2024-04-14 24:28

#207 祈りに欠かせないもの 24/4/14

マルコ-25からの礼拝説教。2024年4月14日録音。イエス様はこれまで繰り返し「神様を信じること」、「救い主イエス様に信頼すること」の大切さを教えてきました。今日の箇所ではその教えが祈りと深い関わるがあることを明かしています。1.神を信頼することの大切さ、2.信じ切ること、信頼し続けること、3.赦すとは、の三つの点から祈る上で欠かせないものを取り上げます。


00:07
マルコ11章22節からお読みします。
イエスは弟子たちに答えられた。神を信じなさい。
まことにあなた方に言います。この山に向かい、立ち上がって海に入れと言い、
心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。
ですから、あなた方に言います。あなた方が祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになります。
また、祈るために立ち上がるとき、誰かに対し恨んでいることがあるなら許しなさい。
そうすれば、天におられるあなた方の父も、あなた方の過ちを許してくださいます。
以上です。今日はこのところから、祈りに欠かせないものと題して御言葉を取り付けます。
みなさん、おはようございます。
今日は4月第2星日ですね。 エルサレムの方でいろいろ
イスラエルの方でいろいろですね、あるようですけれども、今日はそのイスラエルを舞台にした聖書の御言葉です。
それでですね、今日のところちょっといろいろ段落の区切りをですね
前回とちょっとの兼ね合いで、イエス様の言葉が途中からになっています。
実は20節から日本語の聖書では段落になっていまして、先週見ましたですね、一軸の木が枯れていたという。
そこで、ペテロがイエス様にですね、一軸の桑の木が、先生が呪った桑の木が枯れています。
そのところから今日のこの箇所が始まっているわけです。 そして実は
そこからですね、祈りについて神様を信じることについてイエス様は弟子たちに、また私たちに教えておられる。
そんなことでですね、今日は祈りに欠かせないものといって、神様を信じることの大切さとかですね、信じきること、信頼し続けること、そして最後には許しについてということを見ていきたいと思います。
まず最初はですね、神様を信頼することの大切さということですね。 先ほど読んだ御言葉はもう一度繰り返しになりますが、読んでいます。
11章の22から23。イエスは弟子たちに答えられた、神を信じなさい。 誠にあなた方に言います。この山に向かい立ち上がって海に入れといい。
心の中で疑わずに自分の言った通りになると信じる者にはその通りになります。 このちょっと写真見にくいかもしれませんが、これはオリーブ山ですね。
03:01
イエス様がですね エルサレムに滞在して
昼間はですね、ジュナン州設計をしたり、先週であれば宮城を見ました。 そして夜にはですね、そのおそらく反対者がいたからでしょうか、少し歩いたオリーブ山の
麓のベタニアというところにおられました。 その前にですね、よくイエス様が教える方法、誇張表現がこの箇所にも
見て取れます。 この
あなた方が信じるならばその通りになるという山が動いて海に入る。 それはですね、そのような教え方なんですね。文字通りそれが起こるということではない。
イエス様と弟子たちがいるエルサレムはですね、このオリーブ山もそうなんですけど、 山峰が山に囲まれているわけです。
そして先ほども言いましたが、このオリーブ山の麓のベタニアと エルサレムをイエス様と弟子たちは行き来していたわけですね。
そういう山を見ながら、そしてイエス様の弟子たちのお仕事は何でしたっけ? ペテロとヨハネとヤクブは
漁師ですよね。ですからガリラ役をと馴染みが深いですから、この例えがですね、 もうありありと彼らの心に様子が浮かんできたと思うわけです。
先日、 しばらく前の礼拝にゲイリー・ハリソン先生がいらっしゃいましたが、
富士山が見たいということで山中湖にお連れしました。 四季からニーザからでも富士山が見えますよね。いっぱい藤見が丘とか藤見台ってあります。
よく富士湖のあたりなんかに行くと、誰もが言いますけど大きさが違いますよね。 本当に大きいです。
山中湖は富士湖の中でも一番大きい湖で、みんなそういうかもしれませんが、 山中湖から見る富士が一番美しいという、これ山中湖と富士山の写真です。
イエス様に名づらえて言うならばですね、 文字通りこの山中湖に行ってですね、この富士山に向かって
山中湖に入れって言って疑わなければ、その通り富士山が山中湖に入るというような教えです。
