2023-11-05 27:55

#182 小犬の信仰 23/10/29

マルコ-30からの礼拝説教。2023年10月29日録音。今日の箇所では、テーブルの下で主人のおこぼれに預かろうとする小犬が話題になります。「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」一見するとこのイエス様の言葉は辛辣な印象を受けます。しかしこの物語の背景と真意を知ると違ったものが見えてくるのです。1.背景の簡単な説明、2.シリアのフェニキアの生まれのギリシャ人女性、3.小犬の信仰、の3つの点からみて行きましょう。

00:07
それでは、お読みします。マルコ7章24節から30節。
イエスは立ち上がり、そこからツロの地方へ行かれた。
家に入って、誰にも知られたくないと思っておられたが、隠れていることはできなかった。
ある女の人が、すぐにイエスのことを聞き、やってきて、その足元にひれ伏した。
彼女の幼い娘は、穢れた霊に疲れていた。 彼女はギリシャ人で、シリア・フェニキアの生まれであったが、
自分の娘から悪霊を追い出してくださるように、イエスに願った。 するとイエスは言われた。
まず子供たちを満腹にさせなければなりません。 子供たちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。
彼女は答えた。 主よ、食卓の下の小犬でも、子供たちのパンクズはいただきます。
そこでイエスは言われた。 そこまで言うのなら、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出ていきました。
彼女が家に帰ると、その子は床の上に伏していたが、悪霊はすぐにすでに出ていった。
以上です。 今日はこのところから、子犬の信仰と題して見事は取り継ぎます。
みなさんおはようございます。 今日はですね、ちょっとズームの音声が悪くてですね、パソコン立ち上げたりして10分開始が遅れてしまいました。
ズームの方でですね、参加したかったんですけれども、ちょっとまた入るのを諦めてしまった方もいらっしゃるようですが、
また今日はですね、学校の宿題で、いつも時々いらっしゃいますけれども、また学作者さんも来ておられますけれども、また礼拝の後にご挨拶などをしていただければと思います。
さて、今日10月最後の礼拝です。 本題に入りますけれども、新約聖書にはですね、この旧約聖書や当時の時代背景を前提として出来事が書かれています。
それを知っているという前提で書かれているということなんですね。 そしてその背景を理解した上で、私たちはそれをどう今の私たちに捉えていくか、
また特に教会にいつも集っている方々、クリスチャンと言われている方々は、そのイエス様を救いの人を信じるものとして、それをどう自分の生活の糧にするかを考えなければいけません。
今日の箇所もそのことに当てはまる背景がありますので、まずいつも通り、ちょっとですね、勉強みたいになりますけれども、今日の背景をおさらいも含めて見ていきましょう。
まず今日のことの発端、7章24節でこう記されていました。
03:05
イエスは立ち上がり、そこからツロの地方へ出て行かれ、家に入って誰も知られたくないと思っておられたが隠れていることはできなかった。
今日のことの発端、後でこの場所とかを詳しく説明しますが、まず大事なことはですね、今日の出来事の主題はユダヤ人とイホウ人という背景がそこにあるということを知っておいてください。
これまでマルコの普遣書を見ていく中で、1章1節から順番にずっと来て7章まで来ましたけれども、これまで見ていく中で説明してきましたので、詳細は今日は説明いたしません。
ただ、また今日はですね、いろんな、後でも出てきますけれども差別的に思えることも出てきますので、ことの良し悪しを論じることも今日はあえてしません。
ただ、こういう背景があったということだけ、今は理解していただきたいと思います。
今ですね、ガザーチックのことで、まさにこの聖書の舞台のあたりがざわついているわけですから、いろんな関心もあるかと思いますが、繰り返しますけれども、ことの良し悪しということを今日は論じることはせず、
2000年前のですね、今からイエス様が活躍した時代の背景、その活動の舞台の背景として、まず知っていただきたいことをおさらいしていきます。
