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おはようございます。グッドモーニングバイブスです。
今月の24日土曜日、10月24日ですね。あと10月25日日曜日に連日でですね、土曜日の方は鎌倉で、
日曜日の方は大阪で、倉園圭造さんとセミナーします。
で、あの、ちょっと様変わりするかなと。
コロナ騒動でですね、間が空きましたんで、若干様変わりして、多分ですね、今までよりは、やること…結局、目標とするところは同じなんですけど、
手法としては少し難易度下がるんではないかなと、私なんかは期待しているんで。
私はちょっと違って、今取り組もうと思っているコミュニケーションセラピーの話を、特に大阪の方ではさせていただこうと思っているんで、
これを聞いていて興味ある方は、何らかの形で参加していただけると大変嬉しいです。
はい、で、その、難易度が下がるって話なんですけど、
ここ数回話している内容と、要するに被るんですが、
あの、一つ意識というやつですね。そっちから行くと。
で、私はですね、どっちかというと今、その反対側からのアプローチをすごく意識していて、
コミュニケーションセラピーっていう名前にしようと思っているんですけど、これはですね、普通の人も当然イメージされるであろう、
コミュニケーションを取るための方法とかスキルとかノウハウというものを伝えするものでは全然なくて、
あの、コミュニケーションをバラバラ意識の中で取らないことにするっていう感じなんですね、むしろ。
まあちょっとこれだけでは説明になってないんですけど、
まあもうちょっと簡単に言うとですね、 コミュニケーションから攻撃というものと防御、
まあ同じなんですけれども、一切取り除こうと、
一旦してみると、その瞬間にコミュニケーションのしたいという気持ちが全部消えてしまうというケースがあるんですよ。
で、こういう意識状態の中だとコミュニケーションを取るというのはほぼ不可能になります。
だからコミュニケーションを取ろうという時にはですね、 まあ最初からそういう言葉は使いませんけど、最初はバラバラ意識から
多分、あの始まった場合には
その意識を何とかしない限り実はですね、 コミュニケーションを取りたいという意欲そのものが
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多分発生してないんだと思うんです。 なのでスキルとかノウハウとか表現方法とか、
今コミュニケーションのためのメディアですね、 SNS であるのかとか、メールであるのか電話であるのか、
直接なのか、 さまざまありますが
そういうことは実はあんまり関係がなくて、 要するに攻撃というものを取り除けるかどうかということはですね、
攻撃する気がなくてもコミュニケーションする気はあるのかということに フォーカスを当てていきたいと思っているんですね。
今の話は抽象的なので、よっぽどグッドワイブスとか このグッドモーニングワイブスを
飽きているぐらい聞いている方じゃないと意味がわからないと思うんですけれども、 最近読んだ本に
完成させると犯罪者になりますという本がありまして、面白い本でした。 非常にある意味、倉園恵都さんの言うことと似てるなと思った部分がありました。
著者の気質が何か違う気がするんで、 同じようには読めないんですけれども、
すごくですね、言っていることに近い部分が、しかも大変興味深いところが似ていて、 そもそも反省させると犯罪者になるって非常にわかりにくいではないですか。
グッドワイブスとか通じていたってですね、 なんかよくわからないようなわかるようなって感じがすると思うんですが、
本を読むとですね、
何が言いたいかは完全にわかると思うんですね。
私たちは、何か人が悪いことをしたという時に、 既にこの段階で実は意味をつけてしまっている、意味づけしてるんですが、
まあ悪いことをしたという時には意味をつけますよね。 それが犯罪だとか、重罪だとか、
あるいは警備の犯罪だとか、ちょっとした悪いことだとか、いろんな意味をもういきなりつけちゃいますよね。
で、しかもその問題が起きた時に、特に当事者だった場合、何かしなきゃいけなくなります。
で、実はですね、実はというのか、これは本を読んでわかったんですけど、 あらゆる日本の組織で、これは多分日本だけじゃないとは思いますけど、日本の組織で、
現実にそういうことが起こった時にさせることって、反省文を書かせるということなんですね。 これは私、正直漠然としたイメージ以外何も持ってはいなかったんですけどね。
反省文を書かせるということが要するに、そしてその反省文の出来次第によって、
許すかどうかが決まる、そんなところがあるんですよ。 で、まあ
犯罪と刑務所の話で、この話出てきてるんですけど、多くの場合、この強制プログラムって言うんですって、強制っていうのは、
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要するに、社会復帰するために強制させるってやつですね。
