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おはようございます。
えーっと、今日はですね。
うーんと、だいぶ昔、たぶん私が高校生か老人ぐらいの…いや、違うな。
中学生ですね、たぶん。
ぐらいの時にあったことを突然思い出したので、
その話の中には非常にこう、いろいろと、今だったら考えさせられることがあるので、お話ししたいんですけど。
犬の散歩をしてたんですよ。
で、そこに近所でも評判のちったらあれなんですけど、近所なんてそもそも私の家にはなかったんですけどね。
あの、まあでもちょっと評判が立っているおじいさんがいわして、
まあ、みんなすいてたとは思えないんですよ。
うちの連中もあまりよくは言ってなかったんですね。
で、そのおじいさんも犬連れててですね、
そのおじいさんの犬が驚くほどうちの犬に吠えかかってきたんです。
まあ驚くようなことでは実はないんですけどね。
で、そしたらですね、しばらく、私も大概なんとかするんですけれども、
あまりにも猛烈だったので、私ちょっと固まっちゃって、
だから中学生、中学1年ぐらいだったんだと思うんですよね。
固まっちゃってね、どうしたらいいんだろうって思ってたんだと思うんですね、多分。
あの、完全には思い出せないんですけど、その時の心境まで。
そしたらおじいさんが怒り出してですね、私の手を掴んで、
えっと、オダフの犬がね、臭いからうちの犬がこんなに吠えかかるんだよって言って、
すごい怒っていったんですね。
で、私はそれを聞いて、え?と思って、
思ったわけです。
これだけの話なんですけれども、
これが非常にですね、今思うとグッドワイブスではないけれども、
グッドワイブスだなと。
で、時々思い出すぐらいのインパクトのある思い出なんですが、
大体の時はもう完璧に忘れているわけです。
時々っていうのは心理学とか、特に臨床の世界で、
怒りというのはどんな時でも反応ではないんです。
これはもうクラウドのケイゾーさんはグッドワイブスでもよくお話しされるんですが、
全て同じコンテクストを持っているわけではないけれど、
全て同じようなことは言っています。
怒りというのは決して反応ではないんですと。
選択なんです、どんな場合でもとね。
まあ、そうは言ってもものすごく局限的な状況で、
あれは戦争とかね、
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ちょっと、たとえ選択だと言っても、
難しいなーってシーンはなくはないと思いますが、
このレベルであれば、確かに怒りというのは選択なんですね。
で、自分はこのクソジジイめって思ったけど、
あれは当然反応だと思っちゃうわけですよね。
思ってました、当時。
これは誰もが同じように反応する、こういうことがあればね。
ところがそうではないんですね。
で、これは臨床でも必ず言うことなんですけど、
これが反応ではなく選択なんだと気づくことが、
やっぱり何よりだと思うんですよ。
気づきさえすればいいとまでは言いませんが、
気づくことができればもう、
もうね、それでOKなんじゃないかなと思うことがしばしばあります。
つまり怒りとは、反応なんだと思っている、
この感覚、感発想から抜け出すということが大事なんだと思うんです。
で、そう言ってもこれは反応だろうって思っちゃうじゃないですか。
でもですね、これを言ったのが、
えー、そうですね。
そういうことはありませんが、
自分がすごい前から好きだった女の子が言ったんだったらどうだろう?
