2021-01-03 30:05

#36/21/1/3 上にあるものを求め思う

コロサイ3:1-2 からの礼拝メッセージ。2021年1月3日録音。新しい1年もコロナ禍の影響から逃れられそうにありません。その中を生きる上で必要な思考とは。
00:15
新約聖書、コロサエギトの手紙、3章1節2節です。
新海約聖書、2017年度版からお読みします。
こういうわけで、あなた方は、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。
そこでは、キリストが、神の右の座についておられます。
上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。
以上です。今日はこのところから、上にあるものを求め思うとなりして、御言葉をお見せします。
新年ですので、みなさん改めまして、明けましておめでとうございます。
寒いと体調の都合で礼拝に来れない方、また新年は潮で礼拝に来れない方も多いんですけれども、
ともにこうやって、みなさんと礼拝を守れること、私の御言葉に耳を傾けられることを感謝しています。
さあ、新しい年が、いよいよ始まりました。けれども、新型コロナウイルスとの関わりが避けられない一年となりそうですね。
ある専門家や学者に言えば、日本では2022年の4月から通常通り生活を送られればいいんじゃないか、そんなことを言う方もいるようです。
その中ですけれども、私たちはパウロのこの殺さえびての手紙から学んできました。
そして、この中でパウロが強調していること、みなさん覚えていますか?
イエス様に象徴される、イエス様と一つにされることでしたね。
そして、先週まで、去年の末まで見てきたことは、その中でも、イエス様の死との結合、罪の古い性質との決別ということでした。
しかし、新しい一年の始まりにふさわしく、3章からパウロは新しく、イエス様の復活との結合、
そして新しい人生の歩みということを話し始めるわけです。
コロナの現実から抜けられない私たちは、この新しい一年も、もしかしたら目の前に起こっていることや状況で心くじけることがあるかもしれません。
しかし、イエス様の復活と結ばれた私たち、新しい命を与えられた私たちにパウロは、
天に目を向けなさい、そのような進めから新しく、この3章を始めています。
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今日も3つの点から話しますが、まず第1点は、クリスチャンを生きる上で、皆さんに知っておくべき基本、それは天的思考、天の思考ということです。
それが最初の点。次にその天的思考の具体的なことを2つ学びますが、最初の点は、その中でもイエス様の御性質ということ。
最後は、愛と力の類いまれな融合、そういうことについて合計3つの点から学んでまいります。
それではまず最初の点、天的思考ですね。
パウロは書き出しでこう書いています。朗読もしましたが、もう一度皆さん前を見てください。振り返りましょう。今日の御言葉です。
こういうわけで、あなた方はキリストと共によみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。
そこではキリストが神の右の座についておられます。
上にあるものを求めなさい。失礼しました。上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。
これが今日の御言葉です。
ここで皆さん気づきましたか?2つの命令があります。
原写語を見たり英語で見るとわかりますが、求めなさい、それから思いなさい、考えなさいという2つの御言葉です。
この求めなさいというのは聖書の有名なマタイの6章33節の御言葉を連想させます。
神の国とその人をまず第一に求めなさいという3条の説教の中にあった言葉です。
この私たちが求めるべきもの、思うべきもの、それは上にあるものですね。
じゃあその上にあるものとは何か?それと関係していることは何か?
それはですね、私たちの思考、考え方や私たちの意思が行動に関係しているという、そういう概念と深く関わりがある内容です。
つまり皆さん、何を考え、何を思い巡らすかということが、私たちの意思を決めて行動を決めるということですね。
皆さんこの絵、何かわかります?
