2021-06-18 35:53

【GMV400】思考で疲労困憊した

計画はそのままでも思考だけは手放す
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おはようございます。グッドモーニングボイスです。
今日は、400回の動画を撮っています。
数え間違いがありそうな気もしますが、
なければ、400回の動画を撮るはずです。
ちょっとびっくりです。
よく、こういう風に400回もできるものだなと、自分でも思います。
ノープランって、結構すごいなと、今さらながら思います。
正直、最初に始めた時は、平日、日間で1年やれればいいかなと思っていたんですよ。
それだって、300回くらい、結局やることになると思うんですけど、
あっさり突破するという風には、最初は全く思っていなかったんですね。
多分、聞く人がいても5人とかだろうから、
どこかでフェードアウトすることになるだろうと、そういう感じで始めたんですけど、
おかげさまでですね、多い時は300とか視聴いただいたり、
400とかいっちゃう時もなくはないんですよ。あんまないですけどね。
だから、これはしばらく続けられる間は続けようということで、続けますね。
特に何も記念的なものはないんですけれども、
あ、そうそう、書き上げ塾が、現在残り募集が1名となりました。
早いんですよ、埋まるのが。
第1回は7月の予定なんですが、だからまだ結構引数はあるんですが、
残り1名様なので、気にしている方は是非、2名様だったんですけれどもね、
チェックしてみてください。
結構本、出ているわけですよ、3冊から4冊。
自分もちょっと書かなければいけないんですけれども、
最近はですね、お仕事をいろいろいただいていて、
結構ギリギリに近づいてきている感があるので、
久しぶりなんですよね、こういう感覚。結構暇だったんですよ、正直言って。
それがここに来て急に、多分コロナの収束みたいなのもちょっと関係していて、
収束はしてないと思うんですけど、ワクチン打つみたいな話もあって、
多分やっぱりまたリアルの公演とか、そういうのが多分今まで自粛されていたものが再開されるようになって、
そこで人手が必要みたいな面もあると思いますけれども、
なんだかんだ割とありがたいことに、ちらほらいただいているうちに、
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割といっぱいになってきたなっていう感じがあって、びっくりしています。
こういうのは今私は全部徹底的に成り行き任せなので、
一体総数として自分がいくつ抱えているとか、
昔は即答できた感じだったんですけど、今は全くわからないんですよ。
すごい漠然としているんですね。
ゲッティング・シング・スタンってあるじゃないですか、GTD。
それについても今書いているんですけれども、
これはですね、私最近本を読み直して、やっぱりそうだなと思ったんですが、
把握しているということによって、
把握しているということによって、
グッドバイブス流に言うならば心の平和を目指すっていう考え方なんですよ。
私は究極的にはそれだけでは難しいんじゃないかと思うんですけど、
ここで大事なのは、物事を断することによって心を済ませるっていう話ではないってことなんですね。
仕事なんて無くならないわけじゃないですか。
だから全てが済んだから水面のような心になるとかじゃなくて、
全てが把握できているから平安になるわけですよ。
平安になってからやるっていうのが大事というニュアンスなんですよね、あれは。
あれはすごく僕は大事なことかなと思うようになりました。
結局これは、これもグッドバイブス流に言うと、
つまりGTDの方にはそうは書いてないけど、
恐れや不安を取り除いた後で仕事を手掛けなければいけないってことになるはずなんですね。
あれですよ、この番組で言うところの返答台モードで仕事をやっちゃダメっていう意味なんですね。
不安とか恐れに駆られたまま、それを糧にして仕事をしていてはいけないっていう話に、
あれは割とそこを重点的に書かれていて、
その恐れや不安を取り除く手段というのが、
そもそも恐れや不安とは言ってませんけど、デビッド・アレンさんは。