無理やりやるっていうやつの強制じゃないやつです。 似たようなもんだという気もしなくもないですけど、ためるっていうやつです。
あの、この話の中でとびきり面白いと思ったのはですね、
この強制プログラムや反省文を書かせることによって、再犯の可能性を、再犯させる、犯罪者が再犯する確率を上げている恐れがあるっていう論文があるんですよ。
大変興味深いなと思いました。 それだったらですね、もはやその強制プログラムとか、
反省文を書かせるということは一切やめにして何にもしない方が、ただ刑務所に入れての作業とかですか知りませんが、でもさせている方がマシなんじゃないかっていう結論になるわけです。
強制プログラムをすることによって再犯率を上げるわけですから、意味が全くないどころか、事態を悪化させているという話ですね。
でも私たちはですね、どうかなぁと思いつつもなんとなく自然に
反省しているかどうかをひどく重視しますよね。 今回のコロナ騒動なんか見てると特にそう思うんですけど、コロナにかかることは犯罪じゃないのに、
なんかこう一部有名な人とかアスリートとか、私があのやたら応援している千葉ロッテでも集団感染が起きて11人、11人入れ替えたのかな、一軍が。
今優勝争いしてるんで一軍11人が消えるってものすごいことなんですけど、しゃーないですわね。
っていうことが起こった時に反省するんですよね。 反省の色が見られるとか見られないとかいう話をしますよね。
で、 これは自然なんですよね、私たちの感情の中では。
もっとこのコロナとかではなくて、
人を殺しましたみたいな。しかも対して自分と近しいわけでも恨みがあるわけでもない人を殺してお金いっぱい奪いましたみたいな。
捕まった場合反省の色が見られないっていうのはすごい大問題のような感じがするじゃないですか。
だいたい、前の政権の首相が何かやった時も反省もせずノーノートっていう文章を、
それはリベラルな方の人たちの書いたものですけど、いっぱい読んだ気がします。
で、私たちはみんなですね、反省しなきゃいけないというふうに思っているわけですよね。
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何かこうネガティブなことをした場合は。 で、そのネガティブなことをした人が
特に被害者の心情をもんぱかって
ことを反省すればですね、再犯しない。 つまりもう二度とそういうことは、よく言いますよね。もう二度とそういうことはしません。
ところがあれをやることによって
二度三度と同じことを繰り返す可能性を高めているというのが、さっきの本の
趣旨なんですよ。 なんだか不思議な感じがしますよね。
私もあの初めにを読んだ時は不思議な感じがしました。
でも非常にグッドバイブス的だなとも思ったんですよ。 グッドバイブスが反省しちゃいけないと、でも非常にやっぱり似たところあると思うんですよね。
罪と罰がイリュージョンだって言いますからね。この話と全く同じような文脈なんですけど。
要するに反省文を書かせるって、 本当はそうじゃないのかもしれないけど、普通ほぼ99.9%以上罰になりますよね。
大きな問題がそこにあるんですよ。
犯罪に至らない場合には一層これが問題なんですが、まず罪の意識を持てってことになりますよね。
被害者にどれほどひどいことをしたのか、この罪の意識を持って、 そして反省の色を示すという罰が与えられると。
これが最もその犯罪者にとって少なくとも意味がなく、おそらく良くないことであるという話。
で、なんでかということになるんですけど、これは自分が犯罪を犯した時のことを考えれば一発で了解できると思うんですね。
いや犯罪を犯したことありませんという人も、これを聞いている中にもいらっしゃるかもしれません。
でもその数は僕はとても少ないと思います。 注射違反もしたことが1回もないかという話になります。
例えばもうちょっと言って、書館の本を返さずに持っているということは全くないですかね。
その種のレベルですよ。 会社の、本当はなんかこう、
備品の書き留め帳みたいなのを書かなきゃいけないんだけど、構わずに良さそうなボールペンを持ってきたことが一瞬たり1回もないかっていうことですよね。
1本もそういうのがないかと。 犯罪ですよね。
ものすごく厳密に言うと、窃盗に当たるのかな。
捕まらないですよ、これは。捕まって起訴される可能性は多分僕はないと思います。
でも最近は、男性だったらあると思うんですけれども、
昔だったら問題にならなかったものを単純処置で犯罪になり得るケースってありますからね。
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その、いわゆるワイセス画像ですよね。
それも18歳未満かもしれない。
これはすっごいわかりにくいかったんですけど、アニメでもダメみたいなケースがあったような気がします。
つまり写真じゃなくてもっていう話ですね。
まあ捕まりませんけどね。
つまり犯罪を自分がしていると、していない人もいるかもしれませんが、まあまあしているとしましょう。