去年流行ったドラマの主役の人がですね、ビッグマックを食べているCMです。
このCMを見るとどうなるか?ビッグマックのことを考えますよね。
ずっと考えると、そうやって思考します。
そうすると、ビッグマックのことをずっと考え続ける思考に働くとですね、食べようという意思が生まれるわけですよね。
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そしてその意思によって私たちは、実際お店に行って買って食べるという行動に出るわけです。
こういう単純な例から、意思に働く思いがわかるわけです。
実はテレビのコマーシャルはじめ、ラジオでもネットのコマーシャルというのは、私たちの思考に働きかけて、
インパクトのある言葉とか、インパクトのある映像をですね、訴えかけて、私たちの思考に働きかけて、
その商品なりサービスをいつも考えるようにさせて、そして私たちの意思と行動をある程度コントロールして買わせるという、
そういうようなことを使っているわけです。
実は今日のこの祭の3書1節2節に関わることについて、ある学者はこう述べているんですね。前にちょっと記載しました。
神の目的は真の人間を作り出すことだ。
真の人間とは、神に仕える思いと行動が一つになった人である。
しかし、多くのクリスチャンは、その思いを神が意図していない場所に置いている。
この3章の冒頭でパウロは、大事な原則について語っています。
それはですね、こういう原則です。
これはどういうことかということと関係するんですけども、
イエス様を信じた私たちは天的思考を持つべきである。
天国の天に目的は天的思考。
実はこの天的思考というのはですね、
英語のキリスト教用語でよく使うヘブンリーマインドセットというのね。
そういうことの和訳です。
実はこれはキリスト教を理解する上で非常に大事な言葉なので、
天的思考とかヘブンリーマインドセットという言葉を覚えておいてください。
実はこの天的思考ということが大事であって、
そのことを正しく教えるためにパウロは2節で
反対の禁止の命令を語っているわけですね。
天にあるものを思いなさいと言いつつ、
地にあるものを思ってはなりません。
2節の締めくりでこう言っているわけです。
パウロはその大原則、
私たちクリスチャンは天的思考を持つべきであって、
地上的思考に繰り固まってはいけないと言っている。
この天的思考を持って生きるという、
何回も言いましたがこの大原則を覚えてください。
その天的思考や地上的思考ということは、
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実はパウロは3章から具体的に述べていきますので、
その関係に当たったときにもうちょっと詳しく学びます。
まず天的思考を持って生きるという概念を覚えてください。
それが第一点です。
第二点。
では一体、天にあるもの、
パウロが私たちに思いを馳せて求めなさいと言っている
天にあるものとは一体何か?
その二つのうちの一つ目それは、
イエス様の御性質ということです。
イエス様の御性質。
ちなみに地にあるものという、
持ってはいけない悪いものは何かというと、
先週まで学んだ、いわゆる
イタンやカルトのマインドセットです。
結局、金欲とか苦行をして、
自分の霊的得を高めるようなことをしたりさせたりする。
あるいは幻を見るとか、
そういうことをして何をしているかというと結局は、
前も言いましたが、自己満足とか、
虚栄心を満たしてすぎないと言っていましたよね。
直接的には地にあるものを思わないというのは、
そういう宗教的概念を持っていけませんということでもありますし、
さらにもっと詳しくも、
いわゆる霊的なことと関係ないプライドなんかもですね、
参照に書いてありますので、
後々詳しく見ていきます。
それではじゃあ、天的思考の具体的なものを、
もうちょっと詳しく学んでいきましょう。
実はパウロはですね、
この御言葉をこう言っていますね、
天とは何か、そこではキリストが、
神の右に座しておられるという、
この天とはイエス様が、
王として着座している場所だということなんですけれども、
実はその天におられるイエス様ということを基に、
ある学者がこの御言葉について、
こう解説しているんですね。
天的思考、それは自己犠牲という愛の資質が、
天的命である。
なぜなら天にはキリストがおられ、
神の右に座しておられるからである。
それゆえ、天にあるものを追い求める、
滅亡するようにとの命令は、
そのキリストの命を実行することである、
よく考えることである。
ですから、私なりにこう言い換えることができると思うんですけれども、
天を思うとは、
天の右におられるイエス様を思うということである。
そういうことですね。
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実はそれの具体的な進めとして、
パウロは3章12節でこう言っています。
こちらを見てください。
このように、天を思うというのは、
天に座しておられるイエス様を思うことであって、
そのイエス様のご性質を実行するということなんです。
実はここも皆さん覚えてほしい大事なキリスト教用語があります。
イエス様のご性質という言葉。
この2番目の見出しにあるイエス様のご性質。
