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2020-07-26 34:32

2020/07/26:イエス様のたとえ話~私たちへの問いかけ(9)招待される者は多いが、選ばれる者は少ない

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2020/07/26 聖日礼拝

尹善鎬牧師

マタイの福音書 22:1-14


00:00
今日も皆さんの信仰と健康が守られて、このように大勢の方々が共に礼拝できますことを、神様に感謝いたします。
今、イエス様のたとえ話、私たちへの問いかけのシリーズのメッセージをさせていただいております。
今日はその9回目で、タイトルは、招待される者は多いが、選ばれる者は少ない、という話題であります。
皆さん、実は招待されていなかったのに、知らずに、そのパーティーとかに参加されたことありますか?
私、夫婦があります。
日本に来て、日本と韓国の結婚式の文化がだいぶ違いまして、
同じ教会のメンバーでCSの先生をしていた方の娘さんと息子さんの結婚式のお知らせが手本に載って、
当時、行かなくちゃと思って、夫婦一生懸命場所を探して、ちょっと迷って、遅れて結婚式場に入ったら、
私式の先生はその教会の先生で、他は教会の神父さんは誰もいないんですよ。
神の神父の友人、それから親戚だけで、実は教会の神父さんは、いわゆる招かれていなかったみたいな、家族式みたいな結婚式だったんですよ。
でもそれが私の記憶では手本には書いてなかったので、当たり前のように、韓国での感覚を持って、当たり前に行こうと思ってですね、
行かなくちゃと思って、二人で、多分、ちょっと暑い時期でしたけれど、一生懸命に行ったらですね、
しかも空いている席もなくてですね、適当に座っていて、それで、なんか雰囲気がおかしいな、教会の神父さんは誰もいないし、
いやちょっと、なんだろうこの雰囲気はと思ってですね、後から後から聞いたら、いわゆる知人友人の家族みたいなだけの式だったので、
実は招待されていないのに、勝手に参加してしまった結婚式の最初の記憶があるんです。
今日のイエス様のお話は逆なんですね。
みんなに参加して、来てください、来てくださいと招いて招いていたんだけれども、最初は誰も来なかったという話になります。
今日のお話もですね、先週の21章の続きなんですね、実は。
03:07
そしてイエス様は、まず同じ対象に対して話をされたわけなんです。
いわゆるユダヤ人たち、あるいはパリサイピトたち、あるいは立法学者たちに対して、イエス様がもう一度例えをもって話されたということになります。
よく見るとですね、イエス様にもしつこいところがあるんだなと思うんですね。
一回、二回言ってですね、話をして、例えばこのユダヤ人とかパリサイピト、そんな彼らがですね、わからない。
そしたらイエス様ももう諦めよう、やめようとね。
我々人間だったらですね、何度言っても相手がわからない、聞いてくれない。
そしたら、だいたいあの人はもう諦めようみたいにですね、そう思うんですけれども、
イエス様は、実はイエス様の側からは諦めなかったんです。
彼らに対してですね、聞いてほしい、わかってほしい、気づいてほしい、悟ってほしい、そして罪を悔い改めてほしい。
と、そのためにですね、時には真夏に、時には例えを持って話されたわけなんです。
だからですね、福音書を読まれた方はお気づきだと思いますけれども、
マタイの福音書の、例えば13章9節をちょっと皆さん、開きましょうか。
マタイの福音書13章の9節。
そこにイエス様がよく例え話とか、何かのお話をした後にね、
慣用句のようによく言われる言葉がありますね。
それが、耳のあるものは聞きなさい、という話なんですね。
耳のあるものは聞きなさい。
今日の御言葉に戻りまして、どういう意味ですか。
私、みんな耳ありますよ。耳持ってます。
これは体の、この肉体の耳じゃないんですよね。
あなた方は体の耳があるならば、心の耳も開けて、私の話を聞きなさいと。
そういうメッセージではないでしょうか。
私たちもみんな同じく耳を持っています。私持っています。
しかしね、心の耳が開かれているかどうかの問題があるかと思うんですね。
その耳で神のメッセージを聞いて、よく気づいて、よく悟る人がいる一方で、
06:05
そうでない人もいるんだなと思います。
