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「殺さえ人の手紙」の1章6節から8節、新海薬成書2017年版でお読みします。 この福音は、あなた方が神の恵みを聞いて本当に理解した時以来、
世界中で起こっているように、あなた方の間でも身を結び成長しています。 そういうものとして、あなた方は私たちの道路の下辺、
愛するエパフラスから福音を学びました。 彼は、あなた方のために、キリストに忠実に仕えるものであり、
御霊によるあなた方の愛を私たちに知らせてくれた人です。 以上です。
今日はこのところから、エパフラスと題して御言葉をお伝えします。
おはようございます。 9月最初の礼拝になりました。
毎週ですね、しばらく前までコロナ禍のいろいろなニュースを取り上げてきましたが、最近は、
良くも悪くも、 それが日常化してあまり取り上げるような
ビッグニュースはありませんね。 まあ先週一つあるとすれば、8月31日で豊島園が
閉園してしまったと。全くローカルなニュースですけど、 メリーマークの豊島園が閉園して、世界最古のメリーゴーランドがどうなるかなんですね。
色騒がれていました。 まあ、それは去っておきまして、今日はこの手紙を書いた
パウロのコロサエビの手紙から学んでいますが、この手紙を書くきっかけとなった エパフラスという人から学びます。
皆さんもですね、自分の家族とか友人を誰かに紹介するときに、 誇らしくこの人を紹介しますとありますけど、パウロもこの手紙の中で
コロサエビ教会と深く関わりがあった人ですけども、このエパフラスを
誇らしげにですね、紹介しているわけです。 エパフラスがコロサエビの教会と関わりがあって、
当国中のパウロを訪ねて、教会の様子を伝えたことが、この手紙を書くきっかけになったわけですね。
まあ、そんな中ですけども、そして、 パウロが手紙を書いている現時点で、パウロとエパフラスは一緒にいました。
そのことが書かれた7節8節を主に、3つの点から今日も学んでいきます。
エパフラスについて2点、そして、 8節の精霊の愛について1点ということで、学んでいきましょう。
まず最初ですが、 エパフラスはですね、
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ここのですね、 おそらくパウロはローマ、あるいはエペソで屠殺されていたという説がありますけれども、
パウロはこのコロサエビ、 新しい地図が入りました。
ちょっと拡大しますけれども、 これがテサオニケですね。これがエーゲカイでエペソ。
ここの部分だけ、ショーアジアだけを拡大した地図を入手しました。 ショーアジア、ここはエペソですけれども、
コロサエはですね、ここです。 リュコス川という、リュコス渓谷という有名なところがあるらしいんですけれども、
だいたいエペソから160キロ内陸に入った、今のトルコにある町です。
このエパフラスは、この教会を開拓し育てている、そういう働き人です。
当時の名前ではとてもポピュラーで、 英語のように短くした名前がエパフラスです。
長くした正式名称はエパフロデトと言います。 エパフロデトというのは、ピリピリとの手紙にも出てきます。
そういうパウロの道路者ですが、いわゆる当時のギリシャ・イフォージの中で、 よく知られた名前でした。エパフロデトを短くしたエパフラス。
ドイツ人物ではありませんが、ピリピリも出てきます。 ちなみに、明治安田声明によると、2019年の名前ランキングですね。
男子1位はレンくんだそうです。 女子の1位はリンちゃん。
2位がですね、これなんて読むのかなと思ったら、 秋と春とヒューが、仮面ライダーみたいですけど、10種類の名前の呼び方があるそうですね。
そのうちこれで光るというものもあるそうですけど、 本当に今の時代を象徴していますけど、こういう名前が今はポピュラーですけれども、
エパフラスもポピュラーな名前でした。 そして、
パウロがですね、エパフロスのことをこう紹介しています。 今日読んだ歌手ですけども、1章7節、こちらに書いてあります。見てください。
あなた方は私たちの道路の下辺、 愛するエパフラスから福音を学びました。
彼はあなた方のために、キリストに忠実に仕えるものです。と言っています。 まず最初ですね、
