00:05
おはようございます。働く人に送る精神分析チャット【1060回】をお送りします。
9月26日木曜日の7時34分ですね。
お知らせ、お知らせにしよう。
10月13日日曜日にリアル化を開催しますので、内容について細かいことを書いたり、早終わりを用意したりを今日中にはやろうと思っています。
気になる方がいらっしゃったらチェックしていただけるとありがたいです。
この回で私がやろうとしているのは、アディクションの話。
習慣ではないな、依存系の話とタスクシュートを絡める話。
手帳術の回で少しだけ喋って、9月15日の日曜日のオンラインの会イベントでやや突っ込んで喋ったんですけど、これがまず一つですね。
もう少し整理してお話しします。
伝わりにくい部分が、僕はあれでもう最終形態だと信じておりますけれども、なんてことはないんですけれどね。
ハームリダクションも直接関係ないんだけど、今日まだちょっとこの話しますかね。
いずれにしてもタスクシュートというのは、ストレス緩和という側面で語るべきだという考え方ですね。
これは手帳でも、それこそ逆算でも、大学系の役に立つ仕事術、少しでも役に立つものは全てこれが僕は当てはまるなと思います。
そこから何かメリットや快感が得られるから続くっていう理屈は、結果としてはそうだけど、実際にはちょっとした、ある意味逆で、私たちはストレスの解消というものが非常に強い快感になるんですよ、結果としてね。
まずストレスリダクションから入り、それが快になり、そこが報酬系として働き、週間のサイクルというものが完成するわけですね。
だから2つの条件が必須なんですよ。
1つは、それによってストレスが軽減されない場合、快はないんです、そこには。
おそらくね、もちろん一部独特の方は付箋を使うことそのものが快だとか、役に立たなくても気持ちがいいんだってことはあり得るノートの場合は。
ただ、それで続く人は本当にただそれが好きっていう理由であって、役に立つかどうかはあまり関係なくなるんですね。
タスクシュートも一部エクセルを見るだけでも興奮するって人はいるかもしれませんが、僕はそれはタスク派じゃないと、私自身は全然違う。
03:09
ストレスリダクションが方向にあるってことですね。
これを確立させなければ、獲得しなければ、タスクシュートが習慣化するはずがありません。
エクセル見てるだけでぼーっとするほど気持ちが良くなるっていう人は、タスクシュート見なくてもエクセル見ればいいことになっちゃうんで、やっぱり成立しないと思うんですよ。
そうではなく、ストレスが、特にね、時間、まあ時間ですよ。
時間回りのストレスがありますという人、ない人にはそもそもこれはあまり意味がない。
意味がないというか、たぶん習慣化は難しいです。
次に、ただ大概の現代人は時間回りのストレスいっぱい持ってるから、すごく多くの人にこれ当てはまるんですよ。
次が点が大事なんですよ。ここでグッと減っちゃうんですよ。
タスクシュートを使うことでストレスが軽減できるかできないか。
で、ストレスが軽減できる使い方があるんですよ、タスクシュートには。
私はこれは常識的な使い方だと思うんだけど、ここが意外にそんなに僕が考えるほどは簡単じゃなかったんだなと。
難しいとは言いませんけれども、簡単じゃなかったんだなということですね。
ただ、だからという理由で他に走られるんですよ、多くの場合。逆算とかが特に。
で、そっちでは無理ですと私は言いたいんだけど、この話はセットになりますが、
別に逆算だって何らかのストレスを軽減するから、逆算で事をまかないますという人はいらっしゃると思うんですね。
ただ、ストレスの軽減をタスクシュートでした場合と逆算でした場合、
特にタイムマネジメント系のストレスを逆算でした場合とタスクシュートでした場合、
おそらくタスクシュートに分があると僕は思う。
それは使い方が多少ともやっぱり必要になって、使い方というか極めて常識的な使い方なんですが、
そうでない使い方ってのは残念ながらあるんだなということは分かりました。
この辺の話を10月13日には一つはいたします。
もう一つがですね、このハームリダクションの話ですよ。
単純にタスクシュートに移行できれば非常にハッピーなわけですけれども、
世の中にはもっともっともっとストレスを軽減させると信じられているアディクション、
死兵器的なものは様々あります。
カフェインしかり、ニコチンしかり、アルコールしかり、セクシャルなもの、
SNSでも、SNSでなぜなんだっていうのはちょっと僕には難しいなと思うんですけど、
スイーツ、睡眠、何でもありますよね。
全てが害になるわけでは決してない。だからハームリダクションなんですよ。
害は減らせる。
ただこれらをやってもタイムマネジメント系のストレスに根本的な対策にはなるはずがない。
だってコーヒー飲んだから時間ができるってのはおかしいですよね。
06:00
酒を飲めば時間が増えるとか、そんなことはありえないわけですよ。
タブコ吸ってるうちに仕事が進むとか、小人の靴屋やってるんじゃないんだからそうはいかないわけですね。
このもう一つの問題、このハームリダクションを合わせつつ、ここにハームリダクションが出てくる。
アディクションの少し時間をタスクシュートに回してもらう。