だから願わくは、私たちみんな、主のメッセージを、サインを、お話を、よく聞いて、よく悟るものでありたいと思いました。
さあ、今日のお話はですね、この例え話は、ある王様がいました。
王子のためにですね、宴会を、披露宴を開いてですね、多くの人々を招待したんですよ。
そしたら人々はですね、商売に行ったり畑に行ったりですね、したわけなんです。
そしたらね、この王様は、そしたら町に行って、もうみんな招いて、誰でもいいんだからね、みんな招待して、連れてきてくださいと。
それで客で一般になったんですね。そんな話になります。
さあ、この例え話は、実はわかりやすいと思うんですね。
ここでの、王様は神様のことですね。
それから王子はイエス様です。
この披露宴は、結婚の披露宴は、ミクニネの宴会、そのパーティーなんですね。
そこに人々を招待したわけですけれども、最初に招待された人々は、いわゆるユダヤ人たち、イスラエル人です。
確かにイエス様は、日本とかアメリカでお生まれになったのではなく、イスラエルでお生まれになったんですね。
そして、もう遡っていって、アブラムから始まって、神様は多くの預言者を通して、イエス様を通して、
彼らを一番最初に神のミクニネに、救いに彼らを招待したわけなんです。
だから一番最初に招待された特権に預かった人々は、ユダヤ人で、イスラエル人だったわけなんです。
ところがどうでしょうか、彼らはそんなミクニの救いに、宴会に招かれたんだけれども、
彼らは、どうですか皆さん、今日の誤説をご覧ください。
誤説を見るとですね、ところが彼らは気にもかけず、あるものは畑に、別のものは商売に出ていったとあるんです。
もう気にかけない、関心がなかったんですね。
身向きもしてくれなかった、いわゆる王様の正体を断ったということになります。
09:05
しかもですね、断るだけではなくですね、彼らはそれをもう完全に無視してしまったわけです。
最後はですね、旧約時代の話になります。
神様は旧約の時代に、いわゆる預言者たちをお使わせになりました。
ミクニの福音のために、神のメッセージを伝えるために、神様はイザヤとかエレミヤとか、
あるいは孟聖も預言者と言うならば孟聖とか、そういう人々を神様は使わせて、何百年も使わせて、
彼らを通して、エリアを通して、ある時はイザヤを通して、エレミヤを通して、エジェキエルを通して、
ずっと神様はミクニの福音を、神を愛して神に使えることを語り続けてこられたということであります。
しかもそれはね、一回、二回、何ヶ月、一年、二年やってみて、諦めたわけではないんです。
孟聖の時代からだけ数えてみても、五百年以上、一千年以上、神様は誰かを、預言者を送ってくださって、
イスラエルの人々に、神を愛しなさい、神を礼拝しなさい、違法の神々を捨てなさい、私に立ち帰って来なさい、
悔い改めて清められなさいとね、ずっと何百年も何百年も、神様は諦めない愛を持って語り続けてくださった。
つまりそれは招待してくださったんですよ。天国に入りなさい、ミクニに入りなさいとね、オープンなんですよ。
招待してくださった。私に立ち帰って来なさい。
あなた方が悔い改めれば、そのお罪が雪のように白くなると。心を尽くして、思いを尽くして、力を尽くして、主なるあなた方の神を愛しなさいとね。
イスラエルを諦められなかった神様。
聞いて、分かって、悔い改めを知って、そして神様だけを礼拝しなさいと叫んで来られた神様。
その背後にね、神様の諦められない神のある意味でしつこい愛があったんです。
ところがどうですか。今日の例え話、まったく同じく、イスラエルの人々はもう身向きもしてくれない。気にもわけない。
12:10
メッセージに関心がないんですよ。自分たちがしたいことをするだけなんですね。
例えば、サムエイル記とか列王記をみなさんぜひね、読んでほしいんですけれども、そこ読んだらですね、神の教会に神様もありますし、隣には偶像もありますし、もうね、もう言いたくない、すごくね、本当にだらこしたことが神殿の中にあったわけなんです。
それに対して、預言者たちが叫んで叫んで語ってもですね、もう聞かないんです。
あの、みなさんよく有名な話があるでしょう。エリアの話ね。
その当時の王様がアハブという王様です。奥さんはイゼベルなんですね。そのイゼベルがですね、もうエリアを殺そうとしたわけなんです。
それでエリアが逃げたこともあるんですけどね。その神の大使のような、神のメッセージを、サインを語ってくれる預言者たちを迫害したり、追い出したり、殺したりしたわけなんです。
