2022-07-03 20:58

#112/22/7/3 愛への自由

ガラテヤ5:6-15からの礼拝説教。2022年7月3日録音。先週は香港が返還されて25周年の記念式典が行われ話題になりました。またロシアのウクライナ侵攻が始まって4か月が過ぎました。欲しいままに振舞う独裁者たちによって、世界が振り回されているとも言えるでしょう。話が大きくなりすぎましたが、「自由なのだから、欲望の赴くままに何でもできる」と考えることを「無律法主義」といいます。パウロが律法からの自由を教えるにあたり無律法主義を助長しているという誤解が生じたようです。この無律法主義については次回以後に取り扱いますが、今日の箇所ではパウロが語るキリストの愛の律法にかかわることを1.無意識に働く肉から生まれる言動、2.神の愛の実践、互いへの奉仕という新しい動機、3.唯一の動機としての愛、の3つの点から学びましょう。

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ガラテア寺院への手紙、5章、6節から15節、新開薬聖書、2017年版でお読みします。
キリストイエスにあって大事なのは、滑稽を受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。
あなた方は、よく走っていたのに、誰があなた方の邪魔をして、真理に従わないようにさせたのですか。
そのような説得は、あなた方を召された方から出たものではありません。
わずかなパンダ根が、こねた粉全体を膨らませるのです。
あなた方が、別の考えを持つことは決してないと、私は主にあって確信しています。
しかし、あなた方を動揺させる者は、誰であろうと裁きを受けます。
兄弟たち、もし私が今でも滑稽を述べ伝えているなら、どうして今なお迫害を受けるのですか。
それを述べ伝えているなら、十字架のつまづきはなくなっているはずです。
あなた方をかき乱す者たちは、いっそのことを切除してしまえばよいのです。
兄弟たち、あなた方は自由を与えられるために見されたのです。
ただ、その自由を肉の働く機械としないで、愛をもって互いに使い合いなさい。
立法全体は、あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい、という一つの言葉で全うされるのです。
気をつけなさい。互いに噛みつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。
以上です。
今日はこのところから、愛の自由と題して見事を取り継ぎます。
皆さん、おはようございます。
今日はですね、暑いこともあって、Zoomで礼拝を守っている方、また後でも簡単に自己紹介していただきますけれども、
山本さんご一家が来てくださっていますね。
共に礼拝を守れることを感謝しています。
いつも私たちの教育相手はですね、完全言語のレジュメを皆さんにお配りしていますので、
必要であればそれを参考にしながら、説教をお聞きください。
先週はですね、香港が返還されて25周年でありました。
その話題になりましたし、また、今ロシアのウクライナ侵攻が始まって4ヶ月が過ぎ、世界が騒がしい、
まさにですね、独裁者が欲しいままに振る舞って、それに振り回されている、そのような世界です。
話が大きくなりすぎましたけれども、自由なのだから、欲の赴くままに何でもできると考えることを、無立法主義と言いますね。
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パウロがこのガラティアビテの手紙の中で、立法からの自由を教えていますが、無立法主義を教えているという、そういう誤解が生じたようです。
それに弁護するかごとくですね、パウロは自由の健全な使い方を語るわけです。
無立法主義については、来週もう少し詳しく話しますけれども、
今日の歌詞はですね、愛の立法に関わることを、パウロは語っている、特に後半のですね、13、14、15節を中心に、3つのことから学んでいきたいと思います。
まず最初ですね、無意識に働く肉から生まれる言動というのがあります。
読める方、この前にもありますが、5章15節を読んでみましょう。
3、気をつけなさい。互いに噛みつきあったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。
今日の歌書ではですね、肉の言動の顕著な例として、パウロがこの15節の見言葉を述べています。
この、特に教会の中で互いに噛みつきあったり、食い合ったりしている。
これはですね、まさにこの獣同士がですね、ワンワンワンワンって噛みつきあう。
うちも犬飼っててね、うちの犬は散歩を行くと必ず他の犬に吠えるんですね、ちっちゃいのに。
他の犬と友達になれないんですけども、犬がワンワンワンって吠え合ったりですね、で、噛みつきあう。
トサイのランが噛みつきあいますけど。
あるいはですね、食い合うというのは、この獣がですね、この獲物を貪り食う様子。
ライオンがですね、この獲物を、シマウマを食べるとかですね、そういう貪り食う様子を表しています。
で、これはですね、ガラティア教会内のクリスチャンの争いということが背景にあります。
もう少しこの背景について説明しますとですね、
実際にその時争いがあったのかどうかというのは分からないそうです。
でも、パウロは少なくともその危険を察知してこの見言葉を述べました。