これを併用しないと、世の中には稀にね、ほとんど刺激ないですって人もいるんで、そういう人はすごい簡単でしょうね、ある意味ね。
でも刺激がない人がストレスがあるはずないから、やっぱりストレスがあると刺激はあるケースが多いんだよね。
ここをうつさなきゃならないですよ。
ここでネックがあると僕は思います。
これがもう一つ。
これは今まで突っ込んだ話はほぼしてない。
なんか混ぜこぜに話しちゃってて分かりにくかった。
ここを整理してきっちり話すのが13日。
だから刺激のシェフトが必要になります。
これはですね、そんなに簡単な話じゃない。
だって、そりゃあそうじゃないですか。
スイーツ食べる代わりにタスクシュート見ましょうってのは、これはね、言えばそうなるななんて話では僕はないと思うんですよね。
マジでアルコールが依存に近い人がアルコールやめてタスクシュート見ましょうって。
そりゃあそうすれば仕事進みますよね。
なんだけどそれができないですよねっていう話は僕はタスクシュート界隈でほぼなされたことがないと思うんですね。
この話をします。
タスクシュートで習慣化ではないってことですよ。
タスクシュートとはそもそも習慣化しなければ成立しない。
ただ成立しやすいタイプの人はいます。
タイムマネジメント系のストレスを抱えていて、それをタスクシュートで容易にストレス解消できるんだということに気づいた人は早い。
けれども容易にストレス解消するのにはアルコールの方が早いって。
タイムマネジメントのストレスをアルコールで解消するのは本来難しいんだけど根本的には不可能なのですが、しかし一時的には可能です。
そして一時的であれ二次的であれ永年であれですね。
ストレス解消を急いでいる人にとってはより容易な手段の方がいいに決まっているわけですよ。
ここに難しさがあるという話ですね。
こっちの話の方が僕は大事だと思っているし、こっちの話こそ私の専門というのも変ですが、私の担当分野だなと思うのでこの話をします。
3つ目がそもそもストレスというこの実態がなくほぼ空虚な言葉ね。
この空虚さという問題を最後にお話しする。
この3つと誰かどなたかの参加者さんがそもそもいればですけどね。
いらっしゃった場合のその人のヒストリーなりとこの話全体を絡めた話ができれば4つになる。
これはもう3時間で収まるかどうか際どいなって感じがする。
1個目の話は1時間かからない。
09:01
2個目の話は1時間はかかる。
3つ目の話は1時間以上かかる気がするんですけどね。
でもここをいくらか圧縮しでも時間長いんで休憩をはさみ、
どなたかのあるいは参加者さん全体のお話としてこの話をまとめていくっていうのを当日の構造にします。
だから少々お高くなっちゃうかなっていう。
ちょっと値段を早割りみたいなので下げていこうかなと思っております。
これは僕の中では一つの何らかの形で今後も続けていきたい話のサンプルになるので、
今回はまとめてどうんですけれども、状況によっては分けていけばいいのかなと。
これでも分けると分かりにくくなるような気もするんですよね。
一気に話をまとめてしまった方が余計な疑問が残らずに、
明日から実践みたいなときにはいいんじゃないかと。
人によって難易度が違います。難度というべきですね。難しさは違います。
だって当然ストレスのかかり方の度合いによっては、
全然ない人にとっては難しいと全然ない人はやっぱり来ないと思うんですよね。
ものすごいある人がそんなに簡単にストレスが強いということは、
その分その人にとっての機能不全感がでかいということなので、
すぐにストレスリダクションなどという話に持っていけないわけですよね。
ましてシフトチェンジみたいにしてアディクションのシフトするなどというのはですね、
言葉で言うように安易なものではないとは思うんですよ。
だからこそ一番最後のそのパーソナリティ障害的な話。
いわゆる行動障害ではないか。人格障害というべきなんかな。
いずれにしてもパーソナリティ障害のようなものの話と、
これは要するに一時過程の温存と呼ばれているものなんだけど、
この一時過程の温存の中に普通に死壁が入ってきて、
このやや精神力動的な、いやほぼ精神力動的な話は、
これをメタサイコロジーって言うんでね、精神分析の方。
なんでこれメタサイコロジーって言うんだろうって思うんですけどね。
メタサイコロジーなんでしょうね。
これをお話として入れる必要があるだろうなと。
ここまでいかないと、この課題の方が重度に持っている方には、
意味があまりない気がするんですよ。
どうせタスクシュートなんかにはいけないしなみたいな、
この拒否感っていうのは非常に強いと思うんですね。
だってそりゃそうじゃないですか。
ずっとチョコレートでことを何とか頑張ってきた人が、
いきなりタスクシュートやれって言われると、
むしろストレスが増えそうですみたいな、
ここにストレスという言葉の空虚感を僕は感じるんですけれども、
それはストレスじゃなくて拒否だなって思うんですよね。
12:00
拒否というのはですね、
それが役に立つかどうかという話をしてないってことが、
大事なんだと思うんですけど、
そろそろ本題になってしまうんで、
一旦ここで話を折りますね。
本題はですね、
今日考えてきているのは、
昨日までずっとしてきた話って、
結局一時過程の話で、
ベータ要素から投影同一化、
てか盛大な投影。
盛大な投影と、
