00:05
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
今週の土曜ですね、シーズン2の第2回のグッドバイブスの勉強会を開催します。
オンラインですね。依然として緊急事態宣言がないので、セミナーは極力オンラインで行こうと。
よっぽどどうにもならないものを除いては、極力オンラインでやっております。
平園圭三さんとの共催セミナー。
価値マックスの自分に出会うというテーマなんですが、これには先日も少し触れましたが、
先週ですね、自己肯定感と承認欲求という問題が、たぶん現代の日本では一番難しくなってきているので、
この辺のことが普段から困っていると。
漢字四字熟語ばっかりですけど、要するにですね、
私は私のことが、なんて言えばいいんですかね、あるがままには振る舞えないと。
なぜならば他人が褒めてくれるか、それとも笑われたりけなされたりするかということが気になるんだと。
特に仕事においてはですね、お前は無能だと言われるか、なかなか仕事できるねと言われるかが大変気になるから。
それによって自分というものがどう振る舞うか、言ってみれば決まってしまうので、
気が切れないし、その有能だと言われるための努力をし続けなければ、
それこそ昨日お話しましたが、気が済まないということだと思うんですね。
だからこの種のことで意識がとらわれているという方はぜひですね、
あさって倉相さんのお話を聞いていただけるといいかなと。
これを3000円で解決できれば。
私は思うんですけど、解決する気になるってのは大事です。
誰の話を聞くにしてもですね。
そう言うけれども、やっぱり承認要求がっていう風に簡単に戻ってしまうと、
この種の問題はやっぱり永続すると思うんですね。
気の持ちようというのではないですけれども、私が主にね。
他人の評価が気になる気にならないというのは、生まれつき当然の本能とかではないんですよ。
時代によってもそれをどれぐらい問題にするかはすごく変わってきますし、
03:02
今じゃ誰もそこまで考えないというようなことも昔の人間はよく考えたじゃないですか。
腹切るとかもそういうことですよね。本当に腹切ってたわけですから。
今どき承認されないからっていきなり腹切る人はいないわけで、
やっぱりこういうのって人間がこれは絶対当然なんだと思ってても、
少しもそうだとは言い切れないんですが、
そういうことになってしまうと、そういうふうに思ってしまうんですね。
これは鏡の法則って倉田野さんがよくおっしゃるやつを、
今日は逆方向のアプローチから考えてみたいんですが、
相手が評価してるかしてないかということはですね、
実は私たちは相当どうでもいいと思ってるんですよ。
私たちはっていうのは私がっていう意味ではなくて、みんなですね。
その証拠にチューリングテストっていうものがあるじゃないですか。
この言葉ではあまり耳慣れないという方も今じゃいらっしゃると思うんですが、
AIだったら多分今みんな知ってると思うんですね。
AIというのはですね、ロボットと例えばいろいろ、
ロボットが自動で運転してくれたり料理作ってくれたり、
他に介護してくれたりするということが期待されてますが、
ビッグデータ的な話も絡んできて将棋指したりしますよね。
大変強い。初手38金だったかな。
あんな手を打つ将棋指はいませんが、ものすごく強いんですよ。
で、そのAIが会話をしてくるというのはもう確実だと思うんですね。
私たちはきっとですね、それに対して感情的になりますよ。
ほぼ間違いなくなると思います。
AIに傷つけられたという問題もきっと発生するでしょう。
でも、AIが傷つける意図があるはずはないのはみんな知ってるし、
AIが何かのいつもその意図を持っていると思う人もおそらく大変少ないと思うんですよ。
でも傷つくことはあるって言った時に、
AIに罪があるのかということになるかは分かりませんけれども、
もし意図があってもなくても傷つけたものが悪いということになったら、
AIとの会話によって傷ついたらAIが悪いということになりますよね。
