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今回の手紙、6章1節から4節、新海約聖書2017年版でお読みします。
子どもたちよ、主にあって自分の良心に従いなさい。これは正しいことなのです。
あなたの父と母を敬え、これは約束を伴う第一の今しめです。
そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く、という約束です。
父たちよ、自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓誡によって育てなさい。
以上です。 今日はこのところから、
子どもと親への教えと題して、瞑想を取り継ぎます。 皆さんおはようございます。
今日は別の教会に行っている方とか、体調不良で礼拝に来られない方がいますけれども、ここでですね、共に主を礼拝できる幸いを本当に嬉しく思います。
エプストビートの手紙からですね、ずっと続けて私たちの教会では、礼拝を取り上げています。
1章の1節からずっときまして、今日から6章になりました。 先週のところからですね、
家族に対する教え、いわゆる家訓ですね。家訓のところに入りました。 そして先週はですね、
夫婦の教えだったんですけども、今日は親子に対する教えです。親子に関わる教え。
皆さん明日、何の日かご存知ですよね。オミクロン株が蔓延して成人式が中止になる、そんなことも言われてますけれども、明日は成人の日です。
成人の日、皆さんそういう日を体験した方もいらっしゃれば、ご家族がそういう成人の祝いをした方もいらっしゃると思いますけれども、
とても喜びの日ですよね。 本人にとっても、そして親御さんにとっても喜びの日が、成人の日かもしれませんが、
先ほども言いましたが、今日の6章の頭からパウロは、親子に対する教えを語っています。
子供への教えから2点、父あるいは両親の教えから1点、合計3つの点から学びます。
その中で、当時の子供が置かれていた状況なども、ちょっと紹介しながら、ともに学んでいきたいと思います。
これちょっとわかりにくいですけれども、家庭というのは、本当に幸いな場所であって、これひめくりカレンダーなんですけれども、
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幸福にお金がかからないという、もう猫が寝てますけれども、これにですね、ここちょっと読みにくいんですけれども、マザーテレサの言葉が引用されているんですね。
彼女がこう言っているんですね。
愛は家庭にすまいます。子供を愛し、家庭を愛していれば、何も持っていなくても幸せになれるのです。
今、夫婦の在り方とかですね、独身の方も増えたり、子供がいる、いない、いろんな多様化してますけれども、
価値観が多様化してますけれども、家庭、親子関係が祝されると、
本当の幸福を味わえるとマザーテレサも言っているわけです。
そんなこともありながらですけれども、まずですね、子供の親に対する態度に関わる教えです。
まず、両親に従いなさいという教えをパウルは述べています。
読み上げ方はちょっと、6章1節、これ前にもありますけど、大きい声出せませんが読んでみましょう。
3、子供たちを主にあって、自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。
これはですね、正しいことなのですという意味、どんな意味かというと、
当時のローマ社会の中でも一般常識として、この価値観は受け入れられていました。
そして当然ですね、旧約聖書の価値観からも受け入れられていたので、
パウルは、違法人のクリスチャンの、ローマ社会で生きるエペソのクリスチャンにですね、
正しいことだから、あなたは自分の親に従いなさいと教えているわけです。
実はですね、明日成人式です、するところも多いんですけど、イエス様自身も成人式を行ったの知ってます?
