00:07
イエスはまた彼らに言われた、
明かりを持って来るのは、マスの下や寝台の上に置くためでしょうか?
食台の上に置くためではありませんか?
隠れているものであらわにされないものはなく、
秘められたもので明らかにされないものはありません。
聞く耳があるなら聞きなさい。
また彼らに言われた、聞いていることに注意しなさい。
あなた方は自分が測るその測りで、自分にも測り与えられ、その上に増し加えられます。
持っている人はさらに与えられ、持っていない人は持っているものまで取り上げられてしまうからです。
以上です。
今日はこのところから、明かされ与えられと題してみこたわを解説していきます。
みなさんおはようございます。
今日も暑い日になりました。
先週末、関東地方も梅雨明け、梅雨明けた模様だとも言われているようですけれども、
本格的に夏到来です。
そんな中、今日もみなさんと礼拝できることを感謝しています。
先週見ましたように、イエス様の例え話は謎めいています。
その理由の一つは、私たちが当時の生活習慣を知らないということにあります。
それをよく言っていますね。
聖書を知る上の教養として、まず今日は一番最初の点に、この例えに関係する生活習慣、明かりについてお話しします。
そうしたら何か機会に、こうなんだよって人に言えるかもしれません。
そしてそれに続いて、例え話の核となる今日の言葉。
それは4章の23、24にまたがっていますが、聞く耳のある人は聞きなさい。
聞いていることに注意しなさい。
先週種まきの例えでも、イエス様の御言葉を聞きなさい。
神の国のメッセージを聞きなさい。
それが鍵になっていましたが、
今日も実はそれに関する教えだということですね。
それに関わることを今日2つお話しして、また3つの点からともに御言葉を見ていきましょう。
そこには祝福と約束が伴っていますので、それらのことを見ていきたいと思います。
まず最初、この例えの当時の生活様式の背景を説明します。
明かりの設置場所の意味ということですね。
もう一回読んでみますね。
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イエスはまた彼らに言われた、明かりを持ってくるのは、
マスの下や食台の下に置くためでしょうか。
食台の上に置くためではありませんか。
あなた方が計る計りで計られ、また与えられるのです。
これですね。
この例えの意味なんですが、
イエス様は明かりをどこに置くか、そう話しています。
電気のない時代ですから、夜になると真っ暗ですよね。
灯火を灯して、そして明かりを持った人が部屋に入ってくると、
電気がないですけども、部屋を照らします。
まず後ろの寝台の下に置く。
それ分かりますよね。今でいうベッド。
ベッドの下に置かない。ベッドの下に置いたら火事になってしまいますからね。
危ないですけども、まして照らすことができない。
その次の、その前のマスの下のマスです。
これが、この絵にあるこれがマスなんですね。
2種類ありますけれども、これは測りますと言って、
穀物をここに入れて測るものです。
当時のローマで出土されたようですが、
大体9リットル弱、8.75リットル入るそうです。
何でも鑑定団で、壺なんか鑑定されますけど、
陶器の測ります。
よくね、私が昔行ってた教会のカレーなんかに
たくさん作った寸胴鍋ってありましたよね。
寸胴鍋のような陶器の約9リットルの測ります。
それがおそらく想定されているようです。
それを、その下に明かりを置くっていうことはどういうことかというと、
明かりをどこかに置いて、その上にこれを逆さにして
マスをかぶせる。そうすると全く照らさないわけですよね。
イエス様が言っているのはそのことです。
当然、そういうことをしたら明かりは灯さないですね。
これを逆さにしてかぶせたらどうなるか分かります?
