2020-10-05 41:16

【GMV232】ひとつ意識体験で未来の不安が消えた話

自分というものが肉体だけでないことになると、未来の出来事とは、不安要素が溶けてしまう
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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
気がつくとですね、これも232回とか書いてあるんですよね。
普段あんまり見てないものですから、入力する時だけ回間違わないように全回のを見るんですけど、その時だけなんですよ。
なのでこう、あれ?と思って、そういえば230回もやっていたということらしいので、何を喋っても過去に何か喋ったんじゃないかなと聞き返してもいないんで、わかんないんですよ。
で、最近ですね、これは多分先週喋った後、
これ記憶もですね、結構曖昧になっていくんですよ。なんか不思議なことにですね。
先週喋ったはずなんですが、合宿行ったじゃないですか、私。
で、そこで一つ意識体験というものを、ワークの一種だと思ってください。非常にね、説明しがたいワークなんですね。
えーと、何と言えばいいんですかね。
ブラックルームっていう心理実験があるんですよ。
実は私これ結構大好きで、留学中にこれの擬似的な実験をやったんですね。いろんな学生の人を集めて。
えーと、どういうことかというと、感覚剥奪っていう言い方もするんですけど、
暗室で音も完全に遮断して、できれば肌感覚を遮断すべく、一番感じにくい温度に気温も外気も安定させて、
で、そこに一人でいさせる。そうすると感覚が、要するに外部からの刺激ですよね。
一切なくなってしまうので、そういうところでは何が起きるのかということを実験する、そういうの昔から割とあるんですよ。
橘隆さんがですね、臨時体験という本の中でも触れてたと思ったんですけど、違う本だったかもしれませんが、
でも臨時体験の文脈も割と関係があって、要するに優待離脱みたいな感覚が起こるんですね。
私は、さらにこれを徹底したタンクがあるんですよ。
このタンクというのがですね、浮かぶんですね、水に。
しかもその水の濃度を、塩じゃないんですけれども、何かのマグネシウムを入れることで浮力を高めているために浮くんですよ。
浮くことの何が大事かというと、重力感を失いますよね。
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つまり体が完全に浮くんですね。しかも暗室で音もしないというところで浮くから、優待離脱が起こりやすくなるんですよ、意識の、理屈の上では。
私それをやったことが、体験したことがあるんですよ。1時間ほど入っているんですね。
で、残念ながら、私はそういうのがよほど苦手なのか、ほぼ何も起きなかったんですけれども、
起きながら夢を見ている、要するに明石無が見やすくなるのは何となくわかったんです。
あれはだから毎日繰り返しやっていれば、いずれ明石無を見ることができるだろうなと思ったんですけど、それぐらいなんですね、残念ながら私が体験できたこと。
外に出た時の外界の刺激感は普段より強いなとは思ったんだけど、そのぐらいのことは映画を見終わった後ですら起きることなので、
あれほどの手間をかけた割には、それほどの効果ではなかったんですけど、今思うのはですね、
あれの大きな弱点がありまして、要するに外界の感覚、視覚、聴覚、重力感のようなもの、肌感覚を一切なくすことによってですね、
代わりに何に投影すればいいのかのその対象がないんですね。
私たちのこの身体感というのは、イリュージョンなんですよ。
これはもう証明済みのことなんですね。で、私たちはそのことをたぶん毎日体験しています。
なんでかというと夢見てますからね。夢見てる時、自分が寝床にいるという身体感覚を失っているじゃないですか。
これを逆に言うと、身体感覚というものは脳が絶えず維持して作り出していない限り、持ってないものなんですね、もともと。
で、そういう病気もあります。身体感覚をことごとく失う病気というのが、オリバー・サックスという人が妻を防止と間違えた男という本の中で書いているお話なんですけど、
身体感覚を失うという、完全にですね、だけどその人は自分が死んだという感じを持たないので、