ユダヤ教ではですね、バーミツバと言ってですね、数えで13、12歳の成人の祝いをするんです。
で、ルカの2章を読むとわかりますけれども、イスラエルの神殿にわざわざ行って、
この成人男性の、12歳、13歳の男の子の祝祭というか、神への献身を表明する、
いわゆる成人式をイエス様も行ったわけなんですね。
で、しかしイエス様は、その後、両親に従ったと聖書は言っています。
こんな絵もありますけれども、ルカの2章51節で、イエス様についてこう言ってですね、その成人式が終わった後のイエス様。
それからイエスは一緒にエルサレムからですね、下って行かれ、ナザレに帰って両親に仕えられた。
母マリアはこれらのことを皆心に留めておいた。
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何が言われているかというと、実は私たちが両親に従うということは、イエス様の足跡に習う、
そういう生き方だということを覚えておいてください。
しかしですね、ここに、主にあって、という言葉があるんですね。
神様の御言葉や御心に従うことを親が従い、それはそこまでして従う必要はないという基本的な価値観もあります。
だから主にあって、主にあって、という言葉があるんですね。
ですから、これが親に従う意味で正しいことだとか、主の御心に反していることだということを、
私たちは知るためにも聖書に親しんでいく必要があるわけですね。
まず最初、両親に従いなさい。主にあって従いなさいということです。
2番目、与えられたい約束ですね。
読める方、6章2章2節3節読んでみましょうか。
あなたの父と母を敬う。これは約束を伴う第一の今しめです。
そうすればあなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続くという約束です。
実はですね、このエブソビトの手紙6章2節3節のタオルの教え、
これは旧約聖書、執エジプト記や新明記の5章16節、いわゆる実解の言い換えなんですね。
ちなみに、新明記から引用してますけど、こういう風に新明記に書いてあるんですね。
あなたの父と母を敬え、あなたの神主が命じられたとおりに、
それはあなたの弱いが長くなるため、また、あなたの神主が与えようとしておられる地で幸せになるためである。
違いに気づいたかもしれませんがね。
ここの主が与えようとしておられる地っていうのが、その土地でっていう言葉に言い換えられています。
余談ですけど、これはイスラエル民族に与えられた言葉なので、約束のカナンの地でっていう意味が入ってますけども、
ここではエヴェソの教会の人たちや、当時のアジア地区の教会の人たちに対しての言葉なので、
あなたの生きているところで、あなたは幸いを得るんだよとパウロは教えているわけです。
実はですね、この言葉、6章2節3節は解釈の難しい点があるんですね。どういうことか。
実はですね、簡単に言うと、この約束です。
幸せになる日々が長く続くという約束が一体何を意味しているのかという点での解釈で、
簡単に言うと、学者の説が分かれて難しい。ある人はパウロの意図を読むのは不可能だと言っています。
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ただですね、言われていること、それはですね、
まずイエス様を信じて、ニコザワに従っていても、幸せと長い命、
それがですね、簡単な人生を約束しているわけではないという意味なんですね。
何でもハッピーだ、やることすべてが成功するという、そういう安易な約束ではないということなんですね。
なぜなら、6章のこの後出てきますけれども、クリスチャンは戦いの中を生きている。
パウロは6章では、霊の戦いと言っていますけれども、クリスチャンは戦いの中を生きていたり、
イエス様を明かしする中で、迫害に遭うこともある。そういうことなので、単なる簡単な幸せではない。
あるいはイエス様はですね、自分を捧げて従いなさいと言ってますから、
そういうある意味、犠牲もイエス様に求められているわけですから、安易な幸せでもないわけです。
あるいはですね、長く続くと言ってますけど、長生きするということでもないんですね。
なぜならパウロは、たとえ肉体が死んだとしても、永遠に神と共に生きると言っているからです。
その上でですね、こういう意味が考えられるということです。
ちょっとある言葉を引用してますけれども、このパウロが言う幸いというのはこういう意味だと。
人が神の計画に従って行動するとき、人は神の恵みを最も深い意味で享受するということなんですね。
実はこの考え方というのは、聖書全般に対する私たちの信仰とか、神様の御心に対する私たちの態度を表すとも言えますね。
簡単に言うとですね、時に神の御心とか、この御言葉の教えのですね、明確な意味がわからなくても、
神様の御言葉や御心に従って生きるときに、私たちが思いもよらない深い神様の恵み、
最も深い意味でと言いますけれども、私たちが想像もできない深い神様の恵みや幸いを体験することができると言えるでしょう。
成人式になるとですね、成人たちは自分の夢を語ったりとか、そういうことを言わされたりします。
でも、多くの場合といっていいすぎかもしれませんが、夢が叶わない場合もあるわけですよね。
こんなはずじゃなかったと思うことは、私たちが30年40年50年生きるときにないとも言えません。