そういう歴史がイゼベルにあったわけですね。
でも、この王様は諦めないんですよ。どうですか。またね、聖書をご覧ください。
八節を見てですね、その時王は島部たちに言った。宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちはそれにふさわしくなかった。
だから大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさいとね。
町にいてですね、もう誰でもいいんだからみんな招きなさい招きなさいとね。
いいものも悪いものもと書かれていますけれどもね。
さあ、ここでいう、いわゆる町に出て出会った人々は、ユダヤ人ではない、違法人を指しますね。
つまりイスラエル人、ユダヤ人たちが福音を断ったわけなんですね。
そしてその福音が、イエス・キリストの福音が世界に、違法に、そしてそれが広がって、そしてどうなったんでしょうか。
その福音がローマに、ヨーロッパに、アメリカに、南米に、そしてこの日本にもアジアにも入ってきて、私たちは救われたわけなんです。
15:03
でもこのお話はですね、ここで終わってないんです。
イエス様の問い話には時々緊張感とスリルがあるんですね。
招待された多くの人々がいて、そこで楽しくて、パーティーが終わったと言ったらハッピーアンドですけど、そうではなかったんです。
よくご覧ください。
11節。
ところで王が客を見ようとして入ってくると、そこに婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。
目立ったと思うんです。
婚礼の礼服を着ていない者がそこにいたんですね。
みんなが招かれて、みんなが参加できた、そこに入れたわけなんです。
しかし、これは例え話だからね。
婚礼の礼服を着ていない人がいた。
それで12節、そこで王は言った。
あなたはどうして礼服を着ないでここに入ってきたのですか。
しかし彼は黙っていた。
そこで王は下人たちに荒れの手足を縛って、外の暗闇に放り出せ、そこで泣いて吐きしりをするのだと言った。
14節、みなさん一緒に読みましょうか。
招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。
ここにね、いやもう誰でも着ていいよと言ったのに、礼服を着ていないだけで放り出して追い出すのは、
この王さんはちょっと変な人だなと思うかもしれませんけど、
ここではポイントはそこにあるわけじゃないんですね。
本礼の礼服を着ていなかったことなんです。
この本礼の礼服は何でしょう、みなさん。
これは簡単に申しますと、救いの衣、儀の衣なんですね。
この礼服はみんな着なければならない。
ある意味で着替えなければならないんですね。
この披露宴に、宴会に参加できる、みんな入れるしかし、
そこにその宴会を味わって喜べるその資格と言いましょうか。
それはこの礼服だったということであります。
ところがこの人はそれを着ていなかった、着替えていなかったということなんです。
昔も今もこれからもイエス様はみんなを招いています。
18:05
福音に招いています。天国への祝福に招いています。
お母さんたちは実はみんな招待されました、されています。
みなさんを通して、友人、知人を通して、あるいは文書、あるいはチラシを通して招かれています。
招かれていない人は誰もいない。
みんな神の国に救いに招待されて、招待所が実は届いているわけなんです。
今も神様は招待しておられます。
救いに、神のパラダイスに、宴会に招待されます。
しかし招待はされますが、その御国に入って、そこにいられる資格はみんな持っているわけではないということなんですね。
そのためには礼服を着なければならない。
着替えなければならないわけなんです。
それは救いの服でしょう。義の衣でしょう。
イエス・キリストを信じて、私たちに神様が着替えさせてくださる義の衣というものなんです。
だから皆さん、私たちはイエス様を信じることを通してですね、
私の過去のボロボロの衣、汚れの罪の浄浴の様々なその衣をですね、
イエス・キリストが十字架で流してくださったあの血潮によって、
黄色い、白い、またその義の衣をもって着替えさせてくださったということであります。
この話がですね、なんと旧約聖書のイジャヤ書にですね、はっきりとですね、書かれているんです。