あの、やっぱり生きている感じはありつつも身体感覚は存在しないという経験はあり得るんですよ。
それは非常に悲しい体験だという、悲しい体験というか、なんとかしてこの身体感を取り戻したいという人の苦しい苦しみですね。
糖病気が書かれている本なんですけど、非常に良い本ですね。
で、つまり身体感というのは脳が作り出しているんですよ。例えば私たちは手の感覚って持ってますよね。
手が自分があるというのが分かっている。目をつぶっても何となく自分の身体があるという感じはある。
でも実は身体は一切そのような感覚を発しているわけではなくて、何かに触れて暑いと思うとか冷たいと思うのは身体とか関係があるんですけど、
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基本的に身体感覚、固有感覚って言うんですけど、これを作っているのは脳であって身体の方じゃない。
この話、厳密に言い出すと非常にややこしいんですけど、ホムンクルス人形ってあるじゃないですか。
あのちょっと手とかけだけやたらでかくなっているあの変なやつですね。
つまり身体感というのは自分の身体をちょうど正確に鏡のように映し出しているものじゃなくて、歪んでいるわけですよね。
あのホムンクルス人形はそれを言っているので、ここでも大事なのはですね、身体感を失っても、さっき言ったけど、自分が生きているという感じまで失うわけではないんですね。
一方で自分が生きているという感じだけを失う病気もあるんですよ。
ゴタールって言ったかな。とにかくそういう病気がありまして、自分が既に死んでいるという、北東の病みたいですけど、そういう感覚になるという病気がある。
このこっちの方は今度はですね、身体感そのものはですね、持ってるんですよね。非常に不思議なことに。
でも例えば自分の手は自分の手ではないと感じられるとか、自分の肩にくっついている他人の手なんだ、これもあのさっきのサックスさんの本にあります。
オリバー・サックスってすごい脳神経科学者で、そういう話の収録も書いている内容も大変面白いので、
クラゾン・ケイドさんがよくおっしゃる、自分とは自分の肉体であるという、あの感じというのはイリュージョンなんですよ。
彼の書いている内容からしてほぼ間違いなくそう言えると思うんですね。
そのような感覚は作り出されて必要だからそういう風になっているんだって、何らかの脳機能の異常が起こる。脳ですよね、あくまでも。
異常が起こればそのような感覚は消滅するので、消滅するということは現実が発しているものではないということですよね。
原始って逆にあるじゃないですか。自分の手は切断されてとっくにないのに指の先が痛い。完全にこれはイリュージョンじゃないですか。
でもこれはおかしなことではないんですよね。なぜなら指先の感覚とか指先の痛みとかいうものは全て脳が深くそこに絡んでいるのであって、
指がそこに深く絡んでいるわけではないからですね。 そうじゃなかったら夢の体験って全て非常におかしなことになってしまうので。
クォリアというのはつまり、 普通はそうはならないはずなんですけれども、外界からの明確な刺激信号がなくても成立するものなんですね。
ついでにオリバーサックスさんが書いている、これはついでですけど、 色のない島だったかな、そういうタイトルの本があるんですが、
そこは色が全く、ほとんどの人が色というものを知覚していない。 なぜならば光の強さが極めて強いので、
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そして色彩感があまりない自然風景なので、色が必要ないんですね。 そうすると人間のこの識覚というものが機能する理由がなくなるので、
色というものは消滅する。 これは色というものが外界に存在しないというのは、
常識といえば常識なんで、 ここで深く立ち入る理由はないんですけど、とはいえ私たちは色を見ていると思い込むじゃないですか。
つまりこれが全部イリュージョンであることは間違いないんですよ。 で、生々とどうしてこういう話をしているかというとですね、
ブラックルームが私に体験して分かったことの一つに、 感覚剥奪というのは実は十分起こり得る。
しかも容易に起こり得るんです。 そうすると私たちはいつも外部に、それは木だとかそれは空だとか、
