2024-07-07 23:08

#219 新しい契約 24/7/7

マルコ-26からの礼拝説教。2024年7月7日録音。今日取り上げる箇所のイエス様の言葉をもとに、1世紀の初代教会から今に至るまで世界各地の教会で聖餐が執り行われてきました。この言葉の大切な要素の一つは「新しい契約」です。その新しい契約にはどのような約束が含まれているのか、今の私たちとどのような関りがあるのかを1.神様が共におられるという新しい契約、2.イエス様が共におられる新しい契約、3.再臨についての新しい契約、の3つの点から考えます。(冒頭の聖書朗読は1分10秒程度で終わります)

サマリー

マルコ14章22節から25節の場面では、イエス様が弟子たちにパンと杯を授け、新しい契約を宣言されます。この新しい契約には、神様が共におられるという新しさと、イエス様がともにおられるという意味での新しさが含まれています。イエス様が再び目に見える形で雲に乗ってやって来られるという約束と、そのときに実現する神の贖いや救いの完成の日について語られています。

新しい契約と共に在る神様
それでは朗読します。マルコ14章22節から25節。
さて、一堂が食事をしている時、イエスはパンを取り、神を褒めたたえてこれを咲き、弟子たちに与えて言われた。
取りなさい。これは私の体です。
また、杯を取り、感謝の祈りを捧げたのち、彼らにお与えになった。
彼らは皆、その杯から飲んだ。
イエスは彼らに言われた。これは多くの人のために流される、私の契約の地です。
誠に、あなた方に言います。
神の国で新しく飲むその日まで、私がブドウの実からできたものを飲むことは、もはや決してありません。
以上です。
それでは、今日はこのところから新しい契約と題して見事をアドレスします。
皆様、おはようございます。
今日は、小読の上では7月7日、七夕ですけれども、
先週から本当に暑い日が続いていますね。
真夏日ですね。
大体、東京とか埼玉でも、例年より6度とか、
他のところでは10度近く気温が高いところがあります。
暑い中、皆さん、このように集まって礼拝できることを感謝しております。
さて、今日はですね、先週見たところと、実はある意味一つの段落になっているんですが、
2つに分けまして、聖餐式と関わりがあるような、最初のイエス様が聖餐を制定したと言われている、その元となる言葉から学んでいきます。
新しいという言葉、25節に1回だけ出てくるんですけれども、
それを元にですね、新しい契約ということで、3つの点から共に見てまいりたいと思います。
イエス様が先週も見ましたが、過越の食事をしておられました。
その時の出来事でしたね。
まず一番目、新しい契約、神様が共におられるという新しい契約だということなんですね。
23節、24節、14章。
また、杯を取り感謝の祈りを捧げたのち、彼らにお与えになった。
彼らは皆その杯から飲んだ。イエスは彼らに言われた。
これは多くの人のために流される、私の契約の地です。
ここの過越の食事、ユダヤの過越の食事を、イエス様が先週見た通り設定しまして、
その時に新しい契約の宣言として、過越の食事に代わる聖参の時を設けたわけです。
この新しいというものがあるからには、古いというものがあるはずです。
じゃあ古い契約とは何か。
それは出エジプト紀にありますように、奴隷の民イスラエルが神様によって救出された。
古い契約とは、出エジプトの救済の出来事の直後に、神の民イスラエルと神様が結んだ契約を言うんですね。
ここに出エジプト紀の24章に詳しく書かれていますが、その時の様子の絵を引っ張ってみました。
その時にモーセが地内山に登って、実海を中心とした石の板を持って降りてきた。
そしてその時にモーセは神様との契約の書をイスラエルの民に読み聞かせたんですね。
そしてその読み聞かせた後、それを聞いたイスラエルの民は答えてこう言ったんですね。
主の言われたことは全てを行います。聞き従います。
そしてモーセはその地を取って、生贄に捧げ物の地を取って、民に振りかけ、そして言った。
ここだけミオから読めるかで読んでみましょうか。
ミオ、これは、これら全ての言葉に基づいて、主があなた方と結ばれる契約の地である。
今読んでもらったところがイエス様の言葉と少し重なる部分ですね。
このように契約には生贄の地が必要だったわけなんです。
そしてイエス様はこの後十字架にかかって地を流すことによって、新しい契約を新しい神の民との間に結ばれる。