ちなみに私が子供の頃も、これも全く捕まらなかったし、今は見なくなりましたけど、
あの、立証したら本当は犯罪ですからね。 僕はちっちゃい頃はある。
したことがある。あの時代はあるんだよな。昭和60年になってない。58年とか59年ですね。
で、そうした犯罪を犯した時ですよ。
もうちょっと、もうちょっと難しいやつにしましょうか。
あの、グレーなやつ。
20歳になる前に友達と一緒にお酒を飲んだことがあるとか、そういう場合にですね、
それを、あ、あの、今じゃちょっとこれもないんですけど多分、
電車でキセルをしたことがあるとか。
で、駅員さんなり、あるいはお酒飲んでるところを
咎められたと。警察さんなりにね。
その時、
第一印象として何を考えるかっていうことなんですよね。
キセルを咎められた時。
まず、まず感情として一番最初に反省になるかな。
これ私のことを言えばですね、私が特殊なのかもしれませんが、まず絶対そういう感情は湧きませんね。
後悔をします。
なぜここでこういうつまらないことで、ここでずっと捕まっちゃったりしてるんだろう、俺って思いますね。
あの、この電車に多大な損害を与えたとか、思いませんね。
第一、一番最初に感じることとして。
だから、例えばですけれども、その後学校とかに通報されて、
もう二度とこういうことはしませんという反省文を僕が書いたとしても、その時にも反省しているかどうかは大変疑問だと思います。
反省してないとも言えないんですけれども、後悔の念の方が強い気がします。
で、これが殺人になったり、
暴徒になったりした時には全然違う感情になっているとは、私には考えにくいんですよ。
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っていう本なんです。
あの、多分僕はこれは正しいなと思いました。
正しいなというのはつまり、
犯罪が重犯になったからといって、突然捕まった時に感じるものが反省の感情になるはずがないと思います。
その時も人は後悔していると思いますね。
ただし、後悔のお題は当然強いでしょう。
強いでしょうけれども、きっと後悔だと思います。
反省というものをさせるわけですよね。
しないんで。
今のような文脈で考えると、反省って普通に人はそうそう自発的にするものではないことがわかるので、させるわけですよね。
で、反省文を書くと。
その反省文の出来というのをですね、書面位に入っているような人というのは非常に上手なんだそうです。
これはその本を書いている人がそういう文章に接する立場だったから書いてるんでしょうけど、非常に文章が上手くなると。
なぜならば、それによって自分の
要するに、景気だったりしなければいけない作業だったりが重くなったり軽くなったりするので、
文章を書くための動機づけが極めて重大になってくるので、
上手く書こうとするようになると。
だから反省文がやたら上手い人の反省は全く信用ならない。
で、この人たちはしかも反省文を書けば、
大概のことは、
軽は軽くなるし、上手くいけば方面されるということを学ぶので、
反省することが上手になればなるほど、
再反する可能性は上がっていくという研究論文があるんだそうです。
すごくあれだなぁと思ったんですよ。
私たちの社会がやってることって不思議だなと思いました。
絶え間なく反省を求めてるじゃないですか。
バラエティでもそうですし、ワイドショーでもそうですし、ワイドショーとかバラエティでそうですからね。
そして反省文を現に組織はみんなで書かせている。
学校でもそうであると。
で、多分書いてる人は誰も反省していないみたいな話がそこにある。
大変あれだなと思いました。
で、ですね、この話は、
要するに一つにはですね、コミュニケーションという側面があるんだと思うんですね。
柔道の犯罪はもうちょっと一旦置いておくとして、
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万引きってよくこの種の話に出てくるんですよ。
反省文とセットなんですね、あれ。
こういう文脈で言えばですね。
当然その学校では何か、手を打たないわけにいかないから、
反省文を書かせるわけですよね。
だけれども今も言った通り、例えば女子高生なりが万引きをして問題行動だと。
で、とても素晴らしい反省文を書いてきて、みんながそれに納得して、
良かった良かったということになるんだけど、ちっとも良くないと。
この種の人が大学入ったり卒業するなりした後に、
万引きの常習犯の女性、社会人女性って時々話題になるじゃないですか。
ああいう風になっていくという可能性はかなり高くあるみたいな話なんですよ。
で、何でかというと、まず第一にこの人は反省文を上手に書くということと万引きをするということがセットになっちゃうからっていうのがあるんですけど、
もう一つは、そもそもよくこれも言うんですし、なかなか納得されないんですけど、
気がついたら万引きしていたっていう話が初版には時々出るんですよ。
で、この気がついたら万引きするという話は、当然万引きされた人が受け入れられる話ではないんですけれども、