投影しているので、そこにそれがあると思い込んでいるわけですけど、 実はそういう感覚というのは全部作り出されているものなので、
早い話がですね、感じているのは私の脳でしかないわけです。 空だとか思っていてもそれは私の脳が、脳を私は感じているんですね。
空を感じているわけでは、その場合必ずしもないということです。 だから何もなくなってしまうと非常に脳としては、
知覚する対象の行き先がなくなるので、それでも起きているから何かを認識しようとするわけですよ。
そこで何が起こるかというと、幻覚が見え始めるんですね。 ここまでは私の生まれでは非常に割とあっさり起きたんです。
びっくりしたんです。なんでびっくりするかというと、私はビジュアルイメージが大変弱いので、 脳内に何かイメージを想像するということを
しようとすると困難を覚える人間なんですね。 ところがブラックルームの中ではそれがとても簡単にできると。
これはどう考えたって、知覚対象がないからなんですよ。 知覚対象がないのに頭だけさえざえとしているから、こういうことになるしかないんですね。
これがブラックルームの体験だったわけです。 このブラックルームの体験から考えてですね、
特に視覚対象というものに投影するのが容易であると、 つまり簡単に目を閉じてイメージを作るのが簡単にできる人なんかからするとですね、
自分の身体というものを一切目に見えないようにして、これは簡単ですよね。 鏡とかないところに行って、手とかを目の前に置かなければいいわけですよ。
これがまさに合宿中にやったことなんですけど、
木とかが一番いいですね。いろいろ理由はあると思うんですけど、 木とか山とかに投影していけばいいんですよね。
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そうすると、 自分が山になった感じというものを
割と容易く得ることができます。 これは私、非常にこう、
理屈の上ではそうなるだろうなと思ったんですけれども、 あれほど簡単にできるとは思わなかったです。
ブラックルームって大掛かりな装置なんですよ。 あれを西洋人がわざわざ用意しているというのは非常にやっぱりわかる気がするんですね。
彼らは個人主義の思考が強いんでしょうね。 自分の身体以外の何物でもないと思い込んでるんだと思うんですよ。
でもですね、これは男の人は知っている感覚だと思うんですけど、 自分が車と一体化しているような感じって、生運転していると持つじゃないですか。
あれを容易に持つもので、あの時の脳でどういうことが起こっているかも思うし、 基本的には証拠は集まっているんですよ。
身体感というのは拡張するんですね。 で、車と一体になっている感じというのは多分多くの人が持っているはずで、
だから車が擦りそうになるとわかるじゃないですか。 あれ本当はおかしいですよね。ミラーが擦りそうになるとわかるっていうのは。
目で見てわかるというよりは、もう肌感覚でわかるはずなんですよ。 わからないという方がよっぽど危ない感じがして、その人擦るだろうって思うんですよ、やっぱり。
そんな感覚で運転していたのでは。 私ですら明瞭にありますので、要するに車幅感ってみんなが言うものがそれだと思うんですけどね。
そういうのって全部物に対して自分の感覚を投影しているわけですよね。 この感覚が、
要するに自分が肉体であるという、肉体以外の何物でもないという感覚から脱するために、非常に有効に使えるということなんですよ。
で、この感覚がですね、得てからというものはいろんな変化が起きている感じがするんですけど、
一層ですね、フラグマティックな人からすると、ついていきにくい話が多くなっている。 だから私、しつこくブラックルームとかですね、
日常生活の延長線から理解しやすい話をなるべく持ってくるようにしてるんですけれどもね。 現在のGood Vibesにおける私が伝える路線としてはこの辺かなと思っているので。
で、一つはですね、これを体験すると、やろうと思えばですよ。 やろうと思えばというか、理屈の上ではね、
世界中に自分を投影できるので、偏在意識みたいなものが意識できますよね。 この話、絶対に橘隆さんの臨時体験と極めて似てくると思うんですけれども、