昨日その言う話をサンチャレのある方としたんですよね。
これはものすごい難しいポイントになっちゃうんですよ。
どうしても。
盛大な投影と幻覚をどうやって分けるのか。
まあね、
それは非常に難しく、
その話だけで1時間を終えて、
しかも釈然としないまま終わりかねないんで。
こういう言い方をすることになりますね。
現象学的なんですけども、
夢ってものをそもそも人は何で見るのかということですよね。
その話って究極的な話をしていくと、
知覚と夢は分けられないじゃんってことになるんですよ。
でも僕らは知覚と夢を分けてるんですよ。
それは間違ってるかもしれないけど、
っていう言い方をするのが独我論的なんですよね。
あれですよ、我を思うゆえに我ありの世界になっちゃってるんだけど、
でも僕ら夢と知覚分けてるじゃないですか。
結局、何なら現実と夢でもいいですけど分けてますよね。
夢は覚めるものと思ってますよね、どっかで。
どう覚めるのかは分からなくたって、覚めるものですよね。
で、覚めた後の現実を、
これは夢の延長だとは考えてないじゃないですか。
そこのところに幻覚と知覚の違いというものがあり、
空想ってのは結局消えうるもの、
現実は消えないものなんだと思ってると思うんですよ、僕はね。
思ってないならば、そこはもう精神病水準っていうことになる。
ことの良し悪しじゃないですよ。
精神病水準が間違ってるということは、言い切ることは不可能だと思うんですよね。
マトリックスですよ。
マトリックスの人たちの話の中で、
僕はこの話が出てこないのはこの映画の弱点だと思ったんですけど、
マトリックスの中で人々はどういう夢を見ているのかという話は、
多分僕は夢のシーンすら出てきてないと思うんですね。
これは僕があの映画を考えるなら絶対作りたいシーンなんですよ、やっぱり。
マトリックス、つまり現実生活が夢だというなら、
その中でなぜ人は夢を見るのか。
で、なぜそっちの夢だけは覚めて、マトリックスは覚めないのか。
そのカラクリマトリックスの中にありますが、
ありますが、あれはインチキですが、
つまりあれがインチキだと僕らは証明はできないじゃないですか。
直感しているだけですよね、内的に。
すみません。
つまり、内的に直感しているということは、
内的に分けているということだと僕やっぱ思うんですよね。
15:02
それを内的外的いう理由はないんですけどね、もはやね。
いずれにしても、覚めないものと覚めるものというふうに分けていると思うんです。
で、覚めないものが現実で、覚めるものが空想ですよ。
だから、投影っていうのは頑張れば覚めるっていう観点に私は立っているし、
おそらく精神分析では立っていると僕は思うんですね。
投影は頑張れば覚められる。
これがグッドファイブスで、
クラゾン・ケイゾーさんという人が言っているっていうまで説明しなくてもいいか。
クラゾン・ケイゾーさんが仰っているところの現実を見に行く。
現実を見に行くということは、夢から覚めましょうねってことですよ。
だからブッダっていうのは目覚めた人っていうわけですよ。
そうすると僕らはこれを努力してできるのかって話になっちゃうんだけど、
努力すればできるんじゃないかなとは思うんですよね。
私、名刺勤務を見ているとき、この矛盾にぶち当たるんですよ。
これ夢だなって思ったとき、
私は夢の中でいろいろ良いことがしたいので、
少なくとも名刺勤務は見てたいのでね。
名刺勤務ってすごい良いものなんですよ。
これを保持したいって思うんですよね。
保持したいってことは名刺勤務であることを忘れるのが一番いいじゃないですか。
だってそうすれば夢は保持できる。
だけど名刺勤務を見るときは目が覚めそうになるんですよ。
かなり努力をしているんだけど、
割とすぐ覚めるケースが多いんですね。
夢であることを忘れてしまったら、
もうそれは現実になってしまって、
しかもそれは夢なんだけど。
覚えているということは、
これがやっぱり危ういものであるってことが意識されている。
この時間を引っ張るということができるということは、
僕は意図的に夢から覚めることもできるはずだと思うんですね。
この感覚を持ち入れば。
話がややこしくしかならなかった気がするのでこの辺にします。
いずれにしても、覚めない夢が現実なんですよ。
つまり現実というのは、
おそらく知覚刺激の素材というものを、
この辺の言い方が現象学的だと思うんですけど、
知覚刺激の素材のもとになっているものが外界にあるがゆえに消せない。
多分僕が見ているようなものではないと思うんですよ。
今目の前にはほぼ枯れ切ってしまったガーデニングのトマトがあるんですけど、
この緑の葉っぱとか消せないんですよね。
これは夢だと一生懸命思っても消えてくれない。
これは多分外界に何かこれに相当する、
これを作り出すのにふさわしい外界からの何かがあるんでしょうね。
刺激が。
これと全く同じものが夢で見られるから、
これを見るために光はいらないんですけれども、
でも光があり続けることによって、
これが消せなくなっているんだと思うんですよね。
光だけじゃないでしょうけどね。
いずれにしてもいろんなものがあるせいで、
光は絶対あると思うんですけど、
光が何だかは分からないけれども、
フォトンなのか何なのかは分からないですけど、
18:02
波動なのか。