多くの場合やっぱり親へのメッセージだったりするわけです。
で、これも反省文を書く人なりが、後にインタビューをこの本でしていて、
ああ、なるほどなと思ったんですけど、まず反省文を書いている人の脳裏には、
実は被害者のことは全く意識に入ってきていない。
殺人であっても、まずそういう被害者のことは心情にまでは想像が至らない。
誰に一番意識が行くかというと、親なんだそうです。
これはすごい話だと思うんですよね。万引きして親に怒られる、これはわかりますよね。
人を殺して親に怒られる、これは相当なもんですよね。
殺された側にしてみれば。
でもやっぱりそういう時に人間の心理の動き方、働き方って変化がなくて、多分。
全員が全員じゃないと思うんですけども、やっぱりこう、
ここにはですね、心理的にはという意味ですが、
何か親に対する関係とか、親との圧力とか、そういうものがかなり食い込んできていて、
万引きはもうみんな知っての通りわかりやすいじゃないですか。
ところがこれも当事者の人たちにはとてもわからないことみたいなんですね。
意味付けってだいたいそうなんです。他人が見るとわかりやすいんですが、自分にはよくわからない。
なぜ子供が、だいたいその子は、女子高生になるまではやたらいい子だったりするわけですよね。
これはもう漫画でもおなじみみたいなパターンなんですけど、しょうがないところがあると思うんですよ。
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親の立場にしてみれば。
結局問題行動を連発されるっていうことに対する恐怖感があるものだから、
部屋で勉強しているとか、異性と付き合わないとか、
つまり何が起こるかというと、とても抑圧的になっていくわけですよね。
だからこの著者さんも書いてるんですけど、
反省させると犯罪者になりますという著者さんも書いてるんですけど、
問題行動というのは非常に大事なチャンスなんだということを書いてるわけです。
これはSOSなんだということですよね。
これを現状の、やたら勉強していて、良さそうな本ばっかり読んで、異性の感じも全くないみたいなのは、
とても本人はドリックしてそうやってるわけですよね。何かを抑え付けることによって。
で、しかも親は自分にとって耳障りの良い話しか聞いてくれない。
つまりここにはコミュニケーションがないわけです。もう無くなりかけていると。
だから自分でも気づかないうちに万引きをするんですよ。しかも言いもしないものを万引きするんですね。
これが見えやすい問題行動っていうふうに著者が書いてるんですけど、
喫煙とかですね。しかもわざわざ学校でタバコを吸う。
これがもっと見えにくくなってくると問題行動自体が見えなくなるから、コミュニケーションとしてはもっと捉えにくくてきつくなると。
でもですね、私たちはその非常にわかりやすい問題行動、つまりこの抑圧状態は耐えきれないから何とかしてくれというのを無視するわけですよ。
つまり、勉強頑張ったり、異性と付き合ったりするのを抑圧するのはこれ以上はちょっと厳しいというSOSが、
例えば万引きという形で示されるとですね、なぜこういうことをするんだって話になるじゃないですか。
わかる人にはわかるという話だと思うんですけど、わからない人にはわからんのですよね、こういう話は。
で、どうしてそういうことをするのかと言われても本人は答えられないわけですよね。
これはいろんな臨床の人が言っていますが、10代中盤ぐらいではこの種の行動をなぜ自分が取ったのかは言いたくないということとはまた別にですね、
本当に真剣に考えてもおそらく答えは出せないという、そのぐらいの年齢なんだという話があるんですけれども、
まあとにかく、このSOSをキャッチしそびれるとですね、子供は親は頼りにならないなと感覚的に感じるようになるわけです。
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そこで反省文を書くわけですよ。書けって言われますからね。二度とこういうことはしませんと。
大変そういう反省文は大変よく書けていて、先生はみんな、先生なのか知りませんが指導教官と書いてあったから何人かいる先生なんでしょうね。
大いに納得してですね、とりあえず見守るということになるわけです。
この状況で完全にコミュニケーションが成立しなくなりますよね。
それが一番恐ろしいことだというのがこの著者の結論なわけです。
これを何回か繰り返すうちにですね、爆発して、この女性がなんかこうよくわからん男と付き合った挙句、覚醒剤をやって自殺したりすると。
でもそれはやっぱり多くの人には突然起こったほどのように感じられるんだけど、大体突然ではなかったりすると。
さかのぼると中学とか高校の頃の微細な問題行動としてあると。
その時にも私たちがやることは反省を求めて反省文を書かせることで、その後に似たようなことが2,3回あると、その都度反省を求めて反省文を書かせると。
この繰り返しをやっているうちに何か大きなことが起こる。