ブラックルームで臨時体験みたいなものを体験する人、偏在意識みたいなものを体験する人、いっぱいいるんですよ。
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自分の体から意識だけ抜け出して、上から自分の体を眺めているような感じがした。 イマジネーションが私なんかより豊かだなと思います。
私はなんかね、体から意識が少しずれた感じがするにとどまっちゃうんですよね。 イマジネーションはやっぱり働きにくいんでしょうね、私の頭って。
で、そういう偏在意識的な、的なでいいんですよ。
そんなに私みたいな人間はそういうのすごい苦手ですから、 絶やすくそれを言う人もいるじゃないですか。私の妹がそういうことを絶やすく言える人だったんですよ。
空と一体化するとかすぐ起こるみたいなんですね。 で、そういう人って絵が上手いですよね。
あの、空の絵と描いた時も、私はどうしても写真で見た空の景色みたいなもの以外は何もないんですよね。
投影とかを非常に、投影全くしないってことはありえないじゃないですか。どんよりした空とかって勝手に自分の気持ちを投影してるだけですよね。
水蒸気とどんよりと実は何の関係もないので、こういうことは私すぐ絶やすくわかるんだけど、
にもかかわらず投影している実感が乏しいものだから、 例えば私がどんよりした空を描こうとすると、ただ灰色を濃くした空になっちゃうわけですよ。
妹が描くようなどんより感みたいなものが出せないんですね。 自分がどんより感というものが薄くしか持ってないから。
こういういろんなすれ違いってあるんですけれども、その意識が偏在化する、例えばそれこそ実用的なメリットって何かあるのかっていうと、あるんですよ。
ちょっとね、誰のだか忘れちゃったんですけど、ポッドキャストXが聞いていたら、どうしても面倒くさいことをしなければいけない時みたいな話を言ってたんですけど、
例えばそういう感覚が、非常にそういう感覚による面倒くささと、多分かなり縁が切れます。
なんでかっていうと、意識が偏在しているということは、依頼者に対してもっと簡単に投影できることを意味するじゃないですか。
もうちょっと言うと依頼者と自分が一体なので、依頼している人から依頼されている私という時にですね、
その人のために動くのが面倒くさいという感覚には無情を感じるようになるわけです。
だってその人は、依頼した人は私なので、もうちょっと具体的に言うと妻がですね、私に娘の部屋に電気を付け替えてくれて、面倒だと感じるのはですね、
依頼者と私が完全に分離しているケースにおいてのみなんですよ。
あの、私は私の肉体以外の何物でもないってやつですよね。
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でも、私は私の肉体以外の何物でもないという感覚は嘘なので、これは頭のいい人がすぐにこれ以外の何物でもないでしょうと言いながら全然違う体験をしているということを忘れているのは少しあれだと思うんですけどね。
だいたいそういう人だって車の運転をするはずじゃないですか。
車と一体になったことは絶対あるはずなんですよ。
全く一回も一瞬もありませんでしたという人は、運転控えた方がいいですよ。
それくらいそんなことはあり得ないと思うんですよね。
あと、寝てるわけじゃないですか、その人。
夢を見ている時も自分がベッドにいることは一瞬も忘れたことがありませんと言うなら、ともかくとして、そんなことあり得ないと思うんですよね。
あと私、生ラフ泳いでいたのでわかるんですけど、遠泳でね、2キロとかを超えたあたりからプールと一体になった感じって出てきます。
どうしても出るんですよ、あれはもう。
全くそれがないまま2000メートル以上泳げるという人がいたら、むしろ私はそっちの方がちょっと気味が悪いなという感じがします。
で、話をまた少しずれたんですけど、要は自分が自分の肉体以外の何物でもないという感覚は、
実は脳と思考がですね、普段にそういう努力を行ってやっと成立するものであって、実はすぐ失われるものでもあるんですよね。
私たちその辺のことって全部誤魔化してるじゃないですか。
昨日皆さん、夜何食べられたか、私は知りませんが、私はパスタだったんですけど、昨日の夜以降パスタと私は一体化したでしょ。