で、その中で何があるか。まあ、旧約聖書において神様はですね、イスラエル民族をご自分の民として選んだ。
ご自分の民として、あなた方は私の民であると、そういう言葉が明確にありますが、そういう約束、選びの約束があるわけです。
で、それゆえにですね、神様はイスラエル民族に、私が清いものであるように、あなた方も清くありなさいという、そういう今しめを10回から始まって、詳しく
孟瀬御書の中で教えているわけです。で、そういうことがあるんですけれども、
そこにはですね、先週見ましたね、いくつかの食物の規定があってね、いつも私言うんですけど、私が大好きなウナギが食べられないとかですね、
そういう食物の規定があるなど、先週の礼拝で少し取り上げましたが、今日は簡単に触れるだけにいたします。
で、そのさらに簡単に問題を論じますとですね、実はその神様から授かった約束、また今しめを極端に理解することによって問題が起きました。
その一つが先週見ましたように、細かい生活の規定、聖書に書いてない規定まで当時の学者がですね、決めて、
06:08
例えば前も言いました、器は食べる前に必ず洗わなきゃいけないとかですね、しばらく前に。そういうもので当時の人々も含めて、ある意味ががんじがらめになっていた、そういう背景がありました。
しかしですね、それと同時に、一般的に先民思想と言ってしまっていいのかわかりませんが、それを曲解して当時のイスラエル民族の中にはですね、
異教の人たち、違法人、自分たち以外の民族を違法人として、まあそれらの今しめに従えないということで、穢れた民だと考える人たちが起こってきたわけですね。
そういう背景が今日の方にあります。けれども、ちょっとバランスを取るために問題や課題をですね、取り上げますと、本来はイスラエルの民はですね、神様の民として選ばれた民。
その神様にふさわしくあるように、自らの生活を立していく。そして神様の御心を求めて、神様に従うべきであった。
その違法人を区別するというよりも、まず自らを立して自らを清めて生きるべきであったんです。
さらに、創世紀の12章にありますが、アブラハムに約束されたように、イスラエル民族を通して全ての民を神様が祝福するという約束と使命をイスラエル民族に与えたわけですね。
しかし、先ほども言いましたが、その選ばれた祝福の民であるという事実だけが一人歩きして、それが違法人差別の理由になってしまった。
皆さんよくご存知かと思います。そういうことが今日のことにも背景としてあるわけです。
このような問題もありましたが、ただ神様の祝福と救いの計画が
順番があってですね、イスラエル民族から広がっていくにあたって、順序としてまずイスラエル民族があって、その段階を経て
イスラエル民族以外の違法人に祝福と救いが広がるという原則があったんです。そして、その違法人に神様の祝福と救いが広がる上でなくてはならない存在としてのイエスキリストが登場されたわけです。
約束のメッシュ。それがマルコの文章の冒頭に書いてある神の御子イエスキリストの福音なわけですね。
その福音は何かというと、今日詳しく述べませんが今まで述べてきたように、立法の細かい規定に囚われることない、植物の規定に囚われることなく、イエスを信じるだけで、よく言われている救われる神のためとなるという祝福に至ったわけです。
しかしまだその救いがある面、完成していない段階が今日の出来事の背景にあるわけです。そういう背景を今お伝えしましたが、2番目、今日の話に入っていきます。
09:13
そこで今日主役として登場する一人の女性がいます。シリアのフェニキア生まれのギリシャ人の女性が出てきます。
この彼女が出てきますね。ちょっと読んでみましょうか。7章の今日の26節に書いてあります。読める方はカタカナ多いですが、読んでみましょう。
彼女はギリシャ人で、シリアフェニキアの生まれであったが、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようイエスに願った。
その背景を理解した上で今日の物語をなぞっていきます。主役はシリアのフェニキア生まれのギリシャ人の女性です。
まさに異邦人の女性が今日の主役なんです。 そしてここで癒しの奇跡が起こりますが、
大事なことがあります。 悪霊につかれた娘がいて、それを追い出すという出来事が出てきます。