この著者の話の中で僕が非常に面白いと思ったのは、これは仮にその問題行動というものがですね、爆発しなかったとしてもその人の中では、その人の子供に受け継がれるケースがとてもよくあると。
つまりですね、抑圧されて育った人は他にやり方知らないので、自分の子供にも同じことをするんですね。これも不思議な話だとも思うんですけど。
やっぱり自分に子供が生まれた時は抑圧的に育てると。社会的に良いとされることだけを子供にさせたくて、それは不思議なことではないんですけどね。
いつも勉強部屋にいて勉強している限りは安心するという風になっちゃう。つまりこの連鎖はですね、世代的に連鎖されていて、そのどこかの世代で犯罪者が発生するんだという話なんです。
ちょっと話が広がりすぎているかなという気もするんですけど、大変興味深い論考かなという気もします。
つまり反省文を書かせていると、いつかあなたの孫とか非孫とかその非孫の子供が犯罪者になりますよというところまで言うんですね。
そう考えてみると、自分が犯罪をしているかどうかというのは大した問題じゃないんですよ。こういう風に考えてみると。
途中申しました通り、ボールペン一本もくすめたことのない人って多分いないと思うんで。
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この話が非常に私にはですね、罪も罰もイリュージョンというのとほとんど言っていることは同じだなと思ったんですね。
つまりそこにあったのは本当はコミュニケーション要求だったわけじゃないですか、最初は。
これいろんな犯罪ケースを遡っているんですけど、この著者は薄い本の中で。
なるほど、そういうシーンは頻繁にありそうなんですよね。あるんでしょうね。
喫煙だったり中学生とかで。
その都度それをコミュニケーションとして捉えることをすればですね、だいぶ違うはずなんですよね、確かに。
一つには不安と恐れがあるわけです。
この場合の恐れにはですね、極めてつまらないものがあります。
時間を失うことに対する強烈な恐れがありますよね。
だいたい反省文を書かせて事足りたとすれば、非常に時間の節約になるじゃないですか。
忙しいからそんなことに構ってられないという大人側の事情はあるわけですよね。
もう一つが、このような問題行動を頻発する子供になったらとても困るという恐れがあるわけです。
だから二度としないということを誓わせたいわけですよね。
これもなぜ反省文でそれを納得できるんだと思われるかもしれませんが、この反省文を読んでいてちょっとびっくりします。
大変よく書けているわけですね。
この本の中に何度も反省文って出てくるんですけど、本当にこういうふうに書くんだろうなーって思います。
やっぱり事態が子供の側からしたり犯罪者の側からすると深刻なので、この反省文次第によって、
それこそ聴役系が2年3年変わってくるとなってくると、みんな真剣になるわけですよね。
反省文を書くことに。
こういう文章ってそうホイホイ書けるものではないんだけど、やっぱり人は真剣になると違うなと思ったんです。
で、著者が問うんですよね。
例えば図書館から本をくすねる大学生って結構後をたらないと。
それも結局反省文を書かせていると。
ちょっと気づかずに通り過ぎたとかいろんな言い訳はあるらしいんですけど、とにかく書かせていると。
で、大体二度と本を持っていったりはしないで書くんだけれども、
ここまで書くかというほどみんな立派なことを書くと。
これってちょっと怖くないかというふうに言うんですね。
みんながみんな揃いも揃って、模範的な反省文をどんどん出しては本をくすねていっていると。
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で、これが結局なくなったというケースは、
つまり本をくすねる人がいなくなったということは全くなくて、
反省文だけどんどんどんどん提出されているというのが実情なんですよという話ですね。
面白い話だなと思います。
で、やっぱり少なくともそこには確実にありそうなのは、
反省は誰もしていないということですよね。
見つかって失敗したとみんな思っているんだと思うんですよ。
で、書き方はあるんでしょうね。
そんなに典型的に模範的なのがどんどんどんどん上がってくるというのは、書き方がきっとあるんだと思うんです。
これ全体が非常にですね、
私たちがさっき言った時間とか問題行動の大量発生とかいう恐怖感とセットになっていて、
とても虚しい作業が行われ続けている。
で、それは結局ですね、いくつかのイリュージョンだと思うんですよね。
反省詞文というのも一つの大きなイリュージョンだと思うんですけど、
ただ一番大きいのはですね、結局そこに過剰な意味付けをしているということだと思うんです。
万引きなんかもそうですが、ただそれを事実だけを抽出することが、
私たちは特に当事者になっちゃうと大いに困難で、
子供がそこにあるものを取った。
それ以上何の意味も付けない。難しいんですよ。
むしろどっさり意味を付けるんですよね。
そこから全てが始まっているような気がして仕方がなかった。
そういう本でした。この本はいずれどこかで取り上げたいかなと思っています。