そこをちょっと開きたいと思います。
イジャヤ書61章10節。
1227ページです。
1227ページ、イジャヤ書61章10節。
ちょっと長いですけれども、皆さん一緒に読みたいと思います。
よろしいですか。
21:00
私は主によって大いに楽しみ、私の魂も私の神によって喜ぶ。
主が私に救いの衣を着せ、正義の街灯をまとわせ、
花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるがらた。
血が芽を出し、そのが撒かれた種を芽生えさせるように、
神である主が二と三人を全ての国の前に芽生えさせるがらた。
ここにね、明らかにですね、書かれているんですね。
私は主によって大いに楽しみ、私の魂も私の神によって喜ぶ。
その次ですね、主が私に救いの衣を着せてくださった。
これなんですよ。
婚礼の礼服はこの救いの衣なんですね。
それから正義の街灯は救いの衣とも同じことなんです。
正義の街灯をまとわせてくださった。
花婿のように栄冠をかぶらせてくださる。
花嫁のように宝玉で飾ってくださるということなんです。
それが救われたものに既になされた神の祝福であります。
アメでしょうか、皆さん。
私たちは自分で自分の過去の穢れの服を、
罪の服を自分で着替えることはできないものでした。
しかし神様は諦めない愛をもって、
しつこいほどの愛をもって、追っかけてくださって、
悟らせてくださって、気づかせてくださって、
私たちの汚い服を全部脱がして、
そして義の衣、十字架の衣、正義の街灯で着替えさせてくださった。
そして我らを抱きしめて、
あなたは私の愛する子、私の子供だと神のことをしてくださったんです。
それがイエスをキリストとして信じるものに既になされたこと、
上等されている恵みで祝福であることを皆さん信じていてください。
だから、この今日の例え話に、
あのパリサイピトのような宗教家たち、
あるいは私はアブラムの子孫だと誇っているユダヤ人たち、
彼は確かに伝統的に詳しくて、
知識は持っていて、慣れていたでしょうけれども、
このように婚礼の礼服を着ていなかった。
24:04
救いの衣で着替えていなかったということなんです。
そして最後の最後に、それでもね、
着替えてもらえる、させてもらえるチャンスがあったにもかかわらず、
このね、婚礼の礼服を着ていない者は黙ってですね、
何も言ってなかったんですね。
その結果はどうですか?悲しくも追い出されてしまった。
そしてイエス様は大事なポイントを話されました。
招待される者は多いが、選ばれる者は少ない。
冒頭に申しましたように、この例え話を読みながら、
私たちは改めてわかる大事な真意が一つあります。
それは、諦められないイエス様の愛です。
何の話でしょう。
イエス様は、このようなパリサイ人たちも、
レッポー学者たちも、サドカイ人たちも、
あるいはね、もう気にもかけてくれないユダヤ人たちも、
彼らもね、悔い改めて、
罪の衣を拭い去って、義の衣に着替えて、
救われることを主は望んでおられた。
だからね、イエス様はもう福音書を読んだらですね、
もう彼らのことを諦められなかったんです。
たとえ話で話された、直接に話された、
諦められなかったということなんです。
私たちはですね、ちょっと気まずい人、
ねじれたプライドを持っている人、
なんかややこしい人との関係をですね、
持つこと、諦めるんですね。
あの人とも話さなければよかろうとね。
敵にはしないんだけれども、
無関心の関係にしてしまう。
そうしてしまうね、我々のこの罪深さが、
我々にあるんです。避けるんですね。
あるいは、もっと敵対するか。
でもね、イエス様は、この聞いてもくれない、
気にもかけてくれない、無視される、
こんなね、パリ裁人、ユダヤ人たち、
立派学者たちを、イエス様は最後の最後まで、
諦められなかったんですよ。
聞いてほしいから、分かってほしいから、
27:02
悟ってほしいから、ね。
もうしずくを言うほどですね、
粘り強くイエス様は、
語り続けて、語り続けて、
くださったということであります。
時には例えを持って、話された。
どういう意味でしょうか。
イエス様は、彼らが悔やかめることを
願っておられたわけなんです。
自分たちの罪に対して悟ることを、
主は望んでおられた。
罪の衣をぬぐい去って、
義の衣に、救いの衣に着替えることを、
願っておられた。
御国の王子であるイエス・キリストをね、
救い主として受け入れることを、