酸素が消費されて、勉強みなさん知ってますよね。
そうすると二酸化炭素がいっぱいになって明かりも消えてしまいますよね。
とにかくイエス様がそういうことを言っています。
明かりを持った人、灯を持った人が部屋に入ってくると
明かりがやってくる。
それは、食材の上に置いて、これですね。
後で見ますけども、食材。これはちょっと食材ではないんですけども、
食材の上に置いて、部屋を照らすためだ。
暗がりを照らすためだ。そういうことを言っています。
2番目、その例えの意味を見ていきましょう。
明かされるとの約束と、聞き続けようとの勧め。
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勧め、聞きなさい、聞き続けなさいという命令、忌ましめとも言っていいかもしれません。
ちょっと難しいかもしれませんが、4章22、23節読める人読んでみましょうか。
ここから隠されている。3、隠れているか。隠れている。3、はい。
隠れているもので、あらわにされないものはなく、
秘められたもので、明らかにされないものはありません。
聞く耳があるなら聞きなさい。
これもですね、なんとなくわかるけど、どういう意味なんだろうか。
この例えとどういう関係があるんだろうかと思うと思うんですね。
さあ、ここでですね、イエス様は何を言っているか。
これですね、明かりというのは隠すためではなくて、照らすために部屋にやってくるんですよ。
当たり前のことを言っていますね。
実はこの21節の明かりを持ってくる。
ここ21節の明かりを持ってくるというのはですね、直訳すると明かりが来る。
あたかも明かりが歩いて部屋に入ってくるという、そういうような読み方ができます。
わざとそう言っている。なぜか、実はそれは明かりはイエス様だというんです。
イエス様がこの世にやってくるということと、
暗闇の中に明かりが入ってくるということがダブって語られているんですね。
それをやっぱり捉えないとよくわからないんです、この例えは。
明かりが来る、明かりが来ているという現在形で書いているんです。
それはですね、ここにも書いてありますけれども、
世の光ってイエス様言っていますが、世の光としてイエス様がこの世に来ている、
そういう真理を指している。
イエス様はこの明かりの例えからこう教えているんです。
私、つまりイエス様がこの世に来て、そして神の国の教えを例えで語るのも、
その例えの中にある祝福や救いの約束を明らかにするためですよ。
そして聞いた人たちにその神様の祝福の約束、救いの約束をわからせるために私は来たんですよ。
光が来たのが部屋の暗闇を照らしてみせるように、
私が来たのは神の祝福と救いの約束を皆さんにわからせるために来たんですよ、そういう意味なんですね。
これはもちろん忌ましめであるけれども励ましの言葉です。
この忌ましめであり、この励ましの言葉、どういうことでしょう。
先週も言いましたが、イエス様の例え話は謎めいていて、
先週見たところでは、聞いても悟らない人たちがいるよ、悟らない人たちが悟らないために例えで話しますよ、
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とイエス様が突き放すような言い方をしたんですが、
それにはよく聞かないとイエス様の例えの真理はわかりませんよ、そういうことも示唆されています。
でもそれは一方で励ましの言葉なんですね。
なぜか、それは謎めいて私たち一見よくわからないイエス様の例え話や教え、
でも必ず明らかになるよ、必ずあなた方に真理を悟らせるよ、教えらせるよ、それをイエス様が言っているんです。
ですからその後に、さっきも一番最初に言いましたが、聞く耳のあるものは聞きなさいと教えているんです。
それの意味が出てくる、その意味がわかるんですね。
それはこういう意味です。
イエス様の教えの意味がすぐにわからなくても、聞く耳を持って聞き続けなさい、そういう意味です。
それは必ず聞き続けていれば、その意味がわかりますよ、その救いの祝福がわかりますよ。
だから最初わからなくても聞く耳を持って聞き続けなさい、明かされますから、そういう願蓄があるんですね。
聞く耳のあるものは聞きなさい、忍耐して聞き続けなさい。
ですから私たちは、わからなくても聖書を読み続ける。
あるいはこのように聖書の話を聞き続けるということが必要なんですね。
繰り返しになりますけれども、今日の例え話もそうですが、
僕の恩師の、この中に知っている方もいますけれども、伊豆田明先生がよく言うんですよね。
聖書の話は読むと何となくわかる、でもよくわからない部分がある。
それが今日の例え話でも言えることで、
要は一つには、当時の生活習慣をわからないと、さっきのわかりますのことがわからないということがありましたよね。
そしてさらに、まさにですね、生活習慣を調べて、
そしてあるいはその聖書に書かれている意味をよく自分なりに考えて、
例え話の意味がその当時の習慣でわかったり、
自分にとってこのイエスタムの詩はこういう意味があるんだ、
忍耐を持って考えたり聞き続けると、そのようにわかる時がやってくる。