かなり変わると思うんですよね。
ギュッとするとは思いますよ、この内容を。
そういうことを子が言ったらむしろね。
でも同じ反応にはならない。
反応ってのは、同じような反応になるはずなんですよ。
客観的だって言ってるわけですからね。
えー、
カッケの検査ってあるじゃないですか。
あれがまさに反応で、
ピョコンと足が上がりますよね。
私がどう思って言おうと上がりますよね。
痛いとか思うと思う前と上がりますよね。
あれ、まさに純然なる反応とみなされるんですけど。
で、私は静電気というものが苦手で、
最近これもグッドファイオスのおかげでだいぶ克服されつつあるんですけど、
まあ今でも夏に近いですからね。
まだほぼ静電気ない時期に克服も何もありませんが、
あれ僕反応しちゃうんですよね。
パッと手を引く。
自分の心理状態のうむうむとは関わらず手をパッと引く。
これね、あれなんですよ。
自分の、僕自分の車は結構好きですけど、
自分の好きな車であってもパッと手を引くし、
もしこれがうちの娘と手を繋ぐ時のパチってもパッと手を引くでしょ。
うちの娘とは手を繋いで痛いから手を引かないというならば、
反応ではなく選択なんですか。
引いちゃうということはやっぱり反応なんですよね。
でもこのさっきのおじいさんに怒られた件は、
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怒った相手次第で私の怒りは大きくさまがわりするんですよ。
極端に言うとこれが5歳の女の子とかが、
あなたの犬はくしゃいかなとかって言った場合、
多分僕は腹立たないんですよね。
ギュッとはしますよ。
ちょっと変わった子だなとは思うと思いますが、
多分面白がる程度だと思うんです。
すごく違うんですよ。
すごく違うものは反応じゃないんですよね。
やっぱり選択している。
選択しているか反応かというのの定義というよりは、
ここで起きていることにはいくつか非常に興味深い部分がありまして、
まず最初から私はこのおじいさんに対して一定の先入観を持っていたということ。
近所でも評判が悪い。
まあ近所いないんですけどね。
で、うちの連中もあまりよく言ってない。
こういう情報がすでに入っているわけですよ。
だから最初から警戒しているわけですね。
色眼鏡で見てるんです。
で、当然こういうことがあればやっぱりあそこのおじいさんがさあっていうか、
あのじじいさんみたいな話を後で家でするわけですよ。
これがまず一つですね。
非常にグッドワイブスでよく聞く話だと思うんです。
まあ、それは初めて聞くぞっていう人はですね、
ちょっと簡単にそういうことってあるよなと思って言っていただければいいんですけど、
私はなぜこのじじいさんに腹を立てたかと、当時ね。
今だったら腹立たないんですよ。
だからやっぱり反応じゃないんですよね。
選択なんですよ。
まあギョッとはしますよ、きっと今でも。
で、まず当時私は年長の男が嫌いだと。
そうじてね。
えーと、まあ中学男子ってそういう人は少なからずいます。
私は大体嫌な目に合わせる、自分嫌な目に合わせるのはね、
年配の男の人が多かったんですよ。
だからそれはその犬のくさい言ってきたじじいさんとは何の関係もないじゃないですか。
関係ないんだけれども、やっぱり過去のデータがですね、そういう時に重視されてしまうわけですね。
やっぱりじじいというのはろくなやつかにないと思うわけですよね。
だから選択しやすいということです。
怒りの選択をとてもしやすい状態にすでにあると。
で、ここで視点を切り替えていただきたいんですね。
私は今しがた、怒りの選択をしやすい状態にあったと。
で、私なんかよりも世の中にはですね、
世の中からいろいろと嫌な目に合わされてきた経験が多々ある人がいる、当然いるわけです。
私の反省やなど恵まれていた方なので、私よりもはるかに怒りの選択を選びやすい人は当然いるわけです。
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で、ものすごく怒りの選択を選びやすい人っていうのを仮定してみてほしいんですね。
どんなきっかけでも、どんな人にでも怒りを覚える。
で、私はこうやっぱりじじいっていうのはろくなやつがいないって思ってた。
そうすると、じいさん相手にはいろんなことで怒りの選択を選びやすい。
ところがですね、世の中には嫌婆さんてのはろくなやつがいないって思ってる人もいるじゃないですか。
で、他にガキなんてろくなやつがいないって思ってる人いるじゃないですか。
こういうのを全部に適応してみるっていうケースがありえなくはないというか、ありえますよね。
つまりこういうことですよね。人間てのはろくなやつがいないと。
ついでに犬ってろくなやつがいない。ろくでもないのばっかりだって思ってる。
それで犬飼ってるって不思議なんですけどね。
で、そういう人がこのおじいさんだと仮にするとですね、
何があってもその人は怒りの選択をすぐ取れると思うんですね。
で、本人は間違いなくこれを反応だと思っていると思いませんか。
私はこのおじいさんに言われて、このおじいさんに何を?と思ったのは、これは反応だと思いました。当時。