仲介者となるということを宣言して、この杯を取って23、24のところですね。
これは多くの人のために流される私の契約の地ですと宣言したわけですね。
そしてさっき読まなかったかな。
それに関連して、今日も行いますが聖餐式で第一コリント十一章二十五節からこの言葉が読まれるわけですね。
食事の後同じように杯を取って言われました。
この杯は私の地による新しい契約です。
飲むたびに私を覚えてこれを行いなさい。
モーセの契約に比べて新しい契約です。
繰り返しますが、イエス様は十字架で地を流すことによって新しい契約を新しい神の民との間に結ばれると宣言しました。
この新しいということには色々な祝福があるんです。
実は今日の聖書歌詞は歴史から見ても、そして信仰の面から見てもたくさんの議論がなされていて、すごく深くて広い言葉なんですね。
だから私もこれを皆さんにお話する力量にすごく限界を感じています。いつも感じているんですけども。
いっぱいある点の中で1点だけを今日見ます。
それはどういう点で新しいか。その1点はイエス様が共におられる。
もうちょっと言うと神様が共におられるという点での新しさなんですね。
イエス様の十字架の贖いによって私たちが罪から清められている。
だからイエス様を信じている私たちはその地の贖いによって神様がいつも私たちと共におられる。
そして神なるイエス様もどこに行っても共におられる。その点で新しいということを今日覚えておいてください。
マルコの11章でお話ししました通り、当時は神殿に行くこと、そしてそこで捧げ物を捧げるということが神の旅の礼拝行為だったわけですね。
でもその当時は神殿の中で区切りがあって、
違法人はそこまでしか入れない。さらにその次はユダヤ人の女性だけが入れる。その先はユダヤ人の男性だけが入れる。
そして一番神様に機械とされているところには大祭司だけが入れるみたいな、そういう区別がありました。
特に女性と違法人は区別されてしまって近づけなかった。
しかし新しい契約の下ではそのような区別がすべて取っ払われて、当然女性も違法人である私たちもイエス様の血によって贖われて神に近づくことができる。
それが新しい言葉ですね。それが十字架の贖いに成された。
新しい契約によるイエス様との共存
そしてその新しい契約にはですね、さらに素晴らしい約束が込められています。
それはどんな約束かというと、神の言葉が私たちの心に刻まれるという約束なんですね。
こういう新しい契約。エレミーア書の31章の31、33節の罰詞です。
見よ、その時代が来る。主の言葉。
その時、私はイスラエルの家及びユダの家と新しい契約を結ぶ。
読めるかとこの私はから読んでみましょうか。
私は私の立法を彼らの肩中に置き、彼らの心にこれを記す。
私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。
この私は彼らの神となり、彼らは私の民となるというところは、さっき言った、
違法人の区別なく、イエスを信じる者は全て神の民となり、神は私たちの神となるということがあるんですが、
それに加えて、当時はモーセンの立法を石に刻まれていましたけれども、
イエス様を信じる人の心に神様の言葉が刻まれるという、
そういう新しく素晴らしい約束がこの契約に伴っているんですね。
ちょっと油断になりますけど、イエス様は神の御言葉ですから、
イエス様を心に宿すということは、神の言葉を宿すことにもなりますが、
それと同時に、神様の言葉が私たちの心に深く染み込んできて、
より意味深いものとなって、詳しくとも精霊の働きがあるんですけれども、
私たちにとって神様の言葉、極端に言うと聖書の言葉が、
意味深いものとなって心に染み込んでくる。
そして私たちの生活や人生を、神様の言葉と神様ご自身が、
内側から支えてくださる、導いてくださるということが、
イエス様の新しい契約に含まれていると覚えておきましょう。
まず最初の点の新しさは、神様がともにおられるという、
いてくださるという点で新しいことです。
2番目、イエス様がともにおられるという意味での新しい契約です。
今日のマルコ14・22節からもよく読んでいますね。
さて一同が食事をしている時、イエスはパンを取り、
神を褒めたたえてこれを先、弟子たちに与えて言われた。
取りなさい、これは私の体です。
これも私たちが聖餐式を取り行う時に、
読まれる聖書の言葉と関わっていますね。