どういう罪悪を着せてどういうふうに罰するのかはまだまださっぱり分かりませんけれども、
06:06
前も言いましたけれども、ドコンジョガイルの娘の最後の方で、
君にその意図があろうがなかろうが僕が傷ついたことは事実だ。
だから君に罪はあるんだっていう論法なんですけど、
私はあれはどうしても釈然としなかったんですよ。
というか、シチュエーションにもよるんですが、
ドコンジョガイルのそうやって言われて責められているのは娘さんなんですけど、
何にも悪くないんですよ、片目から見ればね。
だけれども傷つけられた人の論法が極端に進むと、
ドコンジョガイルの娘さんのご主人なんですけど、
実に独特の論理を持ち出すんですよ。
例えば、あの部屋にある水槽、僕はあれに傷つけられた。
一言の相談もなく水槽を置いたと。
これは大変とですね、
悪外妄想的で私はこのシーン、
非常に重視されていたけれども、
もっとここを読みたいなと思ったシーンの一つなんですね。
この種のことを僕らは外から見ると、
何を言い出したんだろうと思うんですけど、
内側では頻繁にやってます。
これぞ意味づけでありイリュージョンなんですけど、
AIとの会話において喜んだり傷ついたりするのは、
100%イリュージョンだと僕は思うんですね。
人によるかもしれません。
ロボットにも心があるっていう理論ってありますからね。
でも私はそうは到底思えないんですよ。
現段階では少なくともないですよね。
ところが昨日、奥さんと娘が集まりをやってたんですけど、
つくづく面白いなと、集まれ動物の森ね、
思ったのは、やっぱり人はですね、
登場している動物たちに、
動物ですからね、人間じゃないですから、
情緒を見るんですね。
全く統一ではないんですけど厳密には。
倉園さんのおっしゃる心の法則は、
まさにこういうふうに機能するんですよ。
こんなふうに言ってくる、こういう表情をしている人は、
きっとこういう気持ちでいるに違いないと、
僕らは自分の心を使って、相手の気持ちを類推するんですね。
で、例えばしずえさんという、
あれは何だ、犬か、のキャラクターがいるんですけど、
いつもご機嫌だと。
ご機嫌なわけじゃないんですよ、当然ね。
そもそも2Dですから、3Dですらないですからね、
特有機あるように見えるけど、見えてるだけですから。
でも私たちはご機嫌だとかって思ってしまうんですね。
ご機嫌じゃないことは娘だってわかってますよ、もちろん。
09:01
つまりそれはプログラムに過ぎないと。
しかも娘はプログラムを組もうとしてますからね、
頻繁にしょっちゅう、簡易なものですけれども。
だからプログラムというものがどういうものかもわかってるんですよ。
でも情緒的には錯覚を起こす。
これを情緒的な錯覚みたいな、
専門術語を使うケースもあるんですけど、
もっとそれよりもチューリングテストみたいなもんですよね。
どのくらい人がその会話で、
相手側がボットではなくて人間だと騙され売るか。
昔何でしたっけね、
変な口の悪い魚がいたゲームがあったんですよ。
私あれ結構好きだったんですけど、
あのゲームの作者は大変頭のいい人で、
要するに人間というのは会話がちゃんとできるというよりは、
態度で騙されるんだということをよくおっしゃっていて、
例えば魚とかがランダムでなんですけど、
普通ポストペットとか当時流行ってたんですけどね、
だいたい仲良くなれるんですよ、ひどく簡単に。
ひどく簡単に仲良くなれると、
人間は相手をボットだとすぐ見成しちゃうんですね。
ところがその魚は気まぐれに遠くに行ったり、
ふてくされたり拗ねたり、相手にしてくれなくなるんですよ。
そうすると人間の方が勝手に気を揉むんですね。
非常に人気が出たんですけど、
私あれはチューリングテストというものに、
ああいう形で一石を投じるなとつくづく思うんですね。
我々ってそういうところ非常にあるんじゃないですか。
奥さんの機嫌が悪いとか、娘が口をきいてくれないとか、
そこにどういう意図があるとかいうことを一切抜きにして、
特に傷つきやすければ安い人ほど、
