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漫画版でお読みします。
殺妻人への手紙、3章18節から21節です。
妻たちよ、主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。
夫たちよ、妻を愛しなさい。妻に対して、つらく当たってはいけません。
子どもたちよ、すべてのことについて良心に従いなさい。
それは、主に喜ばれることなのです。
父たちよ、子どもたちを苛立たせてはいけません。
その子たちが意欲を失わないようにするためです。
以上です。今日はこのところから、夫婦と親子と題して御言葉を取り継ぎます。
皆さん、おはようございます。
2月の第二日曜日になりましたが、ともに御言葉から学んでいきましょう。
今日の箇所の冒頭、妻たちよ、夫に従いなさい。
この御言葉、私が学生の頃、あるクリスチャンの女性が一番耳障りな御言葉だと言っていたことを思い出します。
また、この先までの2週間、日本のオリンピック・パラリンピックの全会長の発言が話題になっていました。
そういうセンシティブな時期に、また神様の巡り合わせで、このような御言葉に出会うことができました。
実は、この今日の箇所は、具体的な勧めの続きです。
それは先週、このような御言葉がありましたね。
読める方は、その場で一緒に読んでみましょうか。
先週の鍵の御言葉の一つです。
この御言葉に基づいて、具体的な教えが続きます。
先週は、礼拝の生活についてでしたが、
今日は家庭生活、家庭に関しての御言葉について説明します。
まず、家庭生活、家庭に関しての御言葉について説明します。
具体的な教えが続きます。
先週は、礼拝の生活についてでしたが、
今日は家庭生活、家庭での実践編です。
家庭でキリストを生きる、というその実践編です。
よく私がお話していますように、
クリスチャンの生涯、ある考え方がありますね。
皆さんも覚えていらっしゃいますでしょうか。
それは、クリスチャンの生涯は、
ここにありますように、
キリストの身姿に変えられ続ける、
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栄華を目指した成果の歩みである、ということですね。
そのような捉え方の中で、
キリストによる新しい家族観や家庭観を、パウルはここで教えています。
それはこういうものです。
家族は、お互いのために存在する。
それは、お互いがキリストの身姿に成長するために存在している、という価値観です。
実はこれは、当時のローマの家族観に、
ある面に変わる新しい価値観であり、
今の日本、あるいはこの世界の家族観にも新しい、
キリストにある家族観というものをもたらすかと思います。
実は、背景を詳しく学びますが、ざっと申し上げますが、
この際の家庭には、ローマの一般の家庭と同じように、
多くの世代が同居していました。
ですから、一人の人が、親でもあれば子どもでもある、
そういう立場で、また家の教会でもありましたから、
教会の一員として、神の家族の一員として、
この御言葉を聞いたということがありました。
ですから、私たちも、今、置かれている家庭、
そして教会の中で、いろんな立場を持っています。
ですから、この今日の御言葉から学ぶことができるわけです。
今日は、三通りの忌ましめから学びますが、
一つ目は、まず夫婦への忌ましめから、
二番目は子どもへの、そして最後に父親、親への忌ましめから、
この三点から学んでいきます。
まず最初は、夫婦への忌ましめです。
その前半は、まずここ二つに分かれますけれども、
妻への教えです。
読める方は短いですけれども、ここを読んでみましょう。
3、妻たちよ、主にあるものにふさわしく、夫に従いなさい。
この御言葉をですね、安易に適用して、
特に男性がこれを妻を支配する口実に使ってはいけないんですね。
また、この御言葉から、この聖書の教えは現代的ではない。
今に合わないといって、この言葉を安易に判断してはいけない。
聖書を安易に下げすんではいけない。
それを注意していただきたいんですね。
実はこの御言葉を学ぶ中で、私たちは、
大切な原則もなぞらえることができます。
それは、聖書を理解するときの大切な原則です。
それはですね、
聖書というのは、安易に、時には文字通り判断してはいけないということがあるんです。
その語られた背景をしっかり理解して、
その上で、今の私たちの生活に適用する、
そういう原則が、この今日の御言葉、特に妻への教えに見て取れるわけです。
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その良い実例として学んでいきましょう。
そしてもう一つ、これは後にも関わってくるんですが、
この今締めの大前提として、こういうものがありました。
当然ですね、