まさにそれが明かりによって照らされるという経験ですね。
私がこうやって礼拝説教でいろんなことを調べていくと、
さっきも言ったように、あ、わかりますというのはこういうマス談だなということがわかって、
何度も言いますけれども、よくわかるわけです。
12:00
それを皆さんにこうやって分かち合っているのは、
イエス様から役割を与えられたものとして、
皆さんにこの隠されたイエス様の真理を明らかにするお手伝いをしている。
そういう意味もこの礼拝の説教にあるわけですよね。
だから皆さんも自分で聖書を読む時に忍耐を持って考え続き読み続ける。
また礼拝説教でもそういうことが明らかにされますので、
そういうことを聞き続けていっていただきたいというわけです。
それでは最後の点。もっと素晴らしい約束ですね。
さらに与えられるとの約束です。
今日の締めの言葉です。
またイエス様は彼らに言われた。
聞いていることに注意しなさい。
あなた方は自分が測るその測りで、自分にも測り与えられ、その上に増し加えられます。
ここから読めるかと読んでみましょうか。
持っている人はさらに与えられ、持っていない人は持っているものまで取り上げられてしまうからです。
そういう約束を伴った今締めです。
ここでは21節で明かりを隠した測りますが再び登場しますね。
あなた方が測るその測りで、自分も測り与えられるというのは、実はさっきの寸胴の測りますのことなんです。
それがもう一回出てきています。
その上で実はその測りを使った当時の習慣が、
私たちがイエス様の言葉をどう聞くか、
そしてそれによってどういう祝福を与えられるかということに適応されていくわけです。
まずこのネガティブな教えの、
持っていない人は持っているものまでも取り上げられてしまうという、
そういう警告の言葉です。
どういう意味か。
それは今まで話したように、イエス様の敵対者たちのことを直接は指します。
立法学者とかパリ裁備とは、
イエス様のこと、あんな奴は偽物だって前も言いましたけど、
あれはクレーに疲れているとか、
そういうことでイエス様を批判してイエス様の見事を受け入れなかった。
そういう人たちは、たとえその時は何か、
立法学者として神の言葉を知っていたとしても、
イエス様を受け入れないので、
彼らが持っている神の祝福と言いますかね、
そういうものまでもやがてイエス様を否定するから取り上げられてしまうんですよ、
そういう意味がここに含まれています。
その上でもう少し見ていきましょう。
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このたとえ自体、その上でこのたとえ自体はどういうことを意味しているか、
その上でこのたとえ自体の意味、
それはですね、
はかりますね、たくさんのものを人に与えたら、
その相手もたくさんのものをあなたに送り返してくださいますよって意味なんです。
前にもパウロのピリピリとの手紙の中で紹介したんですけれども、
当時のお返し、何か良いことをしてもらった時のお返しの習慣、
それは与えられたギフトよりももっと多くのものを与えるという、
そういう文化がありました。
倍返しだなんてですね、物騒な言葉がありましたけれども、
今、日本は夏で、お中元の時期で、
ものが行ったり来たりする場合もありますけれども、
当時の文化はそういう文化だったんですね。
それでも何か示唆されているんじゃないかと読み取れるわけです。
で、その上でこの例え話が言っていることは、
イエス様の言葉や聖書の言葉を私たちがどうやって聞くか、
それに適応されています。
つまり、測りで測って与えるということがですね、
私たちがイエス様の言葉をどれだけ大事に扱うかということが重ね合わされているんです。
敵対者たちのようにイエス様の御言葉、
イエス様のギフトをプレゼントですよね、御言葉を。
それを粗末に扱うならば取り上げられてしまうけれども、
イエス様のお中元といいますか、ギフトのような救いの言葉、
あるいは今の私たちであれば、聖書の言葉をちゃんと受け取って、
そして文字通り与えないんですけれども、
人に与えるようにですね、
そのイエス様から受け取った御言葉を大事にして、
よく聞いて、時にその御言葉に従ってみる。
そういう忍耐を持って、
イエス様の御言葉や神様の御言葉の教えに聞き従ってみる。
その時にもっとあなたはその言葉の真理や聖書の意味を理解するようになりますよ。
もっとあなたはイエス様の救いや神様の先週話した、
神の御国と言われている神様の祝福を生活の中で体験することができますよ。
そういうことと、このはかりますであたりも与えられるということが、
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照らし合わされて教えられているんですね。
私たちがイエス様の言葉に、青い字で書きましたけれどもですね、
このたとえは私たちがイエス様の言葉、聖書の言葉をどう聞くかに適応されています。
つまり、私たちがイエス様の言葉に注意すればするほど、
ますます多くのことを聞くこと、学ぶことができるということを教えています。
種まきのたとえ、先週見た?