肉体以外の何物でもないとしても、それは事実、そういうことが起こってますよね。
この辺のことは無視してるんですよ、私たちは。
肉体以外は何物でもないと言った時に、絶対不変の肉体が私というものとして、括弧として外界と切り離されてあるっていうのは、
明らかに、プラグマティックに説明しても全然説明になってない部分ってありますよね。
外の空気と一体化しちゃってるじゃないですか。
ということは、外の空気に自分の空気を出すんだから、ある程度まで空気が自分であったら、外も自分だってことになってしまいますよね、ある程度までですよ。
それがごくごく薄くてもゼロにならないですよね、その部分って。絶えず呼吸ってしてますから。
こういうことっていくらもあるはずで、だから自分の肉体だけが自分であるというのは、強い強い錯覚なんですよね。
そうやって思い込もう思い込もうという、普段の努力によってやっと成立するものなんです。
この種の思い込みって、しかし弱いものでして、決して強いものじゃないので、耐えやすくどんどんどんどん変転してしまうんですね。
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赤ちゃんって、おしっこすると泣くんですよ。
多くの人はですね、子育てされてない方は特にですね、
おしめが冷たくなって不愉快だから泣くと思ってるんですけど、今のおむつって異常なほど機能が良くて、
あっという間に吸い取ってしまってですね、1回や2回では冷たくなんかなりゃしないんですよ、おしっこしたからといって。
物にもよるけど。
で、そうするとどういう理由であれ泣いてるのかというと、実はするときが嫌なんですよ。
出すときが嫌なんですね。出すときなんで嫌かというと、単純に痛いんですよ。
私たちはそれをもう忘れてるんですね。
まさかと思うんですけど人にもよると思うかな。でも多分多くの人は、これを聞いてる多くの人、おしっこするとき痛くないでしょう。
あれはですね、実はただ騙されてるだけなんですよ。
した後の爽快感が、あのあれですね、行動科学で説明できるやつです。100%説明できるやつですよ。
レバー倒すと地図が出てくるやつですよ。
このレバーを倒すとき、若干指に痛みが走るとするじゃないですか。
でもチーズが美味しいから指の痛みのことは脳が抑制すると。
そうするとそうなっちゃうんですね。
この痛みは何ならば快感であると感じるようにしちゃうんですよ。
そうすると快感になっちゃうんですよ。
レバーを倒すときのピリッとくるやつが気持ちいいよね。
こういう感触が胡椒とか唐辛子の美味しさを作り出すんですね。
非常に単純な仕組みなんです。
だからトイレに行っている時の爽快感というのは、やはり痛みがベースにあるはずなんです。
それを快感に切り替えているんです。
この種のことは実は脳は簡単にやって抜けるんで、
私たちが肉体以外の何者でもないとか思い込んでいるのはもう完全なる思い込みなんです。
そうしている方が都合がいいからそうしているだけのことであって、
恐らくそうしていることの都合の良さを忘れると。
今私が忘れつつあるんですけれども、
自分は身体以外の何者でもないという思い込みというのは、
いとも簡単に崩壊していきます。
それは理屈の上ではそう難しい、無理のある話ではないですよ。
痛みが快感になるということが容易に可能であるならば、
要するに痛みというのは必要に応じて不快であり、必要に応じて快感であったりするんだけれども、
自分都合なんですよ、全ては。
都合が良ければ痛いままだし、
都合が痛くない方がいいならば痛くない方に切り替わってしまうんですね。
感覚というのはそういうふうに作られていないと、
結局私たちの都合に合わせてできているものなので、
痛みが絶対に不快でなければならないという理由はどこにもないですよ。
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そうするとトイレするたびに激痛が走って大変不都合です。
この感触依頼に一番変わったのが、
さっきの一番変わったのがそれじゃないですけど大きく変わったのが、
人からの依頼というものが私の肉体の外から来る、
私以外の存在が私にする依頼という感覚がなくなりつつあるので、