ここにも素晴らしい約束が込められているんですね。
どんなものか、それは今日も行いますけど、
私たちが聖餐式を行う時に、神の御子、神御自身なるイエス様が
ここにともにいてくださるという約束なんです。
パンを取ってですね、これは私の体ですと言った。
それは今日は触れませんが、歴史上これはどういう意味かという
いろんな議論があるんですけども、間違いなく言うのは、
パンがあるところに私もともにいるよ、
あなた方がパンを取って集まるところに私もともにいるよという約束なんですね。
ある学者はですね、この聖餐の約束の言葉、イエス様の言葉をして、
これはですね、弟子たちへの誓いの言葉、あるいは言葉の贈り物だって言うんですね。
つまりこういうことです。
先週お話ししましたように、ユダが裏切ることが先週予告されましたが、
ユダだけじゃなくて、十人の弟子全員がですね、
イエス様の十字架に伴って、イエス様から離れて裏切ることになってしまうわけですね。
でも、その学者はですね、そういう裏切りがあるけれども、
このパンと杯に関するイエス様の言葉、言葉の贈り物をこう解説しているんですね。
この裏切り、弟子たちの裏切りと、ご自身の死にも関わらず、
イエス様が弟子たちとともに永遠に存在してくださるという誓いであった、この言葉ね。
こうして神の民、私たちが食卓、いわゆる聖餐ですね、食卓を囲むとき、
死に臨む彼らの主人であるイエス様が、多くの人に代わって、
この死、イエス様の死によって達成された、成就された、
達成された救いの成就とともに同席することを、この杯は約束してあるのである。
学者が言うから難しいんですけども、簡単に言うと、
このとにかくイエス様のパンと杯の言葉によって、
私たちがパンと杯をいただく聖餐式のときに、イエス様はそこにいてくださるよ。
しかもそのときに裏切り者の弟子たち、そして私たちも先週見たように、
ちょっとイエス様を裏切ってしまうことがあるかもわからない。
でも、もうすでにですね、死ぬことによって、救いを達成されて、救いを成就した。
私が救いを完成させたという約束とともに、この聖餐のときイエス様がいてくださる。
そういう意味での契約であり、言葉の贈り物だという。
聖餐式毎月やってます。
まあ、習慣としてやってしまいますけど、ぜひですね、そのときにこの約束。
イエス様がともにいてくださるんだな。
そしてイエス様が私たちの弱い頃にもかかわらず、救いを完成してくださって、
その確かさとともに一緒にいてくださっているんだなというのを、
パンと杯に預けるときに覚えていただければと思うわけです。
イエス様は神様の御子であられます。
そして神様が私たちとともにおられるという最初の約束はですね、
イエス様の再臨の約束
そこにはですね、神の御子イエス様も私たちとともにいてくださる。
そういう意味もあるということも覚えておきましょう。
2番目でしたね。
最後、今度は再離についての新しい約束。
やがてイエス様が来てくださる。
そういったともにいるという意味での再離についての新しい契約を見ていきましょう。
今日の段落の最後の言葉。こんな言葉がありましたね。
14章25節。
誠にあなた方に言います。
神の国で新しく飲むその日まで、
私がぶどうの実からできたものを飲むことはもはや決してありません。
よく礼拝で取り扱う聖書の言葉の中に、
なんとなく知っているイエス様の言葉や聖書の言葉だけど、
その意味があんまりわからないということを取り上げますが、
この言葉もそのうちの一つだと思いますね。
そういうことをもうちょっとですね、どういう意味かということをここで詳しく見るんですけども、
6月16日のマルコ13章のところのサイリンの真意というお話のときに皆さんにお伝えしたように、
イエス様はやがて再び目に見える形で雲に乗ってやって来られるという約束があります。
実はそのイエス様が再び来られるということについて、
聖餐式で読まれる聖書の言葉と関連したですね、聖書の言葉でイエス様はこう言っているんですね。
失礼しました。パウロがサイリンと関連して聖餐式をこう言っているんです。
第1コリント11章26節。
ですからあなた方はこのパンを食べ、
杯を飲む度に主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。
これを毎回読んでいます。
この言葉と14、25の言葉が関係しているんですよというのが今の点です。