妻たちよ、キリストの御心が、
当然ですね、
妻たちよ、キリストの御心に反しない場合に限って、
夫に従いなさい。
こういう大前提がありました。
その上で、当時のローマの社会背景を、
二つ特にですね、見ていきたいと思います。
まず一つ目はですね、
失礼しました。
まず一つ目はですね、
一つ目はですね、
夫婦において、
これは今でもそうかもしれませんが、
女性の方が管理能力に優れていたという場合が当時ありました。
家を切り盛りする。
真現にもありますけれども。
それからですね、
夫婦の中で、いわゆる家柄、
妻の家柄の方が、
その社会的地位の方が夫のそれよりも高いという夫婦が存在したようです。
その社会では、
家柄というものが非常に階級社会ということで物言っていましたから、
そのような女性の方がある学者に言わせれば、
エリートの家系から来た場合があったというんですね。
この二つの主に背景の中で、
この御言葉が語られています。
失礼しました。
これは一つ目ですね、女性の方が、
言い方はちょっと語弊があるかもしれませんが、
実力や地位が上の場合があると。
もう一つはですね、
間違った男性優位の価値観が当時あったんですね。
アリストテレスという方は聞いたことあると思いますね。
哲学者のアリストテレス。
その代表されるような価値観があったんですね。
こういうものです。
男性、ちょっと女性我慢して聞いてくださいね。
アリストテレスの言葉ですからね。
男性は女性より優位であり、
従う者と従える者がそれゆえ存在する。
そしてその原則は全人類まで当てはまるというものです。
この生まれつき優位だったのは男性だと。
それゆえに男性にリーダーシップがある。
そういう価値観です。
おっとり従うべき理由がこの価値観に基づいて、
それゆえ妻は夫に有無を言わせず従うべきだという、
今で言えば到底考えられないような理論がまかり通っていたわけです。
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ですからこのような背景の中で、
このパウロの今日の妻への御言葉を考える必要があります。
失礼しました。
パウロの重点はこのことです。
もし妻が夫に従う理由を述べるとすれば、
それは男性の権威やリーダーシップゆえではなく、
キリストが同期となるということです。
そのキリストが、キリストご自身が使えるお方であり、
そのキリストの日姿へ妻が変えられ続ける、
その生涯の一環として夫に使えるのだということが、
ここでパウロが言いたいことです。
御言葉にもそのキリストの使える姿が模範として書かれています。
ピリピの2章の6節から7節です。
読んでみましょうか。読める方はその場で。
3.キリストは神の見姿であられる方なのに、
神の在り方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして使えるものの姿をとり、
人間と同じようになられたのです。
この御言葉ですね。
この御言葉の原則、それゆえにですね、
もし妻が夫に従うならば、このキリストの模範に従い、
その日姿へと変えられる上での訓練として、
夫に従う、そういう新しい価値観をパウロは教えたのであります。
次に夫婦の中で夫への忌ましみを見ていきましょう。
読める方は一緒に読んでみましょう。3章19節。
3.夫たちよ、妻を愛しなさい。妻に対してつらく当たってはいけません。
この箇所は解説を必要としないくらい明確なメッセージになっていますね。
この箇所の特徴はこういうことです。
当時、男性優位が当然とされた社会背景があったにもかかわらず、
ここでは男性の権威に触れられていないという点なんです。
あたかもそれが否定されているかのごとくですね。
さらに妻には先ほどは一つの命令なのに、
ここで夫にはより多くの言葉、二つの命令が語られていますね。
愛しなさい。つらく当たってはいけません。
と、より多くの命令が夫に対して語られているわけです。これが特徴です。
さらにその上で、この殺さい人の手紙の双子の手紙というのがありましたね。
この殺さい人の手紙の双子の手紙。
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エペソビという手紙です。
この似た箇所があるんですね。それを抜粋しましたので読んでみましょう。
3、夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自身を捧げられたように、あなた方も自分の妻を愛しなさい。
あなた方も自分の妻を愛しなさい。
そのように夫も自分の妻を自分の体のように愛さなければなりません。
自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。
エペソ5章25節28節です。
ある学者はこれらの御言葉からこう解説しているんですね。