ありありとした絵が浮かんでくる教え。 でイエス様はこれほど大げさに教えている。
それはですね、神様を信じること、神様を信頼すること、それがどれほど大事であるか、そういう意味があるわけですね。
繰り返しイエス様はこれまで丸子の福音書の中で、ご自分を信頼すること、神様を信頼することを教え続けてきたわけです。
皆さんも記憶にあると思いますが、この嵐を沈めた場面。 私たちが恐れてイエス様に泣き叫んだ時に、信仰がないのは一体どうしたことかと言って叱りつけられました。
06:08
そして変貌さん、イエス様がこの神の見姿を表した時、その山から降りてきた時にですね、この麓で暮れに疲れた息子と父親がこの弟子たちに
病気を癒してほしいと言ってたけど治らなかった。この父親もできることなら私を救ってくださいと言ったらですね、イエス様は不信仰を投げかれて、できることというのかと。
信じる者にはどんなこともできると言ったら、私の不信仰を許しくださいと言って、私を救ってくださいとこの父親が言って、イエス様は癒された。
このようにイエス様は私たち弟子たちの不信仰を指摘して責めるのではなくて、私たちの奥底に眠っている神への信頼をですね、呼び覚まして、
神様を信頼できるように導いてくださるお方なんですね。 で、今日の箇所ではその信頼するということが祈りと大事だということが結びつけられて教えられています。
2番目。 その中で信じきること、信頼し続けることが大事だとイエス様は教えられました。
24節。ここからちょっと長いかもしれませんが、読んでみましょうか。
ですからあなた方に言います。あなた方が祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすればその通りになります。
これももうはっきりしたイエス様の教えです。ここですでに得たと信じなさいという言葉、この得たというのはですね、
動詞の時勢というのがありますね。英語の勉強みたいですけど、官僚系なんです。つまりすでにもう起こった、そして起こっていることが今も続いている。
そういう時勢を表す官僚系なんですね。 だから
祈り求めるものはもうすでに与えられている。そうやって信じ続けなさいという イエス様の励ましの言葉です。
祈り求める時にもうすでに助けや救いが与えられていると、神様に信頼しなさいということなんですね。
こうやって、幼い頃の信仰を前に言いましたけど、純粋に、そして単純にと言いますかね、神様を信頼することの大切さをイエス様は祈りと絡めても、ここで教えておられます。
どうして私たちが子供のように素直に信頼できないのかな、特に祈りにおいてはっきり大胆に求められないのかなと考えた時、私自身を顧みて言いますけども、
防衛本能がですね働いてしまう。どんなことか。それはですね 期待が外れた時にがっかりしないための防衛本能が働いてしまう場合があるんですね。
09:07
で 例えばですね神様に願ってその通りにならなかったらがっかりするな。
いろんな人、過去の人間関係からそういうふうに染み付いているかもしれません。 あるいは
どうせうまくいかないよという何かこう諦めがあって、だからもう神様にも願わない。
はっきり求めない。まあそういうがっかりしたくないから、そのような防衛本能が働くというのが私の
否定的な部分なんですね。皆さんどうかわかりません。 ただちょっと考えた時にですね誰かに物を頼まれた時に
信頼してますからやってくださいっていうのと、まあどうせできないけどやってみなって言われるのと、どっちがいいか。
まあどうせできないからやってみなって言われたら、奮起する人もいるかもしれませんけれども、私たちが職場や家庭において
同僚や上司からあるいは子供からですか、家族から頼まれた時にやはり信頼して委ねられる方が嬉しいですよね。
神様もですね、私たちが信頼して神様に近づくことを喜ばれる、そういうことを聖書を見ると見て取れるわけなんです。
そしてイエス様も私たちに喜んで救いの手を差し伸べてくださるわけなんですね。
そういう信頼するものを裏切らないという聖書の約束が
アチラコジダに散りばめられていますけど代表的なものの一つとして、使徒パウロがこういうことを書いているんですね。
ローマ書の10章11節。聖書はこう言っています。
ここからですね、この方、これイエス様ですね。3、この方に信頼するものは誰も失望させられることがない。
イエス様、救い主に信頼するものは誰も失望させられない。
そして有名な信仰のこのことが書いてあるヘブル書の11章から12章に書いてありますけれども、その冒頭でヘブル人の手紙の11章の6節で、こういうことが書いてあるんですね。