道路の下辺という言葉を限りに笑いましょう。 パウロとともにロークしたエパフラスという姿です。
エパフラスはさっきも言いましたけれども、
ここで今働いていましたけれども、パウロが電動旅行でエペソで 占拠した時に、おそらくこの町からエペソに来ていて、イエス様を信じて、
救い主として信じて救われた。 その後自分の故郷に戻って、このコロサイ、ラオデキやヒエラポリスというこの地域の三大都市というか、
3つの大きなところでイエス様を述べ伝えて、そしてそこで教会が生まれて、
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おそらく3つの教会をまとめて面倒を見ていた、今では牧師のような、そういう存在です。 珍しい、今までと違うことは、
コロサイ教会はパウロが生んだ教会ではありません。 それから、エパフラスはコロサイ出身の人です。
地元の人がですね、違法人が救われて、占拠し、勃開しているという、珍しいというか、初めて紹介するケース、
私が紹介する中で初めてのケースです。 そんなエパフラスですけども、パウロがここで紹介していますように、
道路の下辺と言われています。 道路というのはですね、一緒にイエス様に仕えている、そして一緒にあなた方に仕えているという、
チームメイトのようなものですね。 今プロ野球がシーズン開幕してますけども、監督からしたらですね、
第2の監督のようなヘッドコーチとかですね、 あるいはキャプテンのような、あるいは名選手のような、なくてはならない、
共に働く、 昔で言えば戦友のような存在として高く評価していました。
そしてもう一つ、エパフラスに対して彼が呼んだ称号、 これを注目したいんですね。
それは、同じパウロがピレモンという人に書いた手紙の中にあります。 1章23節です。ここに書いてあります。見てください。
キリストイエスにあって、私と共に囚人となっているエパフラス。
共に囚人となっているというその言葉です。 実はこの、
共に牢している、共に囚人になっている、
その言葉はですね、 実はもともとギリシャ語では1個の単語なんです。
シュン・デュレオとかですね、 そのシュンという、いつも言っているシンクロナイツのシュンという言葉が頭についた一つの単語で、
ぎこちない日本語で訳せば、 共なるしもべとか、
共なる囚人という、 パウロと運命を共にしているという意味です。
そしてこの共なるという言葉は、実はイエス様と共に運命をしているという意味もあるんですね。
結び合わされている。 そして学者も言うように、
単なるキリストのしもべとなっただけではなくて、 彼はキリストを述べ伝えたが故に、
パウロと共に囚人にさえなったんだという、 英語でいうコミットメントですよね。
この献身の強さや深さが、 この共なる囚人という言葉に表れているわけです。
それでですね、ここから私たちが学べることがあります。
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それは、イエス様に使える道というのは、 決して安易な道ではないということです。
パウロの、私たちがたとえパウロやエパフラスのような 教会で代表される立場でなくても、
それは限ったことではありません。 そして前回まで学んだ、
テサロニケ教会の人たちも、 白外にずっと苦しんでいましたよね。
それからその前で学んだピリピの教会について、 パウロはこのように述べています。
前に掲示しました。こちらを見てください。 ピリピの、やはり違法人教会にパウロはこう言っています。
あなた方はキリストのために、 キリストを信じる信仰だけでなく、
キリストのための苦しみをも賜ったのです。 という言葉です。
いつも申し上げているように、 キリスト教というのは、ご利益信仰ではないんですね。
そして、いわゆる信じれば何でも問題が解決するし、 することは何でも成功するといった類の宗教ではありません。
問題をきっかけに信仰を持つならば、 それも大事なことなんですが、問題が解決すると教会から離れてしまう。
あるいは、信じても問題が解決しないと、 つまづいてしまう。
私も学生時代、イエス様を信じました。 簡単に言うと、ある人間関係をきっかけに、
イエス様を信じました。でも、信じても、 その関係が悪くなってしまったりしたわけです。
それの中でどうしてこうなんだということを、 よく先輩のクリスチャンや牧師や宣教師に聞きました。