いずれにしてもこれがあるせいで消せないんですよ。
その波動の方はあり続けてくるから。
この近くの方は多分消せるんですよ、本来はね。
脳がその気になればこれは見えなくなるはずなんですよ。
ただし見えなくはならない。
ということは何かがそこにあるんでしょうね。
これに相当するものがなぜか心内にできちゃう。
それがβ要素ですよね。
消せなくなってしまう。
空想は消せるんでね、結局のところ。
なかなか消えてくれない苦しい考えがありますとか言ったって、
本当はそれは心の中にしかないことを我々は知ってるわけですよね。
これは外界にあるんだって思い始めた時に、
それはβ要素になってしまう。
で、外界にあるんだってなった時っていうのは、
そいつは背景を持ってないです。
つまり孤立しているんですよね。
統合執著書の人格は苗字がないっていう話と近いものがありますね。
昨日お話ししたキシボジンは、キシボジンって背景ないじゃないですか。
キシボジンを生み出したのは誰それさんですとかないじゃないですか。
キシボジンのこうなんていうのかね、歴史みたいなのあるかもしれないけど、
リアルな歴史としてのキシボジンっていうのは、
例えばイン王朝の前に実はキシボジン王朝ありましたとかないじゃないですか。
そういうものはリアルな歴史としては、歴史がないんですよね。
ヨクウズポジションは歴史的ポジションって言うじゃないですか。
言うんですよ。ミニコットがそう名付けた、リシタ。
つまりそこには、外界の中で独自に存在を保ってきましたよっていうことがあるわけですよね。
妄想分裂ポジションってのはいきなりできちゃうわけですよ。
だからそれはベータ要素ができるのは、当然妄想分裂ポジションということになりますよね。
背景がなくていいんですよ、そういうものっての。
我々が目の前で見ているものは、記憶というものがあやふやならいきなりあるわけですよ。
いきなりトマトの枝があるわけ。いきなりトマトの枝があるわけですよ。
もの自体ってそういうことになりますよね。
その時見た瞬間にそこにあって、それはなぜそこにあるのかとかわからんわけですよ。
記憶をたどるからわかるような気がするんだけど、それはナラティブであって、心の中のある物語ですよね。
多分現実もそうなんだけども、でもそれは絶対の保証はさっきの話と同じように絶対の保証はないわけですよ。
外界のものはおそらく歴史を持ってるんだけど、内界のものは歴史なんか持ってない。
万能空想的に簡単に出し入れができてしまうので、いきなりボンと作り出すことができるわけですよ。
さっき私、Good Vibesのクラゾの形像さんが言ったけど、これは外界のクラゾの形像とは何の関係もないわけですよ。
僕が心の中で都合に合わせて、今私が喋るという都合に合わせて出し入れ自由なわけです。
さっき登場してもらってもう消せるみたいな、そういう存在なわけですよ。
21:01
これは存在感として非常にあやふやだし、この心の中にあるクラゾの形像は歴史的ポジションを持ってないわけです。
今必要だから今出てきてもらった、もう必要なくなったから退場みたいな、そういう心の中っていうのは都合よく出し入れができる。
これは妄想分裂ポジションですよね。
妄想分裂ポジションというのはこれしかなくなってしまうことですよね。
こういう存在というものは出し入れができるということは消せるというもの。
なのにここにあるものなのに消えなくなったらそれはもうやばいわけです。
ベータ要素なわけですね。
視覚に近づいてしまっている。視覚と等価なわけですね。
だから幻覚と呼ばれる。
他の人には見えないけど、その人にとっては視覚同然である。
だからあれが見えるとか、これが聞こえると言って周りの人を不思議化らせるということが起きちゃうわけですね。
投影はそれが起きない。
投影やってる人は自分が投影してることをどっかで知ってるから、
例えば私にとってこの課長はものすごくパワハラの課長だってことになってるんだけど、
他の人には違うかもな。
他の人にも本当はそうだと思うんだけどねっていうぐらいになるはずなんですよ。
ただ盛大に投影をしたときに、投影量が盛大になってきたときに、
この課長はもう間違いなくキシボ人級だぜみたいになったときに、果たしてどうかという。
なってパワハラじゃないですか。
でもやっぱりですね、この言い方をするってことが厳格でないことを示してる気がするんですよね。
だってパワハラじゃないですか。
誰にとってもそうじゃないですか。
客観的に見てもって言うけど、明らかにこれを頑張って主張してるところに、
それが主観ですっていうふうに告白しているように聞こえるんですよ。
キシボ人が迫ってきてたら、そういう反応にならないと思うんですよ。
いやみんな逃げろって言うと思う。
僕はそう思うんですよね。
だってその人が幻覚でゴジラとかが現れてきて、東京を踏み潰し始めました時には、
やっぱり子供の手引っ張って逃げると思うんですよ。
だってあそこにゴジラいるじゃないですかとは言わないと思うんですよ。
これが投影と幻覚の差だと思いますね。
すいません。
で、通話というのも変ですけれども、
よくポジションに入るとですね、私たちは基本的にはベータ要素の幻覚は見ないはずなんですよ。
やっぱり心というものを意識していて、心の空想というものを作り始めていて、