そうすると面倒くさいという感覚が劇的に減ります。
これと並んで起こる現象として、
すぐに何にでもその気になれば投影できるということは、
投影しない存在は自分にとってものすごく縁が薄い存在に感じられるようになるんですね。
これはブラックルームではどうしても分かりにくい話で、
その印象が必要なんだなと。
つまり自分の感覚が身体から抜け出すとかずれるとか言うだけではダメで、
目の前にあるものにある程度それは自分なんだという感じ。
なんで自分なのかというと自分が見ているからですね。
自分の脳がそれに反応しているからという言い方をすると、
ものすごくプラグマティックだけどものすごく実感から遠のくるんですけれども、
あえてそういう言い方をしてもいいです。
そういう言い方をするならば、見ている夢が私ならば目の前の景色も私であると。
こういう言い方のほうがいいですかね。
これはあくまでも肉体こそが私であるという前提から抜け出ていない感じがしますけどね。
いずれにしても健在的な意識という感覚を手に入れるとですね、
一つ非常に薄くなってくるのが未来というやつですね。
未来から何かが…未来ってないじゃないですか、目の前に。
投影しようがないですよね。
未来に自己投影するということは不可能に限りなく近いですよ。
私のようにイマジネーションが足りない人間はほぼ全く不可能。
なので未来というものもある感じってしなくなるんですよ。
結局作り出しているものなんですね、それも。
私が投影する対象として目の前にあるものが良いですよね。
食べるものとかはもう投影するまでもなく自分になっていくんで、
これももう自分だと思うのをある意味思おうとさえ思えば良いんですね。
だけど未来はそうはいかない。
全然目の前にないし、自分になってもいかない。
だからこのイマココというあれは難しいように思うんだけれども、
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これをやると非常に簡単なことで、むしろ過去も同じなんです。
過去に投影することってすごく難しいと思うんです。
こだわるというのとはこれは違うんで、
過去の自分こそが今の自分にも増して自分であると思うのって難しいと思うんですね。
つまり直接コンタクトできない感じって強くあるので、
結局思い出すことはできても影響を与えたり与えられたりということってないじゃないですか、
過去の思い出から。
未来はもっとそうで、何が起こるかすらわからないので、
投影しようがないんですよね。
これがなくなったことがすごく私の中では大きいなと思うんです。
今は未来というものから不安がやってくるというのがあれなんですけれども、
おとぎ話みたいな感じがします。
不安はまだなくなったわけじゃないですよ。
つまり現在に存在する不安ってあるんだなというのが分かってきたんですけれども、
未来にある不安が実現する可能性についていちいち検討するというのが、
ホラー映画のゾンビに襲われる可能性について検討するというぐらい
リアリティがないんですよ。
起きる確率さえも非常に怪しげなのに、
それをわざわざ自分の頭の中で作り出して、
それが自分に悪い影響を及ぼすことについて、
真剣に神芝居を脳内で展開するということがですね、
全然目の前に存在している偏在、
つまり自分がそれだと思うことができる可能性の幅広さから、
しかもそのリアリティから比較して、
全くそれをする意味が感じられない。
こういう感覚なんですよね、ということが何の中、合宿以来感じるようになったんですね。
やっぱり二つあるんですよね。
とは、私が知る範囲内で私であるということですね。
だから、そこから発せられる欲求というものを叶えるのは、
自分の欲求を叶えるものだとみなしても差し支えがないんですね。
これはこのように心がけますとか、このように心がけましょうとかいう話とは全く違うんですよ。
本当にそのまんま事実だということなんです。
だから、よく蔵野の剣道さんがおっしゃってますよね。
モラルとかは道徳とかそういう話を持ち出す必要がないかのように言うんだし、ないんですけれども、
どうしてなのかというと、努力を要するような話ではないからなんですね。
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他人のためにやるわけじゃないんで。