そこに因果関係を見てしまうんですね。
私HSPの診断基準の項目で、
人の気持ちにすぐ気づくとか、
どうすればその人が快適になるのかすぐ分かる。
それはその通りなんですけど、
一方で、それが真実かどうかは分からないところが多分にあると思うんですね。
気がつくのが敏感ということと、
気がついたことが事実であるということは同じではないですよね。
部屋が寒いから調子が出ないのかもしれませんが、
おなかが痛いのかもしれませんし、
それは分からないことですよね。
もしかすると、自分がああしたからいけないんじゃないかとすぐ思うんだけど、
そうであるケースは多分少ないと思うんですよ。
人間関係ならば、そうは言っても、
こういう類推をいくつか重ねていけば、
当たる可能性も結構ありますが、
相手が人工無能チャットとなってくると、
当たる可能性はゼロですよね。
類推した段階ですでに間違っていることは確実で、
現に魚が拗ねたり、ふてくされたりして遠くに行ったのは、
単なるランダムでしかないわけですよ。
そこに何らの類推をしてもダメなわけですよ。
12:02
でもそうするとゲームにならないので、
人は類推するんですよね、こういう時に。
こういう錯覚を引き起こすような心理テストは山のようにできていて、
全部同じです、理屈は。
要するに鏡の法則といえばそういうことになるんですが、
私たちは相手の振る舞いを自分の振る舞いから勝手に投影するんですよ。
怒っている時の表情とはこういうものだとか、
これは生まれつき我々は判断できるらしいんですけど、
笑っている時、より機嫌がいい時の表情はこういうものだと。
そうすると最初に例えば怒った表情をしておくと、
大概人間、普通の人であればですね、
何か機嫌を取るような言葉を入力する。
そしてそれを繰り返しているうちに相手の顔が腫れる。
そうするとそこに我々は因果関係を持ち込んで、
この魚、こうしたから機嫌が良くなったんだと判断する。
全部間違ってますよね、当然。
昨日、私も厚盛りをちょこちょこっと時々やるんですけど、
私はほとんどやってないから大変下手なもので、
虫取り網とかで間違って叩いちゃったりするんですよ。
怒られるんですけどね、子供とか。
要するに大事にしているキャラクターなんだけど、
虫を取ろうとして間違ってそいつの頭をバシッてやっちゃうんですね。
そうすると怒るんですよ、やっぱり。
そうすると怒るということが既に私の勝手な、非常に勝手な解釈じゃないですか。
そもそも網でぶつけてるわけじゃないですし、
ゲームの中の話ですから、相手が怒ってもいないわけですよ。
でも私はちゃんと相手が怒ったと感じるんですよ。
もうちょっとこの番組で繰り返している言葉を使うなら、
返答体が反応するんですよ。
大変すごいことだと思うんですよね、やっぱり。
大変たわいのないこととも言えますけど。
これですね、私すごく思ったんですよ。
もしもっとすごいのが出てきて、厚盛りの。
でもあのレベルでも十分とは言えますが、
0歳の時からすっごい厚盛りをやっている子供がいたとして、
これはもう絶対この子が、この相手が怒ってるって、
その子は判断するようになるんじゃないかなと思うんですよね。
逆も考えられますけどね。
で、そこまで考えてみた時に、
ふとですね、でも今の自分が、奥さんが怒ったとか娘が怒ったとか、
機嫌がいいとか気分がいいとか、
セミナーの人が話に満足してくれたとかしてくれなかったとか、
あるいはぶっちゃけ相談とかの質問でも、
この質問者は私に対して好意的だとか、あるいは好意的でないとか、
15:02
こういう判断が厚盛りのそれと違うというふうに
みなしている、どういう根拠があるんだろうと、
よく考えてみると、何の根拠もないなと。
何の根拠もないと思うんですよ、これ。
全く私が、事実は、多分人間の方には心があり、厚盛りにはないですよ。
それは事実としてそうですね。
そうではなく、私が何かを見て、
それに対して有効的だとかそうでないとかいう
反応の仕方をするというこの図式は、
相手が人間であっても、しずえさんであっても犬ですね。