実はそれがどういう状況か、今は知る余地がないんですね。
ただ、受験の参考書ではありませんが、知っておいていただきたい鍵は、
この救い主が訪れると、その救い主は病を癒し、悪霊から人々を、聖書によれば解放する、
そういうメシアの予言みたいなものがありました。
ですから、結論から言ってしまうと、イエス・キリストが、
病を癒したり、悪霊につかれていたという人を癒すことによって、イエス様が聖書の約束する救い主である、
そのことを新約聖書、今日見ればマルコの福音書が証言していると考えていただければと思います。
今日の箇所にそういう背景があります。
ただし、ここでこの奇跡の癒し以上に、もっと注目すべきことがあるわけです。
それは、わざわざここの箇所に、
彼女はギリシャ人でシリア・フェニキアの生まれであったと告げられていることです。
ですから、私たちはここで一番注目するのは、彼女が違法人であったという事実に目を向けるべきなんですね。
新約聖書は元々、当時の公用語のギリシャ語で書かれています。
ギリシャ語というのは、主語と実語を自由に入れ替えることができるんですね。
就職語とか。
強調したい言葉が一番最初に来るんですけれども、元の言葉で見ると、ギリシャ人という言葉がボンと出ているんですね。
ヘレニストのヘレネとかです。
そういう意味で、著者マルコは、ギリシャ人であるということを、この福音書に触れる人に注目させたかったのです。
12:06
そこで出てくるシリア・フェニキアという話ですね。
実はシリア・フェニキア、ちょっとこの地図が見にくくなっちゃいましたね。カラーであれしたんですけど。
これはイエス様が活動した当時のイスラエルの一部です。
ガリダヤ湖、この周りで奇跡が起こったのを話しています。
ガリダヤ地方というのが、当時のイスラエルの一部であって、イエス・キリストと弟子たちが主に活動した場所です。
そしてシリア・フェニキア、スロの女性というのはこの地域です。
ここは、いわゆるイスラエルではなくて、違法人の地。
スロにイエス様が行ったとかって言ってるんですけど、実際スロまで行ってなくてですね、それはどういうことかというと、
この地域をスロという首都を表すことによって、地域全体を表したので、イエス様はおそらく弟子たちと休息するために、このどこかに入られたんですね。
私、名古屋に4年間いたんですけども、みんなね、関東の人、どこから来たってあっちの方の人に聞くと、名古屋から来たって言うんですけど、実際聞くと岐阜県とか三重県なんですよ。
そうやって言われば、こっちの人にですね、岐阜のカニから来たとかですね、カカミガハラから来たって言ってもわからないわけです。
だから東海地区の人は、岐阜の人も三重の人も名古屋から来ましたって言うんですね。
まあそういう感じでですね、スロというと、この国全体を指すわけです。
とにかくイエス様の弟子たちは、休息するためにある家に入ったんですが、やっぱりそこでも多分、霊に漏れず隠れていることができなくて、イエス様の癒しの奇跡を聞きつけて、この女性がやってきたわけです。
さあ、そんな中で何が起こったかもう少し見ていきましょう。
この時にですね、
イエス様に対して女性がですね、訴えたわけですよね。おそらくここに出てきませんけども、娘の癒しを願ったんでしょう。
そうするとですね、その女性の訴えにイエス様がこう答えました。ちょっと読める方、読んでみましょうか。イエス様の言葉3、はい。
まず子供たちを満腹にさせなければなりません。子供たちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。
7章24節。あの今、NHKのBSでね、満腹っていう朝ドラが再放送やってますけれどもね、
日本で初めてカップラーメンを作った人の物語をですね、
NHKの朝ドラでやってました。それ満腹というテーマですけれども、それをさせておきまして、まず、
15:02
子供たちを満腹にさせなきゃいけない。子犬に投げて、ご飯を子供にあげる食べ物を子犬に投げてはいけないって言ったんです。
それは何か。イエス様はですね、これはあの例えであって、当時のまあおそらくギリシャの食卓でよく見られた光景だったようです。
文字通りですね、皆さん犬飼ったことあります?ご飯食べてると食卓の下に行くじゃないですか、寝たって。猫はどうするか知ってますか?