デビッド・アレンの、彼の言っている話とグッドバイブスは確かに少しここは違うと思うんですね。
恐れや不安を取り除く手段として、今抱えているものを全部洗い出して、
自分の、なんて言うんですかね、
なんと言えばいいんだろう、あれは。
管理体系に収める。
そうすれば恐れや不安から解放されるので、平安な心で物事に取り組める。
ここの呪文を逆に考えてはいけないと思うんですよね。
なんとなくだんだん私たちって、GTDにせよなんにせよ仕事術だとですね、
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全てが済んだ時に心もすっきりって感じになっちゃうんですけど、
それはそうなんだけど、全ては済まないわけじゃないですか。
だからGTDをやっている時に時々私もいただくんですけど、
あれね、昔流行った、もっと有名なので、もっと有名ではないけど、
なぜか仕事が早く、早い人の習慣みたいな本があったんですよね。
これはまた違う人が書いてるんですけど、
こっちをやって疲労を梱廃しちゃいましたみたいな話をですね、
何度かタスクカフェとかで伺ってたんですよ。
とにかくすごい人ってやっぱりいらっしゃって、本の通りにやっちゃうんですよね。
これは一つ注意しておいていただきたいんですけど、
仕事術とかの本の通りにやろうとするのは良くないと思います。
書き言葉というのはパーフェクトなんですよ。
仕事が済んだといえばもうそれは済んだ状態100%を指すじゃないですか。
でも現実っていうのはもっとグラデーションなんですよね。
書き手はしょうがないんですよ。
選べませんから。
グラデーションを表現するわけにいかないので、絵を描いてるわけじゃないですからね。
これは物書きが不誠実だと言うんじゃなくて、書くと完璧になってしまうんですね。
でも完璧なはずないんですよ。
だから物事を書いた通りに解釈するのは、
普通の人はそうはしないと思うんですけど、
稀にいらっしゃるのでよくよく注意した方がいいと思うんですよね。
これは完璧主義とかいう話ではないと思うんです。
言葉ってそういうもんだと、
何でしたっけ、
詩であるじゃないですか。
みんな違ってみんな良いの人。
あの人の詩にもう一つですね。
すべてのものを好きになりたいっていうような詩があって、
やっぱり危険な表現だと思うんですよね。
無理ですよね、すべてのものを好きになるっていうのは。
言葉なんですよ、ああいうのってやっぱり。
あれほどの詩を書く人の詩でもやっぱり言葉なんで、
現実じゃないんですね。
すべてのものを好きになりたいとか言っても、
軍隊ありとか好きになれないと思うんですよね、人間には。
だから、ものには限界っていうものがあるじゃないですか、現実には。
だけれども、言葉っていうのはそれを突き抜けてしまうので、
話飛んじゃってますけれども、
仕事術の言葉というのは、
どうしてもそうでなくてもパーフェクトみたいなところがありますから、
あれ、よっぽど気をつけている人の表現でもですね、
本人には多分できないことが書かれてるんですよ。
だから、ましてや簡単にそれをやろうとすると、
さっきのセミナーで質問された人みたいに倒れるみたいなことになっちゃうんで、
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やめたほうがいいと思います。
なので、全部を洗い出すとかもそうで、全部なんか洗い出せないですよ。
だってどんな家にだってあるじゃないですか。
例えば、ここのところの掃除は全くしていなかったとか、
そういうのを全部洗い出そうとしてたら、
永遠に終わらないと思います。
だから言葉っていうのはやっぱり限界を超えちゃっているので、
そういうところが仕事術っていうのは要注意だと思うんですよね。
これでも仕事術に限らないですよ。
さっきの言った通り、詩とかでもそうで、宗教とかもそうで、何でもそうなんですけど、
言葉っていうのは多分、現実を超越しちゃってるんで、
それ自体は目指せないと思うんですよね。
達成できないっていうんですかね。
話が盛大にいったんで、よくわからなくなっちゃったんですけれども、
つまりGTDだ。
だから済ませるということを優先している、あれは段だから、