練乳であっても牛かな。
同じなんだとしか思えないんですよ。
私の視点を取る限り、私から見えているものは2Dですよね。
一見奥行きが感じられるとかは理由になっていなくて、
そんなことを言えば、私の目には、
あつまれどうぶつの森の海は遥か彼方にまで広がっているように見えますから、
つまり奥行きを見るのは脳の勝手な、勝手というのはいけないんだけど、
脳の大変成功なシステムの成果であって、
奥行きを私が感じているからといって、そこに奥行きがあるということにはならないし、
私が相手の怒りを感じているからといって、
そこに相手の怒りがあるという保証は存在しない。
つまりそれはあくまでも映像と音であって、
そして私が心の中で鏡の拘束を使って、
自分が腹を立てているということをそこに投影してしまっているに過ぎないわけです。
相手が人間の前を本当に怒っているものとして対処をした方がいいのが事実です。
つまりそれは適応の問題なんですけど、
事実かどうかの保証もなく、こっちが勝手に反応を起こしているということにおいては、
それがチューリングテストであっても、つまり動物の森であっても、
実際にセミナーに来てくださっているお客さんであっても変わらないんですよ。
これが完全に理解できれば、
たぶん自分は自己肯定感と承認欲求などで、悩む余地はなくなるなと思ったんです。
だって私は別に連入が起こったって、実際どうでもいいと思ってますし、
ゲームの成り行き上、島の人たちと有効的になるというのは、
島の評価を上げるということにつながる。
すべて実は、非常に現実世界とよく似ている。
似せて作っているんだから当たり前なんですけど、よく似ているわけですよ。
ここで評価を下げるということは、つまり承認欲求が満たされるということですし、
18:02
ここで傷つくとか、あるいはここでの評価が下がるとか上がるとか、
いうのが自己肯定感じゃないですか。
ここで自己肯定感に類するものを私が感じ、
そして島の評価を上げるべく努力するというのは、
まさに私たちが現実世界でやっていることそのものじゃないですか。
会社に評価を上げるべく、いろいろなことをするわけじゃないですか。
動物の要求を聞くのと同じですよね。
幽霊が分裂して魂集めてきてって言って、集めてくると相手が喜ぶ。
まさにそういうことをやっているわけじゃないですか。
そしてその反応を見て自分が喜んだり傷ついたりするということですよね。
集まりはただそれが現実に存在しないというだけであり、
会社はおそらく現実に存在するだろうと。
でもそれは私たちの言ってみれば思い込みに近いものの方が遥かに優勢で、
実際に相手がどう評価しているとか、本当のところ相手はどういう気持ちでいるとかが
分かってやっているわけでは絶対ないと思うんですね。
そういうふうに私たちの精神構造ってできていないので、
厚ごりがそうであるように、あれにみんながはまれるということからしても、
本当かどうかは関係ないんですよね。
本当だと思ってしまっているわけだから、私たちの精神はそういうふうに作られているわけだと思うんです。
これが僕が思うに、承認欲求を満たすことによって自己肯定感を満たしてはいけない理由だと思うんですよね。
そうするためには世の中が集まり的でなければいけない。
どういうことかというと、確実に破滅的なことは起こらずに、
リソースはふんだんにあり、あの島、お金とか物とかなくならないし、
住民は食べ物を食べなくても死なないですよね。
実質住人は多分死なないですよね。
そして、かつ、こうすれば絶対危険が良くなるということさえやっておけば絶対危険が良くなるという世界でないと、
多分ですね、これをもっと複雑でどういうパターンに出てくるか。
倉園さんが、そうきたかということを大事にされているというふうにおっしゃったんですけど、
つまり現実はそうきたかが多いじゃないですか。
集まりどうすの森でもそれなりにあるんだけど、極めて平和的ですよね。
ところがですね、私ここまで考えて、もうちょっと考えたんですよ。