つまり、イエス様が再び帰って来られるまでイエス様は私たちの目にはもちろん見えません。
でも、そうであってもイエス様は私たちと共におられる。
再び帰って来られるけれども、その目に見えないけれどもその時まで実は私たちと共におられるということを確認し、
そしてイエス様が共におられてまた目に見える私に再び帰ってくるということを実は聖餐式で確認し、それを証しするというそういう意味があるんですね。
そしてその聖餐式のこの言葉や信仰とこのマルコの14、25の言葉の関わり、それはどういうことか。
それはですね、ここです。
神の国で新しく飲むその日まで、私が葡萄の実からできたものを飲むことはもはや決してありません。
神の贖いと救いの完成の日
この神の国で新しく飲むその日までという言葉ですね。
その日までというとなんかJ-POPのタイトルにもなりそうですけどね。
その日まで、新しく、神の国で新しく飲むその日まで。
それはどういうことか。
それはですね、まずその日、イエス様が再び帰ってこれる日のことを指しています。
そして、もはや決してありませんというこの強い言葉の中に何が込められているかというと、
いつかわからない、信じられないかもしれない、でも必ずイエス様は目に見える形で帰って来られるよ。
必ず再臨があるよというイエス様の固い約束というか宣言がここに込められているんですね。
必ずその日が来ます。私は必ず帰ってくるという、そういう強いメッセージが込められているんです。
イエス様が帰ってくる時、その時に実は新しい神の国が実現する。
完全な贖いがなされる。救いの完成の日がその時に来る。
どういうことかというと、誠の神様とイエス様が王様になって、
そして私たちと世界が完全に贖われる日がイエス様の再臨とともに実現するということなんですね。
ただ、イエス様も言っておられるように、その日がいつ来るのかは誰も分からない。
そして、実はどんな形で神の国が完成して実現するかということも、私たちには実はよく分からないんですね。
心学的な議論があるけど。
でも、よく分からないという限界を人間として受け入れながら、
でも必ずそれが実現すると信じることが、私たちクリスチャンの健全な愛みなんですね。
ですから、イメージするのが難しいかもしれませんが、必ずイエス様は再び帰ってこられ、
その時に神の贖いがこの世界において、私において完成する日が来る。
イメージすることが難しいかもしれませんが、そのことを神様の御言葉に養われて、また神様に導かれて、
イエス様の再臨と実現の日を希望として待ち望んでいくお互いでありたいと思うわけですね。
そのために聖餐式も再臨を覚えるときであるということを覚えていきましょう。
イエス様が再び私たちと共に、神の国でこの葡萄の実からできたものを飲む日がどんな日かということを
少し告げ知らせる言葉を最後に読んで終わりにしたいと思います。
黙示録の19章の6節から7節ですね。
また私は、私たちの幻を見ていたヨハネですね。
また私は大群衆の声のような大水の轟きのような激しい雷鳴のようなものがこういうのを聞いた。
ちょっと難しいですがハレルヤから読んでみましょう。
ハレルヤ、私たちの神である種、全能者が王となられた。
私たちは喜び楽しみ、神を褒めたたえよう。
子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。
黙示録の19の6から。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
イエス様、あなたは十字架で血を流され、身体を裂かれ、私たちのために新しい契約を成就、結んでくださったこと、実現してくださったことを感謝いたします。
神様イエス様がいつもともにおられ、またイエス様が帰って来られるまで私たちを導いてくださる、その未約束を感謝いたします。
私たちにはその再臨の日、完成の日をはっきりイメージすることは難しいですけれども、
どうかその時を覚えながら、また希望としながら、その日を待ち望み、あなたと共に御言葉に養われ、歩んでいくことができるようにどうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは一分ほど、神様御言葉に応えて、黙祷する時間を持ちましょう。
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