で、問題はですね、立法主義の異端が入り込んで、
そしてその異端の影響を受けたガラティアのクリスチャンとその異端の教師たちの側、
そして正当な福音をそのまま維持している純粋なクリスチャンとの間に争いが生じた。
そしてそれが東派心や文化が生まれてですね、エスカレートして罵り合いとか、
あるいは果てには掴み合いの喧嘩がですね、この起こる、そういうことが背景にあったそうです。
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覚えている方はですね、この首都の働き13・14章を見ると、
ガラティア伝道でパウロがですね、反対者から激しく罵られたりですね、
あるいは石打ちにあってパウロが死にそうになったという事件が起こっています。
そういうこともパウロは考えて激しい争いが教会内で起こることを予知して教えたようにも思われます。
パウロはですね、これまでそのような争いの背景にあることをですね、
ガラティア人の異教や違法人的価値観というものがある。
あるいはですね、ユダヤ人の中でさえこの立法主義、
それがですね、どちらも聖書の立法主義であっても、異教の教えであっても、
人々を奴隷とする諸々の霊や幼稚な教えと四章三節で言っているんですね。
この諸々の霊や幼稚な教えというのは、大雑把に言うと、
大きく言うとイエス様の福音以外の価値観全てを指している。
それはですね、私たちの人間の考え方や言動の価値判断を与える諸原則と言い換えることができるんですね。
さらにそれはですね、私たちの中に無意識に働いて、
そしてあるいは私たちが何かそれに影響されて反射的に悪いことをですね、
言ったりやってしまうそういう悪い動機、そこに福音以外の諸原則があるとパウロは言っているんですね。
そう考えると実は私たちの中にも無意識のうちにですね、
福音以外の諸原則の奴隷になってしまうという危険があるわけです。
例えばですね、一例を挙げると、ある学者はここから言っているんですけど、
不健全な自尊心ですね、悪化すると傲慢ということになるんですけども、
それをですね、例えばよりどころとしての財産であったり職業であったり、
あるいは学歴であったりなどですね、この世の価値観、
そういうものがよりどころとして関係している。
それが不健全な自尊心と関係している。
そしてですね、その自尊心が傷つけられたときに、
人は無意識のうちに例えば怒るわけです。
ちょっと詳しく覚えていないんですけど、私、
そうですね、7、8年前ですかね、教育会と全然違うところで、
90歳くらいのご夫人と話ししていました。
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何かのきっかけでお金のことを言ったんですね。
そしたらですね、その人突然、私そんなお金持ってるよって怒り始めたんですよね。
何言ってるかわかんないんですけども、そういうことを言われた。
多分、その方はすごくお金っていうことに対して、
自分のこのよりどころとして大事に思ってるんだなってことを
その時思ったのを思い出したんですけども。
その人が良い悪いってことではなくて、
私たちこの無意識のうちに傷つけられる自尊心。
そういうときにですね、それを守るために見栄を張ってしまったり、
嘘をついてしまったり、あるいは悪いときには
自分を高めるために人を貶めて批判してですね、
自分の立場を守ろうとしちゃう。
それは悲しいことに自分が加害者になる場合もあれば、
被害者になってしまうこともあるでしょう。
この自尊心を守るために、
あるいは自分の優位な立場を築くためにそれが発展して、
ここのパウロがいうような党派心とかですね、
この仲間を得る味方につけていく党派心、
分派が生まれるということをいう、
そういう都党を組むということが起こるわけです。
聖書では党派心と言っています。
私はですね、今の教会に問題があるから言っているのではないんです。
言いたいことはですね、ただ人は誰でも無意識のうちに、
福音以外の諸原則の奴隷となりやすいということでお話ししたんですね。
それはなぜか私たちはですね、
この無意識の自分の奴隷状態に気づいて、
神様が私たちに与えようとしている本当の自由を得てほしい、
得るべきだと考えたからあえてこういう話をしました。
あるいはですね、この福音以外の諸原則の奴隷という考え方はですね、
もしかしたら私たちが誰かから嫌われせをされたり、
ハラスメントをされたときにですね、
その相手の人の意識の底に何があるかということを見抜いて、
自分を守る、そのためにも役立つかもしれない。
そんなこともあって、お話をした次第であります。
一番最初の原則はですね、
自分の意識に働く肉から生まれる言動ということを話しました。
二番目、しかし私たちはですね、
神の愛の実践、お互いへの奉仕という新しい動機が与えられているということなんです。
読める方、前にもある五章十三節をちょっと読んでみましょうか。
兄弟達、あなた方は自由を与えられるために召されたのです。
ただその自由を肉の働く機械としないで、
12:00
愛をもって互いに使いあいなさい。
ここでいう肉というのはですね、
私たち人間が罪に誘惑されたり、
神様に反抗したいという、その人間ゆえに持っている弱さです。
これは私たちがたとえクリスチャンになったとしても、
生涯残ってしまう弱さ。
これを受け入れなきゃいけないんですね。