投影はしますけれども、現実と空想は分けられるようになっていますから、
よくポジションというのは。
つまり二次過程ですから、現実原則に従う。
物は消えたり、登場したりはしないわけ。
手の前にあるトマトがさっき消えた、今登場したみたいな、そんなこと起こらないじゃないですか。
じゃあテレポーテーションになってしまうじゃないですか。
24:02
テレなんとかっていうもので、特にオカルトなものってのは、
基本やっぱり統合失調症の人のパターン、思考ケースですよね。
例えば私の思考が漏れてしまって相手に伝わった、テレパシーだみたいな。
これは現実原則には従わない。
どう伝わったんだという、現実というのは常に不連続を許さないわけですよ。
例えば電話線を伝わったんだということになると、
まだ伝わってない、今伝わりましたっていうのがあるけど、
テレパシーって一瞬で伝わっちゃうじゃないですか。
だからこのテレパシー思考みたいな、私の考えが盗み取られましたみたいな、
そういうのはやっぱり統合失調症的、つまり妄想分裂ポジション。
瞬間瞬間で事態が変化してしまうということですよね。
瞬間瞬間では事態は変化しないんですよ、現実というものは。
あまりにも早いとそう見えますけど、
でもやっぱり例えば大谷翔平の打球でも、
スローモーションで見ると空中を動いているのであって、
いきなりスタンドに行っちゃったりはしないわけですよね。
目にどう見えようともってことですよね。
ここでの問題に一番なるのはやっぱり、ないものということ。
ないってのは関連なので、現実のものはないってことはあり得ないので、
現実のものはあることしかできないので、
ここが伝わらないとは僕は思わないんだけど、
伝わりにくいみたいなんですよね。
でも現実のものって全部そうじゃないですか。あるだけじゃないですか。
ないってのは関連ですよね。
この家建てたのは10年前なんだけど、
10年前にはなかったとかいうのはおかしいんですよ、本当は。
家というものはあるだけなんですね。
なかったですよ、それは10年前にはね。
ここは駐車場がありました。
駐車場があったところに家が建ったのであって、
家はそれまでなかったというのは、
家があるはずだという関連の裏側にしかない、
単なる関連なんですよ。
だからないっていうものは心にしかないんです。
このないというのはアルファ要素って言うんですよ。
ビオンはそう名付けた。アルファ要素。
何々がない。
これはだから、それは心の中の出来事ですよねってことですね。
いないいないバーに、
ドイツではちょっと違う言い方をするらしいんですけども、
いないいないバーという遊びに精神分析が着目しているのはこれなんですよね。
いるかいないかというのが言えるようになるというのは、
子供の心が大きく成長した証拠なわけですね。
お母さんがいないと。
悪いお母さんがいるんじゃなくて、
お母さんがいないと。
ということが分かるようになるための最初の方言がいないいないバー。
あの時幼児は目に手を当てる。
本当に当てるんですよ。見てるとね。
まあ僕が当てて見せた、それを真似てるだけなのかもしれない。
つまり目をつぶれば見えなくなるけど、
いなくはならないってことが分かり始めるってことですよ。
多分その前段階があるってことですよ。
27:02
いなくなっちゃうみたいな。
本当に。消えるみたいなね。
目をつぶると消えるみたいな。
あのフン児たちにやめよう。めんどくさくなる。
話を進めますが、
抑鬱ポジションに入っても、
私たちはないものが悪いって考えがちなんです。
これはだから一時過程に引きずり戻されかけているということですね。
よくこの番組でお話しする通り、
一時過程と二次過程、精神病部分と非精神病部分は並存してしまうので、
私たちが抑鬱ポジションに入ったからといって、
一時過程を卒業できるわけではありませんから、
やっぱりないものは悪いものがあるんだになってしまうケースは
多々あるわけですよ。残念ながら。
ないというだけなのに悪いものがある。
例えばお金がないだけなのに貧困があるみたいになってしまう。
これが私たちの問題を非常にややこしくするわけですよね。
僕ら頑張ってこれをやろうとするんだけれども、
しばしば切り分けられなくなってくる。
抑鬱ポジションにおける対象喪失の病理みたいな言い方をしますけれども、
この母親がいないとか、僕の場合彼女がいないか、
彼女がいないだとどうしても孤独という悪い存在があるとか、
モテない男という悪い存在があるとか、
そういう被害的な世界にはまっていくわけです。
なんで被害的かというとですね、
やっぱり心はわかってるんで、いやいやっていう風になるんですよ。
ないことを認めろよと。
ないだけじゃんっていう風にして、
例えば総的防衛を使ってもいいとか、
なくたって大丈夫じゃん、いけるじゃんみたいに、
彼女いなくたって大丈夫じゃん、いないだけじゃんっていう、
いない奴いっぱいいるじゃんみたいなね、頑張ろうとするわけ。
現実に目を向けさせようとするわけですよ。
ところが心の中ではやっぱり心が一時過程に半分足を突っ込んでるから、
いやいやダメだ、いない、いなくちゃダメだみたいになって、
いないというのは悪いことなんだ。
いないだけじゃない、悪いことがあるんだってことに、
ゼロ災事状態ってものがそこで活性化してしまうんですね。
辛いから。