でも、ある時ですね、イエス様を信じる信仰には、 そういう苦難がつきものだということを知ることもできたわけです。
イエス様はですね、種まきのたとえというのを話しながら、 そういう信仰にとどまること、信仰がなくなることについて、
私たちに教えています。 機会があれば、ルカの福音書の8章を見てください。
その中で4つの種のうちの、例えば1つ、2番目の種ですけれども、 種をたくさんまいた時に、
種まきのたとえが、絵がありますけれども、 4つの種、4つの地に種が落ちた、そのうちの1つに岩地、石地に落ちたというのがあるんです。
それはですね、すぐ芽を出すけれども、 芽がないから、ヒデリが来ると枯れてしまったというのです。
それがどういう人かというと、 試練のゆえにイエス様を信じるけれども、
喜んでイエス様をその時は信じるけれども、 信仰の試練が訪れたら、実を結ばないで枯れてしまう。
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そういうふうにイエス様は言っています。 その中で、
良い地にまかれた種について、イエス様はこのように述べているんですね。 8章15節、前に掲示しましたが、
読んでいます。
良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。 ただし、良い心で御言葉を聞くと、
それをしっかりと守り、よく耐えて、 実を結ばせるのです。
ルカ8-15。 パウロやエパフラスのように、
イエス様に従う者には苦しみも伴います。 イエス様もそれは否定していません。
しかし私たちも、このルカの福音書の御言葉にあるように、 御言葉を守り、そしてよく耐えて、
実を結ばせるものになりたいものですね。 パウロは別のところで、
こうも言っています。 あなた方が約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
まあ、忍耐というのは難しいかもしれませんが、 これからこの手紙を学ぶ中で、
イエス様が与えてくださる忍耐について、 より深く知ることができると思いますので、
共に学んでいきましょう。 またそれを私たちを養う教会についても学んでいくことができると思います。
2番目。エパフラスについての2番目。 それは、彼は祈りの人であった。
祈る人はエパフラスということです。 パウロが続けて言うには、
彼の熱心な働きの特徴には祈りがあった。 エパフラスという名前が、
この細部の手紙の中でもう一回出てきます。 それは最後の、
別れの挨拶の中で出てきます。 倒獄しているパウロとこの時は一緒にいて、
エパフラスは手紙を届けた人ではなかったので、 パウロと一緒にしばらく、
とどまったようです。 そしてエパフラスが、よろしく言っています。
そして続けてパウロはこう言っているんですね。 誤認をしました。失礼しました。
コロサイオンの12。 彼はいつもあなた方が、神の御心のすべてを確信し、
成熟した者として固く立つことができるように、 あなた方のために祈りに励んでいます。
この神の御心を確信して成熟した者となるというのは、 身を結ぶと考えていいかもしれません。
固く立つということには忍耐ということは言えるかもしれませんが、 そのために祈りに励んでいたとパウロは言っているんです。
おそらくパウロが、 獄中にいるその最中にあっても、祈っていたと
言えるかもしれません。
パウロはですね、この後に4章13節で、 こう述べているんですね。
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私はエパフラスのために証言します。 彼はあなた方のため、またラオデキアとヒエーラポリスにいる、
さっき紹介したその地域の教会の人々のために、 大変老苦しています。
やはり大変老苦していると付け加えています。 そしてその老苦の一つが、祈りに見られるわけです。
12節のですね、この祈りに励んでいるという言葉を、 ある聖書では公約しているんですね。英語の聖書ですけども、
エパフラスはあなた方のために、祈りの中でレスリングをしていると言っているんですね。
このニューアンインターナショナルバージョンですけども、 He is always wrestling in prayer for you.