この話はですね、どっちが悪いかって話ではないです。
一般的に言うとこのおじいさんの方が悪いですよ。
中学生とこのおじいさんであれば。私は犬の散歩してただけですからね。
でもこれはね、善悪の話ではないんですよ。当時もそう感じたんです。
善悪の話だとどうも割り切れる気がしない。
で、私が受けたダメージだって大したことないですからね。
びっくりはすごくしましたけど大したことはないですよね。
で、次にこのおじいさんの観点に立つとなんですけれども、
私たちはですね、この問題をなぜか善悪の問題だと捉えた直後に、モラルの問題だと考える癖があるんですね。
悪いじいさんもいると。
で、もっと人間は他人に親切にするとかですね、そのおじいさんも嫌なことがあったのかもしれないと想像してあげるとかいう話をすると、優しいねって話になっていくじゃないですか。
ここでそういう思考にはまりたくないと思うんですよね。
私がこのおじいさんに言い返さなかったのは固まったからだし、今なったら言い返さないんですけど、それは優しくなったからではないんですよ。
当時と私の優しさが違うとは僕は思わないんですよね。
これはからくりがあるんですよ。そのからくりの方が大事だと思うんです。
私がこのおじいさんに反応したと思って怒りを選択した。
この立場を入れ替えて、このおじいさんが私に食ってかかったのは、犬が臭いと言って食ってかかったのは、
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反応だとあのおじいさんは思っているはずなんですよ。
俺はこの子供に言いがかりをつけてやるぞと決意してやったと思ってないんですよ。
どういう選択なんだろうと、なぜこのおじいさんは反応したのだろう、何に反応したんだろうと考えると、
1個しかないというか、いっぱいあるんだけれども、やっぱり1個しかない。
その時の反応は子供が騒いだ時に子供に起こるアレなんですね。
大概の場合、自分の子供が騒ぐと自分の子供に起こります。
みんなの迷惑になるでしょうと。
でもですね、よーくその時の真理を考えてほしいんですよね。
私そうだったんですけど、自分の子供が騒いだから自分の子供が起こる。
できればですね、それは避けたいと思っている自分がいますね。
家でだったらこのぐらいの声を出して叫ぶんですよ。子供ですからね。
で、それが電車の中だったらダメでしょって言う、僕はあまり言わないんですけど、
幸いなことに娘もあまりそれを言わさないでくれる娘であって助かってるんですが、
つまりどういうことかというと、本当は娘が悪いと思ってないということですよね。
これは何なのか怖いんですよ。
娘をちゃんとしつけてないって誰かに指摘されるのが怖いんです。
だから私たちはとっさに娘を怒る。
なぜでしょうか。
それはですね、娘が私に恐怖感を与えたからですね。
ここで後ろ指を刺されるようなことをした。
つまり後ろ指を刺されるような空間でなければ同じ声を出しても腹は立たないわけですよ。
反応じゃないんですよ、これは。
恐怖感が選択をさせてるんですね、私に怒りの選択というもの。
同じ恐怖感があのおじいさんはなぜかあるんですよ。
オタクの犬はうるさいって絶対言われたことがあるんです。
まあうるさい犬でしたからね。
だから犬のしつけがなっていないって言われることを恐れていて怯えてるんですよ。
実によくあることなんですよ、これ。
電車の中で騒いでる子供を怒ろうよ、全部だいたいこれです。
まあ中には本当に助言反射みたいに騒いでるとすぐ怒りだすって人もいますけど、
外してそうじゃないですね。
後ろ指を刺されるのが怖いんですね。
だからそんなお声出しちゃダメって言うんですよ。
この時その親御さんは多分それほど自分の子供が悪いと思ってはいない。
だからなんかすごく感じの悪い人がやってきて
オタクのお子さんすごくうるさいですねって言うと多分カチンと来ると。
しつけがなっているとかいないとかいう問題だと思っているから
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子供が声を出したこと自体が悪だと思ってるわけじゃないから
自分のしつけがなっていないと言われることを恐れてるだけだから
その相手に対して攻撃的になると僕は思うんですね。
そんなことを指摘した人に。
指摘される前なのでその指摘に対する恐れがですね
子供をもっと静かにさせておこうと。
そうすることによって自分が安心したいんですよ。
この心理は私も親なのではっきり言ってよくわかります。
3歳の頃はもう幸い穏やかな子だったけど
0歳1歳の時はそうじゃないですからね。
火がついたように泣いた時に白い目で見られるという
白い目で見てる人はもしかすると0人なんですが
そういうイリュージョンは発生するじゃないですか。
そうすると何に対してまず何をするか。
白い目で見られているというイリュージョンを作り出している
この子供の声に対して怒りを起こせる。
ここを止めれば私は安心して電車に乗っていられる。
こうなるわけですね。
これが犬に適用されてるんですよ。