てか辛いと思ってるから。
そこでこの事態は一旦心から追い出そうとしてるから、
つまりこれは空想だから、
悪い持てない男とかがここにいるってわけじゃないから、
追い出しましょうみたいになって、
現実原則に沿って心はこの事態を、
総的防衛を使ってでも追い出そうとするんですけど、
残念ながら心がもう半分のところでですね、
非常に辛くなってしまっているために、
辛いということはお母さんがいないのではない、
おっぱいがないのではなくて、
悪いおっぱいが私を攻撃してきているんだ問題が復活するんですよ、ここで。
30:03
そうするとどう感じるかというと、被害的になっちゃうわけです。
なぜなら押し付けられている感じがするから。
一旦外に苦しみを追い出したつもりでいるんだけど、
苦しみが戻ってくるわけですね。
というか苦しみはもともとあるんだ。
戻ってくるということは押し込まれている感じがするわけですよ。
だからやっぱりその彼女がいないという事態を
押し付けている奴がいるみたいな、
ここまで行くとかなり妄想性の迫害妄想なんですけれども、
僕はこの妄想にどっぷり浸ってた時期がありますからね。
もう日本国が悪いぐらい。
こういうふうにして、
妄想性の分裂病みたいな言い分が出てくるわけですよ。
やっぱり僕に彼女ができないのは厚生労働省のせいだなみたいな、
あるいは小泉慎二郎とかのせいだなみたいに思うわけですよ。
あいつが私のメールを操作して彼女ができないようにしてるみたいな、
そう思ったことはないけど、そこまで行きうるってことです。
押し付けられていて一時過程が出てくるわけですよ。
押し付けられるってことは何かがあるって感じがするってことですから。
彼女がいないだけのはずなんだけど、
いやなんか寂しさを押し付けられてる気がするとか、
外から自分に対して何かが押し込まれてる感じがする。
悪いものが発生してきてる感じがするわけですよ。
自分の顔をこういうふうにした親が悪いとか、
そういうことになりやすいわけです。
迫害されてる感じがするので、
当然自分の顔が悪いっていうのは罪悪感なんだけど、
その罪悪を作り出した親も悪くなってくるから、
この罪悪感っていうのは両罰みたいになってくるわけですね。
自他を両方罰さなければならないみたいな。
そしてこの罰を与えないと、
この悲しい状態というものを正当化できないって感じがするんですね。
これが欲打つポジションにおける対象喪失の苦しみなんですよ。
前のただただおっぱいがもらえなくて、
悪いおっぱいが岸房人化しているような世界とはだいぶ違うんだけど、
現実吟味ができてる感じはするんだけど、
でも相当怪しい現実の捉え方だと思うんですね。
これはこれで。
明らかに怪しいじゃないですか。
彼女がいないということがひもてであるとか、
何とか無理やり悪いものを作り出してしまっていて、
何か一見理屈に通ってるようなんだけれども、
その理屈相当怪しくないっていうような理屈を、
強引にひねり出してしまっているわけですよね。
確かにインキャラだからとか、これも作り出してますよね。
インキャラを作り出して。
だけれども何かそれっぽいんですよ。
やっぱり大人になったから。
それっぽいんだけど、
それキシゴ人と何か違うかみたいなレベルでもあるわけですよね。
なんか唐突じゃないですか。
いきなりインキャみたいなものが、
自分がそれとして登場しちゃっていて、
何か歴史性が全然ないですよね。
そもそも本当にそういうものなのかみたいなものがある。
そういう疑いが相当あるんだけど、
33:02
一時過程に引きずり出されているために、
現実過程というものを、
二次過程というものを検討しにくくなったんですよ。
ここの次が問題ですよ。
二次過程であり、彼女がいないだけですってなっても、
このもの寂しさはどうしてくれるんだっていう、
二次過程に行きたくねえよってことなんですよね。
だから一時過程に踏みとどまろうとしてしまうわけ。
非常に寂しい世界なんですよ、これは。
これは思い込みなんだけどね。
母親がいないっていうことを、
どこかで連想してしまってるに過ぎないんですけど、
とっても寂しい世界。ただ何もないみたいな。
砂漠みたいな。
だからここでも何かを作り出してるんですけど。
いわゆるないということと悪いということを、
人間は分けるのはこんなにも大変だってことです。
観念って難しいですよね、動物にとっては。
動物は観念を理解する動物は滅多にいない。
猿が少々理解している、
だから大型哺乳類が少々理解している観念を、
何々がないというものを知ってる。
でもそんな動物は少なくとも哺乳類以上ですから。
だから私は哺乳類以上しか夢を見ないんじゃないかと思うんですけど、
夢って結局消えるものですからね、さっきの話の通りで。
消えるものってのは脳が作り出す理由はないわけですよ。
消えるものだったら現実じゃないじゃないですか。
現実のものは消えないから。
少しずつ減るとか死ぬということはあっても、
現実のものは消えないので、やっぱり消えるっていうことを意識する。
記憶がなければ消えるという概念は無意味ですからね。
ほぼ記憶がない、記憶というものが少なくとも一両日続くなんてことはありえない、
大半の動物、爬虫類みたいなものにとっては、
樹類なんていうのは一瞬生えがあるかないかが全ての世界に生きているわけだから、