英語のキリスト教専門用語で言うと、
キャラクターとかアトリビュートという難しい言葉なんですけれども、
とにかくイエス様のご性質ということを覚えてください。
そのイエス様のご性質や品性について、
私たちはいつも考えている、それに習って生きるということが、
天的思考に生きるということです。
こちらを見てください。さっきも言いましたが、
その具体的な例としてパウロは3章の後半、中半で、
まさにイエス様、福音書のようにわかりますけれども、
イエス様の深い同情心とか、イエス様の慈愛とか、
謙遜ですよね。神であったのに人になった謙遜。
優雅なイエス様。寛容なイエス様。
そういうことに習った、いわゆる同じキャラクターを
身につけなさいとパウロは言っているわけです。
実はここは事例として挙げましたけれども、
この具体的な内容についても、3章の12節に行ったら、
もっと詳しくもらいますから、とりあえずそういうものがある。
イエス様のご性質という言葉があって、
そこに目を向けるということが、
天的な思いに生きるということだということを覚えてください。
最後3番目。
天にあるものの具体的な内容の2つ目になりますけれども、
それはこの見出しにありますが、
イエス様の愛と力の類まれな融合ということなんです。
愛と力の類まれな融合。
実はこれもですね、
この歌詞を元にある学者が言っていることと関係しています。
これも前に書きました。
イエスキリストの性質、さっき言ったね。
イエスキリストの性質、つまり福音に啓示された
愛と力の類まれな融合に思いを集中することが、
この地上において天的生活をすることである。
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よく私ね、聖書どこから読んだらいいですかって言われたら、
福音書から読みなさいって言うじゃないですか。
だいたいキリスト教入門書でももあることか、
福音書から読みなさい。
なぜかというと、
福音書を通してイエス様のご性質がわかるから。
福音に啓示されたというのは、
例えばイエス様の福音にも、
そしてイエス様の福音書にも示されている、
イエス様とイエス様の愛と力の類まれな融合という、
そういうご性質なんだ。
だから新約聖書の福音書を読んでください、
そういうこともあるわけです。
じゃあ、実はこの愛と力の類まれな融合ということを
詳しく見ていきましょう。
これはですね、類まれな融合というのはね、
英語でユニークって書いてあります。ユニークです。
日本語でユニークな人って言うとね、
あの人ユニークな人だねって言うと、
ちょっと時にネガティブな意味がありますけど、
この英語のユニークというのは、
まさにここで言っているが、
その人にしかない特質と、
類まれな性質という、
いい意味です。
じゃあそのイエス様の、
愛と力の類まれな融合とは何でしょうか。
実はですね、
愛と力の力、
イエス様の支配力ということを、
これまでコロサイビトの中で見てきましたよね。
ちょっと皆さんまた振り返ってください。
例えば、1章の16節とか、
2章の10節で、
イエス様は全ての支配と権威の柱ですと言ってますよね。
ちょっとじゃあ、手元の聖書を開いてみましょうか。
1章の16節。
この単に1章16節で、
パウロがこうイエス様について言ってますね。
1章16節。
私の手元の聖書で読みますけど、
なぜなら、天と地にある全てのものは、
見えるものも見えないものも、
王座であれ主権であれ、
支配であれ権威であれ、
ミコにあって、
イエス様にあって作られたからです。
そして万物はミコによって作られ、
ミコのために作られました。
17節も言うと、
ミコは、ミコイエス様は万物に先立って存在し、
万物はミコにあって成り立っています。
ここから、イエス様は全ての支配の頂点に立つという事が分かりますよね。
あるいは前も見た2章の10節もちょっと見てみましょうか。
2章の10節でパウロはこう言っています。
2章の9節からも言ってみましょうか。
キリストの内にこそ、神の満ち満ちた御聖筆が形をとって宿っています。
18:01
あなた方はキリストによって満たされているのです。
ここですね。
キリストは全ての支配と権威の頭です。
こう言っていますよね。
もうちょっと言うと、この間見た2章の15節。
イエス様によって神は様々な支配と権威の武装を解除し、
それらをキリストの外宣の行列に捕虜として加えて晒し者にされました。
ここ前も言いましたけど、パウロは具体的に言いませんが、
当時あると言われていた霊的な力、
霊的な力の権威があったとしても、
神様がイエス様によって捕虜のように、
首を繋がれて晒し者になる捕虜のように、
もし悪しき力があれば、それらは敗北させられた。
なぜならイエス様がそれに勝る主権者、王だからだということですよね。
これが今4つほど見事な参照をしましたが、
そういうものを例えば家で木葬したり、
それこそ思いを馳せるということですね。
その聖者の言葉を頭の中で思い巡らすということは、
天的な思考らしなことでもあるわけです。
イエス様は力強い。
実はこの力という部分を考えてください。
それにはネガティブな部分、否定的な部分もありますね。
いわゆる、例えば今新型コロナウイルスの感染防止、
一番成功している国ってどこって言われてます?