主は望んでおられた。ね。
だからイエス様は、語り続けてくださった。
その後にも、イエス様が昇天された後にも、
どうですか。ペテルを通して、
ヨハネを通して、あるいは、
シト・パウロを通してですね、
語り続けてくださった。
時にはとてもね、
パプテスもヨハネも言いましたけれども、
魔物の子らよとね、義善者たちよですね、
石に叫んだ方がマシだとね、
その後のメッセージがありました。
それはイエス様が、
彼らがもうね、嫌だから、
もう憎んでいたから、
呪うためのメッセージではないんじゃないですか。
彼らも神のためだから。
彼らも悔い改めて、
彼らも本当の御国の民になってほしいから、
イエス様は諦めずに、
ギュッとサインをね、
イエス様が送ってくださったわけなんです。
分かってほしい、気づいてほしい、聞いてほしい、
耳を開けて聞いてほしいとね、
イエス様は諦めずに語り続けて、語り続けてくださった。
この粘り強さは本当にすごいなと思うんです。
だからそれがあるから、
私たちは救われたわけなんです。
そうでしょう。
いとも簡単に私はポッと救われた人は、
実は誰もいないんです。
クリスチャンホームで生まれた人でさえ、
そうではないんです。
私もですね、母の親子の元に生まれたわけですし、
母の母体から許可に通わせてもらったわけですけれども、
自分が自分の親子と言いましょうか、
それをもって本当に親子に入ったのは、
約1年生、2年生の時だったわけなんです。
神様は諦められなかったんですね。
30:02
これが諦めない神の愛なんです。
今日も同じなんですね。
神様は決して救いを諦めないんです。
全ての人が救われて真理を知るようになるのを望んでおられます。
どこかで聞いた話なんですか。
去年と今年の教会の成功ですよね。
ちょっと開きましょう。
手も手の手紙第1、2章、4節。
新約聖書、手も手の手紙第1、2章、4節。
新約聖書の407ページ。
新約聖書407ページ。
手も手の手紙第1、2章、4節。
一緒に見ますね。
神は全ての人が救われて真理を知るようになるのを望んでおられます。
皆さん信じますか。
本当に神様は諦めないんですよ。
全ての人が救われることを願っておられ。
昔は預言者を通して、今は皆さんを通して、教会を通して、
いろんな方法を通して、テレビ放送、衛星放送、チラシを通して、
ミッションスクールを通して、さまざまなところを通して、
時には事故、時には死、時には病気を通して、時には優しい人を通して、
あらゆる方法を通して、主は招待しておられるということなんです。
少なくとも神様とイエス様、神様の側は、みんなが救われるのを諦めないんです。
どういう意味か。それは断るのは人間側にあるわけなんです。
誰が救われ、誰が救われないでしょうか。
神様はみんなに同じく招待しておられる。
しかしその招待に、招きに応答しない。
今日のお話みたいに畑に行って、商売に行って、結婚したから、軍隊に行くから、
そういうふうにして断る者は、神の正体を拒んだ者、断った者になりますし、
そして着の衣に着替えていない者は、結果的にどうなりますか。追い出される。
最後のイエス様の再入りの日には、羊とヤゲとして分けられて、
神の御国と地獄に分けられて、そういうふうになるわけです。
神様は招待を、救われることを決して神様は知っていない、諦めていないということになります。
33:00
それは既に救われた私たちに向かっても同じでしょう。
私たちが能力が足らなくても、お金がなくても、学歴が良くなくても、
元気であっても元気じゃなくても、若くても歳をとっても、罪が多くても傲慢であっても、
イエス様は私たちが日々主のメッセージを聞いて、分かって、悟って、変えられて、
毎日毎日イエス・キリストの十字架の着の衣で着替えさせていただいて、
主に従うことを主は願っておられます。
そして私たちを常に何かの方法を通して招いていってくださるんです。
主の祭を築いてほしいんです。分かってほしいんですね。心の耳を開けて聞いてほしいんですね。
こんなにも私たちは愛されるイエス様、招いてくださるイエス様、
救われた者には日々清められることを日々の着の衣で着替えて、そして清められて、変えられて、
神に伝える、神に奉仕するこの神の正体に応答していこうではないでしょうか。
お祈りしましょう。
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