感動して喜ばれるわけです 聖書にもそんな例があるわけですが
私たちが誰かからプレゼントをもらった時に相手に感謝するとその喜びが膨らむのと同じ ように私たちも感謝することによって喜びが溢れるわけです
当然感謝されたイエス様も神様も喜ぶわけです その釘の跡があるイエス様の手を握っているつもりでですね
こう祈りましょう救い主イエス様感謝します あなたは私のために死んでくださいました
あなたの取りなしがあるからこそ私たちは神様から良きものを与えられるんです さらにこの
御言葉全てのことについて感謝しなさい それにはこのような意味があるわけです
それは私たちは夜も昼もイエス様が与えてくださる様々な祝福を全てにおいていつでも感謝できる
1日のうち何回も神様に感謝できるわけです 例えば仕事場でも休んでいる時でも感謝しましょう
それがイエス様を喜ばせます そしてそれは私たち自身も
喜びが溢れる末となるわけです 何度も言いますが私も車を運転して仕事していますが車のハンドル握って運転し
ながら神様ありがとうございますと祈ることもしばしあるわけです
もちろんその時は本当に喜びが湧き上がってくるわけです また絶えず祈りなさいということを次に最後に見ましょう
この御言葉エペソの5の18に181716にある絶えず祈りなさいということそのものの意味
それは 会話に例えることができます人間関係でも親しい間柄には自由な自然な会話があります
ね 私は今いわゆるエッセーシャルワーカーと言われる分野で平日仕事をしています
で事務所の中でですねその所長が先週命令として出したものがありますそれは 三密を避けることは当然なんですが
大声で話さない そして雑談をしない
文書で通知されてこれは命令ですって書いたんです雑談も禁止です 感染拡大しないように濃厚接触を防ぐために雑談も禁止
ね 雑談の良し悪しあるかもしれませんがそういう会話ができないということは親しさを共有でき
33:03
ないということになるでしょう それはそういとしまして
この自然な会話それは神様との関係イエス様の何より祈りにおいても当てはまるわけです この祈りというのはイエス様を実は私たちの生活の中にお迎えすることなのですね
どういうことかというと私たちは決まった時間に決まった場所でまず祈ります 教会で祈ったり家で祈る朝祈る寝る前に乗る
でもそれとは別の祈りだということです さっきも言いましたが毎日の仕事場や家庭の中で祈っている
ひざまずかなくても祈っている ロークや患いの戦いにあってもイエス様は私たちの心の扉を叩いて入ろうと望んでいるん
ですね イエス様のこんな言葉を紹介しましょう
みよう私は 戸の外に立って叩いている誰でも私の声を聞いて戸を開けるなら私はその人の
ところに入って彼と共に食事をし彼も私と共に食事をする 牧師録3章20節
イエス様はいつでもあなたのところに来て一緒に食事をしようと望んでおられます あなたが日々の戦いの中でイエス様によって力が必要であるということをイエス様知っています
また イエス様はその必要を知ってですね折に触れてあなたの心の扉を叩いているわけです
あなたの生活の扉を叩いているわけですからその子に耳を傾けてみましょう
昼も夜もあなたと共におられるイエス様と静かなに交わるように 精霊が導いているそのことに注目していきましょう
毎日経験することをすべて 神様に語りましょう
私たちが喜んでいる時も 憂いも悲しみを経験している時も
遠分けしている時も心配を恐れている時もそのすべて時々に応じて 神様に
共におられるイエス様に祈りましょう 愛の神様はあなたに聞こうといつも待っていてくださいます
あなたのすべてに関心があるわけです イエス様は私たちの祈りを聞いて
私たちの悩みを問い上げてくださいます 呼吸のように口に出さなくても
必要な時に神様に祈りましょう イエス様の皆を呼びましょう
今こそ祈りという思い 祈りたいという思いが与えられているかと思います
ぜひイエス様に祈ってみてください 祈ってこそ祈りを学びその喜びを知ることができるわけです
36:01
イエス様もこのように約束されています ヨハリノ福音書16章の24節です
あなた方は今まで何も私の名によって求めたことはありません 求めなさいそうすれば受けるのです
それはあなた方の喜びが満ち満ちたものとなるためです お祈りしましょう
私たちの救い主なるイエス様 私たちの父なる神様
あなたの名前を賛美いたします あなたは私たちの祈りに耳を傾けようと待っておられます
また私たちが祈るときにそれを聞いてくださり また
私たちが 日々生活の中で感じる思いを告げるときに
そこに耳を傾け必要な助けを与えてくださる神様です 私たちが感謝するときに共に喜んでくださるお方です
今 さまざまな
危機的な状況 不自由な状況の中にある私たちをあなたはご存知です
どうかその折に触れ私たちは心のあるがままを あなたの前に
告げることができるよう導いてください この願いと感謝と思いを
私たちの救い主主イエス様のお名前によってお祈りします アーメン
37:45

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