信仰がなければ神に喜ばれることはできません。ここから読んでみましょうか。神にから3、
神に近づく者は神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを信じなければならないのです。
神に近づく者は神様がおられるということは当然ですが、求める者には報いてくださる方であることを信じなければならない。
12:02
そのような命令とも略とも言える言葉が聖書にあります。
実は少し考えるとですね、不信仰というのは神様の力を縛りつけて、神様の御業が流れ出るのを防ぐ、妨げてしまう時があるのではないかなと思います。
反対に私たちが神様を信頼する時に、もちろん神様は善能だからそういうことは制限されないのですが、
でも私たちが神様を信頼する時に、神様の善能の力が解き放たれて、
御業がなされるということがあるかもしれません。あるとも思います。
さあ最後、許すということを見ていきましょう。祈りと関わる。許すとは、そしてイエス様は今日のところの最後の部分でこう言ってですね、
また、祈るために立ち上がる時、誰かに対して、対して恨んでいることがあるなら許しなさい。
そうすれば、天におられるあなた方の父も、あなた方の過ちを許してくださいます。
まあ余談ですけど、ここのですね、あなた方の過ちを許してくださいます。
天におられるあなた方の父も、あなた方の過ちを許してくださいます。というのが主の祈りのですね、
我らの罪、我らが罪を許すほどぐ、我らの罪をも許し給え、という言葉がですね、ギリシャ語ではそのまま、ほぼそのまま使われているわけなんですけどね。
まあ、イエス様はこの言葉を述べられた時、
一軸具合が枯れて、ペテロが何かを言った時にです。それを指摘した時に、この一連の信じること、祈ることを教えて、この
立ち上がって祈る時、という話をしたんです。 実はですね、
その前、ミヤ共鳴をしましたよね。その時イエス様が大事なことを言いましたね。 ここはですね、
祈りの家と呼ばれている。 あなた方はそれを強盗の巣にしているよ。
この神様の神殿、エルサレの神殿は 祈りの家、祈りの家だ。
実は、ダビデの次に現れた、イスラエル最大の名声を、
富を誇ったソロモン王ですね。 彼がダビデの後、神殿をエルサレムに初めて建設したのです。
神殿ができた後に、その奉献式があって、 生贄を捧げて祈ったんですね。
その時に、そのようなことを表している絵なんですけれども、 ソロモン王がこの神殿ができた時に、神様に捧げた祈りがあります。
それが第二歴大誌、四教約聖書の6章20節から21節にあるんですね。 実はそれがさっきのミヤと祈りということと関わっているんです。
15:05
このミヤ、エルサレム神殿ですね。すなわち、あなたのミナをそこに置くと言われたこの場所に、 昼も夜も本命を開き、あなたの下辺がこの場所に向かって捧げる祈りを聞いてください。
あなたご自身があなたのお住まいの場所、 天からこれを聞いてください。聞いてお許しください。
このようにですね、 神殿で捧げる祈りを聞いてくださいと、ソロモンが祈っています。一番最初の奉献式の時。
これは何を表すか。それはですね、 神殿というのがさっきイエス様が言ったように、まさに
祈りの家だということです。 さらにわかるのはですね、そこで捧げる祈りの主なる祈りは、
住みの許しを願う祈りなんです。ここの部分は後で読んでください。
これは難しい神学なんですけれども、 貴賓が起こってね、偶像に走って神様がそれを懲らしめるために、貴賓が起こった時に
民が許しを願ったら、許してくださいという祈りが延々と続くんです。 この後、とにかく神殿で捧げる主な祈り、
許しというのが非常に大事な要素なんですね。 その上で今日のイエス様のこの
おそらく宮で立ち上がって祈る時と考えてもらいます。 その祈りを考えた時にですね、
祈りと許しに、すごい密接な関係があることがイエス様の言葉からもわかるわけです。
さらにもうちょっと言いますけれども、実はこの
許しなさい、許してくださいますという言葉は、元のギリシャ語で見るとですね、 アフィエミという
動詞なんですね。この意味がわかると、許すということが具体的に何をするかということの一面が見えてきます。
実はこのアフィエミというのは英語で let go, let alone, let be で、放っておくとか手放すという意味があるんです。
release。 だからどういうことかというとですね、
この、 反対にですね、人が
私たちが誰かを怒り続けている、許せないというのがどういう状態か、 反対を見ますとですね、それは相手に対して恨みを
握りしめたり、その怒りを抱え込んでいる状態とも言えるんですね。 その誰かに恨みを持っている。