そういう世界に生きている存在にしてみるとですね、
そんな消えるものを空想することは極めて無駄なことですよ。
ましてする痛む、死んだから痛むみたいなこと、
それは記憶がよっぽど続く動物に限られるんで、
やっぱりオラウンターといえどもボスを痛んだりはしないわけですよ。
だからボスのピラミッドとか作ったオラウンターの話は聞かないじゃないですか。
我々そういうものを作らせられるんだけれども、墓作れみたいな、
そういうことをさせられるんだけど、
それはやっぱり痛むということの意味がよっぽどでかい存在だからだと思うんですね。
痛めばいいんですよ、彼女いません。
祈りましょうみたいな、よくわかんないけどかわいそうだよねみたいな、そういうことですよね。
なかなかかわいそうとすら言ってもらえないところがつらいところなんですけど。
この抑鬱ポジションにおけるないものを悪いものと混同しないと、
だから能力がないとか、能力がないだけなんですよ。
36:04
それが無能だとか、ここにいる資格はないだとか、
そういうものを作り出さないってことなんですね。
悪い同僚にパージされるとかですね。
そういう悪い同僚はいない、いるのかもしれないんだけど、
私が能力がないということと悪い同僚がいるということは、
無理やり関係づける理由はないんですね。
だから、とりあえず自分が能力がないというだけであると。
多分大体においてそうではないんだけれども、
少なくともだけであるっていうところに入って、
ここを切り分けられないと、切り分けられる。
切り分けようとしないと、一時過程優勢の方で引きずり回されてしまうと、
やっぱりひたすら迫害的になってしまう。
押しつけられてる感じが絶対するはずなんですね。
会社から帰ってきて、上司にすごい叱責されたことを忘れられないで半数しちゃうんですっていう訴えは、
私もよくよく聞くわけですね、仕事から。
で、大概の人は、いや忘れればいいじゃんということで、なんかごちそう食べて忘れようとするんだけど、
ごちそう食べ終わると、せっかくごちそう食べたのにまた上司が怒ってるシーンが、
あの上司許せない。ここがおかしいですよね。
思い出してるのは自分なんで。
これがやっぱり会社において自分のスキルとか、自分の能力とか、自分の理想の姿というものがなかった。
なかっただけなんだけど、その後で、それによって悪い上司というものが作り出されて、
悪い上司が心の中に住みつくと。
消せなくなると。
ベータ要素化し始めたと。
でもごちそうで消そうと頑張って、これが総的防衛ですね。
元気になろうと頑張ったんだけど、また登場した。
この登場したっていうのが迫害的に感じられるんですよ。
押しつけられてる感じがする。
思い出したくもないのに思い出すから。
迫害的になってくる。
この時にその悪いオッパイ問題が始まるわけですよね。
キシボ人に追っかけられてるみたいな話と似てくる。
その時に、もう一回会社に行って自分の能力がないとか、これだけなんであると。
なんなら会社を辞める時に、会社というものに勤めてる自分は元々なかったし、
今はまたそこに戻っただけだとは、人はなかなか考えられないです。
厳密に辞めさせられたとか、そういう話になりやすいんですよ。
だからないってことと悪いってことを厳密に緻密に分けていくという作業は絶対必要なんだけれども、
これがとても私たちはどうやら苦手らしいと。
ここを苦手だということを言ってるんですよ。
物作業というものは時間がかかりますと。
これを言ったのがフロイトという人なわけですよ。
この悲哀のね、正確じゃないんでね。
39:01
とにかく悲哀の影が落ちてきた時、それは押し付けられたものだと思うから怒りを覚えるんだみたいな。
これは論文があります。
物悲哀の作業みたいな論文だったような気がするんですけど、とにかくそういう論文がフロイトが書いてます。
100年以上前です。
100年前かな。100年ぐらい前だったかな。
ちょっと微妙なラインになってきてるんで。
とにかくそういう時に100年もまだ経ってないのか、1930年ぐらいか。
それでも95年ぐらいは経ってるはずですよね。
まあまあそういうことを彼が書いたわけですね。
このようにして私たちはないだけということがなかなか言えないんだけど、
そもそももう一つ大事なことがあると思うんですよ。
抑鬱ポジションというのは現実検討能力があるわけだから、
赤ちゃんだったらない、ないということは悪いおっぱいがあるみたいになっちゃうのかもしれないけれども、
まずそれは頑張れば防ぐことができると思うんですね。
もう一つはそもそもないのかってことが大事だと思うんですよね。
私が実際に今結婚しているようにですね、
彼女がないということは永年ないってことではないし、
あとないというのはそもそも本当か、本当なんでしょうか。
だから能力がないって人は言うけど、能力がないというのは能力がゼロだって意味ではないですよね。
足りないって意味ですよね結局ね。
そこでは足りなかったのかもしれないけど、そもそも能力が足りないっていうのは本当なのかと。
これはですね、ありとあらゆるところで出てきている問題な気がします。
私が最近やっぱり話題にしているところで言うと逆算ってやつ。
あれの一つの僕が一番問題だと思うのは、