猫は机の上に乗ってくんです。机の上に乗ってくんですけど、こういう犬は乗れないですから、
なんかうろうろしたりですね、あのまあ食い地が張った犬はですね、この足にガリガリガリガリガリガリって、
餌食わせろ食わせろというかやるんです。まあそれはさておきまして、そういう子犬の当時見られた様子で、
おそらく子犬はこのギリシャ人の女性を含み法人を指しているんですが、これは差別ではなくてユーモアと、
おそらく愛情に富んだ表現だと学者たちは言っています。何がここで言いたいかというと、
先ほどから述べている救いの計画の順番に関して、ギリシャ人をはじめに法人、子犬よりも子供たちである神の民、イスラエル民族が先ですよってことをここでイエス様は表しているんです。
実は同じ出来事がマタイの福音書という中で少し詳しく書いてあります。
そこでイエス様はこういう言葉を付け加えているんですね。
それを読むとこの例えの意味がわかります。イエス様はこう言ってます。マタイの15の24。
私はイスラエルの家の失われた羊たち以外のところには使わされていません。
これは先ほど述べた神様の祝福と救いの広がりの順番のことを指しています。
心が誠の神様から遠く離れてしまった先民のイスラエルをまず神様は救わんがためにイエス様をユダヤ人、イスラエル民族の一人として使わせた。
だからイエス様はまずそのイスラエル民族の中で使えるということをおっしゃっているわけです。
繰り返しますが、子犬はギリシャ人を含め、この女性を含む違法人を指しているわけですね。
実はこの犬というのは、一般的には当時大きな野良犬で差別的な意味を指しています。
アメリカ、英語でも相手のことをドッグと言うと怒ります。
当時なぜ犬がそう差別されていたかというと、野良犬が一般的だったんです。
18:04
大きな犬は乱暴でゴミを漁っているのがいるんですね。だから汚れているとされていました。
当然、食卓には入れてもらえず意味嫌われて、それが人を指すと差別的な行為となるんです。
前も言いましたが、ゴミだけではなくて、自分が落としたものを犬が食べるということも当時も今もありますよね。
そういうこともあって、特に野良犬を指して犬が汚れていると言って差別的に使われていましたが、
ここであえて、食卓の下にいる子犬ってイエス様が言っているんです。
だからそこに鍵があって、差別的な表現ではなく、ウィットと愛情に富んだイエス様のチャレンジングな言葉だというわけなんですね。
最後のポイントを見ていきましょう。そこで子犬の信仰です。
それに言葉を受けて、彼女は答えました。
ここから読んでみましょうか。主よ、食卓の下の子犬でも子供たちのパンクズはいただきます。
そこでイエスは言われた。そこまで言うのなら家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出ていきました。
これは教会で毎月やっている生産式の歌の歌詞のもとになったことですよね。
大の下の屑さえも広い得ぬ我なれどという賛美歌の、聖歌の一節のもとになった言葉です。
彼女の答えから、まさに子犬が子供たちがこぼしたパンクズを食べる様子がありありと見て取れますよね。
皆さんもどうですか。お家で何か落とすと犬がやってきてベロベロ舐めたりとかしますよね。そういうのが生き生きと浮かんできます。
そして、そこで何がここで分かるかというと、このギリシャ人の女性は、このイエス様の意図、
ユダヤ人イスラエルの旅がまず先である、そして違法人はその次であるということをしっかり読み取ったということが分かります。
そして自分をあえてその子犬になぞらえてですね、そう答えたわけです。
私は確かに順番は後でしょう。でも子犬のような私でありますけれども、どうかそのパンクズを拾う子犬のようにイエス様、私を憐れんでくださいという、
彼女の減り下った信仰が出てきた。見て取れるわけです。
違法人である自分の立場を理解し、減り下ってイエス様に悪意をいただけるよう申していたということが分かるわけです。
実はこの今日の段落の前、マルコの7章の初めからの話題は、パリ西人や日本学者らによる汚れの問題が取り上げられていました。
21:02
なぜあなたの弟子たちは洗わない手でパンを食べるのですかということも前もありましたけれどもね。
しかしイエス様はその箇所で汚れとは、食べ物や器に関する細かいルールを守らない。そこではない。心の問題だとイエス様論じたんですね。
そして神の民であるイスラエルの代表者であった当時の立法の専門家であったパリ西人や立法学者、
彼らは神様の御心を悟らずにイエス様を救い主として受け入れることができませんでした。