で、巡り巡って自分のためになるとかでもないんですよ。
それだと自分の肉体みたいな感じ、個人としての自分という感覚があるじゃないですか。
相手が自分なのは事実なんですよ、ある程度までは。
昨日食べたパスタが私なのは事実じゃないですか。ある程度以上。
他者が自分である部分は一切ないという考え方の方がよっぽど無理があって、
そういう生き方をできる人って多分いないと思いますね。
で、そういう生き方をするメリットって何にもないと思うんですよ。
あえて無理やりそういうグロテスクなものを想像するならば、
カプセルを用意して、一生使う分の酸素をそこに入れて、
食べ物をなるべく自分が出したものから作り出せるような食べ物にして、
つまり完全に自己完結できる自己循環みたいな装置の中でのみ生きていくっていうなら、
そういうことも多分無理ですよね。今考えてみると無理だなって感じがします。
ある程度自分って外にあるんですよね。自分の肉体の。それは事実じゃないですか。
そこにあえて何か共感する能力とか努力とか想像力とか一切いらないような気がするんですよね。
呼吸して吐いて出すだけ、出して吸うだけでもう事実じゃないですか。
自分の外にも自分があると言っていいというのは。
あえてそこを切り分けて自分の外と自分の内は完全に分離していますという風に言える人は多分いないと思うんですね。
だから外からの依頼とかは本当は無いわけですよ。
全部内側からの依頼のはずなんですね。
で、全く逆のことを言う人がいらして時々困るんですけど、
その自分自身の肉体から発せられる自分自身のケアすらも面倒ですという意見があるんですよね。
例えばお風呂入って歯を磨くのも面倒臭くて大変ですみたいな。
この話はちょっと今日はしないですけれども、この話がすごく似てるなと思うんですね。
自分からの依頼でもダメであるっていうぐらい自分の範囲をディストリクトっていうのかな。
制限している感じの人って確かにいらっしゃるんですよね。
だからこの制限が逆なんですよ。
絞らなければ絞らないほど楽なのに絞れば絞った方が楽だって思い込んでいるイリュージョンから解放されるのが何よりだと思います。
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で、それと全く同じことなんですけど実は、時間ですよね。
時間と未来っていうやつ。
これはですね、ないとか今ここということを言うのがですね、いくら事実だとしても、
だんだん私この方面で攻めても届かないのかもしれないと。
ミヘルエンドのモボですよ。
あれ100回読んでも結局生活の仕方は変わらないのかもしれないと思うんですけど、
むしろ一発で変えるには偏在意識の方に受信をいた方が簡単は簡単だなと思うようになりました。
なぜ倉園さんが一つ意識ということを最初に強調したのかというのがよく分かるようになった気がします。
私もタスクシュートでとか今ここしかないって話は盛んにしましたけれども、
自分自身でもそうなんですよね。
未来が存在しない感じを今ほど持ててない気がする。
持ててなかったんですよ。
今が一番ですね、今までの中で未来というものがあるんですけど、
あるというか、そういう観念が成立するのは確かなんですが、
観念なんで、地球は46億年ですっていうのと同じで、観念なんですよ。
それを事実として知識として仕入れておくのはそれはそれとして実感を伴うような話ではないんですよ。
未来というものが不安を持ってくるというのは、
私は本当にすごいことをやってたなと今思うんですね。
それは知的アクロバットみたいな感じなんですね、今の感じとして。
やってできないことはないと思うんですよ。
未来に不安を覚えるということも可能です。
今やろうとすればできるでしょう。
ただ、そういうことをしようという気にならない。
それはやっぱりですね、こういうことなんですよね。
すごく成功な3DVR装置を使ってホラーを楽しみましょう。
まあ、やれますよね。
ただ、別に僕はやりたいとは思わない。そんなこと。
人によっては、ホラーすごい恐ろしいでしょう。
だからゾンビに気を付けないとダメなんですよっていうのが、
未来に対する不安から来るアドバイスみたいな感じなんですよ。
まあまあ、冗談なのかもしれないなとは思いますけれども。