逆算のゴールを設定することとか、そこから逆算する過程に無理があるって話よりも何よりも一番おかしいと思うのは、
出発点をゼロだってみんなしているところ。
あれが到底同意できないと。
出発点ゼロだってなかなか傲慢じゃないかと思うんですよ、まずそもそも。
会社に行ってるくせして出発点がゼロだとかっていうのはおかしいと思うんですよね。
会社にお金もらってるじゃんっていうことなんですよ。
能力がゼロですっていうことは考えられないし、やるべきことはすでにいっぱいあるんじゃないでしょうか。
ゴールを設定するし、そこに行き着かなければ何も達成できた気がしないとかっていうのって、
会社に例えば仕事を今しているってことであれば、今現在顧客を抱えているわけじゃないですか。
その人たちは100%満足させられてるって言うんなら、そこに出発点としてのゼロを置いても、
仮定的に置いてもいいのかもしれないんですけど、それは相当おかしいと思うんですよ。
僕で言うと、今のこのままではいけない、よくそういう言い方しますよね。
そういうふうに思ってないとダメだと。
だから3ヶ月チャレンジで、現在の顧客がいることはこれを一旦ゼロと見出して、
42:01
プラス30人になるっていうのをゴールとして逆算設定し、
ここにたどり着くために今の状態とこのプラス30の状態の差分を見ましょう。
それってなかなかひどい話だと僕は思うんですよ。
現行の状態を考えてみても、お客さんが申し込んでくれたという段階を持ってですね、
全てが満たされたと考えるのは間違ってると思うんですよね。
これは僕の仕事に特殊な部分もなくはないかもしれません。
けれどもやっぱり相当変な話にも聞こえるわけですよ。
今いる参加者さん全員100%満足させられていますっていう感覚が僕は持てませんから。
だから今の状況でもやれることがこんなにやらなきゃならないことがこんなにもあるにもかかわらず、
ここをゼロとするっていうことがどうしてできるんだろうっていう現状であってはゼロですっていう言い方がなぜできるのかというと、
それはやっぱり僕が思うにですね、一時過程だと思うんですよね。
プラス30が快です。だから現在は不快ですっていうこの快不快原則に基づいていきようとするから、
だから私は逆算という観念が、逆算という考え方に受けるこの計画の立て方というのが、
ものすごくある意味では非現実的なものに感じられるんですよ。
作り出しているものがないものを作っちゃってるじゃないですか。
今はこのプラス30というものがないだけなのに、プラス30にゴールを置くから、
現在が何か悪いことが起きているような感じというものを、
現によく言うじゃないですか、現状維持というものは衰退だみたいな、
それは作り出しちゃってるじゃないですか、いろんなものを。
このいろんなものを作り出して、それがあたかも現実であるかのような顔をして、
みんなで共有するということはとっても僕は嫌なことだし、
悪いことなんじゃないかとすら思うわけですね。
良い悪いはここにはないですけどね。
だから自分はタスクシュートを全体逆算的には使いたくないわけですよ。
タスクシュートというのはせっかく黙っていても今やっていることが、
今今の時刻を入れた瞬間に加算されていくわけですね。
そうですよね。
だってこれもそうだけど40分前に開始して、
40分も経っちゃってるんだ。
40分前に開始して40分経ちました。
加算されるじゃないですか。黙ってたって加算される。死なない限りは。
この加算されるものがあるんですという、
まあこれもないんだけど過去のものだから。
でもこれを持っているという感じ、これができたことなんだという感じというものを持っておいた方が、
僕の未来に何かを作り出して現在ゼロなんですっていうよりはよっぽど健全な感じがするんですよね。
この健全さを忘れないためにも自分はタスクシュートをやり続けているし、
タスクシュートをやっている限りにおいては絶対逆算というものをここにやろうと思えば持ち込めてしまうんだけれども、
45:00
持ち込みたくないと。
絶対にここを拒絶することによって自分は常に加算という、加算も幻想に違いはありませんけれども、
加算の方が幻想としてははるかにマシだという感じがするんですよ。
これは私がここについて何かを責任を負ってる感じってやっぱりしますから。
かつてですよね、もちろんね。3ヶ月チャレンジで募集してきたということであれば、
そこに向かって僕は何かをするというのが僕の責任であって、
いきなりこれに何かプラス5人とかだとしてもですね、
勝手にここに追加した分を本来あるべき形であるというふうに仮定するというのは、
なんかすごくですね、やろうとしていることに、
ある種の傲慢さを含んだ矛盾というものを全部抱え込むことになる感じがして、
健全じゃないという気がするわけですね。
それを健全じゃないですよという感じを抱かせてくれるのがタスクシュートで、
だから今やってるというのはすごい健全な感じがする。
例えばこの時間に何にもしなかった、2時間何にもしなかったと書いたとしてもですね、
だから3時間後にはこうなっていたいって考えるよりはマシだと思うんですよ。
何にもしなかったと言ったって、
地球は何かしてるわけだからそこがちゃんと意識される方がですね、
その後にないものをあったことにするっていうよりはマシな気がするんですよ。
本当はどっちもないですけどね。