だから本当はこれは犬に対して普通は起こりますよね。
ここまで私は一瞬で想定したわけです。
こんなに叫んでいるこの犬に対してこのおじいさんは何か言うだろうと。
ところがそうじゃなかった。
このおじいさんはまっすぐ私を攻撃してきたわけです。
つまりこのおじいさんの恐怖感は普通の人より強いんですよ。
子供が叫んでしまった。
白い目で見られる。
だから白い目で見ている奴らを攻撃しよう。
ある意味理にかなってますよね。
怖いのは叫んでいる子供じゃないでしょう。
叫んでいる我が子ではない。
叫んでいる自分の犬ではないですよね。
そのことを攻撃してくる世間ですよね。
だから世間の一員としての私を攻撃したんですね。
でもそれだと言いがかりになってしまうんで。
ここで原因を自分の中に置くのではなく、
自分の外に置くわけです。
うちの犬の質が悪いのではないし、
うちの犬の性質が悪いのでもない。
お前の犬が悪いんだと。
理にかなっていると思うんですよ。
今から考えればですよ。
理にかなっていてもこの言動は人間社会では避けるべきですが、
理にはかなっていると思うんですね。
本音はこういう方向にあって不思議なことではないと思うんです。
このおじいさんは世間のすべてを敵視しているという前提を忘れると、
この話は一気にわけわかんなくなるので、
あくまでもこのおじいさんを攻撃したのは私じゃないんですよ。
世間なんですよ。
じゃあなんで世間を攻撃することになったかというと、
たぶんどこか保健所なのか親父所なのか隣人なのか知りませんが、
言われたことがある。
もっと犬をちゃんと飼ってくださいと。
そのぐらい言われても不思議のない状態ではありました。
だから言われたことがある。
その時に怒りのイリュージョンが固定してしまったんですね。
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取れなくなったんだと思う。
恐怖だ。恐怖のイリュージョンですね。
世間は私たちを非難している。
嫌なものですよ。それは当然。
イリュージョンなんですよ。もちろんね。
世間はたぶん攻撃してないです。
攻撃したのはせいぜい隣人と役所の人ぐらいのものですよ。
たぶん3人とかなんです。
それがでも、でもですね。
そう1万人とかになるんですよ。感覚の中では。
これがイリュージョンというものだし、
罰というものなんですね。
罰を与えると。与えられたという。
だから攻撃しなければならない。
された私はびっくりするから当然反撃しますよね。
このようにして私たちは怒りを選択し合ってるんだけど、
それが反応し合ってるとお互いでは思ってるわけです。
でですね、今、ふと思いついたというか、
ふと考えたことなんですが、
このおじいさんに、
自分は結局あの時、
固まっちゃってたわけなんですけど、私は。
どうしたらよかったのかなと不意に思ったことがあったんですね。
で、結論は至って簡単で、
謝ればよかったんだと思ったんです。
当時の私からすると、
まあ当時の私には無理ですね。考えつかない。
なぜ私が謝るんだって思うじゃないですか。
で、なぜかというのは、
問うちゃいけないと思うんですよ。
問わない。
謝ることによって、このおじいさんの気は収まると思うんです。ある程度。
いやいや、あんた悪くないじゃんって思われるかもしれませんが、
それは損得感情ですよね。
悪くないのに謝るのは損だと。
でも悪くないのに謝るのは損ではないですよね、別に。
何かを損するとは思えないんですね、僕には。
なぜここに損得感情が出てくるのかというと、
それがつまり、錯覚というものなんだと思うんです。
イリュージョンというもの。
幻想でもいいんですけど。
この幻想に絡めとられてるんですよ、私たちの日常生活は。
このおじいさんがそうだと思うんです。
このおじいさんはじゃあどうしたらいいかというと、簡単なんですよ。
実際には簡単なんです。
犬をしつければいいんですよ、軽くね。
ごくごく軽く。
多分それをすると、このおじいさんは負けた気がするんですよ。
これこそ幻想というものですよね。
誰に負けるんですかね。
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でも多分このおじいさんは他にもしつけているような
暇は自分にはないんだって思ってるんですよ。
でもこれもまた大きな錯覚であり誤解ですよね。
私のような中学生相手に当時のいざこざを起こすほど暇を持て余しているのに
犬をしつける時間もない。
でもですね、これは大変面白いことなんですけど
私タスクシュートという時間術をやって、まあ時間術ですよね。
非常に時間を節約できるように思われそうな術なわけですが
これを私知人の3人、引きこもっている方に見せたことがあるんです。
3人とも目を輝かせてですね。
1日中引きこもっているんですよ。
ほとんど寝てるかゲームをしているかお酒を飲んでるかみたいな感じの生活の方ですよ。
タスクシュート見て、すごい。
これなら時間をうまく使えるって言うんですよね。
あの、これはすごいなと思ったことがあるんですよ。
これこそがまさに、なんて壮大な幻想ですね。