仕事が済むなんですけど、心が済むとか気が済むとか、
いちいち済む話をされている方法論だと思うんですね。
だけれども、ネットワイプス流に言うと、もっと簡単なんですよ、ある意味では。
もっと簡単が議論の余地のあるところで、本当にもっと簡単なんだろうかというところもあると思うんですけど、
もっと簡単なんですよ。
おそらく手放す。
手放そうという意志を持って手放すということを、まずいきなり来るんですね。
書き出すとか、そういう手法みたいなものとしては一切ほとんどなくて、
いきなり手放すというところが多分、僕は盲点みたいな感じなんですよね。
つまり、手放そうと真剣にまず思えるかどうかという意味で盲点なんですね。
手放せないという前提があるじゃないですか。
これ、意思力の話とすっごいよく似ているんですよね。
意思の力は宛にならないと言うじゃないですか。
意思力を使わないというか、意思を宛にしないのはデフォルトみたいになってしまって、
その代わりに何かをするわけですよ。
だからそこが盲点みたいになっちゃうんですよね。
本当に意思の力ではできないんだろうかという問いが成り立たなくて、
意思の力というのは宛にならないから、恐れと不安を手放したければ、
ドリンク飲みなさいという話になりやすいんですよ。
これは私たちの時代の傾向なのか、昔からそうなのかは知らないですけど、
何か洗い出しましょうとか言うのもそうで、
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手放せないという前提があるような気がするんですね。
手放せないことが前提として確定しちゃってるんで、
例のあれなんですよね。
意味付けを疑うというやつで、本当にそうだろうかと思ってみたいところなんですよ、ここは。
本当に意思力は宛にならなくて、本当に意思の力では恐れは手放せないんだろうかと。
何か手放せないことになっちゃってるじゃないですか。
愛せないとかも似てるんですよね。
一つ意識もそうですね。
それは無理だというような話から始めてしまうと、
仕事術が必要、工夫がいるみたいに。
この話、実は突き詰めていくと堂々巡りに必ずなるんですね。
私も前々からこのことはですね、どうしてもこの話、何て言えばいいんですかね。
どこまで行ったって最後は意思でやるしかないじゃないですか。
例えば私がよく言われたのは、なぜ佐々木は毎日ブログなり原稿が書けるんだと。
これは本当に問われたんですよ。
最終的には、僕の場合はセクションだけど、10、12のセクションが来たらやるんですよ。
他のことを排除するとか、環境を固めるとか、パソコンが快適だとかいうところまで持ってきたらやるんですよ。
見積もり時間も合ってると。
今日やらないわけにはいかないと。
後ろの方に時間があると。
全部工夫ですけれども、そうして起きさえすれば、自分が全く空気がゼロでも手が動き出すってことは起こらないじゃないですか。
起こるはずがないですよね。
そして起こったら怖いじゃないですか、そんなことが。
それって要するに一歩間違うと、家が火事だろうとなんだろうと、
手とかは勝手に文章を打ち始めてやめさせてくれないっていう話になってきますからね。
その種の病気は世の中にありますからね。
それはやっぱり良くないんですよ。
自由意思じゃないとですね、そこは。
ところがここで自由心になったらもう勝つんですっていう話を結局してしまうと、
どんな言い回しで言っても、所詮は意思力でやってるとかいう話をされてしまうんですよね。
この話は僕は、恐れを手放すって話とよく似ていると思うんですよ。
話の本筋が見失われてると思うんですよね。
手放せるに越したことはないじゃないですか。
どうして恐れを手放すという時に意思力当てにならない話とか、
もう少し工夫が必要だって話をするのかと。
書く時もそうですよ。原稿書きゃいいじゃないですか。
なんてことはないですよ、ある意味では。
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椅子に座っていて、不愉快な場所じゃないところで椅子に座っていて文章を書いてるわけですからね。
どうしても書けない時どうすればいいんでしょうかっていう話をそこまで持ってきた時には、