ね、こうやってね。
祈りの格闘っていうのはヤコブでも、神と格闘したと言われてますけども、 よく聖書で例えられる例えですけども、
祈りのために、祈りの中であなた方のためにレスリングをしているんだっていう。 それがエパフラスのスバトだったんです。
先週、 コロサイの兄弟愛についてもありましたよね。その兄弟愛は、
イエス様を信じる信仰生活と表裏一体だという話しました。 そしてその兄弟、姉妹に対する
クリスチャン愛というのは、 祈りの中にも表されるわけなんです。
パウロがこの手紙を書いている間、さっきも言いましたが、 エパフラスはパウロと共にいて、コロサイから遠く離れていました。
今と違って簡単にそこに行くわけができませんし、 ラインもないし、スマホもないですから、
ドコモのCMラジオを聴いていると、 おじいちゃんがスマホを買ったと言って、孫にテレビ電話しようなんて宣伝してますけれども、
今、人と人が会えない中でテレビ電話というものがありますけれども、 この時代はそんなものがありません。
そんな時に彼はコロサイ教会の人たちのためにひたすら 祈りに励んでいた。
パウロも学者にいれば、ユダヤ教の習慣に習って、 朝、昼、晩、一日三回祈っていたようです。
その中でコロサイの人たちのことをいつも祈るたびに 神に感謝していると言ったようです。
そしてエパフラスも自分の教会の兄弟姉妹のことを 遠く離れて祈っていたということです。
私たちも自分以外のクリスチャンのために 祈ることができます。
もちろん、家族のことを覚えて祈ることもできるでしょう。
祈りは具体的な愛の実践ですね。
何を祈ったらいいかわからなければ、 例えば、
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パウロの祈りを参考にするといいかもしれません。 それはぜひいいと思います。
パウロのように、誰々の上にイエス様の 恵みと平安がありますようにと祈ってあげる。
離れたところにいる家族や仕事をしている家族のことを覚えて、 イエス様の恵みと平安が彼に彼女にありますようにと祈ってあげる。
また、その方がクリスチャンであれば、その方の 信仰と愛と希望において成長することができますようにと、
パウロの感謝の祈りを 鳥梨の祈りに変えることもできるでしょう。
あるいは、相手の方がクリスチャンにあるとないとに関わらず、 私よく祈りますが、
救い主イエス様がその方を助けてくださいますようにと祈ります。 もし私たちが本当にイエス様を
唯一の救い主と信じているならば、 このように祈ることができるわけです。
誰々さんがイエス様の救いを知ることができますように、 この祈りですね、私もよく祈ります。
その方がイエス様の救いを今日も知ることができますように、 名前をあげて、友人、家族、
教会の人のために祈ることができるわけです。 私たちは自分の人のために当然祈ります。
しかしエパフラスのように誰かのためにイエス様に 祈ることができるわけです。
キリスト教信仰の素晴らしいところは何ですか?と尋ねられたら、 私はいくつかあげる中の一つに必ずこれをあげます。
誰に祈るかということがはっきりしている。 なんとなく漠然と祈るのではない。
祈る対象がイエス様、救い主イエス様。十字架で私たちの命をあがなって復活して、 私たちと共にどこにでもおられるイエス様に祈ることができるというですね。
はっきり祈る相手、頼る相手がわかるということが クリスチャン信仰の素晴らしさです。
ですからそのような特権を得ているわけですから、 私たちは誰かのためにも祈ることができるわけです。
パウロやエパフラスがですね、 兄弟姉妹の信仰の成熟を祈っていましたけれども、
信仰の成熟というのは他の人のことを思いやることができることですよね。 大人の証拠というのは自分以外の誰かを思いやる。
それはアクションとしては難しいかもしれませんが、 私たちは祈りのうちに可能なのではないかと思います。
それでは最後の点。 見たまの愛、精霊の愛ということです。
パウロは今日取り上げている1章の7節8節で、 こう述べていますね。
もう一度戻りますけれども、 ご自分の聖書を開ける方見てください。1章8節。
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エパフラスはですね、あなた方のためにキリストに使えるものであり、 見たまによるあなた方の愛を私たちに知らせてくれた人です。
見たまによるあなた方の愛を私たちに知らせてくれたのです。 それがエパフラスです。とパウロは言っています。
このコロサイ教会の人々の成長の印は先ほども言いましたが、 兄弟愛における成長です。
そしてその原動力となったのは精霊だということですね。
そして当然それは私たちが 祈りを生み出すその原動力の愛。
誰かを思って、 愛を持って祈る愛の源は精霊にあるわけです。
まあ学者さんに言わせればですね、愛はいろんな種類があって、 兄弟姉妹を愛する愛、教会の人を愛する愛、家族を愛する愛、
クリスチャンでない人を愛する愛、 そして神様ご自身を愛する愛、
おそらくこのすべてを含んでパウロはここで言っているのではないかと言うんです。
どんな類の愛でも健全な純粋な愛は、 私たちは精霊によらずは得ることができないんです。
そういうことがですね、 一書八節の
数々の英語の訳の聖書が示しています。 ちょっと難しいかもしれませんが、私興味深いと思ったので引用しました。
前を見てください。
この一書八節のある聖書はですね、 精霊によって触発され、命を吹き込まれた愛、英語ではですね、
Your love inspired by the spirit. インスパイアーっていうのはね、霊感を与えられる、命の息吹を与えられるという意味です。
インスパイアーダーネクストという報告がありましたけども、
精霊によって触発した命を吹き込まれた愛と言っています。 ある訳の英語の聖書ではこう言っています。
精霊があなた方の中に呼び覚ました愛。 英語ではThe love, the spirit has awakened in you.