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でもそこにですね、神がこの道を備えてくださったんだという確信があるときに、
まさに深い神様の恵みや喜びを体験することができる、そのような満足を知ることができるということなんですね。
良い人生というのはどういう人生か。
幸いな人生はですね、イエス様と一緒に旅路を歩む人生だと言うんですね。
そしてその旅の終わりには、何があったとしても必ず祝福が約束されている。
イエス様は私の十字架を背負って来なさいと言いましたけれども、その二は追いやすく軽いとも言っておられるんですね。
有名なこのイエス様の見方にちょっと耳を傾けてみましょうと言いますね。
全て疲れた人、重荷を負っている人は私のところに来なさい。私があなた方を休ませてあげます。
私は心優しく減り下っているから、あなた方も私の首輝を負って私から学びなさい。
最後の部分読める方一緒に読んでみましょうか。
そうすれば魂に安らぎが来ます。私の首輝は追いやすく、私の二は軽いからです。
イエス様に従う道は決して簡単ではないかもしれませんが、その首輝は追いやすい、二は軽く、思いもよらない深い幸いを知ることができるということですね。
それはまた私たちと両親との関係にも言えるということなんですね。
そしたら3番目、最後の点。今度は父親両親に対する教えです。
子供を怒らせてはなりません。繰り返しになりますが読める方は6章4節読んでみましょうか。
父たちよ、自分の子供たちを怒らせてはいけません。むしろ主の教育と訓誡によって育てなさい。
これは当時子供に対する権威はいわゆる過不調性の中にありましたから、父親が断然こつよく持っていたんですね。
でも多くの学者は父親が基本に教えられていますけれども、母親にとっても耳を傾ける教えだと言っています。
でも基本は父親、私もそうですけれども、父親への教え。
ここでパウロが言っているのは、当時の社会習慣と同じように父親が子供の教育やしつけをすることは認めています。
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でもいわゆる、権威の乱用があってはいけませんよと言いましめているんですね。
実はですね、この家訓シリーズというのはこういう特徴があるんです。
当時の社会的な上下関係の中で、下の地位のものを最初に教えて、次に上の地位のものを教えます。
今のところで言えば、子供に教えますよね。下の地位のものを当時の風習で。
あとで今は高い地位の父は教えています。
先週見たところですね、ちょっと語弊あるかもしれませんが、当時の習慣ですよ。
当時は夫婦の間では男性の方が立場上だったんです。女性は従う立場だったんです。
だから先週の教えも最初に妻たちよって教えて、そして夫たちよって教えました。
これ想像してみたんですけど、当時教会でこのパウロの言葉を聴いた人、
聖書を読まれたんですけどもね、この手紙を読まれたんですけど、
こういう反応があったんじゃないかと思うんですね。
まず子供たちよ従いなさいって言われたらですね、常識の範囲だから子供も父親もそうだそうだそうだって思うわけですよね。
でもその後に父たちよ、子供たちを怒らせてはいけませんって言われるとですね、
例えば、わかりませんけど目をつぶって聞いていたね、父親がそうだ、子供は親に従うべきだってうなずいてたら、
はっとですね、目が覚めて、私にも教えられなきゃいけないのか、みたいな思ったかもしれません。
それはイマジネーションでしかないんですけども、それ以上にですね、当時の子供の状況を考えると、
これがいかに衝撃的な教えだったかってことがわかるんですね。
ちょっと一般教養として皆さん聞いててほしいんですけど、当時のローマ社会で子供が怒られていた状況を少し詳しくお伝えします。
まずですね、当時ですね、多くの子供が成人になる前に死んでいました。
だいたいどれくらいの確率かっていうと、まずですね、子供が生まれますね。
うちも子供が生まれましたけども、1人目の子供が生まれてすぐに集中治療室に入りました。
だいたい当時の出産の5分の1は死産だったんです。
新生児の5人に1人は死産だった。
そしてですね、当時ですね、今の皆さんトドラって英語知ってます?
トドラっていうのは動物園のトドじゃないですよ。
トドラっていうのは、よちよち歩きの子供っていう意味の英語で、2歳から5歳の子供。
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子供服でトドラの服っていうとだいたい幼児、2歳から5歳の子供なんですけど、
5分の1の子供が死産、そして2歳から5歳までの子供がですね、
5歳を待たずに35%が死んでいました。
3人に1人以上の2歳児はですね、5歳までなれなかった。
そしてある学者はですね、こう言い方するんですね、
10歳までに子供の半数が死に、
そしてこの幼児の歯が永久死に生え変わるまでの間に、
7歳時点の時にも既に子供たちは仕事をしていた。
お店や市場や畑で歯が生え変わる前にも子供が働いていたっていう、
そういう表現をしているんですね。
で、こっからもっとですね、
もっと今日のパウロの教えに関係したことになってくるんですけども、
10歳の段階の子供、10歳というと今小学3年生ですか、
10歳の子供の4分の1がですね、もう父親がいなかったっていうんです。
父親に見捨てられたか、死んでいた。