別の方面を疑ったほうがいいと思うんですよね。
この話、相互にリンクしてしまうんでどうしようもないんですけど、
つまりどうしてそんなに抵抗があるのかということは、
つまりどうしてそんなにそれが恐ろしいのかってことですよ。
文章を書くにしてもですね、
なぜ原稿を書くのはそんなにまで抵抗があって、
つまりそんなに嫌なのか、つまりそんなに怖いのかってことですよね。
これがなくなれば書けますよね。
そんなに100キロの石をどかしましょうって話をしてるんじゃないんで、
絶対やれるんですよ。
その時にも同じ話になるじゃないですか。
その恐れが手放せないんです。
そこは意志力で手放すって話になった時に、
もっと上手い方法を考えたいっていう話になってるんですよ。
これは手放したくないということだと思うんですよね。
そしてここまでも散々いろんなことをしゃべってきたし、
つい昨日もしゃべったことではありますが、
つまりどうして手放したくないんだろうってことですよね。
あるいはなんで手放せないんだろうっていうことだと思うんです。
私、今日非常にこれに関連して一つ大きな発見があったんですけど、
思考というのはいろんな意味で扱いが厄介だなって思いました。
今日娘がちょうど中学受験で、
中学受験の電流と電圧と抵抗の話って無いんですよね。
学校で出てくるやつはもちろんたやすいんですけれども、
あの中学受験で出てくる抵抗の問題っていうのは、
豆電球が抵抗なんですけど、パズルみたいに配置されていて、
結局答えも大体電流の量はいくつですかって聞いていて、
電流の量はいくつですかって聞いたときに、
3アンペアとか、学校とかでは優しい5アンペアとか、
5の倍数になってるんですけど、3と12分の1とかそういう数字が出てくるんですよね。
それもう電流の量とか小学生に聞く問題としてはどうなんだろうって感じなんですけど、
私の娘はこれに混乱して、これに混乱するというのは分数に混乱するんじゃなくて、
このパズルに混乱して、いわゆる電圧イコール電流かける抵抗ですけど、
この式のままだと多分大概の人は解けないんですよね。
電流イコールに直さないと解けないんだけど、
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ここどうやって教えようっていうのをずっと思考してたんですよ。
そしたらえらい疲れたんですよね。
これ何なんだろうと思って、何かが怖いのかというと、
別にそういうことはない。僕に解けない問題じゃないんで。
一応えらいなんですよ、これは。
これは自分だけのために別に頭の体操をやってるわけでもないし、
なんでこんなに疲れるんだろうと思ったんですね。
それについて考えるのは一旦ちょっとやめにしたんですよ。
とにかく疲れると。
昔私がやってた、そして自覚してた疲れっていうのはまさにこれだったんですよ。
これだけじゃないですけどね。
恐れと不安というものが思考に絡みつくんで、
ダブルパンチっぽいんですけど、とにかくこういうものだったんです。
非常に疲れる。
もうなんかね、頭がグラグラしてくるんですよ。
で、散歩しててこういう風になったのって、
ほんと何年かぶりだなっていうぐらいだったんです。
グッドバイブスして以来、散歩中には物を考えないようにしてたんで、
えーと、なんでここまで疲れちゃうんだろうと。
すっごい残念なことをしたなと思ったんですけど、
まあでも、いい経験だったなと。
つまり、何やっててもこれだけ思考するとこんなに疲れちゃうんだなということがわかったんで。
で、必ずしも恐れ不安が開在しなくても何か怖かったり、
嫌な気分になってたわけじゃないですから、
ただただ疲れる。
で、一番やっぱりですね、説明として簡単なのは、
肉体なんですよね、思考するというのは。
えーと、徹頭徹尾に肉体を駆使する。
そして、やっぱ少し分離が入りますよね。
自力で解いてる感じってあるんで、
別に誰か教えてくれる人が近くにいればその人に聞きゃいいんですけど、
いないんで、自力で解くしかないというところもあったんですけど、
自力ってのがある。この自力ってのがクセモンだなと思ったんですよ。
実は仕事にはあんまりない概念なんだな、これは。
すぐ助けてもらえますからね、ある意味仕事というのは。