お隣の?
チャイナです。
中国。
なぜか?
そこは独裁国家だからですよね。
全員のスマホを国が見れるようにしたり、
全員の行動を把握できるように、
国が命令で決めているわけじゃないですか。
病気になった人はイヤホンがなしに隔離されて、
逃げ出せないようなバリエーターまで作っている。
つまり、これは専門家も言いますが、
完全なる独裁国家であれば、コロナは完全に収束する。
そういうところで皆さん行きたいですか?
嫌ですよね。
なぜならば、絶対的な権力者、独裁者は、
人死、残念ながらですね、苦しめる。
力を持って人々を苦しめる。
それが常だからですよね。
力の面、力が必要であるということは、
この面に今強調されます。
一方ですね、
21:01
愛と力のユニークな融合、
愛の方を見ましょう。
イエス様は力がすごい。
愛もすごい。
でも、イエス様は愛の統治者ですけども、
この世界の統治者の中には、
愛に満ちている人がいるけれども、
実際の統治力がない場合があるかもしれません。
優しくても支配力がないリーダー。
実はですね、この方ですね、
わかります?
ジョー・バイデン。
アメリカの地域大統領は、
慈愛に満ちた優しい大統領として、
あるコメンテーターは、
癒し系の大統領として、
今はふさわしいというのです。
なぜか、実は彼は、
20代で上院議員に初当選します。
でも当選から1ヶ月後、
ちょうど今の時期、クリスマスの時期に、
家族で車で買い物に行きました。
その車にトラックがぶつかって、
大事故になって、
実はバイデンさん、奥さんが死にました。
そして、3人の子供のうちの娘さんが
その事故で死にました。
議員になって1ヶ月です。
で、やめようと思ったんですね、議員。
でも、民主党の住賃が
いや、君は有能だから残ってくれと言って、
残って、議員生活を始めました。
バイデンさんはどうしたかというと、
2人の息子さんが重症だったんですね。
その2人の息子さんを、
自分が面倒を見ることを決意して、
自分の地元からワシントンまで電車で
通勤することをしたんです。
片道1時間半ですよ。
セレブが言うことじゃないじゃないですか。
でも、その1時間半の通勤の中で
彼は何をしたかというと、実は、
このいわゆる失勢の人々、
黒人の人も労働者の人も、
気楽に話したそうです。
問題はどうしたんですか、とか、
そういう自分の悲しみなどにもかかわらず、
電車通勤の中で、いわゆる一般の人の
問題や悲しみに寄り添った、
それが今の彼の素地になっているというんですね。
そして、実は彼はですね、
それだけじゃないんですね。
オバマさんの就任時代に、
彼は副大統領になりましたよね。
この人、彼はジョー・バイデン。
彼、誰か知ってます?