時間が足りないんですよ。
いったい何に時間を使っていれば足りないという発想になるのか。
何の仕事の締め切りもなく、約束もなく、使える時間悪い。
100%自分の自由の状態ですよ。
まあそれが幸せだというわけではないです。
本人がそう感じていないんだから幸せではないんですけど、そういうことではなく
なぜ時間が不足していると思っているのかですよね。
自分には暇じゃない。
これはですね、そう本当に信じているんですね、このおじいさんにしてから。
私の父がそうなんですよね、やっぱり。
退職して24時間が自分の自由なのに、暇がないんだよって言うんですよね。
これは思い込みですよね、完全に。
で、やっぱり父もですね、最近私が教長で出させていただいた
倉園圭三さんとの教長の不安ゼロで生きる技術、よく言わないんですよ。
一方で父はですね、私が技術評論者から出したタスクシュート時間術の方をすごく高く評価するんですよ。
ツールを使って時間を節約したいと。
ただ父は、あいにくExcelとは何であるかを知らないし、もちろんiPhoneにアプリをインストールはできないので、
タスクシュート時間術には向かないですよね。
だからしょうがないんで、ああいう本を見て、なんかあちこちに線とか引っ張ってるんですけど、
時間がないというこの壮大な幻想も、ほとんど妄想と僕には思えるんだけど、
それに取り囲まれているんですね。
意義あることをして死なせずに死んではならない。
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それが何であるかというのはともかく、まあ父の場合はそれなりにそれがはっきりわかっているからだいぶいいと思うんですけど、
いろんな人がですね、それが意義があることとはそもそも何だろうという疑問をしつつ、
意義があることをしなければいけないと焦りつつ、時間が全く足りないという、
いつ死ぬかが決まってもいない上に、自分の時間の100%なら足りないものにもないじゃないですか。
でも足りないんですよね。
という妄念に近いものの中にいる。
これが多くの場合、間違った孫徳館長、つまり謝ったら負けであるみたいなね、
あるいは犬のしつけをしている暇はないと。
でも犬のことでイザコザを起こす暇はあるんですけどね。
この怒りというものの反応だと思っている。
つまり外側の何かきっかけのせいで、自分は怒りたくは全然ないのに、
もうこう静電気から手を引っ込めるように自分はやむを得ず反応として酒がたく起こっているのであると感じている。
そしてこの怒りを収めるあらゆる手段は開かれていて、とてもどれも簡単なのに、
当時の私で言えば謝れば済んだのに、それはできない。
なぜなら損をするから。
で、その2つの強烈な誤解、つまり反応であるという誤解及び損をするという誤解、
これを解く気がないんですね。
これを解く鍵は私はコミュニケーションにしかないと。
コミュニケーションにしかないというのはかなり大きな意味で、
とりあえずは人とのコミュニケーションにあると思うんですよ。
その意欲がないんですよ。
そこに大きな問題があると思うんです。
私は前回に言った通り、攻撃と防御はコミュニケーションには不明なの。
このおじいさんがしているのは結局攻撃であり防御なんです。
私もそうだった。
これ以外の選択肢があるはずなのに、これ以外の選択肢は取らない。
例えば悪くないのに謝るというのは私はコミュニケーションに属すると思うんです。
で、これは選択できない。
その意欲はわからない。
だからできることというのはいつも決まって損をしないための攻撃か、損をしないための防御。
コミュニケーションではないんですね。
コミュニケーションという選択肢だけはなぜか取れないんですよね。
これをなんとかしないとこの種の問題解決しないし、
このコミュニケーションを取る気にさえなれば一発で解決するんです。
たぶん私があの時謝れば、おじいさんはああそうかそうかとまで言わなかったかもしれないけど、
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たぶんあの時の感じから言ってこれに近い反応でもうお互い穏やかに別れられるんですね。
で、世間全域が敵であるところから少なくとも一人の中学生は敵である世間全域から外れる。
この意味はとても大きいと思うんですよ。
これだけのことを私はできないですけど、当時は考えつかないんですけど、
たった一言謝っておいて、
ああすいませんでした。うちの犬が今度臭くないようにしておきます。
言えばいい。
それだけでガラッと局面を変えることができたんですよね。
これがコミュニケーションの威力、力なんですね。威力なんですよ。
これを選択したいと思えるようになること、そのために何よりもその怒りという選択は選択なんだとまず気づかないと、
選択であるということになって初めて怒りかコミュニケーションかという選択肢が発生する。
これが反応だった場合、そういう選択肢はあり得ないじゃないですか。
アドベンチャーゲームのあれですよ。影になっている選択肢。選べませんというやつですね。
選べるようにまずすることが第一歩なんですね。