なんですが、つまり集まりじゃないところで自己肯定感とか承認欲求を外部に預けるのはリスクがでかすぎるんですが、
それはつまりギャンブルの乱攻撃がでかいというだけの話だなと思うんですよ。
21:01
よく考えてみると、私たちはどうして自分の心の投影で相手の心を読むなどというこのずさんなやり方で済ませているのか。
なぜ鏡の法則を平気で適用しちゃうのかと。
相手がチューニングテストのボットであってもそれをやってしまうというのは雑ですよね、やってることが。
なぜそんなことで済ませているのかというと、たぶんこの法則で大体なんとかまかないからですよね、きっと。
少なくともこれまでずっとそうだったからだと思うんですよ。
良くしてあげれば良くしてくれる。たぶん。
で、網とか釣竿とかで頭をバシバシやったりすれば相手は怒る。おそらく。
で、たぶんいろんな人に対して良くしてあげ続けていれば評価は高くなっていく。
つまり承認欲求は満たされて自己肯定感も上がる。ほぼ間違いない。
そうするとあれ?と思ったんですよ。
確かにこの世界はあの動物の森よりは過酷ですが、いやいや、同じようにすればいいんじゃないかと。
同じようにすれば原則は同じようになるんじゃないのか。
だってあれは現実そっくりになるべく作ってありますからね。
その点は驚くほどで非常に現実によく似てできている。
ある意味では過酷なゲームほど全然現実と似てない気がするんですよ。
なんかドラゴンとか火吹いたりするとかって、この現実にはないじゃないですか、そういうこと。
原発事故とかが起こるシムシティみたいなのは現実に似ているようですけど、原発事故とかってあのシムシティみたいに頻繁に発生しないですからね。
実はアズモリの方が似てるんじゃないかという気すらするんですよね。
で、そう考えてみた時にですね。
あれ?と思うんですよ。
グッドワイブスとよく似てないかなという気がします。
そういう気がしませんかね。
傷つくことがない自分。
動物は全然死なない。
そしてリソースはふんだんにあり。
与えてなくなることはない。
完全にあの世界ですよね。
現実があの世界と全く違うぞというならば、
もちろん災害が起きるとかありますよね。
アズモリでも8人刺されるとかあるんですけどね。
ありますが、いわゆる過酷なゲームほどは絶対ないんですよね。
過酷なゲームみたいなのだったらたぶん我々すぐもうとっくに死んでると思うんですよね。
スライムとかに襲われるだけでも絶対ダメだと思うんですよ。
スライムに襲われるのって蚊に襲われるのとかよりもずっと厳しいじゃないですか。
あのスライムみたいなのはいないですよね。
あの程度すらいないほどウイルスありますけどね。
24:04
アズモリにはウイルスはないですけどね。病院がないしね。
でもどうなんでしょうね。
私はアズモリの方が大戦略みたいな世界よりも、
もちろん世の中には大戦略みたいな世界もないわけじゃないんですけど、
我々はそこで暮らしてないことは間違いないじゃないですか。
で、ここで承認欲求を満たすのも実はですね、
自己肯定感をあげるのもすごい簡単なことなんじゃないのかなと。
アズモリでそれに真剣に取り組んでしくじる人ってたぶんまずいないと思うんですよ。
みんなやたらよくしてくれますしね。
しかし、現実の世界はそうじゃないんだろうかと思わなくもないんですよね。
現実の世界がああじゃなく見えるというのは、むしろイリュージョンなんではないのかなと思うわけです。
これはつまりですね、リソースの問題のように思うんですよ。
リソースがあっちはふんだんにあるからみんながあんな風にしていられると。
おそらく多少ともそうでしょう。
空腹で困っている人は誰もいませんしね。
でも私の目にはですね、あれに似ているような気のほうがむしろしちゃうんですよね。
なぜかというと、私が恵まれているからかもしれないんですけれども。
よくよく聞いているとですね、
ジューリングテストを私たちはやっていて、一番現実の問題だと思っているのがそれなんですよ。
たぶん本当はそんなはずはないんですけどね。
つまり、相手が怒っているかもしれないということで気にやむというケースがすごいんですよ。