どうしようもなくなれば。
ところが、それがないんですよね、思考パズルみたいなのは。
ひたすらひたすら自力で解くと。
で、なんかこう、頭が分離してるみたいな感じになるんですよね。
世界から頭だけ分離してる感みたいなのが出てきて、
これがとても辛い。
えー、なんていう風に言えばいいのかわからないんですけど、
とにかくこれは一つ意識の正反対だっていう感じがしました。
えーと、依頼なんで、全く外との関係がないわけじゃないにもかかわらず、
21:01
やっぱりなんかすごくこう、
自己完結感が強くて、
すっごい疲れるんですよ。
たぶんこれは、身体がある緊張状態を作り出して、
そうだ、そういう感じですね。
私の場合ですね。
身体が一つの緊張状態を作り出して、
この思考を成立させるために、
全力を振り向いちゃうからあんなに疲れるんです。
脳だけが疲れるって感じじゃないんですよ。
全部疲れるって感じがしたんです、身体が。
で、えーと、徹頭徹尾、肉体感っていうものは、
要するに、外部からの刺激って邪魔じゃないですか、
この人の思考してる時には。
だからこう、分離感が強烈に出るんですけれども、
それと相まって、解き明かしきれない。
この場合は娘にどういう風に伝えればわかるかですけども、
解き明かしきれないんですよね、現実にやってないんで。
シミュレーションなんで。
こう、だから通常だったらやんないんですけども、
今日はハマっちゃった感じと、
えーと、今、娘が寝てるうちに何とかしたいというのが、
つまり尺なんですよね、意識してるのが。
こういうことが相まって、とにかく疲れたと。
で、これが自分が今まであーも疲れていた最大の理由なんだと思いました。
えー、これはまだ下なんですよ。
恐れや不安が絡んでないから。
ところが、思考は大概の場合、恐れや不安とセットなんですよね。
対人関係について僕は思考してたんで、
誰かを怒らせたのかとか、
怒らせまいとしていろいろシミュレートするんですよ。
最悪だなと思いました。
後から考えてみるとですね、
恐れや不安を解剤させつつ、
思考を延々やっていれば、
そりゃあ病気にもなるわと思います。
一つ意識感が全くなくなるし、
えーと、
なんていうのかな、
その、
頭の中に自分が閉じ込められたみたいな感じになる。
にもかかわらず、肉体感だけは茂然とあるわけですよ。
ある程度は、僕らの生活ってこうなるのはしょうがない面もあると思うんですよね。
すごくジゾイド的な生き方をしてますよね。
してるんでしょうがない面もあると思うんだけど、
四六時中やるもんじゃないんですよね、こんなことは。
本当に僕はこれ以外は問題解決の方法をある意味知らなかったのかぐらいな
ノリで生きていたので、
とにかく編集さんとかのメールとかを見てもですね、
これについてああでもない、こうでもないと、
頭の中で考えて、この場合恐れや不安もあるじゃないですか。
相手は責めてるんじゃないかというか、責めてることにしちゃってる。
24:00
上にこう言えばとかああ言えばっていうのがその豆電球の問題を解くみたいに
脳内で解こうとするんですよね。
で、解けないんですよね、当然。
だって実際にはやりとりしてないわけだから。
全シミュレーションをしようとしても無理ですよね。
これをずっとやっていて、
当然解けないわけですよね。
だからエンドレスになっちゃうんで、
エンドレスで同じ身体の部位をただ使っていればそれだけでも疲れるじゃないですか。
右の小指だけをずっと動かしているとか言うとめちゃくちゃ疲れるじゃないですか。
なんかこうよくなさそうですし、
それと似たことをやってたんですよね。
自分の脳の一部の部分だけをフル稼働させて続けると。
しかも答えは出ないという、原理上答えは出ないという。
しかもそこに不安が常に滞在している。
それは疲れますよね。
これが今、私が少なくとも散歩中は絶対に
今日やっちゃったみたいなことはしていない。
だけでも全然違うんですよ。
ここで方法を問うところじゃないと思うんですよね。
話が戻るんですが、
ここで方法を問うところではないと思うんです。
ここはもう辞めるということなんだと思うんですよ、この際。
辞めるのは本当はとても簡単なんです。
私も今日こんなにやっちゃった後なんで、