ジョーじゃなくて、ボーです。
ボー・バイデンというんです。
実は彼は、
ジョーさんが副大統領の時に、
司法長官ですね。
デラウェア州、彼の地元の州の
デラウェア州の司法長官だったんです。
しかし、彼が副大統領に就任中の2015年、
ボーさんは農修業で亡くなったんです、2015年。
46歳です。
24:00
あの事故の生き残りの2人のうちの1人です。
その息子さんが、
46歳で亡くなった、副大統領。
なおさら、彼は悲しみと痛みを知りました。
ですから、そのように彼は身をもって、
人の苦しみと悲しみを知っているから、
まさにコロナの中にある、
より多くの人々に寄り添える、
ふさわしい大統領だという評判があります。
けれども、厳しい方をすると、
まさに文化が進んだアメリカの中で、
彼の統治力に、果たしてその力が
なんというか、伴うのか、
そういう疑問さえあるわけですよね。
ですから、ここで言いたいことは、
人間はですね、
この権力を持って、力を持って、
正しく統治することも難しいし、
たとえ愛をもって、
主権者として、主君として統治しても、
限界があるということを言いたいわけです。
そこで、イエス様の、
力と愛に満ちた、
類まれな融合という、
そのイエス様のご性質が注目されるわけです。
聖書を読むと、イエス様こそ、
まさにこの、
愛と力に満ちておられる、
類まれなお方です。
復活しようとして、
今、手に挫しておられて、
力を持っておられる方。
後に、世界の全ての悪を正す権力者です。
しかし、イエス様は同時に、
子供たちを失った、
倍年死ならぬ、
自ら十字架で苦しみ、
死を味わった、
お方でした。
そのような、自ら苦しみを経験された方として、
聖書では、イエス様についてこう述べています。
エブルビトの手紙の4章15節ですね。
前にあるのを見てください。
私たちの大祭祀は、
大祭祀というのは、
生贄を捧げる、
ユダヤ教の祭祀です。
イエス様は、自分の体を生贄としたということで、
大祭祀と例えられています。
その私たちの大祭祀は、
私たちの弱さに、
同情できない方ではありません。
罪は犯されませんでしたが、
全ての点で、
弱さにおいて、痛みにおいて、
私たちと同じように、
試みをあわれたのです。
力強い大なるイエス様は、
弱さに同情できるお方だ。
十字架で、私たちと同じ苦しみを、
それ以上の苦しみを味わった方だから、
深い同情にあふれているんだということを、
聖書は証言しているわけです。
さらに、福音書、
ジョハレルの福音書では、
愛と力のたぐいまりな融合について、
証言しています。
27:01
こちら見事は見てください。
イエス様の弟子の一人、
ヨハネが書いています。
ヨハネの福音書1章14節ですね。
見てください。
言葉は、イエス様ですね。
言葉は人となって、
私たちの間に住まわれた、
まさにクリスマスメッセージですね。
神にある言葉は人となって、
私たちの間に住まわれた、
私たちはこの方の栄光を見た。
力強い栄光を見た。
父の身元から来られた、
一人ごとしての栄光である。
そして、この方は、
恵みと誠に満ちておられた。
誠というのはですね、
正しさです。
力と言っていいかもしれません。
まさにイエス様は、
恵みと誠に満ちておられた。
このまさにイエス様の、
愛と力の
類まれの融合というご性質。
それを知ることが実は、
クリスチャン生活の醍醐味でもあるんです。
新しい一年が始まりましたら、
ぜひ皆さん、私たちは、
聖書を通して、
祈りを通して、
この日々の生活の中で、
イエス様の救いを体験します。
それによって、
この天的志向で、
イエス様に思い巡らしていく日々を、
歩んでいくことができるわけですね。
そのように新しい日々、
イエス様と共に、
歩んでいくお互いでありましょう。
お祈りします。
私たちの救い主ならイエス様、
皆を賛美いたします。
あなたは、今復活し、
天の右に、神の右に、
絶対的な主権者であることを
覚えて賛美いたします。
と同時にあなたは、
十字架で苦しみ、
私たちの痛みをご存知である、
慈愛に満ちた神であることを
覚え賛美いたします。
私たちの目の前には、
地上的な現実や、
また失望が訪れることが
あるかもしれません。
しかしそのような時にこそ、
聖書の中で、
祈りを通して、
日々のあなたとの出会いを通して、
天におられるイエス様に
思いを巡らし、
またあなたの救いを、
たぐいまれな中の、
素晴らしいご性質を味わう、
一年となることができるように、
よかみちみてください。
この願いと感謝を、
私たちの救い主、
主イエス様の名前によって
お祈りします。
アーメン。
それではいつものように、
一分ほど祈りましょう。
イエス様のたぐいまれなご性質を覚え、
天におられるイエス様に
思いを馳せながら、
それぞれの思いをイエス様に、
祈りの中で打ち明けてください。
30:05

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