キリストがご自分の民に対してするように、夫はいつも妻に対する関心を第一としなければならない。
夫は妻が夫と同じように普通の人間で、夫の願望や夢を満たす人でないことが分かった時に、妻のことを苦々しく思ったり腹を立てたりしてはならないということなんですね。
そのように辛く当たってはいけないということにこういう言葉の意味が込められているわけです。
そしてキリストが自分の体のように教会を愛したように、夫も自分の体のように妻をいたわるということですね。
体調の面もそうですが、養うための面などいろいろ言えるかと思います。
このようにですね、夫が妻を愛することによって自分の内なる部分に死んで、キリストに姿へと変えられ続ける訓練を受けていると言えるんですね。
いろいろ耳が痛い方も私も含めていらっしゃるかもしれませんが、これがキリストの御心であるということです。
さらにですね、このように先ほどの妻への従順の命令という背景には、夫の妻への愛、そういう命令があったわけです。
そして実はこのような夫の愛がわかるからこそですね、妻も喜んで夫に従うことができる、こういう相互関係があるわけなんです。
そのようにしっかりとこの御言葉を学ぶならば、妻だけに無理なことを強いていたわけではない、むしろ夫の方により大きな責任があるということがわかるわけですね。
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これが第一番目、夫婦への忌ましめです。第二番目は子どもたちへの忌ましめです。
三章二十節をともに読んでみましょうか。
3.子どもたちよ、すべてのことについて良心に従いなさい。それは主に喜ばれることなのです。
三章二十節です。
ここにありますように、実はこれはですね、旧約聖時の実会の御言葉を少し反映しています。
しかしそのあなたの父と母をおやまいなさいということをよりさらに飛躍してパウロはですね、その理由として、それは主に喜ばれることだと述べているわけです。
イエスキリストに喜ばれるという新しい動機がここに加えられていることが新しいことなんですね。
そして実はこのことは子どもたちにとって、親のもとにある子どもたちにとってこういう意味があるわけです。
これは神様に従う訓練であり、子どもであってもキリストに姿を目指す道でもあるということなんですね。
そしてキリストにもその従順を学んだ、実践したという生涯の歩みがあるわけです。
ここにありますヘブル人の手紙の五章八節から九節をともに読んでみましょう。
五章八節から九節をともに読んでみましょう。
三、キリストは御子であられるのに大けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全なものとされ、彼に従うすべての人々に対して常しえの救いを与えるものとなりました。
御子というのは神ご自身だということですね。
神ご自身であられたにもかかわらずこの地に下られて苦しみを受けられたその中で父なる神への従順を学び、そして救いを与えたということです。
この御言葉のほかにもヘブル人の手紙の二章八節にあるようにイエス様は神の子供であるにもかかわらずその在り方を捨てることができないで、自分を無にして十字架に仕えて父なる神に従い通したという御言葉もあるわけです。
このようにキリストが自らを無にして父なる神に従ったそのキリストの二姿に私たちは子供として親に従うときに習うわけです。
キリストの二姿へと私たちは変えられ続ける訓練のもとにあるわけですね。
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しかしここにも先ほど夫婦の中で申し上げたと同じ原則があります。
子供たちよ、キリストの御心に反しない限り親に従いなさいということですね。
全てのことについてとありますが、そこの範囲の中には当然イエス様の御心に反しない限りということです。
しばらく前に話題になった万引家族という映画がありましたね。もちろんいろんな事情があるかと思いますけれども、
当然子供に犯罪を促すような親であってはいけないですし、子供もそれに従ってはいけないわけです。
そのような苦しみのある子供のことも私たち覚えなければいけませんけれども。
このように2番目は子供に対するパウロの戒めを見ました。
最後に親たちに対する戒めを取り上げましょう。
主に父たちへとなっていますが、3章21節ともにここを読んでみましょうか。
父たちを、子供たちを、苛立たせてはいけません。その子たちが意欲を失わないようにするためです。
ここの言葉を解説しますが、苛立たせるとは激しい感情を抱かせることですね。
積極的な意味でパウロは使っていますが、勇気を、奮いを立たされるという言葉でも使われていますが、この感情の激しい動きです。
前の神科薬聖書では、ここではですね、怒らせてはいけないとあります。