それを本気にする世界に行くっていうのも無理ですね。
こっちの方が正気っていうものに近い感じがするんですよ。
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未来の不安をずっと抱えているのが正気を保つ唯一の方法なんですというところが
現代社会にあるんですけど。
あれはどう考えてもやっぱり狂気ですよね。
やっぱりどう考えてもそれはVR装置でホラーを見た後で
本当にゾンビを警戒して生きていくみたいな
そういう感じしかしない今ではですね。
リアルと関係がなさすぎる。
昨日、さっき言った通りなんですよ。
パスタは私になるし、呼吸も私になる。
だから私が外に出す以上は、そして数以上は空気も私になる。
そういうふうにリアルに世界と自分って繋がっているんだけど
未来はこの接続の外にある感じがするんです。
私が観念として思い描く未来ですね。
直線じゃないですか、それって。
現在のこの空間状態は基本的にはピタリと止めて
明日になれば明日の日数がやってきて
例えば10月31日という日がやってきて
その時に締め切りの何かがある。
全部ある現行の締め切りみたいなものだけをピックアップして
その他の世界も一切何かの検討を加える必要のないものとして除外しましたよね。
そういうことですよね、未来から来る不安というのは。
例えば数字としてのお金が200万あって
月2万ずつ失うと100ヶ月後にはお金がなくなるっていうのは
その数字としてのお金だけをピックアップしたとして
直線的なものを描きましたよね。
それ以外の世界を全部排除しましたよね。
そういう現実感覚というものは
何より大事になれるなら重要視することができるようになるという感覚っていうのは
意識がよっぽど制限された場合だけ成立する感じなんですね。
今みたいに意識が偏在化してしまうと多少でもですよ。
私の偏在なんてすごい薄いと思うんですけど
でも多少でも偏在化してしまうと
そういう数直線みたいなものって
算数の教科書にだけ載っている世界みたいな感じがするんですよ。
リアリティがない。
お金を稼がなきゃならないというのは分かるんですけれども
それとは関係ないことを喋られているような
例えばその数直線のどこかで僕が死んだ場合
その数直線って本当に最初からなかったことになるじゃないですか。
そういう理屈をこねなくても
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1秒後、2秒後、3秒後みたいな世界を
僕はもう思い描けないんですよね。
思い描くには実はかなりの努力を要していて
その努力をして手に入るものは不安だけなんですよ。
これが実にコストパフォーマンス的な言い方を皆さんされるので言うならば
これは悪いですよね。
だからやっぱりあれなんですよね。
ホラー映画とかお化け屋敷に僕はあんまりお金を払う気がしないです。
大して怖いと思いませんけれども
さっきも言った通り、もう一つこれはついでの話なんですが
ホラー映画とかお化け屋敷があれほど人気があるのはあれです。
痛みが快感になるということを人は知ってるからですよ。
トイレと同じなんです。
痛みが快感になるわけです。
だから痛いものが欲しいわけですよね。
でも私は今、未来を不安にしてまで痛いものが欲しいとさほど思わないので
これともう一つ関連して克服できたものがあります。
静電気の恐怖症が消えました。
なぜならあれは痛みだからです。
痛みって変換可能なものなんですよ。
私はたぶん自分の身体が自分であるということを以前ほど信じられなくなったので
恐怖感がなくなりはしてないですけど
以前の1万分の1以下になりました。
これがイリュージョンというものですよ。
私は常人の1万倍ぐらいあれが嫌だったんですよ。
イリュージョンというのは本当に無限なので
何でも作り出せますからね。無限なので。
だからこれもそうなんですよね。
静電気は痛くてそれを恐れるのは正しいことだということが正気であるならば
どこまでも徹底的に恐れればいいんですけれども
これと未来の不安ってよく似てるっていうことです。
ご視聴ありがとうございました。
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