まず彼らに救い主としてイエス様がイスラエルの民に現れたのですから、イスラエルの民のリーダーとあるパリ西人や立法学者たちはそれを悟ってイエス様を受け入れるべきでしたが、それを受け入れることができなかった。
そういう非憎といいますか批判もこの箇所に込められているわけです。そう言って代わって汚れたと言われていた違法人の女性がこのような神の御心を悟ったということです。
今申し上げましたように、一方で悟りがない汚れた民とされていたペリシャ人のこの女性がイエス様の意図をしっかり組んでイエス様を救い主として信頼していたということがわかるわけです。
実はマタイの福音書ではイエス様はこの女性にこう述べたと詳しく書いてあるんですね。
マタイの15の28節、その時イエスは彼女に答えられた。ここから読めるかと読んでみましょうか。
女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願う通りになるように。 彼女の娘はすぐに癒された。
はっきりとイエス様はこの出来事の時に、あなたの信仰は立派ですよと、子犬に向かって言ったわけです。
グーッとグーッとってね、皆さん言うかわかりませんけどね、犬は褒めると喜ぶそうです。本当褒めたけどね。
言葉はわかるそうですからね。グーッとグーッと。そういうことじゃなくて、あなたの信仰は立派ですとイエス様は彼女の減り下った、
自分をわきまえた信仰を評価されたというか、答えられたわけですね。
その女性とイエス様のやり取りを見ました。ここでよくわかること。実はイエス様は当時の立法学者、パリ財人と違って尺子定義に人を切ることはしなかったんですね。
順序が違うよと言って、このイホウ人のギリシャ人の女性を文前払いすることはしなかったんです。
おととい恋みたいなことはしなかった。 今はイホウ人の時ではないから、あなたの
24:02
には救いは訪れませんと拒絶することはしなかった。 実はそこにもこの今日の話の意味があるんですね。
繰り返しになりますが、パリ財人や立法学者がイスラエルの民族の優位性を絶対に譲らなかった、その態度とは全く違った。
そこにある意味深い救い主であるイエス様の姿を見ることができるわけです。
で、今日はここで話が終わるんですけれども、 イエス様はこの後ですね、
まさに十字架にかけられ復活されました。そうして文字通りイホウ人への祝福と救いの道を 完全に開いてくださったわけです。
であるからですね、当然今の日本人、あるいはアジア人の私たちも、その救い主イエス様を信じることによって、
神の祝福と神の救いの道に入ることができたわけです。
ですから キリスト教徒である方々、私たちはですね、この
イエス様の救いの技に感謝して、このギリシャ人の女性のようにペリクラリイエス様として信じていきましょう。
また新しく神とされたクリスチャンとして、間違った特権を意識を持たず、神様の祝福と救いをこの世にもたらすものとして、
神と人々に使えるべく歩んでまいりましょう。 私たちはこそですね、神の御心を知っているなどと言ってですね、誇ったり、
そうやって、まあ言いませんけれども、 他所の人をですね、悟らないと、
差別したり、見下すことは絶対してはならないことなんです。 それではなく、
神様の祝福と救いをこの世にもたらすものとして、自らを立志しながら、神と人に使えるべく歩んでいく、お互いでありたいと思います。
最後にイエス様の弟と言われたヤコブが書いた聖書の言葉を読んで終わりにしましょう。ヤコブ4章6節。
それでこう言われています。ここだけ読んでみましょう。3、神は畳ぶる者には敵対し、
減り下った者には恵みを与える。 お祈りをします。
天の神様、皆を賛美いたします。 今日は今の時代から見ると、本当にいろいろ考えさせる背景がありますけれども、
何よりもまず、イエス様のその広い救い、また愛の眼差しを知ることができますよう、どうか私たちを導いてください。
どうか私たちが今、イエス・キリストを救い主として信じることができた、その幸いをあなたからの恵みとして感謝して、
27:07
減り下って受け止めることができるよう、どうか導いてください。 またそのようなイエス・キリストにある、
誠の神と出会ったその祝福を受け取りながら、どうか私たちが
今の時代にあって、あなたの救いと祝福を表す、そのような器として、神と人々にお使いしていくことができますよう、
どうか導いてください。 この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。 それでは1分ほど、どうぞ皆さんその場で黙祷してください。
今日の聖書の言葉に応えて祈りましょう。
27:55

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