文字通りギリシャ語を直訳すると興奮させるとかですね、悪い意味で刺激することを意味するわけですね。
父親が、親が子供に対してそれを避けるべきだと。その理由はですね、意欲を失わないようにするためです。
それはですね、やる気を失ったり、子供が意気消沈することを防ぐためだというわけなんですね。
実はここに関してもある学者がこのような解説を述べています。
ここでパウロは、絶えず子供にガミガミ言いけなすこと、かっこそれは親の不安の現れで、コロサイ3-8にも現れる悪い品性だと。
その親が子に絶えずガミガミ言うことに言及している。子供をけなす親について言及している。
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子供が親の複製であり、親の夢を叶えるものだと考え、彼らが人間として権利を持っていることを否定するのである。
このように子供はやる気を失い、意気消沈するということですね。
ある面、これは現代の私たちにも当てはまるというか、十分慶長に値する忌ましめでもあるわけです。
続けてその学者はこのように述べているんですね。
ちょっと読める方が長いですけど読んでみましょうか。
3. 両親の義務は子供に対して福音を実践することである。
すなわち、ありのままの姿で子供が愛され、受け入れられ、価値があると子供たちに確信させることである。
壊るべきだったということでもなく、もう少し頑張りさえすればこうなるであろうという姿でもない。
条件付きの愛は愛と呼ぶ資格はない。
親が真の愛の証明に従うなら、子供の復讐も同じようになるであろう。
先ほども冒頭も述べましたけれども、家族というのはそれぞれがキリストを生きる場である。
それがパウロの新しい価値観でした。
キリストと共に蘇った私たちの新しい価値観だというんですね。
親として子供に福音を実践することだというんですね。
ありのまま無条件の愛を実践すればというんですね。
ここにもありますが、このように親子関係とは、
親が子供に対してキリストの無条件の愛を実践し、その訓練される機会となり、
そうして子供が愛に応えて神様に従う訓練となるということなんですね。
このように親が当時は子供をある面好き勝手にしてもよいという風潮がありました。
以前にも紹介しましたが、長旅に出ていて遠く離れているある父親が
自分の出産を控えた妻に対して手紙を送っていたんですね。
その手紙にこうあったんです。
もうすぐ子供が生まれるだろう。男の子であれば取っておき、女の子であれば捨ててしまいなさい。
そういう手紙が実際に残っているそうです。
このように親が子供の私物であった、そういう価値観が当時ありましたが、
パウロはそれと全く違う価値観をここで提示しているわけです。
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親は子供に対して福音を実践する。
そして実はそのような親に対して子供が喜んで従うものとされる。
それはまさに神様の愛に喜んで子供が従っていく。
愛に対して喜んで応答するという子供のクリスチャンとしての訓練の場にもなる。
親の愛に応えるということは神の愛に応える訓練である。
そういう背景もこの御言葉にあるわけですね。
不思議なことに、この2000年前に書かれた御言葉が今の私たちにもありありと真実味を持って迫ってくる。
そのようなことを今日学んでいきました。
励まされた人、耳が痛い人、私も含めいらっしゃるといった人たちが
多いと思いますけれども、このように私たちは家庭においても
キリストを生きるお互いであり、また家族がキリストに生きることができるように
使い合っていく。そのようなそれぞれでありたいと思います。
最後に先週も紹介しましたが、日野原善介博士が訳した
ジェットの祈りを紹介して終わりたいと思います。
どうぞ皆さんその場で読める方は読んでみてください。
さんはい、わが父よ、失礼しました。父よというのは父なので神様への祈りですね。
読んでみましょう。さんはい、わが父よ、私たちの家庭のためにお祈りいたします。
どうぞその子供たちが両親において清い生活の優れた実例を見ることができますよう
我が国のすべての父と母とを清めてください。
どうぞ私たちの家庭が命の水の泉でありますように。
それではお祈りいたします。
天の神様、皆を賛美いたします。
殺され人の手紙、パウロの家庭生活における実践的な教えから学びました。
とてもシンプルでありながら私たちの心を時に突き刺し、また私たちを励ます内容となっております。
どうぞ私たちそれぞれ強さもあり弱さもあるものです。
あなたがくださったご精霊によってどうぞ私たちを養い、この御言葉をもとに家族内においてもキリストを生きることができるように導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
27:00
アーメン。