あるいはここで恥をかかされるかもしれないとか、冷ややかに笑われるかもしれない。
その種のことであればね、厚盛りでも怒りますよ。
その種のイリュージョンを抱けば、
実は連入ってのは、いつもファイトとか言ってくれてるけど内心でどう思ってるかわかったもんじゃないって。
こういうことじゃないですか。
だって表面ですっげえギブツイことを言う人も稀にいますけど、まあそうそういないですよね。
私もTwitterとかは別ですよ。
あれはもうほとんど言ってる人は陰で言ってるつもりでいるんで。
Twitterとかは別として、私だってですね、
例えばAmazonで星を位置付けられたとか、Twitterで国評されたとかそういうことがあるにせよ。
じゃあ会った人にいきなり佐々木くんの最新作読んだんだけど最悪だねって言った人は、
50タイトル出してきてもですね、ゼロではないことにむしろ驚きました。
ゼロではないんですよこれ。
でも人数の比で言ったら1万対1ぐらいですよ。
こういうことを面と向かっていきなり言う人ってのは。
いなくはないんですけれども言いたい放題言うっていう人は。
27:03
でもそういう方っていうのはものすごく独特でいらっしゃるので、カウントする理由がほぼないんですよ。
普通に生きてると。
まず遭遇しないレベルです。
だからそういう意味ではですね、そんなに僕たちが勝手に鏡の法則をむやみやだらに振りかざしてですね、
いつも相手の心というものを読みまくってない限り、
そんなに世界が集まりはすごいハッピーだけど、こっちはもう地獄のようだみたいなことにはならないと思うんですよね。
こっちが地獄のようだというのは多分徹底的にイリュージョンを使って、
表面で何と言われていようとも、そこに常に悪意を見るぐらいな勢いを持っていなければ、
これをやれば集まりだって地獄みたいなもんですよ。
だって言ってることは全部信用できなくて、みんなが実は自分のことをこの島から追い出そうとしているっていう風に、
この妄想を抱けないのがむしろゲームの平和なところなんではないかと思うんですよ。
これが昨日すごく感じたことなんですね。
この妄想、ゲームに対してだけは私たちは抱かない。
なぜならば相手はプログラムだからなんですよ。
直接の反応で相手が怒りマークで文句言ってきたら怒ってるとはさすがに思うけど、
我々はさすがに彼らの内心は読まない。読まないんですよね。
せずえさんは内心ではどう思ってるんだろうとか別に思わないじゃないですか。
内心で何かを思っていると思おうとしても、相手がさすがにコンピューターなのでまだ無理ですよね。
内心があると我々は信じてないからだと思うんですよ。
これだけなんじゃないですかね。一番の違いはそこにあるのではないかと。
私たちは表面でどれほどよくされてもその人の内心を疑ってますよね。
自己肯定感が低いという人たちはとかくそうだと思うんですよ。
須貝さんの本は素晴らしいですねって編集さんが言ってくれても
こいつのはいつやっても売れないしって思ってると勝手に思うじゃないですか。
これが一番僕らの世界を難しくするんじゃないんだろうかと。
しかもさっきの一番冒頭の話に戻るんですけど、
水槽を浮いている。だから僕は紛れもなく傷つけられたって。
この紛れもなくっていうやつなんだと。
紛れもなく事実としてっていうのは一体全体何を指してのことなのか。
昨日だから間違ってですね。練乳の頭をバシバシ叩いた2回だけだけど
練乳が起こった。紛れもなく起こった。
30:01
そして紛れもなく私はそれにあって思ってしまった。
怒らせちゃったと思ってしまった。
紛れもなく事実じゃないですか。
そこの部分だけを表面的に徹底的に表面だけを見るならば
紛れもなく事実ですよね。
でも全部イリュージョンですよね。それは確かじゃないですか。
明らかに怒ってないし、私は傷ついている理由がないわけですよ。
この2つは並立するじゃないですか。
両立でいいか。両立にしよう。両立する。
紛れもなく事実なんだけど、どう考えてもイリュージョンということはあり得ると。