awakenedっていうのは、 目覚めて起きている意味ですね。
愛が眠っている、愛が消えてしまうかもしれませんけど、 精霊がその愛を目覚めさせるって言ってるんです。
健全な愛を。 あるいはある英語の訳では、
精霊の賜物としての愛。 Your love which is the gift of the spirit.
精霊からのプレゼント。 愛というのは私たちはないかもしれないが、精霊からのギフトだよって言ってるんですね。
そしてある英語の訳ではですね、 精霊によって生み出される愛。
love engendered by the spirit.
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このengenderedっていうのはやっぱり、 ここを設けるっていう意味があるんです。命が宿る。
だから精霊によって新しく生み出される愛。 それこそがパウロが言っている精霊の愛、健全な愛だってことですね。
こいつこれか。 二つ合わせちゃいましたね。
何はともあれ、皆さんのレジュメにもありますから、 ゆっくり見てほしいんですけども、
聖書が言うところの、 神様や人への健全な愛。
また神や人に使える源になる純粋な愛。 それを私たちは本来持ち得ないってことです。
でも、 精霊に与えられねばならないけれども、必ずですね、その精霊に頼るならば、
精霊がそれを与えてくださる。 その愛は精霊に与えられ、呼び覚まされ、
命を吹き込まれて生み出される愛だったんですね。
そしてこの精霊が、信じる私たちに与えられているということが大事なことなのです。
あえて言えばですね、イエス様が私たちの内に居られるというのは、 精霊が内に居られるということなんです。
イエス様が信じるあなたの心にいるというのは、 精霊が私たちの心に住んでいるということであり、
イエス様がこの共に集まる中に居られるということは、 精霊がここに共に居られるということなんですね。
実はこれは キリスト教の神秘的な部分です
実はキリスト教というのは 常識的なんですけども
つかみどころがない神秘的な部分があります
超常現象が起こるわけではありませんが
静かなる神秘性
精霊が宿り その精霊はイエス様だという
そういう静かなる神秘性を宿しているのは
そしてそのまがいものの神秘性じゃなくて
キリストにある健全な命を与える神秘ということが
実はコロサエビの手紙に 書かれているわけなんですね
それから そのことをこれから学んでいきましょう
最後にパウロが言う 精霊の実について聖書から引用して
終わりたいと思います こちらをご覧ください
カラテア5の22から23
見たまの実は 愛 喜び 平安 寛容 親切 善意 誠実 乳和 慈性です
このようなものを禁じる律法はありません
お祈りしましょう
天の神様 皆を賛美いたします
あなたはイエス様によって 私たちを救ってくださいました
そして信じる私たちに
ご精霊を与えてくださったことを感謝いたします
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どうぞ目には見えず 簡単に感じることができないかもしれませんが
そのご精霊によって私たちに
あなたの愛が与えられることを感謝します
どうかその不思議でしかし豊かな
ご精霊の導きを私たちが知ることができるように
導いてください
どうぞ祈りにおいて 成長することができますように
どうか困難や苦しみが たとえ絶えざる中にあっても
あなたにあって 耐しのむことができるように
どうか精霊様が弱い私たちを 支え導いてください
このお祈りを私たちの救い主 主イエス様の名前によって祈ります
アーメン
それではしばらく いつものとおり祈りましょう
健康な祈りありませんが 捧げる祈りまた
御言葉に応答して それぞれご精霊に頼る祈り
家族のための祈り また困難の中の祈り
導かれるままにしばらく 黙祷してください