もう全くできなくなったんですね。
一度でも思考を止めるという日を一日でも過ごすと、
四六時中思考を続けようという気には一切ならないんです。
問題解決しないのに疲労感だけ一兆倍くらいなんですよ、本当に。
感覚的には。
数千倍とかでは済まない感じがするんですね。
私はそういうライフスタイルだったせいかもしれないですけれども、
ひどいもんだと思うんです。
答えが出もしないのに一兆倍とか疲れるわけだから、
それはもうダメですよね。
本当に夜は疲れていたし、朝も疲れていたし、
常に病気っぽかった。
今から考えれば、実際はアトピーでしたけれども、
これほど自分を悪化させて得るものがほぼない。
もしかすると得ているものとすれば、
考えているんだから大丈夫だろうというお守りみたいなものですよね。
考えているから大丈夫ならばまだいいんですよ。
だから大丈夫だろう。
今朝の思考なんて思考に向いている方面だったと思うんですね。
豆電球の問題だし、娘に対処するものないし、
解けなくても私が困るわけじゃないから。
いろんな意味で好条件ばっちりじゃないですか。
27:00
これすらも思考では解けないわけですよ。
問題なら思考で解けますが、
娘にどうやれば伝わるかは思考じゃ解けないわけですよね。
だから解ける部分が本当に限られている。
私たちが思考でこれほど解ける、解けると思いがちなのは、
問題を解く癖をつけすぎているんだと思うんです。
娘を見ていて問題ばっかり与えられていて、
毎週毎週1000台ずつくらいは解いているだろうなんて感じなので、
そりゃそう思っちゃいますよね。
学校行ったって同じですからね。
問題が優しかろうが難しかろうが同じですよね。
考えれば解けるわけで、
そうすると私たちは、
思考すれば問題が解けるんだというふうに思い込んじゃいますよね。
解ける問題は問題なのであって、
テストの問題なのであって、
現実的な問題じゃないにもかかわらず、
現実的な問題はそれに比べるとたぶん、
うちの子なんかの場合は特にそうですけど、
10万分の1にも達してないと思うんですよね。
現実の問題が思考で解けたという経験は。
だって思考でテスト問題を解く習慣を身につけて、
大量の問題を現実に解いているわけで、
これ学校いればみんなそうなりますけれども、
簡単で解けるとしても同じことですよね。
現実の問題じゃないものを解いているわけですよね。
10万回くらい。
それに対して現実の問題が解けることがあるのかというと、
ないですよね。
現にこれもどちらでもいいような話だし、
そんなに深刻じゃないですけど、
今時々うちの子に訴えられるのが、
トイレにまでついてこようという子がいて、
すごくしつこいと。
この話は女子だなと思うんですけれども、
この問題は解けないわけですよ、思考では。
ついてくるなとも言えない。
自分が鬱陶しいと思うのも、そうは言っても止まらない。
先生に言うと言うのも嫌だと。
解けないわけですよね。
非常に簡単な問題のようですけど、
1たす1は2くらい簡単な問題なようですが、
解けないわけですよ。
だから思考で解ける問題というのは、
本当に少ないと思うんですね。
こんな問題すら解けない。
豆電球は解けるんですよ、思考で。
だからついうっかり勘違いしてしまうんですよね。
あんなに難しい問題が解けるんだもの。
何だって解けるような気がするじゃないですか。
でもトイレにまでくっついてくる女子がいて、
鬱陶しいが、その子との関係はそのままに維持しておきたい
という問題は解けないんですよ。
面白いと思いますよね。
これはですね、ついでに言っておきますと、
これはグッドバイブス流だなと思ったので、
失うものを問うというやつなんです。
30:02
ただ私は、
グッドバイブスというのは成人向きだと思うので、
子供にもいいと思うんですけど、
いくつかは、やっぱり致命的な話じゃない限りは、
解けない方がいいっていうこともあるだろうなという気はしているので、
あんまりいろいろ言いたくないんですけれども、
今は時期が時期で、ややこしいというか、
結構負担が大きいので、
この種の問題は結局解けないじゃないですか。
つまり、来るなとは言えないと思うんですよ。
子供を世界的にどう考えても。