私たちはこっちの紛れもなく事実、傷ついたということは紛れもなく事実なんだ。
パワハラをされたということは紛れもなく事実なんだって思ってるんですよ。
私はそれが多分厚森と全く同じで、決して紛れもなく事実じゃないと。
そこは絶対イリュージョン優勢だと思うんです。
100%イリュージョンだと言い切りたいんですけれども、今両立の話をしているので
イリュージョン優勢としておきます。そこに何かしらの現実あるでしょう。
でもそこにつけている意味はすごい盛大なんですよ。
なぜ私が今日一生懸命厚森の話をしたかというと、
イリュージョンが盛大だとはこういうことだと言いたいんですよ。
相手が怒ってなくても私たちは怒りをそこに見るんですね。
かつての自分が怒ったという、その何をされる、どう怒るのかということを
僕たちは知っているので、記憶として持っているので、それをそこに見るわけです。
それ以外ないじゃないですか。練乳が怒ってないこと間違いないんですから。
怒っているということを類推するんですよ。
それは紛れもない事実だと言うんですよ。
ここには実はほとんど何もないのに、空っぽなのに、
そこに箱の中にはぎっしり物が詰まっていると思える生き物が僕らだってことですね。
これを取り払ってみればですね、人の内心というものを読むと、
まず100%間違ってますからね。内心というものを読むと、
そして因果関係を勝手にそこに見ると。
何々を私がしたからこの人は不機嫌なんだという、それを全部やめると。
世界は多分あつ森にぐんと近づく。
それはお花畑とか洗脳とかではないなと僕は思うんですよね。
逆じゃないかなと。
洗脳だって言うならば、それをこう見なさい、こう見なさい。
世の中はあつ森のようなんですという風に見なさいという話じゃないですか。
いろいろ脚色をしていろいろデコレートしてイエス様がお作りになったみたいな。
それは洗脳じゃないですけどね。何でもいいんですよ。
そこに物語を作るということですよね。
33:01
そこにいろんなものを追加していく。
そうしてこう見れば世の中素晴らしいでしょうっていう話なんですよ。
大体そこには誰かを拝めって話が絡んでくるんですけれども。
ではなくて、そこに僕らが勝手に見てしまうものを
おそらくチューリングテストで騙されてしまうような私たちの心理で
勝手に追加していくものを一切追加するのをやめさえすれば
やめさえすれば皆さんが洗脳だというものの見方にむしろ近づくことができるのではないかと。
そっちはですね、追加してないわけですから。
錯覚を起こしてないわけなので。
実は実、現実に近いじゃないですか。
この見方を取ると人に騙されるというのはおかしいと思うんですよね。
きっとですね、そんなことは起こらない。
現に私見てて思うんですよ。
この、あ、一人いますよね。
偽の画像が出てきますよね。
偽物も扱う画像だ、あつ森には。
実に子供向けのゲームとしては変わってんなと思うんですけど。
本物の絵も紛れてるから大変難しい部分なんですよね。
あれ、あそこにあつ森でお花畑みたいなワールドでやってるから
偽の絵をバンバン騙されて買っちゃうなんてこと、子供でもしないじゃないですか。
私は、人は警戒をしている、警戒モードになってるから騙されないというのは大きな誤解だと思います。
あの、あれを見ていて思うのは、なるべく本物の絵しか買わないようにしますよね。
これを人はやっぱり別に騙されないとする努力をものすごくしなくても
人を大いに疑ってなくてもできるんじゃないかという気がする。
現にだってあそこで偽の絵を買ったって別に構わないじゃないですか。
そんなに困ったことにならないでしょう、あのゲームの場合は。
でもそれは避けるということは割と簡単にできるわけですよね。
しかもその画像との取引を続けるという流れの中でですよね。
私はこれがですね、なぜ現実になるとそんなに警戒モードを最大にしようとして
自己肯定感を上げるべく相手の気持ちをどんどん忖度して
評価を最大限にしようとしていなければならないのかというような気がしました。