そこの良い地のように、良い心で御言葉を受け入れて、認体を持って御言葉に歩んでいくならば、
神様の御心を行っていくということです。
そのときに、さらに多くの祝福や生活の中で神の救いを体験しますよ、
ちょっと限定してはいけないんですけれども、
そういうニュアンスであるということを覚えておいていただければと思います。
分かった方もいるかも分かりませんが、
聖書の言葉が分からない、イエス様の教えが分からない、でも読み続けるというときに、
ある日本語の格言を私は思い出しました。
読書百遍い、おのずから通ず。
それはですね、難しい書物であっても、何度も繰り返して読めば、その意味は自然に分かってくるものである。
だから分からないと思ってすぐに諦めるのではなく、何度も読むべきであるとする教えだ、という意味ですね。
よく分かってらっしゃると思いますけれども、
まさにこのイエス様の教えや聖書の言葉について当てはまる格言ですね。
この聖書の言葉は理解や実践に難しい時がある。
しかし忍耐してその言葉を聞き続ける、というのは、読み続ける。
諦めないでそれの意味について考え続けたり、失敗しても見事もに従い続ける。
それがですね、先ほど最初に述べました、聞いていることに注意しなさい。
そういう態度を表します。
聞いていることをですね、分かんない、つまんないって捨てるんじゃなくて、
イエス様のことに言っていることによく注意する。
どんな意味なのか、それを従ってみると。
失敗してもですね、やり続ける。
分かれば分かるほどいろいろな深みが分かるっていうのはね、
日常生活でもいろいろ当てはまりますよね。
黒柳哲子さんっているじゃないですか、黒柳哲子。
21:00
あの人、野球のルール分かんないんですよ。
打ったらどっち行くかも分かんないって言うんです。
皆さん分かるよね、打ったらどっち行くか。
あるいはね、テニスにしても分かんない人は、
何で15の次に30なんですか?
30の次に45じゃなくて40なんですか?
60ではなくてそれでゲームが終わるんですか?とかですね。
ジュースがどうなのかとか、この間ウィンブルドンで
日本の国枝の後継者の方優勝しましたけども、
タイブレークは何ですか?とか、そういうことが分かれば分かるほど
このスポーツの醍醐味もよく分かったり楽しみも分かる。
同じように聖書の言葉も分かれば分かるほど
その意味の深みとか喜びが増し加わる。
そういうこともこの教の教え、
持っているものはもっと与えられるということに
示唆されているわけです。
そのような中でイエス様が来られて、
イエス様が神の国の教えを語る、
それは私たちがよく分かるためだ。
そのことをぜひ皆さん知ってください。
そして私たちはそれをただ聞き流すのではなくて、
聞いて心に留める。
自分にとってどんな意味があるんだろうかということを考えていく。
そういうことをしていくと、
ますますその祝福が増し加わっていくということを
今日覚えておいてください。
それでは最後にイエス様がご自分を光として
たとえた宣言した御言葉を一つ読みましょう。
ヨハネ8章12節ですね。
イエスは再び人々に語られた。
ここを読んでみましょう。
私は世の光です。
私に従う者は決して闇の中を歩むことがなく、
命の光を持ちます。
命の光の祝福がよくわかりますよ。
そして聖書の光の真理についてよく表した御言葉を
詩編119編の130節から読んでみましょう。
ちょっと難しいかもしれませんが、
頑張って読んでみましょうか。
御言葉からですね。
三、御言葉の戸が開くと光が差し込み、
脇前のないものに悟りを与えます。
そのようにイエス様の御言葉、
聖書の言葉に聞き続け、
さらに多くのものを受け取っていく
お互いであり、教会でありましょう。
御祈り申します。
天の神様、皆を賛美いたします。
イエス様は光としてこの世に来られ、
私たちに神様の国、神様の救いを悟らせ、
またその祝福を知らせるために来てくださった
救い主であることを感謝いたします。
聖書の言葉、イエス様の言葉に
わからないことや戸惑うこともありますが、
24:01
どうか忍耐を与え、まさに光を照らして、
私たちがそのあなたの約束を掴むことができるように、
そしてさらに多くのものを
あなたからいただくことができるように
導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、
イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは1分ほどその場で黙祷しましょう。