ですからパウロが言う、ここで言う自由を肉の働く機械にするというのはですね、
特にこの文脈に当てはめて言うならば、
自由を口実に、私は立法から解放されたんだという自由を口実に、
何でも言いたいことを言って自己主張することとか、
あるいは自由を理由に相手を傷つけたり、他の人に迷惑をかけても、
お構いなしに欲しいままに振る舞う、そんなことを言えると思います。
実はこの考えもしない言動は、
一番最初に取り上げた、無意識のうちに働く動機ということと関係してくるわけです。
悪い動機と、無意識のうちに働く悪い動機とも関係してくるわけですね。
しかし私たちクリスチャンは、この新しい良い動機が与えられました。
例えば先ほどの例を挙げれば、今まで立法は、
自分のプライドを守ることしか自分の動機がなかった、
言動の動機がそういうところにしかなかったかもしれません。
しかし今は新しく愛を動機として生きる、
お互いに使い合うことを新しい動機として生きる、
そういう自由が与えられたというのです。
私たちが福音を知る前は、この無意識のうちに
悪の諸原則の奴隷となって生きるしかありませんでした。
しかし今は新しい価値観に生きるべく自由が与えられた、
新しい選択肢として愛に生きる自由が与えられたのです。
この新しい価値観とは、愛を実践する生き方、
今までは無意識のうちに悪い諸原則の奴隷となったけれども、
何度か言いますが新しい選択肢が生まれました。
それはイエス様の愛に生きるという選択肢です。
それがこのガラティアの5章の13・14で言われている
愛への自由に生きる道なんですね。
最後、唯一の動機としての愛ということです。
5章の14節読める方、前にもありますが読んでみましょう。
立法全体はあなたの隣人を自分自身のように愛しなさいという
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一つの言葉で全うされるのです。
今日は触れませんでしたけれども、5章の3節ではですね、
かつれを受ける人に命じます。
かつれを受ける人は全ての立法を守る義務がありますよ、
と先週見ましたね。
しかしここではですね、全ての立法を守るというのではなくて、
立法全体がこの一つの言葉で全うされるというのです。
隣人を自分のように愛しなさいというたった一つの言葉で
全ての立法、立法全体が全うされるとパウロは言うんですね。
これはですね、ご存知のようにイエス様の御言葉ですね。
モーセの立法が与えられて以来、
数々のユダヤ教の教師が旧約聖書からいろんなことを語ってきたんです。
でも驚くべきことにですね、立法をこの一つの言葉にまとめた
この隣人を自分自身のように愛しなさいという一つの言葉にまとめたのは
イエス様だけだったんですね。
何千年の立法の歴史の中でイエス様しかこのようなまとめ方はしなかった。
で、それがですね、30年以上経った当時ですね、
パウロの手紙にまで書かれているということは、
それほどですね、この言葉に大きなインパクトがあって語り継がれてきたという意味があるんですね。
実はこのあなたの隣人をあなた自身のように愛しなさいというのは、
それほど尊い教えなんですね。
先ほど申し上げましたけれども、
たった一つの立法を守る。
そのたった一つの立法、この隣人への愛。
これがですね、クリスチャンが向かうべき道だということなんですね、この愛の立法。
この慣れ親しんだ忌ましめ、その慣れ親しんだ忌ましめをもう一度ここで私たちはかみしめて、
そして意味の重みを受け止めていくことではありませんか。
神様は私たちはですね、立法から解放して自由に生きる道を与えてくださいました。
この新しく愛に生きる、この新しい愛の立法を全うするために私たちは生きるという新しい自由の目的を与えられているわけです。
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それはもちろん神の家族に仕えるために召されている、その神の目的に従った自由なのであります。
この世の中には様々な価値観が行き渡っていますね。
私たちもイエスさんを信じていながら、知らずのうちにこの世の価値観に流されてしまって、
無意識のうちにそのような証言則に振り回されることがあるかもしれません。
しかし私たちはこの愛の立法を唯一の価値観として、価値判断として生きていく、そのような道が残されているわけです。
宗教改革で有名なマルチン・ルターがですね、このような有名な言葉を残していますね。
ちょっと難しいかもしれませんが、読めるかと読んでみましょうか。
キリスト社は全ての者の上に立つ自由な主人であって、誰にも従属しない。
キリスト社は全ての者に奉仕する下辺であって、誰にも従属する。
これはですね、今日の御言葉をうまくまとめたルターの言い方ですね。
矛盾するようですけども、実はこのキリスト社の愛の自由ということを言い当てている素晴らしい言葉です。
そして今日最後に、ガラティア五章六説にあるこの御言葉を読んで、説教時間を閉じたいと思います。
読めるかと読んでみましょう。
キリストイエスにあって大事なのは、活礼を受ける、受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。
ガラティア五章六説。
御祈り申し上げます。
それでは一分ほど御言葉に応えて、それぞれその場で黙祷してください。
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