だから、失うものはないという話で、
済ませるのがいいんじゃないかなという感じはしたんですよね。
失うものはないはずなので。
これも面白いことに、
私が今日ドハマリしたような思考というもので、
問題が解けないんだけれども、
常に解けるような気がするのは、
もうすっかりですね、
この形でプロジェクトなり仕事なりを進めるんだというのは、
市民権を得ましたよね。
プロジェクトを立てて、その計画に則って進めていくというのが、
組織では普通になりましたよね。
そこに対して、本当にそうだろうかと問うことは、
行われていないような日すらするんですよ。
行っているところもなくはないと思うんですけど、
多くの場合、計画そのものが現実的だろうかと問うているのであって、
計画そのものを立てないという発想自体は、
ほとんど見かけないんじゃないんだろうかという気すらするんですね。
ところが僕らは、
人的なものは別として、
ほとんどの場合、実際には計画を立ててそれに沿った行動というものは、
全くとっているようには見えないんですよ、これがまた。
これはタスクシュートの時にまたそのうちお話ししようと思うんですけど、
全くそういうふうにほとんどの人はしていないなという感じがするんです。
うちの子もやらされてるんですよ。
中学受験でそういうことをやらせるんですよ、今は。
PDCAというもの。
うちの子は頭から無視していますけれども、
たぶんうちの子がそう言うんですが、
誰だって結局無視しているようにしか見えない。
たぶん僕はそうだと思うんですよね。
問題を子どもが与えられた時に計画に則って解かないですよね。
いきなり解き出しますよね。
今日は何台までやる、
そうすることによってここまで問題を解くことができるという計画は立ちますが、
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そうすることによって受かるという計画は立たないと思うんですよ、受験だから。
これすごい変な話なんですよね。
それでも受験はものすごい過去の膨大なデータを自分が守っているから、
要するにそこまでやらせれば、
そのある程度の子は受かるだろうという想定があるだけなのであって、
受かる計画を子どもが立てているというのは、
本当におままもとそのものなんですよね、あれは。
危機としてやらせるということはあると思うんですけれども、
そしてこれが将来に備えているということなんだと思うんですけれども、
私は子どもが常に少なくともある程度頭が回る子であれば、
こうはなっていないということがバレちゃっているのに、
大人になってその通りのことが受け入れられるとはちょっと思えない。
そうすると思考というものをものすごく使って疲労はするんですよ、
今日僕がしたように。
する上で思考というもので計画を立てて、
それを必ずしも信じていなくて実行するというのは、
はなはなつらいなというふうに今日もつくづく思いました。
本当にこのやり方はやるとするとつらい。
もう僕はやめてますけれども、昔はやってたわけで、
あれはそりゃつらいよなと。
手放すのが怖いって話が多々あるんですけれども、
本当に今思うととんでもないなと思います。
なんていうんですかね、手放してうまくいかないかもしれませんけど、
手放さなくてもうまくいってないんですよ、ほぼ確実に。
少なくともぱっと見でもわかるじゃないですか、
ある程度ガッドチャートとか来るのは大変だと。
その大変さから逃れられるじゃないですか。
組織は無理だと思いますけれども、個人はできるじゃないですか。
これで逃れるだけでもメリットがないわけじゃないですよ。
ただ実際にはですね、さっきの1兆倍の疲れみたいなものが、
こっちの方がはるかに大問題なんで、
これさえですね、手放せれば本当に違うと思うんですよ。
実際にはガッドチャート引く手間が省けるとかいうレベルでは全くないので、
その辺をぜひですね、思考を手放すと。
この際、極端に言うと全くどうでもいい計画はそのまま置いといて、
思考だけは手放すということをやったらどんなにいいかと思います。
ありがとうございます。
35:53

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