そして成人に至るまでに、成人に至るまでにですね、
多くの子供たちはもう既に両親を亡くしていた。
それは当時の現状だったんですね。
で一方ですね、いわゆるこのローマの旧約聖人の価値観がない社会では、
子供を捨てることは容認されていたんです。
何回も引用しますけれども、当時のローマの役人がですね、
出産を控えた奥さんを置いて、遠くに出張に行ってたんですね。
それで奥さんに対して手紙を書いていました。
子供が生まれたら、男の子だったら取っておきなさい。
女の子だったら捨てなさい。
そういう手紙が今でも残っている。
このように子供が捨てること、大きくなるまで子供を捨てることが
普通のこととして受け入れられていたわけですね。
特に女の子が捨てられることが多かったそうです。
またですね、今だと子供の発達段階ということをちゃんと捉えてますよね。
幼児期の子供、大児期の子供までいいじゃないですか。
大児期の子供、幼児期の子供、児童期、学童期の子供、青年期の子供。
ちゃんとそういう段階に分けてですね、文部科学省のホームページなんか見ても
それぞれの各段階において重視するべき課題ということが
ちゃんと文科省のホームページに掲載されているんです。
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その年齢に合った教育をしなさい。
でもですね、このパウロが手紙を書いた時代のローマ社会では
子供は大人のミニチュア版だと考えたんです。
しかもですね、ある哲学者も言ってるんですけども
子供はずる賢くて怠け者でわがままだから
無知などを使って厳しく育てて矯正しなければいけない
そういう価値観がまかり通っていたわけなんです。
ミニチュア版の大人だけども、立ちが悪いから
叩いたりして厳しく育てよっていうことが当時の価値観だったんですね。
ましてあと教育なんかでもですね、ほとんど女の子は学校で教育を受けられませんでした。
ローマの一流の家庭の男子だけがですね
7歳ぐらいから学校に行けて
またはいわゆる家庭で奴隷や親が教育する。
しかしさっきも言いましたけども
7歳までにほとんどの子供が農園や市場や家業を手伝うなどして
働いていたということですね。
そういう背景が子供を取り巻く常識だった時代に
このパウロの教えがあるわけなんです。
パウロは子供たちに怒らせてはいけませんっていうのはですね
親が権威を振りかざして子供の人権を無視したような扱いをして
文字通り別の役では子供を苛立たせてはいけませんよって言うんです。
親の所有物ではないんだから好き勝手して
親の振る舞いによって子供を苛立たせてはいけません。
そう教えているんですね。
もう一つ大事なことは
主の教育と訓誡によって
この育てなさいという言葉
この育てなさいという言葉は
先週見た夫に対する教えに使われた言葉と同じなんです。
イエスキリストが教会を愛し命を捧げたように
夫は妻を愛しなさい。
その中でこう語られているんですね
いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません
むしろそれを養い育てます。
キリストも教会に対してそのようになさるのです。
この大事に養い育てる
自分の体のように夫は妻を養い育てなさい
イエス様も教会にそのようにして
教会をクリスチャンを養い育ててくれてますよ
という言葉と同じ言葉が
この子供を育てなさいという言葉なんです。
これらのことを背景に
このパウロの教えがどれほど当時衝撃的であったのか
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まさに現代の子育てや子供に対する価値観を
先取りするような考えを当時パウロは
神の御心から教えていたということが驚きなわけなんですね。
このようにパウロは
当時の社会習慣によって
子供を扱うのではなくて
子供を神様にある一人の人格として尊重して
教育しなさいと教えています。
そしてその拠り所は
主の教育と勲会だ。
拠り所は神様の御心である。
そうパウロは
クリスチャンに教会に教えているわけです。
なぜそう言えるのか
その根拠は
子供も神様に愛されて
キリストに赤になられた存在である。
夫婦にも見られたように
人それぞれ男性であっても女性であっても
大人であっても子供であっても
それは神様に愛されて
イエス様に赤なれた存在なのだから
それにふさわしく養い育てなさいと
パウロは教えているわけですね。
これらの御言葉神様の愛を
私たち自身への愛として
またそれならお互いとして
家庭の中で死の御心を生きるお互いでありたいと思います。
お祈りしましょう。
天の神様皆を賛美いたします。
パウロの親子に対する教えから
今日学びました。
当時の本当に劣悪な子供に対する
環境を覚え驚くばかりでありますけれども
このように神様にあって
子供を養わせること
また父親母親を敬うこと
あなたが御言葉から教えてくださっていることを
感謝いたします。
どうぞ御言葉に養われ
また主に習うものとして
私たちがこれらの教えのうちを
生きていくことができるように
どうか導いてください。
この願いと感謝を
私たちの救い主
主イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン
それではどうぞそのまま黙祷してくださって
一分ほどですね
神様の御心に
御言葉に応答する時間を持ちましょう。