そしてその反対に許すというのは、 その怒りを手放す、
18:04
恨みを手放すということだと言えるわけです。
書いてありますね。 人を許すとは、その恨みや怒りを手放すということなんですね。
まあ例えて言うならば、その人、 自分に悪を働いたと言っていいでしょうか。
と結びつけられていた恨みの鎖が解き放たれて、 その結果自由になれるということが起こるわけですね。
で、私たちは
あの キリスト教の懺悔の告白の中でもわかるかと思うんですが、
その誰かにされたことで
抱いてしまった 傷とかですね、恨みをやはり誰かに聞いてもらう必要もあると思うんですね。
共感してもらう。 それは大事です。でも最後は自分の決断で、意思でその恨みや怒りを
手放すということが必要だということなんですね。 山岳湖の話しましたけれども、こういうのあるんですね。
足漕ぎボート、アヒル号。で、ある人がこのボートを借りてですね、 湖上に向かって漕ぎ始めたんです。
でも進まなかった。 なぜか、
また、あの、綱が繋がってたんですね。 だからどんなに漕いでもすると、綱が繋がっているので、
先に進めない。 ロープに縛りつけられたもの。
で、それを解いたらですね、当然前に進んでいったわけです。
で、同じように私たちもですね、誰かに恨みを持っていると、この縛りつけられたような状態で、前に進めない
ことがあるんですね。 で、
しかしその怒りや恨み、癒しも必要だと思うんですけれども、それを決断を持って手放すときに、 このアヒル号のようにですね、前に向かって進んでいくこともできますし、
そしてその中で不思議に神様が自分を許してくださっているということについても、 さらに深く知ることができるということなんですね。
当然、 まあ今日の歌詞には書いてありませんが、イエス様が他のところで言っているのは、
悪に対して正しく報いること、悪に報いることができるのは、神様だけだったんですね。 だからイエス様は他のところで復讐してはいけませんという。
神の怒りに任せなさい。 で、私たち人間はどんなに正義を持っていたとしても、この正しく人を
裁くというか、罰を下すことが難しい、もしかしたら不可能と言えるんですね。
21:04
ですから私たちはその わかりやすく言ってしまいますけれども、もし
悪人がいるとすれば、こう言っていくこと自体も結構ありますけれど、 その人に対して神様が正しく報いてくださる、その
イエス様が言うならば神の怒りに任せて、 私たちはですね
その
怒りを手放す、恨みを手放す。 そして私たちはその中で神様の許しや癒しを知り、
そして 解き放たれた
ものとして 神様のまた
祝福や恵みが私たちに解き放たれてですね。 私たちを通してさらに神様の恵みや祝福が解き放たれていく。
それが
祈りにおいて、 許しにおいて生きる道
かと思うわけです。 最後に先ほどのソロモンの祈りの続きの部分を少し引用して
終わりにしたいと思います。 ソロモンは神様にその神殿で願っています。
誰でもあなたの民イスラエルが、神の民、私たちが、 言い換えていいでしょうか。
誰でもあなたの民イスラエルがそれぞれ自分の疫病や痛みを思い知らされて、 この宮に向かって両手を伸び広げて祈るなら、
どのような祈り、どのような願いであっても、 あなたご自身がミザが据えられた場所である
天から聞いて許し、一人一人にそのすべての生き方に従って報いてください。
ここから最後読んでみましょうか。
あなたはその心をご存知です。 あなただけがすべての人のこの心をご存知だからです。
そのように神様の許しと、また神様を信頼する歩みを続けていくお互いになりましょう。 お祈りします。
天の神様、皆を賛美いたします。 イエス様を通してあなたを信頼すること、祈ること、また祈りのうちに許すこと、
祈りと許しが関わっていることを学ぶことができてありがとうございます。
どうぞ私たちがあなたを信頼し、あなたに信頼し続けることができるように導いてください。
どうかまた許すこと、手放すこと、解き放つことをあなたが私たちに教えてください。
私たちの不信仰や堅くなさは時に山のように動かないものかもしれません。
しかしあなたにとって不可能なことはございません。 どうぞあなたが私たちの山を動かし、
あなたを信頼し、あなたの祝福を受け、その祝福を解き放つ、そのようなものとして導いてください。
24:07
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によって祈ります。 アーメン。
それでは1分ほど神様に応えて、黙祷の時間を持ちましょう。
24:28

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